四谷は古い歴史を誇るまちです。
随所に先人たちの息吹が感じられる遺産が横たわっています。
四 谷 散 歩
一緒に「わがまち四谷」を散歩しましょう !
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
私は、この四谷のまちが大好きです。時代を超えてこの町の人たちが受け継いできた
さまざまな寺社や旧跡、横丁や坂道、伝承や風俗、そして歴史や文化を大切に守り、次
の世代に残していかなければならないと思っています。
そこで、「わがまち・よつや」を多くの人にもっと知っていただくために、このまち
に関することについて、今後、順次、紹介します。皆さんがよく知っていることもあり
ますし、必ずしも知られていないこともありますが、とりあえず次ぎのことについて紹
介します。徐々に充実していきますので、時々、開けてみてください。
( 山田 敏行 )
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
戒行寺の「鬼の平蔵・供養乃碑」、
人足寄場で先進的な社会救援策。
( 2009 年 7 月 25 日・記入 )
日蓮宗の妙典山・戒行寺は、須賀町9番地の油揚坂(戒行寺坂)上の北側にある。瀟洒なたたず
まいの寺である。文禄4年(1595)に麹町8丁目に創建され、寛永11年(1634)江戸城拡
張のために当地に移ってきた。
開山は玉泉院日養上人である。麹町堀端にあった小庵を隣に住んでいた宮里作兵衛と協力して一
寺にした。開基の宮里氏の法名・妙典開運経日珠から妙典の2字を取って寺の山号にしている。
現在の戒行寺住職の 星 弘道氏は日本書作院理事長で「現代書道二十人展」の一員。日展審査員も
勤める日本書道界の大御所である。
さて、この寺の墓地は杉並区堀之内にあるが、その中には池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』で有
名な「火付盗賊改め」を勤めた鬼の平蔵・長谷川平蔵宣以(のぶため)と墓と思われる長谷川家の墓
地がある。
平蔵は延享3年(1746)江戸本所で産まれた。父は幕府の御先手組(おさきてぐみ)弓頭で、
後に京都町奉行まで出世した男である。平蔵は妾服だったが正妻に子どもがなかっため、父の死後
家督を継ぎ、安永3年(1774)39歳の時、西の丸書院番になり、続いて進物番、西の丸御徒頭
を歴任、天明6年(1786)には父親がかつて務めていた御先手組頭に任じられた。
御先手組とは、将軍直属の親衛隊(戦闘部隊)で江戸城本丸諸門の警備や将軍が外出するときに
部隊の先陣を務めることを任務としていた。重大事件が発生した時には、町奉行方の応援に参じる
こともあったという。
「四ツ谷絵図」では、御先手組の屋敷は四谷御門から内藤新宿に至る甲州街道(新宿通り)の両
脇に点在し、また、池波正太郎の小説では、平蔵は九段付近、部下の与力や同心が住む長屋は四谷
坂町一帯になっている。
平蔵は、御先手組頭と兼務で「火付盗賊改め」を命じられた。時まさに天明の大飢饉による「打
ち壊し」が始まった時期であった。当時の江戸には浪人や無宿者などの犯罪予備軍が集まり、盗み
のやり方も次第に「殺して奪う」から「火をつけて盗む」というように変わってきていた。そのた
め、警察役の町奉行とは別に、刑事専門の「火付盗賊改め」を設け、町を巡回して常に情報を集め
ながら犯罪者の取締りを行ったのである。
平蔵は火付盗賊改めに9年間在職し、盗賊の摘発や犯罪の防止に多くの功績を残した。なかでも
「人足寄場」は、平蔵が犯罪者を扱った経験に基づき、時の老中・松平定信に建議して設置したも
ので、犯罪の再発防止に多いに役立ったと言われている。
この施設は、飢饉などによる無宿者や刑期を終了した犯罪者を一定期間収容し、職業訓練などを
して、更生を図ることを目的にしたものであった。この先進的な社会救済策によ
って、江戸の犯罪は減少し、治安は回復して
いったという。
人足寄場が作られたのは中央区佃島付近で、昔は石川島と呼ばれていた。現在、住吉神社と佃公
園の間に残る塀にその面影を偲ぶことができる。塀は石川島と佃島の境界だった。
平蔵は現職に在任中の寛政7年(1795)僅か50歳の若さで世を去った。
平蔵の菩提寺・戒行寺の正門入ってすぐ右側の境内には、二百年忌の平成7年(1995)に建
立された「長谷川平蔵宣以供養乃碑」がある。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
新宿二丁目の 「耕牧舎牧場」 、
芥川龍之介はここに住んでいた。
( 2009 年 5 月 25 日・記入 )
靖国通りを新宿駅方面に向かい成覚寺前を過ぎるとすぐに信号がある。それを左折して進むと新
宿通りに出るが、この辺りには、明治21年の頃から芥川龍之介の実父・新原敏三が経営していた
「耕牧舎」という牧場があり、一帯は「牛屋が原」と呼ばれていた。
この「耕牧舎」の所在地は内藤新宿2丁目71番地だが、母方の芥川家に引き取られていた龍之
介一家は、1910年(明治43年)秋にこの場所に移転して来た。その後4年間、龍之介一家は
ここに住んでいたことになっている。龍之介19歳から22歳の多感な時期である。
しかし、一家が内藤新宿に転居した後、龍之介は在学していた一高の方針に従って本郷寮に一年
間入寮した。このため彼がどの程度実家のある内藤新宿で過ごしたのかは必ずしも定かではない。
この四年の間に龍之介は好成績で一高を卒業して東大に進学するが、一高同期の久米正雄や菊池寛
などと交流を結び、創作意欲を醸成させていった。菊池寛、山本有三、土屋文明などと第三次「新
思潮」を発刊したものこの時期である。
実父が経営し、養家の芥川一家が住んでいた「耕牧舎」は、動物や糞尿の臭気が漂い環境に良く
ないということで大正2年、警視庁令で廃止させられた。こうしたこともあり、龍之介一家は四年
後の1914年(大正3年)10月、滝野川の田端に転居することになる。
龍之介が友人を介して早稲田南町の漱石山房で開かれた漱石門下生の集まりである「木曜会」に
出席したのは新宿から転居しておよそ一年後のことである。その2カ月後、龍之介は「第四次・新
思潮」の創刊号に『鼻』を発表したが、この作品は師と仰ぐ漱石の激賞を受けることになる。これ
が龍之介の文壇デビューの最大の契機になったことはよく知られている。
田端に移った龍之介は、代表作の『芋粥』『蜘蛛の糸』『地獄変』『杜子春』『河童』などの作
品を次々と発表した。
しかし、一方では神経衰弱や腸カタルなどを患い、義兄の自殺や彼が残した借金の苦労などもあ
り、ついに1927年7月24日、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という有名な言葉を
残し、致死量の睡眠薬(異説もある)を服毒して僅か35歳で他界することになる。独特の文才で
新たな領域を切り開いてきた才気溢れる青年作家のあまりにも早すぎる死、惜しんでも惜しみきれ
ない死であった。
一方、「耕牧舎」がなくなった後の内藤新宿2丁目一帯には、1921年(大正10年)3月、
遊郭がつくられた。
当時、靖国通りの南側の新宿通りの両側には遊女屋が並び、繁盛していたが都市の体裁上、こう
した町の配置状況は好ましくないということで、警視庁から耕牧舎跡地一帯に移転するよう命令が
出された。当時の皇太子(後の昭和天皇)の通学路に当たっていたための処置とも言われている。
折しも大正9年、新宿通りの北裏側から花園町にかけての約650余戸を焼け尽くした新宿最大
