冬山の作業

 - 修道生活 -

 修道生活の発展に偉大な貢献をしたのは聖ベネディクトである。彼は480年ごろ、イタリアのヌルシアで生まれた。聖グレゴリオの『対話編』によれば、貴族の家に生まれ、学問のためローマへ行ったが退廃した都会生活を味わい世の空しさを感じ、より価値のある生き方を求め修道者になる決心をした。山中に引きこもり、そこである修道者からわずかなパンをひもでつり降ろしてもらって生活した。三年後にベネディクトの名を慕って多くの修道者が自分たちの修道院長になってくれるよう願い、彼も引き受けた。ところが、ベネディクトの厳しい生活指導は修道者たちの反発をかい、彼らはベネディクトを毒殺しようとした。しかしベネディクトが食事の前に十字架のしるしをすると毒を入れたコップはひとりでに砕け、修道者たちのたくらみから逃れることができたという。彼は再びひとりで隠遁生活を始めるが、彼と一緒に修道生活を送りたいと願う弟子たちが日毎に増えていった。ベネディクトは彼らのために修道院をつくることにした。
 修道院が目的に沿ってよく動いていくためには戒律が必要であった。ベネディクトもまたひとつの戒律を作成したが、これは後に西ヨーロッパの修道生活の法典となり、修道生活の規範となった。
 ベネディクトの戒律はキリストに焦点をあてており、個々のきまりは修道者が一層よくキリストに似るために定められている。またベネディクトの賢明さがよく反映されており、現実と理想のバランスがとれている。キリストに従うため彼が与えた二つの基本的な教えは「祈り、働け」である。ベネディクトが目指したものは修道院を神の国として建設することであった。修道者はみな修道院内で生活し、祈りに励み、また生活を支えるために労働も意欲的に果たさねばならない。キリストは修道者ひとりひとりにとって生活の中心である。キリストに従い、キリストに似るためには、キリストのように祈り、キリストのように働くのである。 

 - シトー会 -

 シトー修道院の創立は1098年である。その年、聖ロベルトを師とした20数名の修道士がフランスのシトーの荒れ野で生活を始めた。修道士達は、何もない荒れ地を耕し「祈り、働け」の精神で聖ベネディクトの戒律を忠実に守っていた。
 やがて2代目として修道院を治めたのは、聖アルベリコである。この頃になって新修道院の規則も固まり修道生活も軌道に乗った。
 聖アルベリコの後に修道院長に選出されたのは聖ステファノ・ハーディングで、彼は修道会のために「愛の憲章」を書き、シトー修道院によって創立された各々の修道院の自治を認め、各修道院の一致を保たせ、シトー修道院と同様の規律と慣習を守るように定めた。創立された各修道院の院長は、年に一回シトー修道院に集まって修道生活の向上のために話し合いを持ち組織的にも発展して行った。
 1113年に30余名の同志と共に聖ベルナルドが入会した。彼の美しい説教は、人々を魅了し、彼を慕って多くの人々がシトーに集い、修道士も増えていった。聖ベルナルドは「蜜のしたたる博士」との称号を受け、『雅歌についての説教』や『おとめなる母をたたえる』『謙遜と傲慢の段階について』『神の愛について』『熟慮について』(あかし書房)等、多数の著作が現在でも広く読まれている。

トラップ修道院

 - トラップ -


 聖ロベルトによって起こされたシトー会修道院も時代の流れとともに修道生活のゆるみが目立つようになった。再び改革が必要な時代になっていた。これをなし遂げたのがドン・ランセである。
 1626年、ランセは上流貴族の子としてパリで生まれた。トラップの修道院は世襲財産のひとつであった。17歳の時パリのノートルダムの参事会員、25歳で司祭、そのあとソルボンヌ大学の神学教授となり、司教の座も約束され、ランセの将来は輝くばかりであった。しかしランセが40歳の時、母の死がきっかけとなり、しばし田舎に退いた。この時、手にした書物が砂漠の師父たちの著作であり、これらがランセの修道精神の基礎となった。
 46歳の時、砂漠の霊性を大切にしているトラップの修道院に入り、その翌年の1664年に修道院長となるが、この頃修道士は6人しかいなかった。ランセは彼らに霊的修行をさせる一方、それまでおろそかにされていた労働を再び修道者のものとした。トラップは砂漠の師父の栄光のこだまでなければならないと彼は考えた。改革をたゆまず続けつつ1695年に病床に伏す身となり、1700年に74歳で帰天した。この時、当初6人だった修道者の数は90人に増えていた。
 トラップの改革は多くの修道院に影響を与え、この改革を受け入れたところをトラップ派の修道院、つまりトラピスト修道院と呼ぶようになった。1789年に起こったフランス革命により修道者たちは国を去らねばならなかったが、後に帰還することができた。1890年頃になると、トラピスト修道院は地域的な事情から大きく三つのグループになっていた。1892年にこれらのグループから修道院長たちが集まり、統合が決定され、厳律シトー会としてそれまでのシトー会から独立した。翌年の1893年、教皇レオ十三世により認可され今日に至っている。
     

