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宇佐神宮/参詣記
鎮座由緒・参道(呉橋)・上宮・下宮・頓宮
宇佐市南宇佐字亀山
                                                           2008.10.11参詣 

  祭神−−一の御殿:八幡大神(誉田別尊=応神天皇)−−聖武天皇・神亀2年(725)創建・遷座
        二の御殿:比売大神(三女神=多岐津姫命・市杵嶋姫命・多岐理姫命)−−聖武天皇・天平6年(734)創建・勧請
        三の御殿:神功皇后(息長帯姫命)−−嵯峨天皇・弘仁11年(780)創建・勧請

 全国に数多い八幡宮の総本社・宇佐神宮は、八幡大神以下3柱を祀る上宮を中心に、その分霊を祀る下社、御旅所に当たる頓宮および関係する神々を祀る摂社(7社)・末社(9社)からなっている。

※創建由緒
 宇佐八幡宮弥勒寺縁起(844、以下「承和縁起」という)に、
 「大御神が辛嶋勝波豆米(カラシマノスグリ・ハツメ)に、『吾は今、小山田社に座しているが、其の地が狭隘のため、菱形の小椋山に移ろうと思う』と託宣した。是により、聖武天皇・神亀2年(725)正月、菱形小椋山を伐り拓いて大御神宮を造立して遷し奉り、波豆米を以て禰宜をした」
とあり、神宮ではこれを以て神社創建としている。しかし、二十二社注式なる古文書に
 「神亀4年(727)、此の山に神宮を造り奉る」
との記事もあり、神亀2年着工・同4年竣工か、ともいう。
 その後、聖武天皇・天平3年(731)正月始めて官弊に預かっている。それまで一地方神であった当社が、律令国家に官社として認められたことを意味し、以後3年に一度の官弊を受けることになる。これからみて、八幡宮の小椋山遷座とは、朝廷に認められ官弊をうけるためのものだったともいえる。
 なお、八幡宮が始めて国史に登場するのは天平9年(738)のことで、続日本紀に
 「夏4月1日、使者を伊勢神宮・大神神社・筑紫の住吉・八幡の二社および香椎宮に幣帛を奉り、新羅国の無礼のことを報告した」
とある。

 八幡大神は神亀2年に小椋山に遷座しているが、それ以降すんなりと鎮座し続けたかといえば、紆余曲折があったという。
 まず、東大寺の大仏開眼供養(749)の3年後の“厭魅事件”(呪詛事件というが詳細不明)によって、大仏開眼の立役者、大神杜女(オオガ モリメ)と大神田麻呂(オオガ タマロ)らが流罪となっている。八幡大神も、それまでに贈られた封戸・田畑を朝廷に返還し、
 「汝等穢らわしくして過ちあり、吾、今よりは帰らじ」
と託宣して、伊予国宇和峰(現愛媛県八幡浜)に遷座している。宇佐八幡宮神職団(大神氏系)の不詳事を受けて神自らも謹慎したということだろうが、その遷座先が四国の宇和峰という理由ははっきりしない。

 この八幡大神不在(=大神氏の逼塞)の宇佐にあって後処理に当たったのが辛嶋・宇佐の両氏で、辛嶋氏系の巫女が禰宜として大神に仕える、宇佐氏が大神帰還のための新しい宮地の選定に当たり、その結果、10年後(765)、宇和峰に坐す大神からの
 「(小椋山は)吾が安んずる所に非(アラ)ざるなり。願わくば浄き処に移って、朝廷を守護し奉らん。その処は、吾の指示に従え」
との託宣を受け、小椋山の北東・大尾山に新しい宮(現大尾神社)を造営し、宇和峰から大神を迎えている。これらは厭魅事件で逼塞した大神氏に代わっての辛嶋・宇佐両氏の台頭とみることができる。