の大火によって、通り南側の遊女屋十数軒などが焼失した。こうしたこともあり、遊女屋は警視庁
の命令期限までに全部内藤新宿2丁目一帯への移転を完了した。戦後は「赤線区域」などとも言わ
れたが、1959年(昭和34年)3月、売春防止法の発効で全ての遊女屋が廃業するまで、新宿
二丁目では40年近くにわたって営業が続けられた。
この地域が刻んできた独特の流れを受け継いでいるのか今も「新宿2丁目」は特異な雰囲気を持
つ町として有名である。
かつて芥川龍之介の父・新原敏三が「耕牧舎」という牧場を営んでいた町、龍之介も青春の一時
期をここで過ごし、文壇への助走をつちかった町、そして年端のいかない遊女たちが身の上の悲し
さに涙を流し、その遊女のいのちの成り代わりの旭地蔵がいまも凜として鎮座する町。
新宿二丁目は、芥川龍之介が住んでいた時代から今日まで、さまざまな世相を映し出して今に至
っているのである。
(本稿は、芳賀善次郎著『新宿の散歩道』を参考にした)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
文明開化期の面影が漂う
新宿区の表玄関・四谷見附橋。
( 2009 年 5 月 10 日・記入 )
外堀を跨ぐ「四谷見附橋」は、皇居方面から新宿区に入る東の玄関部分に当たる。現在の四谷見
附橋は、20年余り前に架け替えられ二代目になる。
都内最古の陸橋として愛された初代の四谷見附橋は、明治44年(1911)から大正2年(1
913)にかけて建設された。橋の長さは22、8間(41、5㍍)、幅12間(21、8㍍)、
構造設計は樺山正義、装飾設計は田島儕造が行った。二人とも新進気鋭の技術者であった。
四谷見附橋の南側には、日本橋とほぼ同時期に造られたネオバロック様式の赤坂離宮(現在の迎
賓館)がある。橋の華麗な装飾は、このように周辺環境を意識して施されたのである。
初代の四谷見附橋は、文明開化期の貴重な文化遺産と言われた。
橋を側面から見ると鋼構造のアーチから15本の支柱が上部の道路面を支え、その支柱の柱間と
対応して高欄にはイオニヤ式の間柱があり、中央部に橋名板が付設された。橋名板が橋の真ん中に
あるのは今でも珍しい。幾つものランプを組み合わせた背の高い橋灯、花崗岩を使った橋詰の装飾、
矛と花輪を細かく細工した青銅製の高欄、曲線が美しい橋詰やその下の橋台の赤レンガの壁面など
多くの特徴を持っている。このような優美な姿で、長い間、四谷の玄関口を飾っていたのである。
開橋式は大正2年10月5日に盛大に挙行された。
明治天皇崩御の喪があけ、それまで沈んでいた世相を吹き飛ばすかのように橋詰には大緑門が設
けられ、また沿道には紅白の幕、橋上には万国旗が取り付けられ、神楽などの余興も盛況を極めた
という。当時の麹町、四谷両区の関係者の心意気が伝わってくるような気がするが、これには2年
前(1991年)に行われた日本橋の開橋式に対する対抗心もあったのかも知れない。
このように多くの人から愛された初代の四谷見附橋も新宿通りの拡張と老朽化のために架け替え
られることになった。当時、貴重なこの歴史的な名橋を保存すべきだという声も高まり、特に土木
関係者からは解体を惜しむ声が上がった。貴重な文化遺産に対する称賛の声でもあった。私も保存
運動の一翼を担ったが、残念ながら最終的には解体され、一部は八王子南部の多摩ニュータウンの
公園に移設された。四谷見附橋は、ここでは「長池見附橋」と名前を変えて余生を送っている。
日本最古のアーチ橋はこのような歴史を辿り、その姿を僅かに今も留めているのである。
二代目の四谷見附橋は、1987年から1991年に掛けて架け替え工事が行われた。橋の長さ
は初代よりも7、2㍍長く、幅は16、9㍍広くなっている。歩道と車道の間にある背の高い照明
灯は以前はなかった。幅員が大きく広がったために新しく造られたものである。親柱、橋灯、高欄
などは復元されたり修復して再利用されたりしている。橋名板や高欄の複雑な飾りは、型を取り新
しく鋳造されたものだというが、基本的な橋の形は初代の優雅な姿を二代目も引き継いでいる。
現在のJR四ツ谷駅が開通したのは明治27年(1894)である。初代の四谷見附橋が竣工す
る19年前のことになる。
四ツ谷駅北口の坂を上りきった所に自然石の石碑があって、次のような歌が刻まれている。
「たれもみなこのころにてここかしこ、けしきをそえてさかえさせばや」
これは、四谷在住の国文学者で歌人の福羽美静が周辺の土手に植えられた桜を詠んだもので、明
治33年(1900)に建立されたものである。
(本稿では、安本直弘著『四谷散歩』、神永義彦著『四谷見附橋』、ホームページ『四谷見附橋』を参考にした)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
大正時代、新宿・中村屋には
多くの文化人が集っていた。
( 2009 年 5 月 10 日・記入 )
新宿駅東口にある中村屋は、新宿を代表する有名店の一つだが、いつも沢山のお客さんで混んで
る。特に名物料理の「純インド式カリー」
(中村屋ではカレーではなくカリーと命名)は根強い人気を
博し、地方からわざわざ食べに来る客も多いという。
この中村屋の創業者は、相馬愛蔵・黒光夫妻である。「己が生涯を通じて、文化国家に貢献した
い」という気持ちの相馬夫妻の元には、大正時代、多くの芸術家たちが集った。
創業者の相馬夫妻を中心に中村屋で繰り広げられた芸術家たちの交友の世界は、いつしか「中村
屋サロン」と呼ばれるようになった。
中村屋サロンは、実に多彩な人たちで彩られている。その代表的な人材は、画家の中村 彝(つ
ね)、彫刻家の萩原碌山、盲目の詩人と言われたロシアのエロシェンコ、インドの革命運動家のラ
ス・ビバリー・ボース等である。
洋画家の中村彝は、明治40年、21歳の時に相馬夫妻の援助を受け、店の裏にあるアトリエに
住み込んだ。そして大正3年、夫妻の長女・俊子をモデルにして描いた「少女」が文展に入選し、
画壇に登場した。その後、落合に自分のアトリエを構え、名作の「エロシェンコ像」を描き、国際
的にも評価されるようになった。しかし、大正13年、持病の結核が悪化し、吐血して一人寂しく
死んでいった。享年31歳という若さであった。全く惜しいというしかない。彝の落合アトリエは現
存しており、これまで新宿区議会でも、度々、保存の必要性が提起されている。
彫刻家の萩原碌山は、明治12年、相馬愛蔵と同じ長野県安曇野で生まれた。相馬黒光によって
芸術に対する眼を開かれた碌山は、最初、洋画の道を歩んだが、フランスに遊学してロダンの影響
を受け、近代彫刻の礎を築いた記念碑的作品「坑夫」を制作した。
帰国後は中村屋奥のアトリエで創作活動に励み、「文覚」「デスペア」などを発表、明治43年
には日本の近代彫刻史上最高傑作と言われる「女」制作された。しかし、熱心な創作活動で魂を擦
り減らしたのか、碌山は突如喀血し、明治43年4月20日、帰らぬ人となった。まだ32歳、惜
しみ切れない若い死であった。
盲目の詩人・エロシェンコは日本の盲学校で学ぶため大正4年に来日し、ある新聞記者の紹介で
相馬夫妻と知り合った。ロシア革命で学資の仕送りが止まり、更にスパイ容疑で国外退去命令が出
され、中村屋も捜索を受けた。相馬夫妻は警察の態度に憤慨し、当時の淀橋署長を「家宅侵入罪」
で告訴した。その結果、署長は辞任に追い込まれたという。
エロシェンコはその後、中国に渡り魯迅らと親交を結び、大正12年にソ連に帰国した。
エロシェンコの姿は、彝や鶴田吾郎の絵で私たちにもなじみが深い。鶴田の「盲目のエロシェン
コ」は中村屋に展示されている。
