【欠史時代と謎の四世紀】 1、系譜分析---★欠史八代は架空か★(http://platz.jp/~hvhy/keifu/k002.htmlより) 一般に、「神倭伊波禮毘古」(神武)と「御眞木入日子印惠」(崇神)は同一人物。 第2代から第9代までの天皇は、まったくの架空とされている。欠史八代などと言う。 これに対し鳥越憲三郎は、崇神が王権を確立する以前、葛城王朝が存在したと主張した。 欠史八代の宮都や陵墓の多くが、葛城エリアを中心に分布していることを主な根拠としている。 名前 宮都 陵墓 1.神倭伊波禮毘古(神武) 畝火之白檮原宮 畝火山之北方白檮尾上 2.神沼河耳(綏靖) 葛城高岡宮 衝田岡 3.師木津日子玉手見(安寧) 片鹽浮穴宮 畝火山之美富登 4.大倭日子鋤友(懿徳) 輕之境岡宮 畝火山之眞名子谷上 5.御眞津日子訶惠志泥(孝昭) 葛城掖上宮 掖上博多山上 6.大倭帯日子國押人(孝安) 葛城室之秋津嶋宮 玉手岡上 7.大倭根子日子賦斗邇(孝霊) 黒田廬戸宮 片岡馬坂上 8.大倭根子日子國玖琉(孝元) 輕之堺原宮 劒池之中岡上 9.若倭根子日子大毘毘(開化) 春日之伊邪河宮 伊邪河之坂上 10.御眞木入日子印惠(崇神) 師木水垣宮 山邊道勾之岡上 11.伊久米伊理毘古伊佐知(垂仁) 師木玉垣宮 菅原之御立野中 12.大帯日子淤斯呂和気(景行) 纒向之日代宮 山邊之道上 たしかに大雑把に見て、そのように見える。が、詳細に見れば問題がある。 *** 「葛城山麓から三輪山麓へ王権の中心地が移動した」という枠組に、少なくとも第7代孝霊と第9代 開化は、まったく当てはまらない。 (※前者の宮都は大和国中、近鉄線の黒田駅あたり。後者の宮都は奈良市の中心) 第3代安寧についても、当てはまるとは言いがたい面がある。 「片鹽浮穴宮」の立地条件は、第7代孝霊の「黒田廬戸宮」に似ている。 また、名前に「師木」という地名を帯びている点も、欠史八代の中では異質である。 名前について言うなら、第5代と第10代の共通性も無視できない。 「御眞津日子」と「御眞木入日子」。そして、「訶惠志泥」(カエシネ)と「印惠」(イニエ)。 やはり、いわゆる葛城王朝説は大雑把すぎる。というより、そもそも、上に挙げた宮都がすべて 大和盆地の中にあったかどうかすら定かではない。 考古学が教えるところによれば、初期王権は大和盆地の中で内在的に発生したわけではない。 *** 鳥越憲三郎は、天孫降臨のあった時代と欠史八代を重ねあわせている。 もしこの点だけ採用するなら、欠史八代の人物と神話時代(つまり古事記上巻)の人物は、 重なってくるはずだ。実は「大倭根子日子賦斗邇」=「邇邇藝」であるという具合に。 ならば、欠史八代の舞台が大和盆地の中に収まるはずがない。 神話時代の舞台は、西日本はもちろん、高志、科野にまで及んでいる。 もっとも、天皇系譜を単なる縦系図と見るかぎり、こうした議論は成り立たない。 神話時代は、あくまでも神武以前。欠史八代は神武以後。 神武が「邇邇藝」の曾孫であることと、孝霊が「邇邇藝」であることは、 欠史八代を縦系図と見るかぎり、同時には絶対に成立しない。 氏の着想は、「天皇系譜は縦系図である」という呪縛によってその生命を失い、 古代の歴史を狭い世界(つまり大和盆地の中)へ封印してしまった。 いや、なんの問題もない。近年の発掘成果がこれらの固定観念をすでに充分打破している。 *** 私は、神武と崇神を同一人物とは考えていない。したがって、欠史八代を無視しない。 しかしながら、神武から崇神までの系譜を単なる縦系図とは見なさない。 何故に、どういう脈絡で、神武と崇神は重なって見えるのか。 (注……「大倭日子鋤友」の「鋤」は、本当は「金且」という漢字) ★「欠史八代は架空か」を終了。 ★「謎の四世紀」に入る。 T、先ずは讃と景行の同一人物説から入って見よう。 「検討一」倭五王名とそれに対応する天皇名について 先ず、欠史時代の倭王五は、「讃、珍、済、興、武」である。諸説では、これに対応する天皇名として、 「景行、成務、仲哀、神功、応神」と「応神、仁徳、允恭、履中、反正」と「神武、綏靖、安寧、懿徳、 孝昭」の「漢風諡号名」が挙げられている。この天皇名の古代名(紀による)を列挙すると、 「大足彦忍代別、稚足彦、 足仲彦、 気長足姫、誉田」と「誉田、大鷦鷯、雄朝津間稚子宿禰、去来穂別、 瑞歯別」と「神日本磐余彦、神渟名川耳、磯城津彦玉手看、大日本彦耜友、観松彦香殖稲」となる。 この倭王五名「讃、珍、済、興、武」とそれに対応するとの甚だしい呼称名の差は何だろう? 浮かんでくるのは、倭の五王名は中国の覇権者の命名であり、「天皇古代名」は「稗田阿礼と大安満呂」 との間から生まれ出たものである。 また卑弥呼時代には、「三国志」魏書東夷伝に、卑弥呼 卑弥弓呼 卑奴母離等と中国側が呼称している のと対応してみると、卑弥呼等や「古代天皇名」は、その発音が「カタカナ的」であるのに反し、五王 の方は漢字そのものであり、中国宋時代の、武帝、文帝、順帝などとよく相似した国王名である。 特に「武」に至っては同名ではないか。これは偶然だろうか。 「検討ニ」天皇の「古代名」研究 記紀に多く出てくる天皇の「古代名」、例えば神武の「神倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】」について言えば、 「伊波禮毘古」は表音文字で、「イワレヒコ」というカタカナ言葉を、漢字に表記したということだから、 太安万呂時代の人々、特に稗田阿礼は、神武のことを「イワレヒコ」と発音していた訳となる。 また魏王から「卑弥呼」と呼称されていた「卑弥呼」も倭国では「ヒミコ」とカタカナ言葉で呼ばれて いたのではなかろうか。この二者の漢字が、一字一音であるという相似から推究して、また神武の年代は 卑弥呼より後世と考えられるので、これは「卑弥呼」と同様、大和政権以前の「呼び名」となる。 とすれば、「ヒミコ」も「イワレヒコ」もカタカナ言葉で「呼び合った」同族ではないか。そうして、 記紀に出て来る表音文字の神々も総べて同族となる。この立場に立てば、日本の歴史は「万世一系」となる。 然し、従来のこの歴史観を認められないのは、武王の上表文にある、また景行の風土記にある土蜘蛛等の 土着民族征服の事跡である。これは、同じ「カタカナ言葉」で語り合う同族の「仕業」とは全く考えられ ない。では何故か? 諸資料から推究して、天皇族の土着民族征服の事跡は動かし難いのに、記紀のこの「カタカナ言葉」は どう解釈すべきか。 ここが謎の四世紀のキーポイントになるだろう。武の上表文から日本には文字が確実に存在したのだから、 この頃からカタカナ言葉の漢字化が始まっていたであろう。が、倭の五王時代は、日本征服の月日に 明け暮れて(祖禰躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず---武の上表文)、征服の記録 など出来なかつたのであろう。それが、一応大和政権が確立し余裕が生じて過去の歴史を記録しょう となつた時、日本に渡来して来た以前の、「何処から来たか」をどう記録すべきかを考えたであろう。 果たして何処から来たのか。半島から、中国から、南方からと諸説がある。 そこで、太安万呂は古事記でその点をどう苦心したか。 また、倭王讃が宋に朝貢した421年から、太安万呂古事記時代(712年)まで、約三百年を経過しているので、 武の上表文にある征服の状況を太安万呂は知っていたかどうか。それよりも先ず「上表文」そのものが、 太安万呂の時代まで遺っていたかどうか。武に該当する「応神」時代には、何らかの関係資料が遺されて いるかどうか。 応神もまた武と同様、征服の覇権者である。播磨国風土記に曰く、【賀毛郡起勢里の条に、「播磨の国 の田の村君、百八十の村君ありて、己が村ごとに相い闘いし時、天皇勅して、この村に追い集め、 ことごとく斬り殺しき。故に臭江と云う。その血黒く流れき。故に黒川と云う」】と。 かくのごとく、倭の五王の、所謂、謎の四世紀は、血生臭い日本征服時代であることに間違い無いであろう。 誠に、武王の上表文に記録されているとおりであると思われる。 今、謎の四世紀に立ち向かってみて、「倭王武は誰か。応神、反正、孝昭、欽明など諸説あり」 讃は誰か、何処から来たのか。半島から、中国から、南方からか。入り混じる諸説をどう取りまとめるか。 この苦心の中で、フト思うのは太安万呂のことである。