日露戦争サンクトペテルスブルグ会議に参加して
日露戦争百周年会議の概要
3月18日から21日までサンクトペテルブルグで山梨学院大学が国際交流基金の支援を受け、ロシア海軍中央博物館(分館の革命記念艦オーロラ号を含む)、ロシア科学アカデミー東洋学研究所やサンクトペツルブルグ大学の協力を得て、日露戦争百周年を記念する国際会議が開かれた。参加者は日露英中フィリピンの5カ国から約40名であった。
第1日目はロシア海軍中央博物館ホールで行われ、博物館館長E・H・コールチャーギン中将、山梨学院大学学長代理の我部政男教授の挨拶、次いで開戦前夜のセッションがコールチャーギン海軍中央博物館長の司会で、山梨学院大学教授コンスタンチン・サルキソフの「日露戦争は回避できたか?・開戦前夜の東アジア情勢」、ロンドン大学名誉教授ジャネット・ハンターの「開戦前夜の日露経済」が発表された。第2セッションの日露戦争の部は、ロンドン大学名誉教授イワン・ニッシュとサルキソフ教授の司会で、東京大学名誉教授・和田春樹の「日本における日露戦争についての研究動向」、ロシア国立公文書館長ウラジミール・ソブレフの「ワリヤーグ号とコーレッ号の受難と救助」、熊達雲(中国人・山梨学院大学教授)の「中国メディアからみた日露戦争」と、リカルド・ホセ(フィリピン大学教授)の「日露戦争とフィリピン」、我部政男教授の「写真に見る日露戦争」、ロシア海軍中央図書館研究員ウラジミール・アンドリエンコの「日露戦争下のシベリア鉄道とバイカル航路」、中央海軍博物館研究員セルゲイ・クリモフスキーの日本海軍が敷設した機雷で、旅順港外に爆沈した「ペトロパブロスク号をめぐる考察」、ロシア海軍公文書館副館長マリーナ・マレヴィンスカヤの「日記にみる日本軍のロシア人捕虜」などの論文が発表された。
第2日目のセッションは革命記念艦オーロラで私の司会で行われ、海軍博物館首席研究員コンスタンチン・グバーの「日本海海戦に於けるロシア将兵の運命」と、オーロラ艦長ゲオルギー・アブラーモフ少将の「オーロラ号と日露戦争遺族会の活動」、次いで記念艦三笠保存会副会長の沖為雄海将の「三笠の歴史と三笠を通じた日露交流の現状」が紹介された。元海上自衛官として特に共感と同情を覚えたのは、グバー氏の「日本海海戦に於けるロシア将兵の運命」であった。バルチック艦隊には約1000名の士官が乗艦していたが、病気などで死亡あるいは病院船に移され、あるいは補給艦艇乗組のため上海などに回航され、日本海海戦に参加した士官は668名であった。そして、海戦に参加した士官の3分の1の213名が戦死し、2分の1弱の297名が捕虜となった。生存者や捕虜となった455名は帰国後に再び軍務に帰したが、3―4年後には127名が負傷や病気で海軍を去った。残りの士官は第一次世界大戦で再び戦ったが、大戦後期に革命が起きると、貴族など上流社会出身者の多い海軍士官は、白軍としてレーニンの革命軍と戦った者が多かった。このため革命政権が樹立されると、ロジェストウェンスキー中将など106名が国外に亡命し、さらに残った士官も1938年から39年の粛軍により20名が粛清されたという。同じく祖国を愛し第二次世界大戦を戦い、敗戦後に公職追放令を受けて職を失った父を持つ私には、ロシア海軍士官の苦難の歴史が自身の体験と重なるだけに胸の痛む報告であった。次いでポーツマス講和のセッションはサルキソフ教授の司会で、イアン・ニッシュの「講和条約の励行 1905年11月―12月の北京会議」、法政大学教授・下斗米伸夫の「ポーツマス講和 戦後における日露関係 1905―1917年」の論文が発表された。

午後には本会議で最も注目されていたオーロラ号艦長アブラーモフ少将と記念艦三笠保存会代表沖海将のスピーチと記念品の交換が、また、日露戦争で戦没した遺族や捕虜の子孫の代表、さらにはバルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー中将の祖孫ジノビー・スペチンスキー兄妹と、東郷平八郎元帥の祖孫の保坂宗子夫妻と、日露戦争百年後に祖孫同士の歴史的和解の握手があった。それが終わると日本側代表団は、サンクトペテルブルグ大学に移動し、日本語を学んでいる学生を対象に保坂氏が「ロシアと日本を結ぶ心」の講演を行った。最後の会議は社会思想史博物館(旧レーニン革命記念館)の錦絵的な絵画(戦意高揚のための絵・写真参照)の特別展示室で行われたが、自国の勝利を誇張する絵画が多く、題材や表現など「日本と変わらない」との印象を受けた。ここでの会議は日露戦争が与えたインパクトを中心に山梨学院大学助教授・小菅信子の司会で、私が「日露戦争の世界史的意義 アジア主義・共産主義・モンロー主義の百年」、東京女子大学教授・黒沢文貴の「戦勝のインパクト 国際環境の変化と日本の軍部」、山梨学院大学教授・山本武彦の「日露戦争と日本の民衆・戦勝がもたらしたもの」が発表された。