革命運動家ボースは、大正4年、当時イギリス領だったインドから日本に亡命して来た。日本政
府はイギリスの抗議を受け、国外退去命令を出したため、相馬夫妻は彼をアトリエにかくまって世
話をし続けた。その後もボースに対する日本政府、イギリス政府の追及が続き、十数回も隠れ家を
移り住む生活をしたが、この間、彼と行動を共にした連絡役の相馬夫妻の長女俊子と大正7年に結
婚した。第一次世界大戦が終わった同年、日本への帰化が認められ、彼は自由の身になったが、妻
の俊子は長く厳しかった地下生活で体を蝕まれたためか大正14年に夫と二児を残して僅か28歳
の若さで世を去った。
ボースは、その後もインドの独立運動に邁進したが、昭和20年1月、母国インドの独立を見る
こともなく亡くなり、二人の長男正秀もこの年の6月、沖縄の悲惨な戦いで戦死した。
相馬家に強い愛情と感謝の気持ちを抱いていたボースは、昭和2年、中村屋の喫茶部の開設時に
「インド式カリー」を店の名物料理として提供しようと提案した。発売当時は強烈な香りなどで敬
遠されたりしたが、その後改良が進み、売上も伸びた。当時の一般カレーは10銭から12銭だっ
たが、中村屋のカリーは80銭。それでも飛ぶように売れたという。
(本稿では、安本直弘著『四谷散歩』、中村屋のホームページを参考にした)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
社会主義運動の先駆者・堺 利彦の
「売文社」は四谷で産声を上げた。
( 2009 年 3 月 10 日・記入 )
須賀神社の男坂を上がり、まっすぐ進んだ右側に勝興寺の庫裡がある。ここはわが国の社会主義
運動の草分けの一人、堺利彦が明治42年9月から一年間住んだところで、初めて「売文社」とい
う変わった名前の看板を掲げた場所である。
堺は福岡県の出身で号を枯川といい、当時の革新系新聞「万朝報」の記者をしていた。明治36
年、社の方針が日露戦争開戦論に傾いたため、幸徳秋水らと共に万朝報と決別し、平民社を設立し
て「平民新聞」を発行し、わが国社会主義運動の中心的な存在になった。
ところが、日露戦争の開戦を契機として官憲による社会主義者への弾圧は激しくなり、明治41
年の「赤旗事件」により、堺は大杉栄、荒畑寒村らと共に投獄され、2年の刑を受けた。堺が獄中
にあった明治43年、いわゆる「大逆事件」によって幸徳秋水ら26名が起訴され、社会主義運動
は壊滅的な打撃を受けた。同年9月、刑期を終えて出獄した堺は、自分の生計と獄中の同志家族の
生活援助のため、ここ須賀町に文章の代作や翻訳などを請け負う「売文社」を設立したのだった。
「営業案内」は次のようになっている。
◎本社の営業種目は凡そ左のごとし
(イ) 新聞、雑誌、書籍の原稿製作。
(ロ) 英・仏・独語、その他外国語の和訳。
(ハ) 和文の外国語訳(英・仏・独訳等)
(ニ) 演説、講義、談話等の筆記。
(ホ) 趣意書、意見書、報告書、祝辞、祝文、
広告文、書簡文、其他一切の文章の立案、代作、および添削等。
この当時の状況を、堺の長女・近藤真柄は次のように書いている。
「明治44年、私が数え年9歳、当時四谷区南寺町6番地、天王さんと呼ばれていた須賀神社の
石段50幾つかを登って、前進して右側、お寺にくっついて建っている家が売文社という看板を初
めてかかげた父の家であった。
四角いガス灯のガラスに「堺」と書き、その下の門柱に「売文社」の木札があり、その横に私ど
も親子3人が立っている写真がある。
父は確か古着屋で買ったと聞いている黒紋付の羽織を着、母も空巣に全部とられて、着ていたた
めに残ったというすべすべした布地の糸織りの着物に紋付の羽織を着、私は七五三の祝いに本来な
ら本裁ちの長袖であるべきものを、紫銘仙の矢絣の元禄袖の着物に加藤のおばさまに作って頂いた
紫紺の紋羽二重にダリア模様の被布を着ている。いずれも一張羅を着込んだ親子三人初の写真であ
る」。
売文社は明治44年9月、左門町九番地(現在の柳澤歯科医院)に移転した。ここでは少し大き
い「売文社」と「英独仏語教授」の看板を掲げたという。当時の朝日新聞に格安で広告も出したら
しい。次のような堺の文章もある。
「広告というのはエライもので、売文社は一月一日からお客があった。イの一番は帝国大学の学
生さんで、英文倫理学書の一部分を反訳せようと言ふのであった。二番さんは或る出版社で、これ
は独逸文の写真の絵解きを反訳せよと言ふのであった。それから或友人の御世話で耶蘇教の女学校
の卒業論文の代作もやった。或る地方から短編小説の代作や小学校新築落成の祝辞の注文も来た」
更に一年少し後の大正元年12月に売文社は須賀町四番地(丸正総本店東側)に移った。当時の
様子を堺はこうも書いている。
「小生の家の前には昼夜とも警察のお役人が張番をして下さる。そして外出する小生と来訪の方
々とを尾行をなさる。それがために人様に御迷惑を掛けるのは、誠に御気の毒に堪えぬ心地がする。
然し政府でも、営業の妨害は決してせぬと言ふ御趣旨で、単に売文社の営業上の関係として小生と
往来なさる方々に対しては、勿論何のお構ひも無いと言ふ事ですから、其辺は何卒御安心願上升」
社会主義者・堺利彦の「売文社」は、昼夜、警察の監視を受けながらも評判は上々で、結構繁盛
していたようである。
本稿は安本直弘著『四谷散歩』をベースにし、近藤真柄氏の
『随想』などを参考にして作成したものである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
日本の近代史に燦然と輝く
「西念寺横丁」の女性たち
( 2008 年 10 月 10 日・記入 )
四谷駅から新宿通りを四谷三丁目方面に向かい、三本目の路地を南に入る道を「西念寺横丁」と
いう。この横丁の突き当りは西念寺という服部半蔵ゆかりの名刹だが、手前の西側一角は、山崎朋
子の著書『あめゆきさんの歌』によって数奇な生涯が広く紹介され話題になった評論家・山田わか
の旧居があった所である。
わかは明治12年(1879)に横須賀市久里浜に生まれ、小学校四年まで首席を通したが、進
学させてもらえず、僅か16歳で結婚した。しかし、折り合いが悪かった婚家を飛び出し、ある女
性の紹介を得て、一攫千金を夢見て渡米したが、女性の共謀者によって娼婦として売り飛ばされて
しまった。
その後、シアトルの日本人新聞記者の手引きによって娼館の脱出に成功したわかは、サンフラン
シスコの山田英学塾に落ち着いた。この塾の教師が、わかを指導し、著名な評論家まで導いた終生
の伴侶・山田嘉吉だった。
明治39年(1906)、帰国した嘉吉・わか夫妻は南伊賀町の西念寺横丁に居を構えた。帰国
後わかは「青鞜」の一員としてデビュー、翻訳・小説・評論などを次々と発表した。更に、朝日新
聞の「女性相談欄」も担当したことで、その知名度は不動のものになった。
およそ女性としての苦しみの限りを知り尽くした彼女だったからこそ大衆の奥底に触れた回答を
出すことができ、その考えが多くの女性から支持されたものと思われる。
山田わか夫妻が住んでいた家の裏には、大正4年(1915)から5年にかけて婦人運動家の平
塚らいてうが住んでいた。らいてうは明治19年(1886)2月、麹町区三番町の高級官僚の三
女として生まれた。知的で豊かな家庭に育ち、当時としては最高のエリート女性であった。
しかし、彼女は勉学の中で既成道徳や家族制度に疑問を持ち、知的水準の優位を背景に次々と実
験的な行動を続けた。
明治41年(1908)2月には、漱石山房に出入りしていた小説家の森田草平との心中未遂事