讃の時代から約三百年、安万呂は、どれだけの 資料を求めていたのであろうか。武王の上表文や中国の古代文書などは、どう観ていたのであろうか。 また古事記を振返る。古事記にはニ三の古文書と稗田阿礼だけである。 自分達天皇族の先祖は何処から来たのか、倭の五王時代の征服の事実をどう發表するか、天皇族以外の 征服者達をどう取り扱うか、卑弥呼以後の日本土着の倭族をどうとり扱うか。 エミシ、熊襲、隼人、土蜘蛛達をどうするか。 地方から風土記のような情報を収集するなどと苦心したことであろう。 そこでどうして、何処から、あの神代の神話記事を創造したのであろうか。 安万呂は物語の構相の基点を何処に置いたか。などと考えてみる。 先ず、「自分達天皇族の先祖は何処から来たか」を考えるであろう。天皇族は何処から来たか? 百歩譲つて、古代からの日本土着民族の出であるならば、何故、「カタカナ言葉」.「やまとことば」 を表意することが出来なかつたか。日常「カタカナ言葉」を用いていたならば、その意味がよく分かって 居た筈である。漢字は武の上表文以来、安万呂時代まで二百年以上も経過しているのだから、表意出来 ないという事は考えられない。ここに天皇族は外来者であるという一原因がある。 それと比較すると、「古事記」の冒頭に記録されている、 【上卷 并序 臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效。無名無爲。誰知其形。然、乾坤初分、 參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。-------------】 というこの一文は、武の上表文と同様の重大な資料である。 即ち、これは、太安万呂の最も根本的な思想、信念であると思われるからである。天皇族の祖先を、 「群品之祖」として「參神作造化之首、陰陽斯開、二靈」に置いているからである。「参神」とは、 【天之御中主神 次高御産巣日神。 次神産巣日神。】のことであろう。 ここで、天皇族の先祖について、太安万呂が、古事記の冒頭に、「易経の陰陽の哲学」を先ず掲げたこと は重大な意味を感ずる。それは、この易経は「中国の神話」を語るものだからである。 古代中国の三皇は、伏羲、女、神農の三人であり、その中の伏羲は八卦、文字、琴など文化をもたらした。 その八卦から發展して「太極、陰、陽」の易経が完成されたのだから、太安万呂が「太極、陰、陽」の 哲学を、古事記の冒頭に掲示したことは、【中国の神話を古事記の神話】に移し換えたようなもので、 中国神話を如何に大事にしているか、ということが感じられる。天皇族の歴史の根本に、この神話を据える ことは、ここが自分達の【出自である】と確信しているからではないか。 ここに、【倭の五王以降は中国からの渡来者】であると、推定する一根拠がある。 古事記の構相は、ここから始まると私は観る。 そこで、天皇族は「よそ者」だから、土着の「カタカ文字」を表意するのに、困難したのも当然のこととなる。 例えば、「久羅下那洲多陀用幣流之時【流字以上十字以音】」や「布斗麻邇爾【上、此五字以音】ト相而」 の「フトマニニ」なども、「よそ者」で無いなら、当然その意味が通じている筈である。 特に、「久羅下那洲多陀用幣流」などは、現代人にまで通ずるカタカナ語ではないか。 また神々の名の、表音文字の多いことは何故だろう。一神で数個の名を持つ神も多い。こういう神々の 後裔は、その名前の変遷はどうなつているのであろうか。 フト思いついて、【姓氏録】にその手がかりは無いかと、検討してみる。 「直感が齎したもの」 (9:00 04/04/30) ●『姓氏録』の神別・皇別・諸蕃は弥生以来、モンゴロイドの数次にわたる日本列島への移動により、 もっとも早い者が神別 、中間の天皇権力確立(継体以後)により皇別氏族が生まれ、それ以後の渡来は 諸蕃とされ(一部協力者は皇別 に入れている)この意味では『姓氏録』は差別の書と言うべきである。 (『 新 撰 姓 氏 録 』の 証 言---大阪市 三 宅 利 喜 男より) 「新撰姓氏録」に対して、「旧撰姓氏録」という仮設批判があるが、なるほど「新撰」という文字は、 その前に何らかの「姓氏録」の存在が考えられるが、ここでは「新撰姓氏録」について検討する。 「新撰姓氏録」は、国語大辞典によると、【嵯峨天皇」の勅を受けて、万多親王らが撰進したもので、 弘仁六年に成立。神武天皇の時代から弘仁期までの京畿の姓氏1182氏を、皇別、神別、諸蛮、未定雑姓 に分類、各系譜を記したもの。】とある。 是は古事記の上卷、神武時代以前を切り捨ているということだが、何故だろう。神武時代とは、ほぼ、 倭の五王時代に当たるから、その前を切り捨てるとは、卑弥呼時代及び以前を採用していないことになる。 倭の五王時代、欠史時代を、天皇族の日本征服時代と観れば、日本征服後の状況が、ここには記録されて いるに相違無いと考えられる。そこを検討してみよう。 「新撰姓氏録」氏族一覧. ○第一帙(皇別) ○第二帙(神別) ○ 第三帙(諸蕃・未定雑姓) (http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji.htmlより) ○第一帙(皇別)◎上図の要領で、「○第一帙(皇別) ○第二帙(神別) ○ 第三帙(諸蕃・未定雑姓)」の三種別を 作成して居られるのだが、通覧して、そこから観取される天皇族の構成が、ほんの一部であるが次ぎ のようである。 【新 撰 姓 氏 録 の 構 成 状 態】 --------------------------------------------------------------------------------------- 第一帙 本貫 種別 細分 氏族名 姓 同祖関係 始祖 記事 備考 左京 皇別 無し 息長真人 真人 無し 出自誉田天皇[謚応神。]皇子稚渟毛 無し 無し 二俣王之後也 右京 以下 以下 以下略 朝臣 以下略 以下略 以下略 以下略 国名 同 無し 宿禰 県主 忌寸 以下略 ----------------------------------------------------------------------------------------- 第二帙 本貫 種別 細分 氏族名 姓 同祖関係 始祖 記事 左京 神別 天神 藤原朝臣 朝臣 無し 出自津速魂命三世孫 廿三世孫内大臣大織冠中臣連鎌子。[古記云鎌足。]天命開別天皇[謚天智。]八年。賜藤原氏。男正一位贈太政大臣不比等。天渟中原瀛真人天皇[謚天武。]十三年。賜朝臣姓 天児屋命也 左京 神別 天孫 出雲宿祢 宿祢 天穂日命子天夷鳥命之後也 無し 大和国 神別 地祇 大神朝臣 朝臣 素佐能雄命六世孫大国主之後也 初大国主神娶三島溝杭耳之女 玉櫛姫。夜未曙去。来曽不昼到。於是玉櫛姫績苧係衣。至明随苧尋メB経於茅渟県陶邑。直指大和国真穂御諸山。還視苧遣。唯有三噤B因之号姓大三 山城国 神別 天孫 阿多隼人 富乃須佐利乃命之後也 大和国 神別 天孫 大角隼人 出自火闌降命也 大和国 神別 地祇 国栖 出自石穂押別神也 神武天皇行幸吉野時。川上有遊人。于時天皇御覧。即入穴。須臾又出遊。窃窺之喚問。答曰。石穂押別神子也。尓時詔賜国栖名。然後孝徳天皇御世。始賜名人国栖意世古。次号世古二人。允恭天皇御世乙未年中七節進御贄。仕奉神態。至今不絶 以下略 以下 以下略 以下略 以下略 以下略 以下略 以下略 神別 ---------------------------------------------------------------------------------------- 第三帙 本貫 種別 細分 氏族名 姓 同祖関係 始祖 記事 左京 諸蕃 漢 太秦公宿祢 宿祢 無し 出自秦始皇帝 男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀。]八年来朝。男融通王[一云弓月王。]誉田天皇[謚応神。]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐 三世孫孝武王也 右京 諸蕃 百済 以下略 以下略 太秦公宿祢 以下略 以下略 国名 と 高麗 同祖 未定 新羅 以下略 雑姓 任那 ----------------------------------------------------------------------------------------- 【新撰姓氏録の構成状態】を通覧してみると、多くの問題が感じられるので、それを検討してみる。 @第一帙の種別と細分について 種別---皇別のみ。 細分---無し。 ●何故細分が無いのか。細分とは種別の内訳なので、第一帙の種別の場合は皇別のみだから当然の こととなる。そ内容をみると、 皇別 大原真人 真人 (出自謚敏達孫百済王也 続日本紀合 ) 皇別 島根真人 真人 大原真人同祖 百済親王之後也 ---(百済親王之後合計8名あり。) ●百済王と百済親王の後が合計9名、「出自謚敏達孫百済王」という、百済との関係は何か? 第三帙の諸蕃---「856 右京 諸蕃 百済 百済王 出自百済国義慈王也 」との関係はどうなる。 大原真人も島根真人も、実は、百済系なのか。 何故細分しなかつたか。何故、百済族を天皇族に組み入れて、皇別、眞人としたのか。 「真人」とは中国仙道の言葉で、至人、仙人と同称号であるが、天皇族は何故「真人」を皇別の 第一に掲げたのだろうかか。以上の疑問が残る、 皇別 源朝臣 朝臣 ( 源朝臣信。年六。[腹広井氏。]弟源朝臣弘。年四。【腹上毛野氏。】 弟源朝臣常。---中略---妹源朝臣善姫。年二。【腹百済氏。】) 皇別 良岑朝臣 朝臣 従四位下良峯朝臣安世 是皇統弥照天皇[謚桓武。]御宇也。 【従七位下百済宿祢之継。為女嬬而供奉所生也。】延暦廿一年十二月廿七日特賜姓良岑朝臣。貫於右京 ●【腹百済氏。】とか百済宿祢が女嬬となって生むとか、ここにも、百済系が感じられる。 A第ニ帙の種別と細分について 種別---神別のみ。 細分---天神、天孫、地祇の三分のみ。 天神=264回 天孫=110回 地祇=30回 ●種別は同じ「神」でありながら、「天」と「地」に引き離したのは、何故だろう。 「氏族名」に阿多隼人、大角隼人、国栖が出ている。これは検討の要あり。 540 大和国 神別 天神 服部連 連 天御中主命十一世孫天御桙命之後也 546 大和国 神別 天神 御手代首 首 天御中主命十世孫天諸神命之後也 ●「新選姓氏録」の中で、「天御中主命」を始祖とするのは、この二人だけである。天皇族最高の神、 天御中主命を始祖とするは何者か、と、探求をはじめた。 始めの「服部連」の内容は検討していないが、「天御中主命十一世孫」とは何か。十一代を明記 出来るのだろうか。「天御中主命」とは、「天地初發之時、於高天原、成神名、天之御中主神」 の「天之御中主神」同じだろうか。 探してみると、「古事記では 天之御中主神 」、「古語拾遺 では天御中主神 」、「日本書紀・ 先代旧事本紀.伊勢国風土記逸文・住吉大社神代記では 天御中主尊 」、「新撰姓氏録・続日本 紀 では天御中主命」と呼び名は異なるが、 同神である。 ところが、「服部連」の始祖については、まだ他にもある。次ぎの通り。 服部連 出 自 天神族 氏 祖 加理波夜須多気比波預命 出 典 古代豪族系図集覧 (近藤敏喬著、東京堂出版発行、初版1993年、価格9,450円) 解 説 日本書紀・古事記に記された神々に始まる系譜。他の天神系系譜との関係は不明。 派生氏族 伊豆宿禰 川原忌寸 日下部直 服部連 加理波夜須多気比波預命 ━━━━━ 多祁美加々命 ━ 天足別命 ━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗ 天御桙命 ━━━ 国忍多気命 ━━ 意保名豆命 ━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗ 由多祁命 ━━━ 彦振根命 ━━┳ 波刈彌命 ━━┓ ┗ 武磐咋命 ┃ [川原忌寸祖] ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗ 磐表主命 ━━━ 古美呂伎命 ━━ 若多祁命 ━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣ 彌蘇足尼[服部連祖] ┗ 田狭乃直[日下部直祖・伊豆宿禰祖] 彌蘇足尼について、検索してみたが、全く不明。「国造本紀」にも出ていない。 然し、足尼は宿祢の古称であり、各地の国造りに「足尼」の名が見えるので、「彌蘇」とは地名に 所縁があるものと思われ、「ヤソタケル」が河内地方の「タケル」らしいので、「彌蘇」も「八十」と 読みかえれば、その辺りかとも考えられる。然し結局は、服部連祖は不明ということか。 「服部連」の出自を、天之御中主神にしていることに相違無いことは、判明したが、これはどういう ことか。天之御中主神は、獨神成坐而、隱身であり、その子孫の記録は「古事記」には無い。国も神々 も生み出したのは、「伊邪那岐命、伊邪那美命」である。もし出自を 天之御中主神に求めるならば、 一人「服部連」のみでなく、誰でも成れる。 またもう一人の出自である「加理波夜須多気比波預命」について追求してみるに、出典「古代豪族系図集覧」 に依れば、神話の時代の神々として、【(1)天御中主尊〜伊弉諾尊・伊弉冉尊 (2)伊弉諾尊・伊弉冉尊〜神 武天皇 (3)高皇産霊尊 (4)八意志兼命 (5)加理波夜須多気比波預命 (6)石凝姥命】 を挙げている。そして、「加理波夜須多気比波預命」の解説に、【日本書紀・古事記に記された神々に 始まる系譜。他の天神系系譜との関係は不明 】と記録している。 そこでもう一歩踏み込み、記紀に入ってみよう。 一覧してみたが探し出せなかった。もう断念の他はない。 因みに、神社名の中に次ぎのようなものを検索し得た。 1、 加理波夜須多祁比波預命神社[カリハヤスタキヒハヨ] ・日波預天神社[ひばよ]、「加理波夜須 多祁比波預命 配 菅原道眞」伊東市宇佐美上生戸432。 2、多祁美加々命神社[タケミカゝノ・] ・大三王子神社[だいさんおうじ]、「大三王子明神、弟三王子 明神」当島開拓の地主神にて、始め能登男山鎮座する。東京都新島本村大三山。 ●平凡社「静岡県の地名」によると、留田の鎮守である比波預天神社は、延喜式にある田方郡 「加理波夜須多祁比波預命神社(かりはやすたきひはよのみことじんじゃ)」に比定する説が有力な ようだ。 以上によれば、「他の天神系系譜との関係は不明 」である加理波夜須多祁比波預命らは、出自も不明で あるが、各地では今も神々として、祭祀されているようだ。 終りに臨み、この神の名は、[カリハヤスタキヒハヨ] と古事記の表音文字と同類とみて、その意味の 探求に最後の努力を尽くしてみよう。 「カタカムナ辞典」によれば、 カ---チカラを意味する。 リ---現象界に現われる。 ハ---正、反のものが、バランスよく、つながつている状態を意味する。 ヤ---極限を意味する。 (現実には様々な状態の「ヤ」があるが、それは、つねに、刻々に、「正」の方向性をもって進行 して還元系へ赴くものと、「反」の方向へ傾いて崩壊して行くものと、があり、その 正.反 の バランスで、それぞれの「ヤ」が出るものである。 ス---進行して行く。 タ---分離独立 キ---發生。 ヒ---現象界に出て来た「カ」 ハ---正、反のものが、バランスよく、つながつている状態 ヨ ---四相分立の働きを持つこと。。 @ 地表上における四相、---昼.夜.朝方.夕方 A 季節の四相、---春.夏.秋.冬 B 物質の四相、---気相.液相.固相.コロイド相 C 人生の四相、---幼年期.青年期.壮年期.老年期 D 電気の四相、---電子と正孔と.それぞれの正.反スピン-----以下略 ◎要約すると、[カリハヤスタキヒハヨ]は、[カリハヤス」と「タキヒハヨ]と、同じ意味を重ねて表現 していると解釈されるので、重複強調しているものと、考えるべきであろう。その意味は、 【潜象界から分離し、現象界に發生して来た「チカラ」(万物を意味する)は、四相分立 の働きを持ちながらバランスよく進行している状態】 則ち、この神は「大自然」そのものを指しているとも感じられる。古代人の「大自然」の無限のチカラ に対する「畏敬の念」から生まれ出た「カタカナ言葉」であろう。 天之御中主神もまた天地初發の「大自然」の神というべきものである。 (この、[カリハヤスタキヒハヨ]というカタカナ言葉を表意することが出来なかった天皇族は、やはり、 「よそ者」であると、ここでも考えられる。) 服部連の始祖を、この極限の祖の二神に求めているのも、称号が異なるだけで、内容は同じとみてよい。 ◎以上のとうり、天御中主神は勿論、加理波夜須多祁比波預命もその出自は「不明」ということになった のだが、この二神をその始祖とする「服部連」の「服部」とはいかなるものだろうか。 秦氏を祖とする服部氏族は、伊賀忍者の宗家として広く知られている。 聖徳太子は秦の河勝(香具師の祖)・服部氏族(伊賀忍者の祖)・大伴細人(甲賀忍者の祖)らを使って各地 の情報を収集したと伝えられる。秦氏族は秦始皇帝の後裔であり、その秦家の後裔が服部氏族であるという。 もの二者は聖徳太子の最も信頼厚き家来であった。この説に立てば、服部連は天之御中主神の後裔どころ か、これも、これも天皇族同様「よそ者」である。 ついでに、「秦の河勝」を検索してみた。 1、聖徳太子と関係の深い渡来系豪族の秦河勝は、蘇我氏と物部氏の対立の中、蘇我側に身を置き、 戦った。その後、京都へ根拠地を移す。 2、飛鳥時代の渡来系の官人で、厩戸皇子の側近として活躍した秦 河勝(生没年不詳)である。 新羅から仏像が献上されたとき、太子はそれを河勝に与えその像をまつるために太秦に広隆寺を建てた といわれています。寝屋川市にも太秦という地名があり、そのあたりは昔、秦氏の土地だったといいます。 秦河勝の墓がこのあたりにあっても不思議ではありません。八尾の大聖勝軍寺あたりの激戦でも、 蘇我氏側につき、物部氏と戦っています。 このように秦河勝も服部連も外来者であるが、聖徳太子の重要な補佐役であったとすれば、万多親王らが、 約二百年程昔の二人を、大事に、「新選姓氏録」に登載編入するのは、当然であろう。 然しこれを、「天之御中主神」の後裔とまで、祭り上げたのは、如何か。 天皇族も外来者とする視点に立てば、これも当然と頷ける。 546 大和国 神別 天神 御手代首 首 天御中主命十世孫天諸神命之後也 これも天御中主命の後裔となっているが、服部連と大差はないであろうが,少し触れてみる。 「新選姓氏録」の663 に【河内国 神別 天神 神人(みわひと) 御手代首同祖 阿比良命之後也 】 というのを見出した。「神人(みわひと)」についてはなにも探し出せなかったが、「阿比良命」では、 「神武天皇は15歳で太子となり、阿比良比売命と結婚して2人の子供、多芸志美美命と岐須美美命を もうけた 」というような一文にも出会ったが、これは「比売」である。 また「天御中主命十世孫天諸神命之後」とあるので、「天諸神命」というのも探したが、何もなかった。 「天之御中主神」も粗略に取り扱われたものである。 「直感が齎したもの」 (9:20 04/05/8) 「服部連」、終了と思ひながら、一夜のうちに、「徐福」のことが浮かんで来た。聖徳太子の側近である 河勝や服部連が秦始皇帝の後裔、秦氏族、の出であることや、他にも、太秦公宿祢を始めとする大勢の、 「第三帙/諸蕃・未定雑姓」の漢籍の渡来者達を思うとき、秦始皇帝時代の「徐福」をどうして見逃す ことが出来るであろうか。 諸資料、諸伝説の多い中で、私は先ず、現存する神社,墓地を探してみよう。 1、山梨県富士吉田市には『富士古文書』があり,これによれば,徐福はここ紀伊半島に3年滞在した後, 富士山をめざして再び東へ旅立ったことになっている。そして,富士山麓で没したとされている こうして徐福はおよそ70歳でここ富士山麓で果てた。徐福やその子孫たちは多くの知識・技術を伝え, 日本の文化や国の発展に大いに貢献した。徐福と関わりの深い町は今でも中国との交流があり, 姉妹都市提携を結んでいるところもある。徐福は2000年以上経ってなお語り継がれ,国を越えて 人々の心の架け橋となっている。(徐福伝説より) 2、佐賀県 佐賀市金立町 孝霊天皇の72年、徐副は男女数千人を率いて日本に来てとどまった。 立山雲上寺は徐副の跡を留めた霊地である。 3、山梨県 富士吉田市 孝霊帝の時、秦の徐福結伴して薬を東海の神山に求む。ここに到るに及び、 以為らく、福壌の地なりと。ついにとどまりて去らず。 福源寺山門鶴塚碑 4、和歌山県 新宮市 孝霊天皇6年丙子(紀元前285年)秦の徐福来朝す。 民俗資料館古文書 徳川頼宣が墓碑を建立 (●孝霊天皇6年丙子と(紀元前285年)とを年代考証をしてみる。孝霊は欠史時代に近い天皇だから、 紀元後になるようである。) 以上のような伝説もあるが、孝霊天皇時代と徐福の紀元前とは、比較にならない。でも、 次ぎのような「徐福伝説」は、中国の古代にも現代にも亘り検討されていて、興味深い。 次ぎの「徐福伝説」は極めて内容豊富なので、参考にて頂きたいと思う。 【はじめに. 日本の古代史に興味がある人でこの「徐福伝説」を知らない人はいないだろう。特に 「縄文・弥生時代」に関心の深い人にとっては、彼らが本当に日本にたどり着いたのかどうか ... http://inoues.net/yamataikoku/mystery/jyofuku.html - 31k - キャッシュより】 現代に至り、中国,韓国、日本に益々根付いている「徐福伝説」は、最早打ち消すことはできないで あろう。そして、「徐福伝説」の特徴として、天皇族のような覇権者の土着民族征服の面影が全く感じ られないことである。これは矢張り「不老不死の薬を求めて」、先住民族と融和し土着してしまった のではなかろうか、としか考えられない。 こうして「徐福伝説」を通覧してみて、その神社、墓地が、各地に祭祀されているのに、出雲地方には 一件も無いのは何故だろう、と気付いた。 徐福村〜済州島〜日本というコースからみれば、出雲は遠隔過ぎるからであろうか。 古代史を大観してみると、土着民族、徐福、卑弥呼、倭の五王、天皇族と並べられるが、「新選姓氏録」 にはあれだけ多くの新羅、高句麗、任那からの渡来者が記録されているのに、彼等の始祖が渡来していない 筈は無いのである。そこで検討してみると、「出雲国風土記」の「意宇の郡」に【国来国来と引き来縫へ る国は------】とある、あの「国引き説話」に出てくる韓国渡来者こそ、それであろう。 また別件としては、【から‐の‐かみ【韓神】(朝鮮から渡来した神の意か) 守護神として宮内省に 祀られていた神。大己貴(オオナムチ)・少彦名(スクナビコナ)二神をさすという。)】も出てくる。 新選姓氏録の第二帙、に出ている、 【天孫 出雲宿祢 宿祢 天穂日命子天夷鳥命之後也 地祇 大神朝臣 朝臣 素佐能雄命六世孫大国主之後也 】 などは、「国譲り」後の出雲政権が、中国渡来の天皇族に編入された姿を示すものであろう。 その他、韓国古代史初め資料は多い。平成の現天皇も韓国との関係を發表しておられる。 かくて日本土着民族は、各方面からの渡来者の下積みになり、文字も持たず記録も無くて、古事記時代 を迎えたのであろう。 B第三帙の種別と細分について 種別---諸蕃と未定雑姓とは、一応、天皇族からみて外国人ということか。 細分---外国として五ヶ国が挙げられている。 漢=160回 百済=105回 高麗=46回 新羅=9回 任那=9回 未定雑姓=117回 ●中国と半島が圧倒的に多い。「未定雑姓=117回」の中を覗けば、その始祖の項目の欄に、天皇の 子孫や武内宿禰や大物主神の子孫など天皇族も多く記録されており、秦始皇帝の後裔も出ている。 姓氏録によれば、天皇族の出自が中国と朝鮮であることが明らかになつた。幾度となく推定してきた ことが、ここに一目瞭然と決定した感じである。だから卑弥呼の次ぎの倭王名が「讃、珍,済、興,武」 と漢字であり、武王の上表文が、見事な漢文なのである。 では、古事記の神々や天皇達は、何故「カタカナ言葉」なのであろうか。 漢族系であろう太安万呂が、あの「表音文字」「カタカナ言葉」に、あれほどの執着を持つて、歴史を 伝えようとしたのは何故であろうか。 ●何故「讃、珍,済、興,武」という五王の名を伝えなかつたのであろうか。 この間に大きな疑問が生ずる。 神々の名が「カタカナ言葉」であるということは、漢族の者達が卑弥呼たち倭族の者の名を採用する、 ということになりはしないか。 古事記は中国や朝鮮の言葉より、カタカナ言葉を重要視している、ということだろうか。 この「漢字とカタカナの間」に深い疑問と重い重要性を感じざるを得ない。いろいろと検討してみると、 カタカナは一字一音が基本である、「カタカナ文献」の声音符号を見れば判るとうり、「一符合一音」である。 これに対して漢字は殆ど「一字多音」である。 時代の経過とともに、この二者の関係が微妙に変化してゆく。現代では、英語も漢字と同じように、 カタカナに融合している。この「融合性」がまた一問題である。 【武内宿祢】について。 