私は日露戦争の日本の勝利がアジアやアラブ民族に人種平等、民族国家独立の夢を与えたが日本は敗北した。しかし、引き続いて米ソ対立の冷戦が始まると、ソ連が日本が掲げた民族国家独立運動を支援し、アジア・アフリカに多数の有色人種の国々を独立させたと、共産党独裁による内乱や反対派の弾圧や亡命などには触れず、外交的配慮を加えて日ソ関係100年の歴史を総括し結んだ。次のセッションでは「過去の教訓と未来への展望」をテーマーに、ロシア科学アカデミー東洋研究所コンスタンチン・ジュジューコフの「エミール・デイロン、ジョージ・ケナンの日露関係」、サルキソフ教授の「21世紀における日露関係の新地平」が、また、ケンブリッジ大学講師フィリップ・トウルの「ポーツマス講和再考」が発表された。そして、最後に保坂宗子氏による「曽祖父の行き方と私」、小菅信子助教授の「グローバル化時代の日露和解」の発表があり、最後に帰国早々のパノフ元駐日大使の「日露関係の現状と将来」に関する講演があり会議は終わった。
会議に参加しての所見
この国際会議の特徴は単に学者による論文の発表や討議にとどまらず、日露の和解を前面に東郷元帥の祖孫である保坂宗子氏、記念艦三笠副会長の沖為雄氏などを加え、「日ソ和解」の各種の行事が会議と平行して行われ、それがこの会議の「日露和解」の深化という目的を大きく前進させたことである。ロシア海軍も海軍中央博物館では日露戦争百周年を記念した特別展示を行い、遺族や捕虜の子孫、特にロジェストウエンスキー中将の子孫も出席した。われわれも会議終了翌日に日露戦争で戦死したロシア将兵を祀るニコライ教会(日露戦争の戦死者のために1907年に建立)の慰霊追悼ミサに参加し、また、海戦で沈没し生存者が殆どなかった戦艦アレクサンドル三世号慰霊碑に献花した。ミサはニコライ教会の大司教が執り行い聖歌隊が合唱するなど荘厳に行われ、ミサ終了後に大司教が保坂氏にロシア式の親愛の頬付けを行うなど親愛の情を示した。

また、この会議にロシア側がいかに関心と熱意を示したかは、海軍中央博物館、記念館オーロラ号、社会思想史博物館、サンクトペテルブルグ大学などが協賛し、それらの機関を順番に廻って会議や行事が行われたことからも理解できるであろう。このように、この会議は日露親善に大きく寄与した。しかし、詳細に見てみると助成を受けたプロジェクトが「ポーツマス講和百周年・地政学地代の教訓と将来」と、日本側が学術交流と日ソ親善を第1とし、ロシア側は「不名誉な海戦」と位置づける日本海海戦に触れることを避け、ロシア海軍中央博物館の展示も、記念写真集も『日露戦争と旅順のロシア海軍の戦闘(写真)』と旅順を中心とするものであった。未だロシア海軍には日本海海戦を歴史の中に入れるのには抵抗があるのかもしれない。
しかし、歴史を通した日ソ関係の和解と親善の深化を求めるならば、会議で日露戦争だけでなく、第二世界大戦末期のソ連の不法な対日参戦や、国際法に違反して62万人もの兵士を長期間抑留し、6万2000人が生命を失い、未だ1万3000人の死亡も確認されていないシベリア抑留の悲劇や、日本が降伏文書に調印後にも進撃を続け、ソ連軍が停戦したのは固有領土の国後島や択捉島を占領した9月5日であった事実などにも触れるべきではなかったか。しかし、日ソの和解を重視したため日露双方に、そのような雰囲気はなかった。最後のセッションでパノフ元大使が、沖縄の米軍基地はアジアの平和に有害であり、日本は米国から自主し国境を接する日中ソなどの近隣諸国との親善を重視すべきである。日露間には平和条約も締結できず領土問題もあるが平穏である。しかし、親密ではないと締めくくったが、これが日ソ関係の現実かも知れない。
しかし、この会議が行われていたときにモスクワでは、知られざる自国の暗い歴史の一部を学んで未来に役立てようと、国立東洋学研究所の学生が「シベリア抑留写真展」を開催していた。また、サンクトペテルブルグ大学の講演後に、日本語を勉強するようになった動機を尋ねたところ、11名の学生中30名が日本に住んだり、日本を訪問したことを挙げた。このようなことから、日露の市民レベルの交流が広がり深まれば、日ソの真の理解が進み和解へと連なるかも知れない。また、それを願って筆を置きたい。