件(塩原事件)により警官に逮捕された。この事件を契機に、らいてうは「青鞜」を発刊し、自ら
『元始、女性は太陽だった』を発表した。そして大正3年(1914)には、5歳年下の画家・奥
村博史と戸籍は別のまま結婚した。「若いツバメ」の流行語のもとになったと言われている。
当時、山田嘉吉について社会学を学んでいたらいてうは、小石川から西念寺横丁に移って来たが、
その時の様子は『自伝』に記されている。らいてふが住んだのは嘉吉の弟の持ち家だったようだ。
すぐ後ろには大杉栄と別居した堀保子もいたと記述されている。らいてうの長女が生まれたのもこ
こ西念寺横丁である。
らいてうは大正5年2月、奥村の療養先の茅ヶ崎に移転したが、その後、『婦人公論』で与謝野
晶子と「母性保護論争」を展開、山川菊栄や山田わかもこれに加わり、一大論争に発展した。大正
7年には女性の政治的・社会的地位や自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として「新婦
人協会」を設立した。
戦時中には侵略戦争に反対し、戦後は、再軍備反対、核兵器廃絶などの活発な運動を続けた。
らいてうの死は昭和46年(1971)5月24日。享年85歳であった。
なお、この横丁の川島薪炭店には、一時、市川房枝が住んでいた。また、主婦連会長として活躍
した奥むめおの旧居も西念寺のすぐ南側である。
「西念寺横丁」には、日本の近代女性史に燦然と輝く人材が時を同じくして住んでいたのである。
【 本稿は、安本直弘著『四谷散歩』をベースに若干加筆したものである 】
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
大京町で偉大な生涯を閉じた
アララギ派の巨匠・斉藤茂吉
( 2008 年 8 月 10 日・記入 )
四谷四丁目交差点から千駄ケ谷駅方面に向かって50メートルぐらいの先の左側に「PJビル」
という建物がある。20数年前、ここには「斎藤神経科」という病院があった。この場所こそ歌人
でアララギ派の巨匠と謳われた歌人・斎藤茂吉の終焉の地である。
茂吉は、1882年(明治15年)5月14日、山形県南村山郡堀田村大字金瓶(現在の山形県
上山市)の農業、守谷伝右衛門の三男として生まれた。小学校の頃から成績がよく、特に絵画や習
字が好きで、当時は画家になろうと考えたこともあった。高等小学校に進んだ頃、守谷家の親戚で
浅草で医院を営む斎藤紀一の勧めで医者になることを決意し、上京した。
開成中学校を経て旧制一高に入学した茂吉は、新しい交友関係の中から文学に開眼していった。
『新声』や『明星』などの文学雑誌を読みあさり、鴎外や露伴の作品にも接するようになった。一
高から東京帝大に進む頃、正岡子規の『竹の里歌』を読んで短歌に魅せられ、1906年(明治3
9年)、歌人の伊藤左千夫を訪ね、その門下生になった。
その年、茂吉がつくった短歌5首が、当時、左千夫が編集していた『馬酔木』に初めて掲載され
た。08年には『馬酔木』に代わって創刊された句誌の『アララギ』を中心に多くの作品を次々と
発表し、また、茂吉は本の編集も手掛けるようになった。
しかし、茂吉はその後、島木赤彦、古泉千樫、中村憲吉らと組み、また、前田夕暮、北原白秋ら
と交わりながら新風を目指し、左千夫との間に激しい対立を生む至った。
千夫は1913年に急逝するが、この年、茂吉の名前を不動のものにした歌集『赤光』が刊行さ
れた。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐてたらちねの母は死にたまふなり
などは、教科書にも取り上げられ、茂吉の代表作として広く知られている歌である。
一方、医師としての茂吉は、1905年、東京帝大に入学すると同時に斎藤紀一の婿養子になり、
帝大を卒業した後は、東京府巣鴨病院に勤務し、県立長崎病院精神科部長も歴任した。また、22
年から25年にかけて精神学研究のためにヨーロッパを外遊し、医学博士号を取得した。そして2
7年、養父の斎藤紀一の後を継いで茂吉は青山病院の院長に就任した。『ともしび』はこの頃の作
品である。
第二次大戦下、茂吉は戦意高揚の歌を盛んに発表した。敗戦によって深刻な打撃を受けたが、そ
の時期の作品には沈痛なものが多い。
1947年11月、茂吉は東京戻り、最後の歌集となった『つきかげ』(54年刊行)の時代が
始まる。50年、茂吉は終焉後の新宿区大京町に移った。翌年51年には文化勲章を受賞した。し
かし、この頃から体力の衰えが著しく、53年2月20日、心臓喘息のために大京町の自宅で永眠
した。終焉の地のビルの一角にはめ込まれたプレートが次のように書かれている。
新宿の大京町といふとおり わが足よわりて住みつかんとす
父斎藤茂吉は、空襲で南青山の自宅を喪ったあと、昭和25年11月
14日、この場所の新居に住み、昭和28年2月25日に没した。
右の歌は、最後の歌集『つきかげ』に収められている。
平成元年十一月 斎藤茂太
茂吉が文学と医学の両道を極めたように、家族も多彩な活動をしている。養父の紀一は医師と政
治家、茂吉の長男茂太は医師で著述家、次男の北 杜夫も著名な作家であり、医者でもある。
【 本稿は、安本直弘著『四谷散歩』をベースにし、その他の文献を参考にして若干加筆したものである 】
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
近代日本文学の先駆者
二葉亭四迷は、四谷の住民だった。
( 2008 年 6 月 10 日・記入 )
二葉亭四迷の『浮雲』は、日本の近代小説の先駆けと言われている。写実主義の描写と言文一致
の文体で書かれたこの先駆的な小説は、1887年から91年にかけて発表されたが、当時の文学
関係者に大きな衝撃と影響を与えた。
二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助という。名古屋藩士・長谷川吉數と志津の一人っ子として元治
元年(1864)2月28日、江戸市ケ谷合羽坂の尾張藩上屋敷で生まれた。五歳の時に母の実家
がある名古屋に移り住み、そこで漢学とフランス語を学んだ。明治8年(1875)、父の仕事の
で関係で松江に移動、ここでも漢学を修学した。明治11年(1879)、15歳の時に、松江から
東京に出て祖母と共に四谷左門町に住んだ。2年後の明治13年7月頃、四谷伝馬町一丁目14番
地の水野市之助(父吉數の実父茂三郎の養子)方に止宿した。ここは今の四谷一丁目13番地で、
四谷中学校校庭の西側に当たる一角である。
現在、この場所は「二葉亭四迷の旧居跡」として平成3年12月に新宿区の史跡に指定されてお
り、「説明板」が設置されている。
この年、四迷は陸軍士官学校の入学試験を三度も受けたが、いずれも不合格となった。翌年、東
京外語学校露語科に入学、給費生に選抜され、寄宿舎に入った。
明治19年1月、四迷は坪内逍遥を訪ね、逍遥の勧めで『小説総論』を発表した。翌明治20年
(1887)、『浮雲』を第一編を坪内雄蔵名義(逍遥の本名)で刊行し、その「はしがき」で初め
て「二葉亭四迷」と号した。
この変わった筆名は、彼が小説を書くようになった時、父が怒って「そんな奴は、くたばってし
まえ! 」と叱ったので、これは面白いと思ってそのまま筆名にしたと言われているが、自分で自分
をあざけって名乗ったという説もあり、真相はつまびらかではない。
四迷は、非常にロシヤ語が堪能でツルゲーネフの『めぐりあひ』や『あいびき』などを翻訳し、
その作品は当時の多くの人に感銘を与えた。
明治22年(1889)、外字新聞の翻訳者として内閣官房局に入った。社会主義にも関心を持ち、