 この大尾山鎮座の時期に起こったのが“道鏡皇位託宣事件”(769)で、女帝・称徳天皇(764--70)の寵愛をうけた
 「弓削道鏡をして皇位に就かせたら天下は泰平である」
との託宣が降され、その真偽を確かめるために宇佐に派遣された和気清麻呂(733--799)が大尾八幡宮(現大尾神社)に籠もり、禰宜・辛嶋勝与曽女を通して神意をもとめ、、
 「わが国の皇位には皇統の君が継ぐべきことになっている。無道の人(道鏡)は速やかに掃い除くべし」
との託宣を得て、道鏡の野望を阻んだという事件である(別項・「大尾神社」参照)。因みに清麻呂は今、大尾山中腹の護皇神社に祀られている
 その後、称徳天皇の崩御と光仁天皇の即位(771)によって道鏡は失脚し、配流先から中央へ復帰した清麻呂が豊前守として宇佐に乗り込み八幡神社神職団の粛正と機構改革をおこなうなか、大尾山に坐す八幡大神からの
 「小椋山の宮は、吾が名がはじめい顕れた地である。願わくば旧き宮に住んで、身に甲冑をまとい、朝廷および国家を守護と奉らん」
との託宣(779)によって小椋山の社殿を改造し、延暦元年(782)、大尾山から小椋山へ遷座を仰ぎ、今に至ったという経緯がある。

 これら八幡大神の転座はすべて大神の託宣によるとなっているが、その実は、大神・辛嶋・宇佐の3氏からなる八幡宮神職内部の軋轢が、中央朝廷における権力抗争と結びつき、時の権力者の盛衰にともなう神職内部のそれが大神の転座として現れたものとも解される。

【参詣記】

宇佐神宮・境内平面図

※参道
 宇佐神宮には北からと西からの2本の参道がある。今は、北側の国道10号線から藻寄川を渡って南下する北参道が表となっているが、古くは、朝廷からの勅使が利用する西参道が公的な道で、朝廷から遣わされる勅使もこの参道を通ったという。二つの参道は手水舎前で合流し、西側から南へ回り込む形で上宮へ通じている。
 表参道(北参道)の途中に巨大な朱塗りの大鳥居が立つ。“宇佐鳥居”と呼ばれるもので、額束がなく、柱の上に台輪を置くという古来からの形式を留めている。
 勅使道から続く西参道の入口にも大鳥居が立ち、その先に“呉橋”(クレハシ)が架かっているが、今は通行禁止。脇の神橋を渡って境内に入る。
 江戸期までの西参道は、神宮寺である弥勒寺のほぼ真ん中を東西に貫通していたそうで、今、西参道南側には金堂・講堂跡の礎石が残っている。また川沿いに南へ少し入った処が、ウサツヒコ・ウサツヒメが神武天皇を迎えた聖跡・一柱騰宮跡(別稿・一柱騰宮参照)というが、案内表示はない。
宇佐神宮・表参道・大鳥居
宇佐神宮・表参道・大鳥居
宇佐神宮・西参道・大鳥居同・西参道大鳥居

◎呉橋
 呉橋は、正面に唐門風の入口をもち、橋の上に屋根が架かった回廊風の通路がある特異な形をしている。勅使を迎える正門を意識したものか。
 この形は鎌倉時代以前からのものといい、勅使を迎えるに相応しい形をしている。昔、中国・呉の人が架けたので、この名がついた、との伝承がある。

※上宮(本宮)
 神宮境内の南寄り、小椋山(亀山・廚嶺ともいう)の頂上に鎮座する。

 壮麗な朱塗りの楼門の左右から伸びる回廊(朱塗柱・桧皮葺)で囲まれた神域に、朱塗り柱に白壁・桧皮葺の反り屋根より成る八幡造の本殿3棟が南面して並列している。
 左から一の御殿(八幡大神)・二の御殿(比売大神)・三の御殿(神功皇后)と並ぶ。主祭神を祀る一の御殿が中央にありそうなものだが、何故か、二の御殿(比売大神)が中央で、その前(南側)に申殿(神楽殿、拝殿を兼ねるか)、その前に楼門がある。
 鎮座した順番によるといえばそれまでだが、何となく異様な感がある(他の八幡宮では主神・応神天皇が中央が普通)
宇佐神宮・上宮・楼門
宇佐神宮・上宮・楼門
宇佐神宮・一之御殿
同・一之御殿(右の建物は申殿)
            (資料転写)