66 左京 皇別 田口朝臣 朝臣 石川朝臣同祖 【武内宿祢大臣之後也】 蝙蝠臣。豊御食炊屋姫天皇 [謚推古。]御世。家於大和国高市郡田口村。仍号田口臣 日本紀漏 ●この【武内宿祢】の出自が姓氏録の何処にも無い。国語大辞典では244年間も大和朝廷に仕えていた という伝説上の人物と出ている。伝説上の人物を出自もないのに、記録しているとは、姓氏録も信頼 出来ない個所が多々あるようだ。 ★「検討三」征服の事跡について 今度は視点を換えて倭王武の上表文を論点にして検討してみよう。上表文に曰く、 【順帝の昇明二年、使を遣わして上表す。】 「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し、寧処 に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること 九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま) ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤(つ)ぎ、統(す)ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、 道百済を遙(へ)て、船舫を装治す。-----」 この上表文は、武がその「祖禰」の武勇伝を開陳しているのだか、その「祖禰」とは誰だろう。 勿論、その「祖禰」とは讃以下となるのだが、この「祖禰」のような全国的な征服武勇者は、風土記に おける、土蜘蛛等征服の「景行」以外には見当たらないであろう。「讃」以前の倭国の記録をみると、 卑弥呼時代に遡るまで、朝鮮半島の諸国との関係ばかりのようである。 ここで、この点で、「讃」と「景行」との一致を推定する。 「検討四」没年について 「紀」の庚午年は430年で、垂仁、景行の没年に当たる(日本史年表) この年は、干支によれば、景行の没年である。また後記の如く、「讃」の没年が(日本史年表)に 「438年より先、倭王讃没す」とあるから、景行と讃はその没年においては、ほぼ一致する。 以上の三検討から推して、この同一説は有望である。 2、讃と神武、讃と応神の同一人物説について その没年の干支を探ると、「日本史年表」には、神武は紀で丙子、応神は紀で康午、記で甲午と出ている。 神武は、丙子という干支からはその西暦年代が検索出来ないので、讃との同一説は断念せざるを得ない。 また応神については、その干支、紀の康午では讃や景行と同一だが、記の甲午では一致しない。 以上の簡単な検討ではあるが、私は「讃と景行との同一説」に立つべきであると思う。 ●「新選姓氏録」の検討をここで一応終えて、振返ってみると、外来者の多いことに驚く。徐福を初めとして、 秦始皇帝などの係累などが、土着したり、征服したり、それらを始祖とした後裔が、先祖を慕い、 漢、百済、高句麗などから続々と、草木が靡くように、日本にやってきた、というような感じを受けた。 反面、天皇族以外のエミシ、土蜘蛛、熊襲等については如何と通覧してみると、 第二帙 525 山城国 神別 天孫 阿多隼人 富乃須佐利乃命之後也 559 大和国 神別 天孫 大角隼人 出自火闌降命也 571 大和国 神別 地祇 国栖 出自石穂押別神也 神武天皇行幸吉野時。川上有遊人。于時 天皇御覧。即入穴。須臾又出遊。窃窺之喚問。答曰。石穂押別神子也。尓時詔賜国栖名。然後 孝徳天皇御世。始賜名人国栖意世古。次号世古二人。允恭天皇御世乙未年中七節進御贄。 仕奉神態。至今不絶 この中の「富乃須佐利乃命 火闌降命 石穂押別神子」の三者について検討してみると、 「国栖」については、記事以外には見当たらないが、「隼人」では、 【隼人を語るのはとても複雑だ。 クマソという古い縄文の血を伝える民が居た。 そして大陸から渡り、この島国を従えていった一団が大和朝廷を造った。 それに最後まで抵抗したのが蝦夷であり、クマソであった。 クマソとは、球磨地方のクマ族と、曽於地方のソオ族を総称した呼び方だ。 地理的にクマ族は山の民、ソオ族は海人であったと考えられる。 しかしそれを「クマソ」と並び称した朝廷側に 原住民に対する差別を感じてしまう。 そんなクマソのなかで、比較的早い時期から朝廷の臣下に下り、 その独特の山狗の遠吠えを模した魔よけの儀礼で都人の警護に当たり、 その隼のように早い歩みから「隼人」と呼ばれた古い民俗。 一般に勇猛というイメージで語られている彼らに 朝廷側に組み伏されてしまった哀愁を感じるのは私だけだろうか。】 (http://village.infoweb.ne.jp/~nekobus/ushio.htm - 7k - キャッシュより) というような一説もある。が、土着民族と天皇族の間は、今後の重大な課題となるであろう。 「新選姓氏録」というものを、衛星から地球を見下ろすように大観してみると、どうなるだろか。 アジア大陸の東海岸に寄り添う一つの列島の、そのまた西海岸に寄り添う五島列島が、三百万年前に マッカな火を噴き上げた。(五万年前頃また第二次噴火。) この火山大噴火があつてから、ニ百数十万年経過してから、明石原人、牛川人、以後三万年前頃には、 石器、「新人」に属するという人の遺跡が続々と發掘されて、日本全域に人類の活動の痕跡が見れる ようになる。 このように、日本の先住民族の存在が確認される。 五島列島でも、小値賀島の小値賀島概史の中で「斑島のオオサコ遺跡、玉石鼻遺跡、納島のヌゲ遺跡等々 (十数か所)---から出土している資料から、初めて小値賀に人類が足跡を残したのは、 今から約三万〜二万年前の石器時代のことであつたことがわかる。」と記録されている。 日本列島のそのまた列島の五島においてさへかくの如きで、日本全体の人類の状況を想像する。 ●同じく数万年前頃から,カタカムナ人の存在が、楢崎皐月のカタカムナ文献発掘により、問題として 提起されている。 このように、日本の先住民族の存在が確認された時点を、仮に紀元前三万年前とすれば、「欠史時代」 から計算しても、天皇族の政権時代は昭和天皇の「無条件降服」まで、たかが二千数百年ではないか。 三万年以上もの先住民族の中に割り込んで来て、二千年ぐらいの歴史しか持たない天皇族は、この列島の 「御主人」とは言えないのではないか。 漢字を持つて来て、「新選姓氏録」を作成し、天皇族を取り纏めること1182名、この家族を含めると 五千人程度になりはしないか。伝説ではあるが、徐福は一人で、三千人以上もの人々を率いて来島した というではないか。天皇族は倍増してみても一万人である。 因みに、風土記を開いてみた。T郷を50戸とするので、T戸あたり6人として計算すると、 出雲は、61郷×50戸=3050戸 豊後---- 40×50=2000戸 肥前---- 70×50=3500戸 合計---- 8550戸×6人=51、300人(常陸,播磨は記録なし) 風土記3ヶ国だけで約五万人が見込まれる。これを何倍すれば、古代人口になるだろうか。 因みに、「倭人伝」にも卑弥呼時代の邪馬台国の人口関係が出ていたから、これを引出してみよう。 陳寿筆法 長田通倫(日本古族研究所)より。 【表26は,倭8ケ国の総人口が42千人程度に修正されることを示している。これより,1国平均は 5千人相当であり,倭国30ケ国の総人口も15万人前後であると計算される。また,列島の総人口は, 倭国の数倍と見なして,略100万人と推算される。岡田英弘(前出)は,人口減少期と云われた三国 時代の中国の初期人口が500万人程度しか存しなかったと推量しているので,表26の倭8ケ国の 人口は,決して低い水準ではないと思われる。 安本美典(前出)に拠ると,小山修三は,「縄文時代(中央公論社,1984)」において,弥生時代 の遺跡数が略11千ヶ所に達すると推計している。此の場合に,1遺跡に90人(=15戸x6人)が 居住すると見なすならば,列島の全人口は略100万人に相当する。】 このニ説の100万人は、私の風土記人口の二十倍に相当する。妥当な倍率ではなかろうか。 姓氏録の人口を、仮にT万人としてみても、列島100万人の百分の一ではないか。 この衛星から見下ろす列島の100万人の住民の中に、天皇族は、1182の「姓氏族」を取り纏めて 、 100万人の住民を支配している。知能と戦力に勝れて、見事にこの列島を統一している。 ところで、この天皇族は天皇自身は「姓」は持たないが、天皇以外は「姓」を賜り、天皇族に纏められ ている。