貧民救済のため貧民街に出入りし、その時に出会った娼婦が最初の妻の福井つねである。明治30
年には内閣官房局を辞した。
その後、再び筆を取り始め、明治33年には東京外語学校教授になった。その後、ハルピンや北
京で渡ったりしたが、明治37年(1904)、大坂朝日新聞東京出張員となり、旺盛な文筆活動
をするようになった。明治39年には『其面影』、翌年には『平凡』の連載を開始した。共に四迷
の代表作である。
明治41年(1908)6月、朝日新聞のロシア特派員として日本を出発、7月にモスクワ、ペ
テルブルグに到着した。しかし、この頃、神経衰弱になり、翌年初めには肺炎・肺結核になった。
帰国することになり、4月5日、ペテルブルグを出発した。9日にロンドン到着し、17日マルセ
イユ、22日ポートサイド、5月6日コロンボと航海は順調だったが、船内で重体、危篤になり、
ついに明治42年5月10日午後5時15分、インド洋上のベンガル湾上でついに帰らぬ人となっ
た。まだ46歳という若さであった。
翌年、朝日新聞から二葉亭四迷の全集が刊行された。その校閲は当時朝日新聞で働いていた石川
啄木が行った。
四迷は、日本の近代文学史に燦然と輝く影響を与えたが、「文学的な理想は極めて大きく特異な
ものであり、その人柄は謙遜であったが世界的なスケールの人物」と評されている。
一つの時代を切り開いたこのような逸材が新宿区内で生まれ、私たちの町・四谷に住んでいたと
いうことは、地域に住む者の一人として、私は大きな誇りを感じるのである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
東京15区の歴史を継承
今年は四谷区が誕生して130周年。
( 2008 年 3 月 10 日・記入 )
明治初年、当時の東京府は15区と6郡で構成されていた。新宿区の前身であった四谷区や牛込
区は、1878年(明治11年)11月、東京15区の中のひとつとして生まれた。従って、今年
は四谷区や牛込区が誕生して130周年という区切りの年になる。
当時の15区というのは、麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、小石川、本郷、下谷、
浅草、本所、深川の各区である。東京のむ名所を代表するような由緒のある名前ばかりである。た
だ、おもしろいことに現在の23区の中には旧15区の名称を継いでいる区はどこもない。
一方、6郡とは荏原、東多摩、南豊島、北豊島、南足立、南葛飾の各郡である。当時の南豊島郡
の中には、内藤新宿、番衆町、柏木、角筈、大久保などが含まれていた。
のちに現在の新宿区を構成することになるもうひとつの淀橋区は四谷・牛込両区から半世紀あま
り遅れて1932年に誕生した。大久保・戸塚・落合・淀橋の四町が合併して一区を編成したもの
である。
さて、発足当時の四谷区の戸数は4829戸、人口は1万6539人、牛込区の戸数は7519
戸、人口は2万5835人であった。四谷区の戸数は15区では最小、人口も赤坂区に次いで少な
く、小規模な行政区であった。
もう少し詳細に四谷区を見てみよう。新しい四谷区には31の町があった。
伝馬町三丁目、伝馬町新一丁目、忍町、塩町三丁目、箪笥町、坂町、北伊賀町、新堀江町、荒木
町、舟町、愛住町、永住町、尾張町、仲町三丁目、南伊賀町、南寺町、寺町、須賀町、左門町、東
信濃町、右京町、大番町、平長町、鮫が橋、鮫が橋谷町二丁目、元鮫が橋南町、千駄ケ谷西信濃町、
千駄ケ谷大番町、千駄ケ谷甲賀町、千駄ケ谷町三丁目、千駄ケ谷仲町二丁目である。町名は、その
後、さまざまに変遷して今日に至っている。
後に四谷区になる麹町十一、十二、十三丁目は麹町区、市ケ谷本村町、片町、七軒町は牛込区、
内藤新宿は南豊島郡に属していた。
昭和9年に編集された四谷区史には「明治以降大正に至って四谷大通りの東部及び西部は度々大
火に見舞われた。伝馬町塩町付近が市区改正実施以前に道路の拡張を見たのもこの為であり、大正
期に及んで新宿町の青樓が街路より転じて一廓に纏められたのもまた、これが結果であった」と述
べられている。
また区史には、大正12年の大震災で甚大な被害を被ったが下町一帯に比べれば「概して軽微」
であり、四谷は下町方面の被害民の救助に当たったとも記されている。
しかし、東京を焦土にした戦災による被害は大きく、四谷区の人口も老人・学童・幼児の疎開、
住居の焼失、食糧不足などで大幅に減少した。昭和15年10月1日の四谷区の人口が、7万64
40人であったのに対して、20年6月10日には1万4831人、11月1日には1万1245
人まで激減している。
東京の中でも区部は戦災で壊滅的な打撃を受けた。戦前(昭和15年)の人口に比べて区部の人
口は半分近い59%にまで落ち込んだ。特に下町の深川・城東両区の人口は、戦前の6%にまで激
減した。
このように戦災で各区の均衡が失われ、都区制度に問題が生じてきたため、区や郡の統合が検討
された。当時は東京は35区あったが検討の結果、これを22区に整理した(この直後に板橋区か
ら練馬区が分離して現在の23区になった)。 この改革では四谷区、牛込区、淀橋区の三区の合併
が適当とされ、昭和22年3月15日に統合が実行され、現在に至っている。
当時、新聞社が新しい区名を募集したところ、早稲田区、戸山区、山の手区、花園区、新宿区な
どの応募があったという。新宿御苑や新宿駅などで既に「新宿」は全国的に知られており、新区名
は「新宿区」になった。
四谷区や牛込区が実際に存在したのは1878年から1947年までの69年間、もう一方の淀
橋区の歴史は短く1932年から47年まで僅か15年間であった。
(本稿では、安本直弘著『四谷散歩』、旧四谷区発行の『四谷区史』を参考にした)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
服部半蔵ゆかりの西念寺
西念寺には半蔵の槍があり、文化財に指定されている。
( 2007 年 6 月 10 日・記入 )
半蔵の名は、徳川家に仕える旗本としてよりも、忍者の頭領として後世
に名を残すことになったが、「槍の半蔵」は「鬼半蔵」「大半蔵」とも言
われ、「徳川16将」のひとりに数え上げられていた程の武将である。
服部半蔵の墓(写真左)と半蔵が建立した家康の長男信康の供養塔。
四谷駅に程近い新宿通りから南に入った新宿区若葉二丁目の一角に服部半蔵ゆかりの西念寺があ
る。専称山安養院と号し、芝増上寺の末寺で浄土宗である。
寺には寺宝として槍一筋が保存されている。
半蔵は天下に「槍の半蔵」として知られた程の槍の名手である。新宿区の登録文化財になってい
る槍は、半蔵が愛用したものである。
初めは麹町清水谷の小庵であったが、文禄2年(1592)、徳川家康の家臣、半蔵が開基とな
り、心蓮社専誉念無上人を開山に迎えて一寺を設立した。
半蔵の父保長は、伊賀国服部の領主だったが、家康の父清康の時代に岡崎に出て徳川家に従った。
半蔵の初出陣は16歳の頃、三河宇土城の夜討ち襲撃である。その後の戦闘にも何度か功績をあげ、
次第に家康に重用されるようになった。
家康は人質で駿府にいた時、今川義元の養女・築山殿をめとり、長男信康をもうけた。 信康は、
後に信長の娘・徳姫を妻に迎えたが、徳姫はしゅうとめの築山殿との折り合いが悪く、そのため母
思いの信康とも合わなかった。築山殿は身持ちが悪かったと言われ、一時は伊勢に移されたが、母
を慕っていた信康は勝手に岡崎に呼び戻してしまった。そんなこともあって、徳姫は「夫の信康が
