トップページへ戻る

豊玉姫神社
佐賀県嬉野市嬉野町大字下宿乙
祭神−−豊玉姫
                                                              2010.10.05参詣

 日本三大美肌の湯の一つとされる嬉野温泉街の、やや西寄りに鎮座する小社で、古く、佐賀藩領藤津郡・西分嬉野庄の氏神という。

 江戸時代の嬉野は、長崎街道(国道34号線に平行する街道・現商店街)沿いの小規模の宿場町(佐賀藩蓮池支藩の領地)で、“嬉野湯宿”・“嬉野湯町”と称する湯治場として知られていたという。
 その頃の嬉野には、街道の東西に“溝口”と呼ばれる町木戸(出入り口)があり、5町余りの街道沿いには30軒余りの旅籠・木賃宿・藁屋根の農家が連なる集落で、南側の嬉野川沿いには藩が運営する湯治場があったという(西溝口跡・案内板−現大正屋旅館前)

※祭神・創建由緒
 当社社頭に掲げる案内には、
 「豊玉姫様は海神の娘で、竜宮城の乙姫様としても有名であり、古来より水の神・海の神として広く崇敬を集めている。古事記の神話では、火遠理命(ホヲリ=山幸彦)と結ばれ、神武天皇の父神である鵜草葺不合命(ウガヤフキアヘズ)をお産みになった。縁結び・子宝を授かる神でもある」
とある。

 祭神・豊玉姫命(トヨタマヒメ)とは、上記案内に記すように、海神・綿津見神(ワタツミ)の娘で、失った海幸彦の釣り針を探して海神の都(竜宮)を訪れた火遠理命(紀−彦火々出見尊(ヒコホホデミ)山幸彦と結ばれ、ウガヤフキアヘズ命を生んだとされ(古事記−山幸海幸説話)、皇統譜では神武天皇の祖母に当たる。

 海神の娘であるトヨタマヒメが山合いの嬉野に祀られるのは疑問だが、嬉野町史(1979・嬉野市民俗資料館より恵送)によれば、
 「豊玉姫神社の創祀については、確実な史料を欠いていて明らかでないが、室町時代よりも以前に溯ることは、ほぼ誤りなかろうと考えられる。
 また、トヨタマヒメを奉祀する神社は、塩田川流域はいうまでもなく、有明海沿岸一帯は皆無であって、・・・相対する玄界灘の壱岐対馬方面、すなわち長崎県側にトヨタマヒメ信仰圏が分布している。
 嬉野地方が彼杵(ソノキ)・大村氏や高来・有馬氏の勢力下におかれた時期もあることから、彼杵方面からの開発あるいは社会的影響を受けての神社奉祀と思われ、これは歴史的にみて当然のことであろう」(大意)
とあり、当社が山を越えた西方(現長崎県東彼杵郡・西彼杵郡など)からの勧請であることを示唆している。
 しかし、式内社で見るかぎり、この辺りでトヨタマヒメを奉祀する神社は、壱岐・対馬に数社、佐賀市内に一社みられるものの、彼杵地方にはみえない(式内社以外には、あるのかもしれないが詳細不明)

 上記のように、当社が他所から勧請された神社であるのは確からしいが、町史には、当社鎮座の由来として
 「古伝によれば、此所に久しく住んでいた老翁が、山川の姿が清らかで、温泉湧出し、心身の穢れを濯ぐ霊地である当地に、村の惣廟の神を勧請しようとして、日向に至りトヨタマヒメの神を勧請した。
 トヨタマヒメが、この地に降臨して見回すと、南北の山は緑で上中下に流れの清い小川があり、我が住んでいた日向より心が清くなる。この地が非常に気に入ったので、此所に鎮座しよう、との神勅を下したので、老翁も喜んで仮の鎮座地を造った。
 この時、仮に鎮座した松ヶ枝の下の野を始めて嬉野という。今の嬉野松なり」(大意)
との伝承を記している。村の鎮守神を勧請しようというのはわかるが、それが何故トヨタマヒメなのかは不詳。

 当社は今、旧長崎街道・西木戸口跡の道路をはさんだ北側・民家にはさまれた参道(路地)の奥に鎮座するが、町史によれば、
 「もと嬉野松の所(現嬉野小学校南東)にあり、やがて湯宿(寿旅館付近)に遷されたが、天正年間(1573--92)の兵火により焼失、その後、元和年間(1615--24)に社殿再興、寛永18年(1641)より領主・鍋島家の祈願所となり歴代受け継がれてきた。
 明治になって村社に列せられたが、従来の社地狭く、現在地に社殿を新築し、明治15年(1940)9月に遷座」
という。