ではこの「新選姓氏録」の埒外の、「姓」を持たない100万人もの列島民族は何なのか。 明治になり漸く「姓」にありついた、この100万人は何と位置付ければよいであろうか。 【漢字】がやってきて、この列島の歴史を、記紀、風土記、姓氏録等に記録した。けれどもこの記録は、 たかが一千人程度の、一部の特別の覇権者だけの歴史ではないか。しかもそれは、内部闘争の血生臭い、 不道徳な、見るに堪えない記録が多い。 その他の、100万人もの歴史はどうなるのだろうか。列島を見下ろしながら、私は腕を組むのである。 僅かに、エミシ、土蜘蛛、国栖、熊襲,隼人、山窩、百姓(中国では国民)などが、顔を出している。 それは丁度氷山に酷似している。氷山の歴史は立派に、世界に類の無い程立派に遺して呉れている。 だが、水面下の【百万人の歴史】は見ることは出来ない。ここに注目して微力を尽くしてみよう。 【百万人の歴史】へ 最後に消えない「疑問」について、考究してみたい。 ●何故古事記は、「讃、珍,済、興,武」という五王の名を伝えなかつたのであろうか。 現代の我々が、どの天皇をこれに対応させようか、と苦心しているのに、自己の祖先であるなら、少なくとも、 その事跡の片鱗なりとも残る筈である。それが【何も無い】ということは、どういうことか。 先ず、この五王の前後は誰か、どうなっているかを見る。 (この時代は「謎の四世紀」と言われている。それは266年に「壱与」(『晋書倭国伝』に記載されて いる倭の女王)が「西晋」に使者を派遣し てから、413年に倭王「讃」(『晋書倭国伝』)が「東晋」 に遣使する までの159年間、中国との国交の記録がないだけでなく、通説において「邪馬台国」と 大和朝廷を結ぶラインが、依然不明瞭だからである。【真説日本古代史】第六部より) この「不明瞭」に立ち向かつてみたいのである。 紀元前1020頃、「最初の倭人」の記事が(前1020頃)の王充の「論衡」に記録されているというから、 -----【「周」の時、倭人来たりて「ちょう草」を献ず。---中国へ渡った「最初の倭人の記事」で、 江南人王充の書いた「論衡」に出ている。 (「海を渡った人々」より。)】----- 文字上ではこれが最初であろう。「倭」とはこの頃から使用されていたとは、全く驚きである。 ◎ここで、「倭」と「日本」という文字の出現の年代差を、ハツキリと確認出きる。「倭」は「ワ」と 発音されるのであり、後代の、「大和、山都、耶麻と、山門、大倭」では無い。漢字渡来までは、 文字は無かったのだから、その頃の倭人は「ワ」と発言していたに相違無い。そのカタカナ言葉である 「ワ」は如何なる「意味」を表意していたのであろうか。「ワ」というカタカナ言葉を、漢字国の古書 が、大安満呂のように、「倭」と表音したのであろうが、漢字国の者達は、この「倭」という漢字に 如何なる意味を込めているのだろうか。 「国語大辞典」には、【もと、中国での呼び方で、志賀島出土の金印「漢委奴国王」の「委」もこれで あるという。】と出ているが、この「委」を採用すれば、「倭」とは「人に委ねる」とも解される。 「倭人」は「人に委ねる」傾向を、大多数がその性質として持つていたのであろうか。 「漢和大辞典」(諸橋著)には、〔倭」---ヰ、クワ、ワ 1、したがふさま。〔説文〕倭、順皃、从人委声。廻つて遠いさま。みにくい。 2、やまと。古、中国人が日本を呼んが称。 と、出ている。 2の「やまと」は意味であり、「倭」の呼称は「ヰ」が本命であろう。 従って、「したがふさま」は「人に委ねる」にも通ずる。 では、「ワ」というカタカナ言葉はどう解釈するか。 「国語大辞典」には、【「ワ」の字形は「輪」を示す記号としての「○」をニ筆で書いたものから出た ともいうが、「和」の草体またはその右部から出たと考えるのが妥当である。 これは「ワ」というカタカナ言葉の出自の説明であつて、その意味は何も出されていない。 これはもう、「カタカムナ文献」に頼るしか、確実な方法は見つからないであろう。 そこで、「カタカムナ文献」により解釈してみよう。 「カタカムナ文献」---、 (第十一号、カタカムナ文献解読、第五首、P155)---「ワ」とは、大きくはアマ宇宙球の全体像で あり、小さくは宇宙の万物万象の固体を意味する。 (第十四号、第三十四首、P122)--- 「ワ」とは、単なる集合では無く「渾然と調和融合」であるが、 それは固くかたまっているのでは無く、自由にそこから ワケ られて ワク(発生)し、凝縮し 膨張するチカラをもつもので、豊かな融通性のある、極めて柔軟な状態である。 要約すると、「ワ」とは天然自然の大宇宙の実体そのものを意味していると解される。 「倭人」は古代人そのままで、天然自然のままに生き、天然自然を尊崇し、「ワ」という言葉を最も 大事に、最も多く口にしたことであろう。だから大安満呂のように、「ワ」の意味が解らないから、 「ワ」という発音を「表音」して「倭」と呼称したのであろう。 「倭」という漢語には、「従うこと、醜い」という意味もあるのだから、古代中国の立場からすれば、 最も妥当な漢字選択であつたと言える。 ◎ここには、後代の天皇族が「日出るところの天子、日没するところの天子に申す」などという、 「傲慢さ」は考えられない。 【直感が齎したもの】 ここでフト思いついた、やはり「ワ族」と天皇族とは「異種族」であると。「ワ族」は卑弥呼時代後に、 「倭の五王」に征服されたが、五王は、漢国からの渡来者であるが為に、漢国の呼称に従い、「倭」と いう文字を踏襲したものであろう。「倭の五王」は「武」の時代で終り、次ぎはいよいよ、天皇族が 覇権を掌握した。そして、「倭」は蔑称であるとして「日本」に改名した、と、私の直感は走るのである。 果たしてどうなるであろうか。 ここで今一度、「倭人」の歴史を、「欠史時代」を中心にして振返つてみよう。 以下、(「日本史年表」より)。 紀元前後---この頃倭人は、百余国に分かれ、一部の国は前漢の楽浪郡に朝貢(漢書地理志)。 西暦57-----「後漢、建武中元2」倭の奴国王が後漢に朝貢し、光武帝から印綬を授けられる。 西暦107---「後漢、永初1」倭国王(倭面土国王)師升ら、後漢の安帝に生口160人を献上。 西暦184---倭国乱れ,攻伐しあい、盟主無し(魏志倭人伝) 天理市東大寺山古墳出土の大刀、この時期のものか。卑弥呼王となる。 西暦243---倭王生口、倭錦など献上。印綬を受く(魏志少帝紀倭人伝) 西暦244---魏、蜀を攻撃、倭の戦乱に介入出来ず。高句麗をも攻撃。 西暦244---干支から検討してゆくと、懿徳天皇は、この年に没したことになる。(日本史年表の没年干支表より。) この頃は卑弥呼時代であり、卑弥呼は四年後に没している。 なお、懿徳以前の神武、綏靖、安寧の三者は、干支による没年は判明し得なかつたが、 懿徳以前は当然であり、中国の周王朝時代まで遡及する「神武渡来説」(太伯伝説) が該当するようである。 西暦245---詔賜倭難升米黄幢 西暦248---(魏.正始9年)卑弥呼死す。壱与年十三女王となる。 西暦266---(西晋.泰始2)倭の女王(壱与?)西晋に朝貢(日本書紀 神功紀66年条に引く晋起居注.晋書武帝紀) ★----------◎西暦266年〜413年まで中国の史書には倭の関係記事みえず。 この頃、銅鐸、武器形祭器による祭祀が終る。北九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に特殊な 壷形土器、器台形土器を献供した墳丘墓(首長墓)が現われる。(岡山県楯築遺跡など) 奈良盆地に茶臼山古墳.メスリ山古墳.崇神陵古墳.景行陵古墳など大王陵クラスの大型前方 後円墳が集中する。 ●この頃、崇神陵古墳.景行陵古墳などが發掘されるということは、既に天皇族が渡来して、卑弥呼族 制圧していることを、推測させる。(この古墳を、崇神陵古墳.景行陵古墳と決定した理由?) この266年〜413年の約150年の間、中国史書にはみえないが、「日本史年表」は次ぎのように伝えている。 ---------------------【謎の四世紀を中心とする概況】--------------------------------------- 280---西晋、呉を滅ぼし中国統一。馬韓.辰韓入貢す。 西晋 武帝 1◎283---百済の阿直阜が日本に来た。 ★漢字渡来の初見 百済の王仁日本に来て、「千字文」「論語」を献上。 ◎この「王仁伝説」は年代の定説が見出せないが、「卑弥呼時代」には文字がなくて、その後漢字が 渡 西暦291---八王の乱始まり、西晋混乱す。 ★崇神陵景行陵 3世紀〜4世紀 奈良盆地に桜井茶臼山古墳.メスリ山古墳.崇神陵景行陵の両古墳など大型前方公円墳 出現。竪穴式石室。副葬品は、呪術的な鏡.玉.剣.石製品のほか鉄製農工具。塩筒 埴輪盛行する。土師器が畿内地方から各地に普及。 福岡県沖ノ島で盛んに祭祀。器材埴輪、家形埴輪出現。(日本史年表による) 302---高句麗、西晋の玄菟郡を侵す。 313---高句麗が中国支配下の楽浪、帯方を併合。 百済.新羅の台頭著しい。■中国の軍事力消滅。 316---匈奴、西晋を滅ぼす。五胡十六国時代始まる。 317---司馬睿(元帝)、江南に東晋を興す。 342---前燕、高句麗を攻め、丸都城を略奪。 343---高句麗王前燕に入貢し、平州牧.遼東地方2国王を授けらる 355---高句麗王前燕から征東大将軍営州刺史楽浪公を授けらる。 ■以下のような説もある。 【日本列島ではこの頃、畿内に古代国家生まれた。朝鮮加羅の渡来集団。古墳時代が始まつたのもこの頃。 この加羅系渡来集団は、北部九州の邪馬台国を滅ぼし、やがて瀬戸内海沿岸を経て、畿内に本拠を占め、 四世紀中頃には奈良盆地の纏向の地に王都を置く古代国家を建設した。その始祖王は、『日本書紀』に 「御肇国天皇』と書かれている崇神と思われる。纒向遺跡は崇神の王都であり、崇神の墓は、年代. 位置.規模からみて、纒向の地にある巨大前期前方後円墳の箸墓古墳と推定される。 崇神が建設した加羅系倭国は、東日本の一部と西日本の小王国、および、加羅地域の小王国からなる大きな 連合王国であり、崇神を始祖王とする畿内の王国がその盟主国であったとみられる。】 ★崇神王朝出現---崇神陵景行陵の両古墳など大型前方公円墳出現からも崇神王朝出現は推定される。 ★崇神王朝 『記紀』と『宋書』から崇神王朝の系譜を復元すると、崇神ー垂仁ー景行ー讃ー珍ー済ー興となる。 ●熊襲初見---明らかに検索出来ないが、景行天皇時代を4世紀と見る時、記紀に出てくるヤマトタケル命 (倭建命)のクマソタケル(熊曾建)征伐記録は、このあたりの年代であろう。(310年頃?) ★倭国とは?2◎364---百済人「久テイ」ら卓淳国訪ね【倭国】との通交を求む(神功紀46年) 清寧没時代だ! ここに出て来た【倭国】の国王名は誰か。 西暦364年の干支は「甲子」であるから、「紀」に出ている懿徳か清寧か、どちらかである。 367年の顕宗が継ぎ代だから、ここの没倭国王は「清寧」ということになる。 また、「干支順位表」から検討しても、両者とも、西暦年代と干支が一致している。 3◎366---倭国斯摩宿禰卓淳国へ行き使者を百済に送る(神功紀46年) ★記、丁卯、仁徳没 367---これは不適当、紀では己亥と記録されているので、これを探求すると、 399年となる。 ★紀、丁卯、顕宗没 367---千熊長彦を遣わして新羅を責める。 (神功紀47年) 369---新羅を攻め「比自ホ」(ひしほ)以下7ヶ国平定、「比利」以下4邑降服させる(神功紀49年条) (誰が新羅を攻めたのだろう?) 高句麗、百済を攻めるが敗れる 371---百済、高句麗を攻める。高句麗の故国原王敗死する。 ★壬申、履中没 4◎372---百済の肖古王「久テイ」らを倭国に遣わし、七枝刀1口.七子鏡1面を送る(神功紀52年) 高句麗、前秦韓僧侶.仏像.仏典を迎える。初めて朝鮮に入る 百済王東晋に初めて入貢、鎮東将軍領楽浪太守を授けられる。 377---高句麗.新羅が「前秦」に入貢。(新羅の最初の中国遣使) 「前秦」が鮮卑.烏桓.高句麗.百済・新羅などに兵を徴する。 5◎382---襲津彦(沙至比紀跪)を遣わし新羅を攻める(神功紀62年) 383---肥水の戦い東晋が前秦の南下を破り中国の南北対立の形勢確立 384---東晋より仏僧を迎え、仏教、百済に入る。 391---高句麗の広開土王(国岡上広開土境平安好太王)即位し、 (三国史記は392年)永楽年号を用いる。 ★辛卯、崇神か欽明没 6◎倭が百済.新羅を破り、臣民とする。(高句麗広開土王碑) この頃、叉状研歯、藍胎漆器、大型竪穴建物、稲作の遺跡など。 ▲古墳時代--A中期 7◎392---百済が高句麗に屈する。(三国史記)百済辰斯王倭国に対し 礼を失う。紀角宿禰を遣わして詰問、辰斯王殺され、阿花王立つ。(応神紀3年条、三国史記) 395---高句麗の広開土王、塩水の土境を遊観。 ★丙申、安康没 396---高句麗、百済を攻めて58城をとり、人質を取つて還える。 8◎397---百済の阿花王、王子の直支を倭国におくり和を請う。 〜 倭新羅侵入、新羅、高句麗に救援を要請。高句麗兵を送り △399---1、始起烟末生出之兒、號火闌降命。《是隼人等始祖也。》(神代下 第九段 天孫降臨) 2、是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣。(神代下 第十段 海宮遊幸) 3、時有近習隼人。曰刺領巾。(履中即位前紀(399)) (日本書紀) 但し、1及び2は日本書紀の神代下第九段、第十段なので、年代は399年ではない。 ★紀、己亥、仁徳没 399---仁徳没は、記では丁卯であるから、247、367にも該当する。 9◎399---倭、新羅に侵入し、新羅は高句麗に救援を要請する。(広開土王碑) 10◎400---高句麗、兵を新羅におくり、倭を撃退。追撃して任那加羅に至る(以上広開土王碑) 401---鳩摩羅什、長安にいたる。 11◎402---新羅実聖王、奈勿王の子未斯欣を倭国に送る。(三国史記) 12◎404---倭、帯方郡に出兵し、高句麗に撃退さる。 (広開土王碑) 13◎405---百済阿花王没、王子直支を帰国させて即位させる。(応神紀、三国史記) ★紀、乙巳、履中没 405---記では壬申であるから、372年となる。 この頃、大王陵クラス大形前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り、さらに巨大化する。 人物埴輪があらわれる。 407---広開土王碑に依れば高句麗、百済方面で戦う。 高句麗王東晋から使持節都督榮州諸軍事征東将軍高句麗王楽浪公を授かる 倭国と履中?14◎413---倭国、東晋に貢物を献上。(晋書安帝紀.太平御覧所引晋起居注)(履中天皇時代) ●隼人ソバカリ「墨江中王之乱」の時、隼人「名---曾婆加理---云」を騙し討ちにする。 413---高句麗王、東晋から使持節都督営州諸軍事鎮東将軍高句麗王楽浪公を授けらる。 414---高句麗の広開土王(好太王)碑たつ。■---碑文に、「倭が海を渡って来た」 と刻まれている。 417---百済王、東晋から使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王を授けらる。 420---劉裕(武帝)、南北時代始まる。宋、高句麗王を征東大将軍 百済王を鎮東大将軍に進める。 ◎卑弥呼時代終了後から、倭五王時代までの「倭国」の記録は以上のとうりであり、 14回目が「東晋に貢物を献上」している。 この間の、中国、韓国、倭国、三国の複雑な状況をどうみるか、によつて天皇族の歴史は替わる. 「欠史時代」に対する見解は諸説紛々で、決め手はないようだ。私としては、現時点では次ぎのように 推定している。渡来者を年代順に列挙すると、 @、13:11 04/05/24---【倭人】は中国、韓国、日本の三国にそれぞれ呼称された民族がいたようである。 然し、卑弥呼時代の「倭人」とそういう漢字を持たない、「カタカムナ文献」でいう 「ワ人」とは年代的に異なる。「ワ人」は二万年程も前からの土着民で、漢字は知らず、 「ワ」という言葉を使い、「○」という声音符記号を知つていただけである。 その【倭人の関連事項】を探れ。 A、先住民族------先住者は不明であるが、その後裔として、エミシ、土蜘蛛、国栖、隼人等。 B、モンゴロイド---渡来の年代不明。 C、大国主神------神武年代を西暦紀元前1000年頃とする資料もあるが、(日本書紀では、神武元年は 紀元前660年と、はるかに古代に設定されている。)「大国主神」はそれよりも 古代だから、徐福よりも前代となる。 D、徐福----------秦の始皇帝時代であることは明瞭。 