◎社殿様式
 八幡宮の社殿様式を“八幡造”という。この様式は、2棟の建物、内院(後殿)と外院(前殿)とが縦に並ぶ様式で、両社殿の連結部(馬道・メドウ)には“宇佐の黄金樋(キントイ)”と呼ばれる大きな樋が渡されるという特異な構造をしている。
 神宮刊の資料によれば、几帳が置かれた内院は八幡神の夜の御座(寝室)で、椅子が置かれた外院が昼の御座(居室)で、神は一日一回両院を往復されるという。
宇佐神宮・社殿配置図
宇佐神宮・社殿配置図
八幡造・側面図
八幡造・側面図

◎西大門(サイダイモン)
 今、境内へは西大門から入る。
 西大門は、朱塗りの向唐破風造りで切妻屋根は桧皮葺。化粧垂木・華麗な格天井をもつ桃山風の豪華な造りで、文禄の頃(1592--96、豊臣末期)に改築されたものという。 

宇佐神宮・西大門
◎南大門
 境内南側は鬱蒼たる樹木に覆われた斜面で、その一画に急勾配の石段があり、その下に南大門がひっそりと建っている。南大門前の細い道路が南参道で、その向かい側、御許山山麓までの狭い平地は“宮迫”と呼ばれ、江戸期までは弥勒寺所属の坊舎が建っていたという。

 今、境内には西大門から入るが、南面する社殿配置から見ると南大門が正面入口と思われる。
宇佐神宮・南大門
上宮・南大門
宇佐神宮・上宮の百段(石段)
上宮の百段
(下から望む)
 境内から南大門へ下る急勾配の石段は“上宮の百段”とよばれる。
 大昔、宮の石段百段を一夜の内に築いたら望みとおりに人を食うことを許すといわれた鬼が、懸命に取り組み、朝までに完成しそうになったので、あわてた神が鶏を鳴かせて朝を告げた。鶏が鳴いたことで朝がきたと勘違いした鬼は、99段まで築いていたが中止し原が蛇堀に身を投げた、との伝承が残っている。
 一夜の内に何かを完成させたら是々を許すととの約束を神と取り交わした鬼が、その完成を阻むために神が鳴かせた鶏鳴のために寸前で完成できず、消えていったという説話は各地に残っている。鬼が鶏鳴を聞いて仕事を止めた裏には、神を含めて霊なるもの(神・鬼・邪霊・妖精など)の活動の場は夜のみであって、朝になれば姿を隠すという古くからの考えがある。
 今の石段は、切石を綺麗に積み上げられているが、これは昭和初期の改修によるもので、古くは大石を使った不揃いのものだったという。鬼が造ったという伝承には、その方が似つかわしい。

◎宇佐神宮の社殿配置
 上宮の社殿は南面して御許山に向き合い、背後には広々として宇佐盆地が広がっている。三女神の降臨伝承を伝える御許山が当社の神奈備山(神体山)なら、北向きの社殿を通して南の御許山を拝するはずなのに、逆を向いている。
 社殿背後に鍛冶翁(八幡神の化身)が顕現した霊池(菱形池)と御霊水あるから、社殿を通して、北の霊池に坐す八幡神を拝するともいえる。ということは、当社は宇佐の古代信仰である神奈備信仰とは別個のもので、八幡神が外来の神だということを示している。
 説によれば、当社社殿が南向きということは、儒教にいう「天子(神)は南面す」(天子は南を向いて坐す)という思想からきたもので、当社創建と時期をほぼ同じくする平城京で、皇居や主要寺院が南面していることを意識し、それに倣った配置だが、御許山頂上という地形上、南に開けた平安京に比べて南側が狭隘のため、前面が寸詰まりした配置となったという。
 この天子(神)南面という思想は、数年後に建立された弥勒寺でも踏襲され、弥勒寺境内の北側が開いているにもかかわらず、南半分に伽藍が南面して並んでいたが、これもまた平城京における寺院形態を模したものという。