 - 祈り -
 「聖務日祷の時刻には、合図が聞こえるや否や、どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しなければならない」(戒律43章)観想修道者の最大の務めは、一日に7回の祈りをささげることです。「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4.24)と主イエスは仰せられました。したがって、修道者は常に真理の霊に生かされ、主によって示された教えに基づいて、神をたたえ、いただいた恵みを感謝し、必要な恵みを願い、犯した罪やあやまちの赦しを願うのです。神はどこにでもおられますし、すべてを知っておられますが、とりわけ聖体の安置されている聖堂で全員集まって熱心な祈りをささげる時、神が必ずこれをきき入れてくださることを確信しています。修道者の祈りは自分たちのためだけではなく、神の助けを必要とするすべての人のためにささげられているのです。

 - 労働 -
 「怠慢は霊魂の敵である。われわれは師父たちや使徒の例にならって、みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者といえるのである」(戒律48章)と聖ベネディクトは戒律の中で言っています。絶え間ない祈りの生活を続けていくためには、自分たちの働きで生計を維持し、同時に精神的、肉体的健康を保っていく必要があります。修道者たちは毎日数時間を労働にあて、互いに健康と技能を分かち合い、責任を分担しあって共同体の運営に寄与しています。自然界の中での労働(酪農・菜園・果樹園・庭園)、牧畜や農作業は、観想生活を助け、常に神の働きを体験する貴重な場になっています。「自然を見る者は神を見る」と言われているとおりです。修道者たちは、酪農のほかに、バターやクッキー、バター飴やジャムを製造し、つつましい仕事の中にも労働の価値を世にあかしする者になりたいと思っています。

 - 聖なる読書 -
 「愛のない知識に何の益があろうあか」(聖ベルナルド)シトー会生活の中で「聖なる読書」は祈りや労働とともに、非常に重要な役割を果たしています。というのは、聖なる読書は修道者たちの心を神に向かわせ、日々の念祷や共同体的祈りの準備の役を果たすとともに、一日の労働の間にも、絶え間ない神との一致を保たせてくれるからです。したがって、聖なる読書というのは、自然的興味本位の読書、あるいは一般によく言われる学問的読書ではなく、あくまでも人間性を高め、霊性を深める読書でなければならないのです。修道者に最も親しまれる書物は、なんと言っても聖書とその注解書、教父たちと聖人たちの著作、そして霊性信心書などです。修道院の図書室等にはこれらの書籍が充分に備えられています。

 - 渡島当別 -  
 当別修道院は、函館から西方に約30H、JR江差線「渡島当別駅(おしまとうべつ)」で下車して徒歩25分のところにある。この地にヨーロッパから数名の修道者が来て、生活をはじめた。広大な敷地は今でこそ肥沃な美しい土地であるが、当時は「石倉野」と言われていた程、石ころが多く、熊笹の生い茂る荒涼たる原野であった。
 渡来した修道士たちは徐々に入会者を得て、苦労しながらこの原野を開拓し、道を作り、丘を平らにし谷をうずめて畑にかえ、今日の姿にしていったのである。生活の糧としては、トラピストの伝統である農耕、牧畜酪農に力を入れた。トラピストにとって、土地を耕したり、牛と共にすごす日々は神への賛美であり、感謝でもあった。
 当初、乳製品は日本人になじみ少なく製酪工場の経営は困難をきわめた。加えて、創立当初多国籍の当別修道院は、数知れぬ困難にあったが、院長を中心に一致団結してよくこれに耐え抜いた。第二次大戦後、酪農事業も日本人の生活水準が向上すると共に発展した。