E、韓国----------「卑弥呼時代終了後から、倭五王時代までの「倭国」の記録が13回もあるのに、 一回も国王名の記録が無いということは、卑弥呼とも、後の「倭の五王」とも、 無縁の者が、活躍していたと考えられる。則ち、広開土王碑に関係有る者、及び、 韓系説のある「神功皇后、武内宿禰」など。 ●400---庚子(四〇〇)神功即位前期、神功征伐新羅。新羅王子を人質にする。(書紀) 書紀に記録されているこの項により、「倭」の国王名が「神功皇后」であることが判明した。 以下、「日本史年表」上で、倭王讃までの記録をたどつてみるとにする。 364---百済人久氏ら卓淳国訪ね【倭国】との通交を求む(神功紀46年) ◎366---倭国斯摩宿禰卓淳国へ行き使者を百済に送る(神功紀46年) 367---千熊長彦を遣わして新羅を責める。 (神功紀47年) 369---新羅を攻め「比自ホ」(ひしほ)以下7ヶ国平定、「比利」 以下4邑降服させる(神功紀49年条)高句麗を攻めるが敗れる 372---百済の肖古王久氏らを倭国に遣わし、七枝刀1口.七子鏡1面を送る(神功紀52年) ◎382---襲津彦(沙至比紀跪)を遣わし新羅を攻める(神功紀62年) 391---倭が百済.新羅を破り、臣民とする。(高句麗広開土王碑) 392---百済が高句麗に屈する。(三国史記)百済辰斯王倭国に対し礼を失う。 紀角宿禰を遣わして詰問、辰斯王殺され、阿花王立つ。(応神紀3年条、三国史記) ◎397---百済の阿花王、王子の直支を倭国におくり和を請う。 399---倭、新羅に侵入し、新羅は高句麗に救援を要請する。(広開土王碑) 400---高句麗、兵を新羅におくり、倭を撃退。追撃して任那加羅に至る(以上広開土王碑) 402---新羅実聖王、奈勿王の子未斯欣を倭国に送る。(三国史記) 404---倭、帯方郡に出兵し、高句麗に撃退さる。 (広開土王碑) ◎405---百済阿花王没、王子直支を帰国させて即位させる。(応神紀、三国史記) ★---以上の如く、266年〜413年まで、約147年間、中国の史書には倭の関係記事みえないが、(神功紀)には 出ている。 倭国と履中? ◎413---倭国、東晋に貢物を献上。(晋書安帝紀.太平御覧所引晋起居注)(履中天皇時代) この「倭国」は履中天皇時代とあるから、履中か。 414---高句麗の広開土王(好太王)碑たつ。■---碑文に、「倭が海を渡って来た」 と刻まれている。 417---百済王、東晋から使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王を授けられる。 420---劉裕(武帝)、東晋に代って、宋を建て(〜479)南北時代始まる。 宋、高句麗王を征東大将軍、百済王を鎮東大将軍に進める。 以上により、卑弥呼時代以降の「倭国」とは、神功皇后時代であることが判明した。然し、413年の 「倭国、東晋に貢物を献上」から、421年の「倭王讃宋に朝貢」までの8年間に、如何なる変動があつたか。 則ち、略、神功皇后時代の終末から、507年の継体天皇までの約94年間に、倭の五王が中国古代史に 倭国を代表して記録されているということは、どういうことか。神功皇后.中哀天皇以後の応神から 継体の、12代もの天皇達の代表名というのだろうか。12名のうちのどの5名を倭の五王に選抜しようと するのだろうか。 ここに、この矛盾(対応説の不合理)のためにも、五王の中国からの渡来者説を確信するものである。 おそらく神功時代は、韓国動乱に巻き込まれ、韓国との入り乱れた姻戚関係で深入りし、果ては、高句麗 に撃退され、権威を失墜し、中国への朝貢など思いも及ばなかったのであろう。 その状態をみて、その機を捕らえて、中国から攻略者が渡来して来た。それが「讃」である。 と私は想像するのである。最も、僅か五代しか続かなかったが。 ここに一つ發想を提示する。 1、高句麗は倭軍を撃退する。天皇族後退。 2、この状況をみて讃が中国から倭国に渡来、倭国の一部を制圧。直ちに宋に朝貢。 3、高句麗も余勢乗じて倭国に侵入、その一部を制圧。 4、讃、高句麗、天皇族の三派の抗争始まる。 5、武の時代になり、高句麗の勢力に脅威を感じて、武は宋に「上表文」を提出し、後援を哀願する。 6、武は高句麗に滅ぼされる。 7、天皇族は高句麗を撃退し、倭国を統一する。 8、記紀時代に当時の天皇の権威高揚のため、万世一系の立場を執り、倭五王、高句麗などの事跡を 消滅した。 かくして天皇族は、天之御中主神から記紀時代まで、「日本」に成るまでに、倭国を統一して来た。 但し、天皇族の内部覇権の交替は激しいものであった。 F、中国----------上記の無国王名の「倭」国に、突如出現した「倭の五王」は、当時の中国の国王名と 間違う程紛らわしい、讃.珍.済.興.武は、その「上表文」の内容から察しても、 中国からの渡来者であると推定される。 また、「新選姓氏録」にみられる「秦始皇帝」の後裔者達も多い。 G、天皇族--------★倭王武については「日本史年表」に、 【502---梁の武帝、倭王武を征東将軍に進号。(梁書武帝紀)】と出ており、以後 記録を發見し得ず、従がって没年不明である。 この後、507---大伴金村ら応神天皇の五世孫と伝える男大迹王を、越前の三国(福井県 板井郡)から迎え、天皇の位につける。(これが継体天皇である。)(紀) ●倭王武の終末が記録無く、次ぎは突然に「継体天皇」が出現する、ここにも不合理さが感じられ、 「謎の四世紀」の謎を深くする。 この「謎の四世紀」の謎に、どんな対応を採るか? 13:57 04/05/30 ◎別途研究中だった「カタカナ古事記」の結末が、端無くも「欠史時代」に触れることになり、ここに 私の対応が一応定まったので、以下に転載する。 以下は「カタカナ古事記」の、大安満呂によって「表音」された、神々の名称についての、比較考証から 始まつたものである。 それは次ぎのような一文である。 【中国の帝王名-----光武、明、章、和、殤、安、少、順、冲、質、垣、霊、以下省略。 倭の五王---------讃、珍、済、興、武 韓国の帝王等-----檀君・朝鮮侯・朱蒙・近肖古・広開土王・王仁・金大城・弓裔・王建など 日本の帝王-------神倭伊波禮毘古、神沼河耳、師木津日子玉手見、大倭日子?友、御眞津日子訶恵志泥、後略。 日本の天皇-------神武、 綏靖、 安寧、 懿徳、 孝昭、 上表の如く、日.中.韓の古代の帝王達のお顔を並列してみると、突出しているのは、太安満呂が表意 した「カタカナ言葉」の古事記の神様だけである。他の王様達は大同小異、何れ劣らぬ「漢文」の神様達 である。これは、非常に重大な意味が感じられる。 天皇族が追称した、この「漢風諡号」の漢字は、中国帝王名の「模造品」という「感じ」を受けないで あろうか。天皇族が真に我が「祖先」を尊ぶなら、何故「カタカナ言葉」の神様の名称を敬称しないのか。 何故中国の真似までして追従するのか。「日出る国の天子」の権威が何処にあるのか。 ここにも又、天皇族は外来者である証拠を感ずるのである。 この「カタカナ言葉」の帝王こそ、天皇族以前の土着古代人(以後、代表して「カタカナ人」と呼称 したい)が、その時代の権威者達を尊崇しての「カタカナ言葉」だつたに相違無いと想像するのである。 則ち、「カタカナ人」の尊崇する「神」とは、「カミ」であり、「カミ」の一字、一字を解読すれば、 「チカラの実力」「最高のチカラを持つ太陽の本質」「天照る大ミカミ」というように、いろいろに 解釈される。これは、古代人が大自然との共生時代に、日常に感じていた自然の「チカラ」に次ぐような 「チカラの所有者」を、このように畏敬し呼称したのであろう。 この「カタカナ人」が呼称してきた「神々の名」を、稗田阿礼が大安満呂へ語り伝えたのを、安満呂は、 古事記に「表音」したということになるのである。 これらの神々は、果たして天皇族の「祖先」であるかどうかは、甚だ疑問である。 また「倭の五王」についても問題がある。この五つの倭王名は、中国名と全くといっていい程よく似て いるが、これにも天皇族は「漢風諡号」を当て嵌め様としている。この態度には、「あれもこれも自分達 の系統である」ということにしようという「意図」が感じられる。これは真実を歪めるものである。 ●以上のように「欠史時代や謎の四世紀」をみてくると、この時代は、【天皇族がその覇権の最高の状態 を維持せんがための策略(歴史資料の煙滅など)の結果生じたものである】としか思われない。