 なお町史によれば、祭神は豊玉姫大神・春日大神・住吉大神とあるが、今の当社に春日・住吉の影は見えない。

※社殿
 旧長崎街道・西木戸口跡の北側・民家にはさまれた参道に古びた一の鳥居(明神型)が、その先・境内入口に二の鳥居(同)が立ち、境内正面に拝殿(入母屋造)、その奥に本殿(一間社流造)が建つ。いずれも古びているが、清楚な感じで、今もって氏神として崇敬されるだけの雰囲気をもつ。

豊玉姫神社/一の鳥居
豊玉姫神社・一の鳥居
豊玉姫神社/拝殿
同・拝殿
豊玉姫神社/本殿
同・本殿

◎境内社

*八坂社
 本殿左に、古びた八坂社(切妻造・間口三間)がある。祭神−−素戔鳴命
 社殿奥に本殿の祠が安置されているようだが、扉で仕切られていて内部の様子はわからない。
 扉の右横に、スサノヲによる八岐大蛇退治の神話が記されている。
 今は八坂神社と称するが、案内に祇園社とあることから、曾ては牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀る天王社であったらしい。
豊玉姫神社・境内社/八坂神社
八坂神社
豊玉姫神社・境内社/八坂社・内陣
同・内陣

*天満宮
 祭神−−菅原道真

 本殿右に、入母屋造の割拝殿の奥、露天に神像(衣冠束帯の男神像・道真か)を浮彫にした石祠が置かれている。
 また、本殿前の左右・狛犬の前に道真に関連する寝牛像があり、当社に天満宮があることを示している。
豊玉姫神社・境内社/天満宮・拝殿
境内社・天満宮・拝殿
豊玉姫神社・境内社/天満宮・石祠
同・石祠

*その他
 天満宮石祠の右手に、エビス像など雑多な石像・石祠が数基並び、中に、三尊形式の女神形浮彫をもつ石祠が2基ある。
 町史によれば、
 ・天照皇大神宮(元禄3年・1690)
 ・地神(文政6年・1823)
 ・猿田彦大神(文政10年・1827)
 ・山姫命(同上)−−三尊女神形の石祠か(豊玉姫かとも思われるが、具体神名は不明)
 ・大己貴命(オオナンジ=大国主命、嘉永5年・1852)−−エビス像か
 ・地神(嘉永6年・1853)
 ・干珠神(ヒルタマ)満珠神(ミツタマ)(文久元年・1861)
とあるが、どれがどの神に当たるかは不詳。

 干珠・満珠とは、山幸彦が陸上に帰るとき、海神が与えた一対の宝珠で、潮の干満を支配するとされるが、町史に
 「社の南に干珠・満珠の森があるが、鎮座の上、干満の二珠をここに安置し、木の枝を折って挿したのが繁り干満二つの森となった」
とあり、当地に鎮座したトヨタマヒメが持ち来たったものか。

豊玉姫神社/三尊像・石祠
三尊像・石祠
豊玉姫神社/地神・エビス像
地神の石碑・エビス像石碑
豊玉姫神社/石祠群
石祠群

※なまず
 社殿右前の覆屋の中に、白いナマズが祀られている。
 傍らの案内には、
 「豊玉姫神社の“お遣い”は“ナマズ”です。嬉野川を支配し、郷の守りについて、国に大難あるときには、六尺の大ナマズが現れ、神託を告げると語り継がれています。
 このナマズ様は、古来より“肌の病”にご利益があるといわれています。・・・」
とあり、町史には
 「社の後ろに淵がありナマズが住んでいたが鞍置鯰といい、豊玉姫大明神の遣いであったので、これを捕え食べると神罰があった。ナマズは2m余りの大きさであったが、なかなか人目につかなかった。しかし国に異変があるときは必ず淵に浮かんだという」
とある。

 しかし記紀によれば、祭神・トヨタマヒメの正体は“八尋のワニ”(サメ)とあるから、ワニあるいはサメを以てお遣いとするのならわかるが、ナマズというのは不可解。

 当社がナマズを“お遣い”とするのは、トヨタマヒメとの関係というより、ナマズに係わる俗信からのものらしい。
 ナマズは、その強靱な生命力から水界の主とみられ、雨乞いなどに霊験ありとされたというが、一般には地震を起こす霊力があるとされ、地震除けとして崇拝されてきた(茨城の鹿島神宮では、地震を起こす大ナマズを鹿島神が押さえ込んでいる)
 また、顔や手足に痣が出たとき、そこにナマズを這わせると治癒するとの俗信があったともいう。
 当社で、“嬉野川を支配し、郷の守護神であり、肌の病にご利益あり”とするのも、これからきたものであろう。

トップページへ戻る