◎脇殿
 上宮の神域では、3社それぞれに“脇殿”と称する小社殿が付いている。

●春日神社(一の御殿脇殿)−−祭神:天児屋根命(アメノコヤネ)
 一の御殿の西側に鎮座する。神社刊の資料には
 「縁起によると、磯の童というのは、筑前では志賀島明神で、常陸では鹿島大明神、大和では春日大明神である。それらはみな称名が違うだけで、同じ一体の神である。神功皇后をお助けになった尊神の故に奉斎している」
とある。
 “磯の童”とは、海道の神・海の神である“安曇磯良”(アズミのイソラ)を指す。伝承によれば、神功皇后の朝鮮出兵のとき諸神を招いた。しかし、海底に住む磯良のみは顔に牡蠣や鮑などがついて醜いことを恥じて出てこなかったので、住吉大神が磯良の好む楽を奏して誘い出した。
 やってきた磯良は、竜宮から海の潮を操る霊力をもつ潮満珠・潮乾珠を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は朝鮮出兵を成功させたという。古代氏族・安曇(阿曇)氏の祖神。
宇佐神宮・脇殿・春日社
春日社(資料転写)
 14世紀初頭頃成立した縁起・八幡愚童訓に「安曇磯良と申す志賀島大明神」とあり、磯良は志賀海神社(福岡市志賀島)の旧い祭神という(今は住吉三神)
 また八幡宮御縁起には「磯良はアメノコヤネと同神」というが、この縁起が数多くある八幡神関係縁起のどれ指すのか不明。

 アメノコヤネとは中臣氏(藤原氏)の祖神で、アマテラスが隠れた天岩屋の前で祝詞を奏して祈り、天孫降臨では五部神の一つとして随伴した神。アマテラスの命により宮中での神事を掌ったことから、神祇氏族の最有力者・中臣氏の祖神とされる。大阪・枚岡神社の主祭神だが、藤原氏の興隆にともない、鹿島のタケミナカタ・香取のフツヌシとともに奈良・春日大社に祀られている。

 当脇殿の祭神を磯良だとすれば神功皇后を祀る第三殿の方が相応しいが、応神天皇を朝鮮出兵時の胎内天皇とみれば無関係ではない。その磯良をアメノコヤネとして春日社を称するのは上記縁起からのものであろうが、春日三神と磯良との接点は見当たらない。宇佐氏の祖神・ウサツヒコが神武天皇を饗応したとき、妹神・ウサツヒメが嫁いだアマノタネコが中臣氏の祖とされることから祀られたとも思われるが、とすれば第二殿の方が相応しい。
 なお、神宮資料に“明神号”が多用されていることからみると、上記資料は中世以降につくられたものであろう。磯良は、石清水八幡宮では一童社(末社)に祀られているが、これも皇后との関係であろう。

●北辰神社(二の御殿脇殿)−−祭神:造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)
 神社刊の資料には「上宮(小椋山)の地主神」とある。春日神社の奥に鎮座する。
 北辰とは北極星を指す。古代道教で、北天にあって動かない北極星(北辰)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝として崇め、北辰(北斗七星を含む)に祈れば百邪を除き、福がもたらされ、長生きされるとされた。これが仏教に入って“北辰妙見菩薩”となり、神道では“天御中主神”(アメノミナカヌシ)と習合している。
 アメノミナカヌシとは、古事記・天地開闢段で混沌の中から始めに成り出でた造化三神の中心となる神で、いわば、“八百万の神”の始原となる神。記紀の中には何の事蹟も記されていないが、中世以降、この神を最高神とする思想が生まれ、北辰信仰と習合している。修験道では“鎮宅霊符神”ともいう。
宇佐神宮・脇殿・北辰社
北辰社(資料転写)