築山殿と共謀して武田氏に内通している」と父の信長に密告した。信長は娘の徳姫を信じて家康に
対し、信康と母の築山殿を自決させるように命じた。家康は涙をのんで築山殿に追っ手を差し向け
て殺し、信康には切腹を命じた。
天正7年(1579)9月、半蔵は命により信康の自害に立ち会い、その介錯をしたと言われて
いる。これが半蔵にとって終生の心の重荷になり、信康供養のために出家して草庵を開いたものと
思われる。
西念寺本堂脇には、半蔵の墓と共に半蔵が建立したと言われる庇護したという岡崎三郎信康の供
養塔がある。
天正10年(1582)5月、本能寺で信長が殺害された時、家康は堺にいて手勢が少なかった
ため、いち早く岡崎に帰らねばならなかった。家康は最短距離の伊賀越えの間道を通ることとし、
京都の豪商・茶屋四郎次郎の案内と半蔵一族の警固のもとに出発した。途中、土民の一揆が方々に
起こり難行したが、無事岡崎に帰り着くことが出来た。これを世に「伊賀越えの危難」と言い、家
康一生のうちで最大の危機であった。半蔵はこの「伊賀越え」の功績によって家康に認められ、後
に遠江国で八千石を賜った。
天正18年(1590)には家康の江戸入国に従い、与力三十騎、伊賀同心200人を支配して
半蔵門外に住んだ。皇居の半蔵門はこれにちなんで付けられた名称である。 半蔵配下の伊賀同心
となった伊賀者たちは、いわゆる「伊賀忍者」であり、このため、彼らを率いた半蔵の名は、徳川
家に仕える旗本としてよりも、忍者の頭領として後世に名を残すことになったが、「槍の半蔵」は
「鬼半蔵」「大半蔵」とも言われ、「徳川16将」のひとりに数え上げられていた程の武将である。
半蔵は慶長元年(1596)11月4日に55歳で死去している。
なお、新宿通りから西念寺に至る道は「西念寺横丁」と呼ばれている。かつてこの当たりは「南
伊賀町」と言った。この南伊賀町には、明治から大正にかけて山田わか、平塚らいてう、市川房枝
が住んでいた。いずれも日本女性史、女性解放史を語るうえで、欠かすことの出来ない錚々(そう
そう)たる人たちである。
また、この西念寺横丁では、江戸時代、「妻敵討ち」(めがたきうち)という世にも珍しい事件が起
こっている。「妻敵討ち」とは、妻を連れ出して駆け落ちした男を妻の夫が成敗することである。
この時代は、武士、町人ともに公認されていたという。この事件については、機会を改めて紹介し
たい。
【 本稿は、安本直弘著の『四谷散歩』をベースに若干の加筆をしたものである】
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※
近代落語の始祖・三遊亭円朝旧居跡
孟宗竹が茂り、回廊式の洒落た庭があった。
(2007年6月10日・記入)
近代落語の始祖と言われている三遊亭円朝の新宿時代は、芸の最盛期で
あった。新宿周辺が舞台となった作品としては『怪談乳房榎』や『名人長
次』などがある。

新宿一丁目にある「三遊亭円朝・旧居跡」の石碑
。
区立花園小学校がある新宿一丁目北側の旧花園町一帯は、江戸時代、「二五騎町」といい、高遠
藩・内藤氏配下の「鉄炮百人組」の組屋敷があったところである。
天正18年(1590)、家康は江戸入府に先立ち、内藤清成に先陣を命じ、新宿一帯の警護に
当たらせた。その時、内藤氏に従って江戸入りしたのが伊賀者の鉄炮百人組である。幕府の鉄炮百
人組は、この内藤組の他に根来組(牛込弁天町)、伊賀組(四谷霞ヶ丘)、青山組(青山南町)等があ
った。それぞれ与力20騎から25騎、同心100人で組織されていたので、新宿一丁目にあった
百人組屋敷は「二五騎町」と呼ばれていた。
内藤組はここが手狭になったために、1部を大久保に移した。これが後の大久保百人町で、いま
も町名が残っている。二五騎町は明治になって内藤新宿北裏町、大正半ばには花園町、そして昭和
48年(1973)には新宿一丁目目になって現在に至っている。
区立花園小学校の南側にある花園公園の一角に「三遊亭円朝旧居跡」と刻まれた立派な石碑があ
る。近代落語の「始祖」と言われている三遊亭円朝が、明治21年(1888)から28年(18
95)まで約7年間、この辺りに住んでいたことを記念して昭和50年(1975)に建立したも
ので、新宿区の史跡に指定されている。
円朝は本名を井渕次郎吉(いずぶちじろきち)といい、天保10年(1839)湯島切通し町で
生まれた。父が二代目円生の弟子であったことから、円生門下に入り、七歳の時に小円太を襲名し
た。17歳で真打ちに出世して名を円朝と改めたが、この頃は師匠ゆずりの芝居ばなしに励み、2
1歳で『真景累ケ渕』を、23歳で『怪談牡丹灯籠』を創作、自ら口演して大人気を博した。
当初は衣装や道具をかざし、派手な演出をしていたが、明治5年には芝居ばなしを捨て、扇子一
本の素ばなしに転向した。取材に基づいた実録的な人情ばなしに徹し、多くの新作を発表・口演し
て新時代を切り開き、近代落語の偉大な一ぺージを開いたのだった。
円朝の作品は速記本として活字化されて全国に普及していった。二葉亭四迷は速記本をヒントに
して革新的な小説の『浮雲』を書いたと言われるように円朝の作品は明治の言文一致体運動に多大
の影響を与えた。
円朝は江東区南二葉町から新宿に移ってきたが、当時は、妻こう、長男朝太郎、長男の妻ちよ、
養女たみの5人暮らしであった。
円朝が移り住んだ屋敷は、回りを四ツ目垣で囲み、隣家との間には孟宗竹の薮が茂っていた。屋
敷内には広い野菜畑やひのき、杉、柿の植え込みがあり、回遊式の庭があった。
新宿時代は円朝の芸の最盛期であった。新宿周辺が舞台となった作品としては『怪談乳房榎』や
『名人長次』などがある。
明治24年(1891)には明治天皇を前に『塩原多助一代記』を上演したが、同年の6月以降
は寄席から身を引き、もっぱら座禅、茶の湯、創作活動にいそしんだという。
円朝はその後、小石川水道町から下谷車坂に移り、明治33年(1900)、60歳で亡くなっ
た。辞世の歌は、いかにも円朝らしく洒脱に富んでいる。
今すこし 遊びたけれど お迎えに一足先に ハイ 左様なら
【本稿は、安本直弘著の『四谷散歩』をベースに若干の加筆をしたものである 】
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
四谷時代の夏目漱石
漱石は、幼少の2年間を四谷で過ごした。
(2007年6月10日・記入)
漱石は本名を夏目金之助といい、幼年時代の一時期を四谷で過ごしてい
る。末っ子だったため、生後間もなく四谷の古道具屋(一説には八百屋)
に里子に出された。里子先では、がらくたに混じり、夜店でさらされてい
たこともあり、たまたま通りかかった姉が発見し、見かねて家に抱いて帰
ったと言われている。
近代日本文学を代表する大文豪の夏目漱石は、慶応3年(1867)1月5日、当時の牛込馬場
下横町で生まれ、大正5年(1916)12月9日、早稲田南町七番地の「漱石山房」で僅か49
歳11カ月の生涯を閉じた。今年は漱石生誕140周年に当たる。
漱石の父は夏目小兵衛直克、母は千枝である。父は旧幕時代、世襲制の行政・警察官の名主でそ
の管轄区域は牛込見附から高田馬場に及ぶ広大なものであった。生母の千枝は四谷大番町(現在の
大京町)の質商・鍵屋庄兵衛の三女である。
漱石は本名を夏目金之助といい、幼年時代の一時期を四谷で過ごしている。末っ子だったため、
生後間もなく四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出された。里子先では、がらくたに混じ
り、夜店でさらされていたこともあり、たまたま通りかかった姉が発見し、見かねて家に抱いて帰
ったと言われている。
いったん生家に引き取られた金之助は、明治元年十一月、あらめて内藤新宿北町十六番地の名主
・塩原昌之助・やす夫婦のところへ養子に出された。この場所は現在の新宿二丁目十五番地になる
が、新宿通りの新宿二丁目交差点から靖国通りに向かって約二百メートルぐらい先の左側に当たる。
現在の「藤村ビル」付近と思われる。
漱石に残っている最初の記憶は、当時養父が管理していた廃業中の遊女屋・伊豆橋のがらんとし
た建物だと言われている。明治二年四月、名主制度が廃止されたので、それに代わる添年寄(そえ
どしより)という役に就いた養父と共に、任地の浅草三間町に移った。
明治四年六月、養父の免官によって再び内藤新宿北町の旧居に戻った。その後、明治六年三月、
養父が戸長(後の区長に当る)に任じられて浅草諏訪町に移るまで、金之助はここで幼年時代を送
っている。自伝的な小説の『道草』には、幼い金之助の眼に映った家の周りの様子が描かれている。
「彼は時々表二階へ上がって細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛けを掛けたり
した馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向こうには大きな唐金(からがね)の
仏様があった。其の仏様は胡座(あぐら)をかいて蓮台に座っていた。太い錫杖(しゃくじょう)
を担いでゐた。それから頭に笠を被ってゐた」
以前、六地蔵は新宿通りに面した入口左側にあり北向きに置かれていたが、これは家の二階から
見た様子を書いたものと思われる。
「彼は斯うしてよく仏様へ攀(よ)ぢ上った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉
(つか)まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、其先はもう何うす
ることも出来ずにまた下りてきた」
このように記述されているから、恐らく金之助はかなり腕白小僧であったと思われる。
太宗寺の北側にある区立の新宿公園は、もともとは太宗寺の庭園の一部で池を中心にした古木老
樹が生い茂る薄暗い場所だった。
「往来に面した一部分には掛茶屋の様な溝が拵(こさ)へられて、常に二、 三脚の床机(しょう
ぎ)さへ体よく据えてあった。
葦簾(よしず)の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚があった。
水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた」
この描写からは、明治初期のこの付近の風景の一端をしのぶことができる。
漱石が四谷に住んだ期間は、合わせても二年二カ月ぐらいだが、幼年時代のこの四谷での体験は、
作品の中に取り入れられ、いまも多く人々に愛読されているのである。
【本稿は、安本直弘著の『四谷散歩』をベースに若干の加筆をしたものである】
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「江戸勧進相撲」の起こりは?
それは四谷の「笹寺」で始まった。
(2007年6月10日・記入)
四谷の笹寺には「四谷勧進角力始祖」の石碑があります。これは初代横
綱・明石志賀之助が、寛永元年(1624)に笹寺の境内で江戸で初めて
晴天6日間の勧進相撲興行をしたことを記念して東京角力協会が建立した
ものである。
笹寺は、新宿通りに面した四谷四丁目の南側にある。正式の寺名は長善寺、山号は四谷山(しこ
くさん)、宗派は曹洞宗である。
山号の由来は、元文年間(1736~41)鋳造された梵鐘に「四谷最初の霊地ゆえ、号四谷山な
り」と刻まれていることによる。
四谷山・長善寺は、今年のNHKの大河ドラマの主人公である山本勘助の活動が記述されている
『甲陽軍鑑』の著者として知られる甲斐国武田氏の家臣高坂弾正昌信が、天正三年(一五七五)、
自分の屋敷内に立ち上げた草庵をその起源にしている。当時、この地域一帯は小田原の北条氏が支
配していた。開山は高坂弾正の縁者に当たる文叟燐学和尚(ぶんそうりんがくおしょう)である。
長善寺は、当時、小笹ばかりが生い茂った草庵であった。その後、徳川時代になり、二代将軍秀
忠(三代将軍家光という説もある)が鷹狩りの際に立ち寄った時に、境内一面に生えていた熊笹を
見て「笹寺」と命名し、寺領も与えた。江戸時代の寺の拝領地は二三二七坪と言われている。以来、
四谷の笹寺として広く知られるようになった。
この寺の境内の一角には「四谷勧進角力始祖」(かんじんずもうしそ)と刻まれた三メートルも
の大きな石造りの記念碑がある。
これは初代横綱・明石志賀之助が、寛永元年(一六二四)に笹寺の境内で江戸で初めて晴天六日
間の勧進相撲興行をしたことを記念して東京角力協会が建立したものである。
勧進相撲というのは、神社仏閣の建立や修復を名目に相撲興業を行い広く浄財を集めることであ
る。相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸三大娯楽の一つと言われていたが、笹寺は「江戸勧進相撲」の
発祥の地なのである。
また、この寺には寺宝の開運観世音像がある。「めのう観音像」と呼ばれており、新宿区の有形
文化財に指定されている。
境内にある説明板は次のように「めのう観音像」を紹介している。豊麗で精密な作品である。
黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根を持ち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮き
彫りがある台座に安置されている。本像は、二代将軍徳川秀忠の念持仏を夫人の崇源院から賜った
ものと伝えられている。
そのほか境内には「ガマ塚」と言われる石碑がある。これは医療や薬品研究のため、実験台に上
がって犠牲になった小動物の霊を供養したもので、昭和十二年、慶応義塾大学医学部の先生たちが
建てたものである。なお、墓地には、本居宣長の門人・国学者で歌人の林国雄(天保十年没)とそ
の一族。同じ国学者で一橋家の目付役をした畠山梅軒(天保十二年没)とその孫の如心斎。求玄派
砲術の創始者・大草求玄(天保七年没)などの墓がある。
【本稿は、安本直弘著の『四谷散歩』をベースに若干の加筆をしたものである】
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『 南 総 里 見 八 犬 伝 』
滝沢馬琴が四谷で書き上げた波乱万丈のものがたり。
(2007年6月2日・記入)
馬琴の代表作でわが国最大の長編小説『南総里見八犬伝』は、四谷信濃
町で書き上げられました。今から約160年前の事です。その文体は、雄
渾華麗な和漢混交体であり、挿絵も素晴らしく、いまも、人々に読み継が
れています。
![]() |









江戸の市民生活の命をつなぐ多摩川の水が、武蔵野の台地を通って江戸市中にもたらされたのは、
今から三五〇年余り前の承応三年、すなわち一六五四年のことである。
この命の水をもたらした玉川上水は、四代将軍徳川家綱の命により、玉川庄右衛門・清右衛門兄
弟が一年数カ月の突貫工事で完成にこぎつけたもので、武蔵野の台地を巧みに開削した兄弟の渾身
の努力の「結晶」である。
四谷四丁目交差点角に建つ「水道碑記」には、「玉川兄弟は、最後は私財をなげうって工事を進