 北辰社の創祀時期ははっきりしないが、八幡大神鎮座以前から祀られていたという。八幡大神が衆生救済の願いを興したとき、北辰神が「西方彦山に権現なる神がいて一切衆生を救済する霊力がある宝珠をもっている」と告げた、との伝承がある。八幡大神の小椋山鎮座以前のことで、ここに北辰神が登場することは、北辰神が宇佐における先住の神・地主神であることを示唆する。
 新羅系渡来人の裔である辛嶋氏が奉じる新羅神と在地宇佐氏の比売神とが習合した原八幡神を、北辰神として小椋山に祀ったとの資料もあり、そこで祀られた原八幡神を道教出自の北辰神と称したとも考えられる。
●住吉神社(三の御殿脇殿)−−祭神:住吉三神(ウハヅツノオ・ナカヅツノオ・ソコヅツノオ)
 神社刊の資料には「神功皇后に数々の御神威を与えられた」とある。第三殿の右手に鎮座する。
 住吉三神とは、イザナギが黄泉国から帰り筑紫のアワギ浜で禊ぎをしたとき現れた神で、海の神・航海安全の神(記紀神話)。その出自については諸説があるが、航海の指標ともされるオリオン座の三つ星が原点ともいう。
 神功皇后に宝の国・新羅の存在を告げて出兵を促し、これを導いて神威を顕したこと(書紀・神功皇后段)から第三殿(神功皇后)脇に祀られたのであろう。 
宇佐神宮・脇殿・住吉社
住吉社(資料転写)

※外宮
 祭神−−上宮と同じ
 外宮は、嵯峨天皇・弘仁年間(810--23)に勅願によって造営し、上宮三神の御分霊を祀ったもの。
 “一処二祭場”という神社形式がある。同じ場所あるいはすこし離れた場所に同じような社が2ヶ所祀られていることを指し、洋の東西を問わず各地に見られたという。これら二つの神殿(祭場)は生と死・聖と俗・男と女・天と地などを表し、2神殿をもつことでそこでの祭祀が完成するという。祭神は同一の場合と異なる場合があるが、異なったとしても親子・夫婦など近しい関係のものが多い。わが国では、伊勢の内宮・外宮、上賀茂・下鴨、諏訪の上社・下社や旧い神社形式の山宮・里宮などがこれに当たり、宇佐八幡のみならず安心院の妻垣神社も一処二祭場に当たる。
 当社が、どういう理由で創建されたかは不明だが、当宮が“御炊宮”(ミケミヤ)とも呼ばれることから、国家鎮護神としての上宮に対して御饌(食事)など世俗的なものを掌る神として祀られたともいえる。聖と俗の関係である。
 なお境内に、八幡大神を顕した(応神八幡神を当地に持ちこんだ)という大神比義を祀る『大神祖神社』(オオガソ)がある。

宇佐神宮・外宮・楼門
宇佐神宮・外宮・楼門
宇佐神宮・外宮・拝殿
同・外宮・拝殿
宇佐神宮・外宮・大神祖神社
同・外宮・大神祖社
       (資料転写)

※頓宮
 頓宮とは、神の巡幸時の“御旅所”である。神宮刊資料には
「毎年夏の御神幸祭に3日2夜の間御滞在になる。以前は大鳥居の外にあったが、昭和の御造営に臨み、応永年間の旧蹟に復された」
とある。
 応永年間の境内絵図によれば、当頓宮を“上宮頓宮”と記し、すこし離れた西に“下宮頓宮”が見える。上・下宮両方に頓宮があったらしい。
宇佐神宮・頓宮

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