めたが、この金を役所に請求することはしなかった」と漢文で記されていますが、この工事にかけ
た玉川兄弟の並々ならぬ心意気が伝わってくるような気がする。
多摩川の取水口である羽村から終着の四谷大木戸に至る10里31町46間(約43キロ)の高低
差は、たったの93メートルしかないと言われてい.。当時、測量技術も全く未熟な中で、僅かの
高低差を巧みに読み取り、短期間に長大な水路を敷いたその技術は、まさに奇跡に等しく、いまで
も玉川上水は土木工学上の「芸術作品」と評されているくらいだ。
この玉川上水は、単に江戸市中に水をもたらしただけではなく、野火止用水に代表されるように、
羽村から四谷に至る途中の30カ所もで分水され、武蔵野一帯の新田の開発や住民の生活用水とし
て活用されている。その利便は甚大なものがある。
玉川上水は、1965年(昭和40年)、淀橋浄水場の移転によって300年余にわたる歴史的
な任務を閉じた。その後、一時廃水路になっていたが、上流各地で水路の復活運動が起こり、現在
では全長43キロのうち、実に30キロがかつての姿を取り戻し、それぞれの地域の貴重な水辺とな
ってまちにみどりと潤いをもたらしている。1999年には東京都の「歴史環境保全地域」に指定
され、更に、二〇〇三年には国の史跡にも指定されて今やその価値は不動のものになっている。
しかし、歴史な遺産として高い評価を得ている玉川上水も水路の終着に当たる四谷大木戸に至る
新宿区内を通る部分は、依然として暗渠のままになっている。御苑脇を東西に通っている道路の下
の部分がかつての玉川上水になる。
以前、新宿区内で玉川上水復活を求める大きな運動が起こった(注1)。今から15年余り前のこ
とである。当時、小野田新宿区長は復活の動きを支持し「困難はあるけれども復活に向けて努力す
る」と述べ、また、左の記事のように新宿区議会も全会一致で復活を求める陳情を採択して、運動
を側面から支援した。しかし、その時は、維持管理の問題などで残念ながら復活の実現することが
出来ないまま運動は頓挫し、今日に至っている。
初代安藤広重の「玉川堤の花」という浮世絵は、桜を愛でる幾人もの女性が四谷大木戸に近い玉
川上水べりで談笑する情景を描いているが、当時の華やかな雰囲気を今の私たちに伝えている。
今年は新宿御苑が開園されて100周年に当たる。玉川上水が復元されたならば、新宿御苑にと
っても画期的なことになる。
私の郷土の先輩の太宰治は、愛人を道連れにして三鷹付近の玉川上水に身を投じ、有り余るその
文才を絶った。私は津軽の田舎にいた頃は、このような玉川上水に一種の畏怖の念を感じていた。
しかし、今は、昔の人々の最も基本的な営みを支えた貴重な歴史遺産として格別の親しみを感じて
いる。ぜひ、この遺産を復元させなければならないと思っている。
また、四谷大木戸脇には水番所があり、ここは日ごと水を調整して江戸市中に送った重要な場所
ですが、いま、昔日の姿を忍べる物は何もない。
私は、新宿御苑大木戸門一帯を記念公園のようなものにし、ここに例えば羽村に建立されている
「玉川兄弟」の銅像を造るとか、玉川上水や水番所を忍べるものを工作するとか、旧渋谷川のせせ
らぎを取り戻すとかして江戸市民の生活を支えた歴史的水路の終着点にふさわしいように周辺を整
備すべきだと思っている。
●この運動を担った「四谷大木戸に玉川上水を復活させる会」は1989年1月に発足した。会の顧問には、
玉川庄右衛門直系で14代目に当たる玉川雅子さんに就任していただいた。
代表委員には農業問題の権威
であった山口太郎氏が就き、私は事務局長の重責を担った。
会は、さまざまな運動を展開した。
新宿区、東京都庁、環境庁(当時)への働きかけをはじめとして、
玉川上水羽村取水口視察、千川上水・野火止用水視察、シンポジュームの開催(「いま、なぜ新宿に水辺
なのか」)、映画・「柳川掘割物語」の上映会、学習会、また、8500人もの署名を集めて新宿区議会
に陳情書を提出したが、区議会はこれを全員一致で可決した。新聞などにもたびたび報道され、実現へ向
けて期待が膨らんだが、復元された場合の維持管理の費用などで最終調整が出来ずに頓挫した。
しかし、この会の運動はその後も高く評価され、
今回の新宿区・東京都・環境省による復元の動きの中
でもでもたびたび話題になっている。
玉川上水開削に向けての夜の測量風景(羽村市郷土博物館の史料)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
四 谷 大 木 戸
「入り鉄砲に出女」の取り締まりをした江戸の西玄関
(2005年5月10日・記入)
四谷は、甲州街道から江戸市中に入る西の玄関に当たる。徳川幕府は元
和元年(1616)、ここに「四谷大木戸」という関所をつくって、江戸に
出入りする人や物資を検査した。道の両側に石垣を築き、大きな木戸門を
設けて午前6時から午後6時まで門を開けた。それ以外の時間の通行は許
さなかった。
四谷四丁目交差点の西側角に立つ 「四谷大木戸跡」 と刻まれた記念碑。
玉川上水跡から発掘された石の樋を加工して造られたものである。この
すぐ右側に威風堂々とした「水道記念碑」がある。
新宿通りの四谷四丁目交差点を以前は「四谷大木戸」と呼んでいた。江戸時代、ここに大木戸と
いう幕府の関所があったからである。
天正18年(1590)、家康は江戸入府に当たって西部のの武田・北條の残党から江戸の市中
を防衛するために、家臣の内藤清茂を四谷方面に派遣して警護の任に当たらせた。内藤氏は、今の
太宗寺付近に陣を構え、周りに火を放って見晴らしを良くし、遠見の櫓(やぐら)を設けて敵を見
張った。
内藤氏が太宗寺付近に布陣したのは、ここが江戸城から国府(今の府中)に通じる「国府道」と
鎌倉から奥州に向かう「奥州道」が交差する交通の要衝たったからである。
幕府は元和2年(1616)、内藤氏の陣を廃止して太宗寺からそんなに遠くない場所に大木戸
を設けた。「四谷大木戸」である。この年は、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した翌年で、豊臣の残党
が江戸市中に紛れ込んでくるのを防ぐのが大木戸設置の目的であった。また、この場所が選ばれた
のは、南側に渋谷川の渓谷があって森林に覆われ、北側に紅葉川水域の一つ、饅頭谷の湿地帯があ
ったからである。このような地形であったため、西から江戸に入るためにはどうしてもここを通ら
なければならず、旅人の取り締まりには格好の場所であった。
当時、江戸市中では各所の町角に番小屋を置き、木戸を作って悪者の侵入を防ぎ、また、江戸に
入る主要な街道の入口には大木戸を設け、「入り鉄砲・出女」を取り締まっていたのである。
大木戸の構造は、道の両側に石垣を築き、その間の通行路に木戸を設けるというものである。
四谷大木戸は、「明け六つ」から「暮れ四つ」まで門を開き、それ以後は、特に認める者以外は
通行を禁じていた。通行には手形が必要だったために、江戸から地方に出る旅人の見送りや市中に
入る旅人の出迎えもここが終点や起点になった。
四谷大木戸の四谷側北部には番屋があり、ここに「突き棒、さすまた、もじり」等を置いて通行
人や馬の荷物を取り締まった。何か事件が発生した時には、昼間でも木戸を閉め、鐘を叩いて異常
を知らせたという。
しかし、江戸時代の後世は泰平が続き、徳川安泰の見通しがついたためか寛政4年(1792)
には大木戸は取り払われ、石垣だけが残った。明治になってこの石垣も交通に支障をきたすように
なったために、同5年には惜しくも撤去された。同じ目的で作られた「高輪大木戸」の石垣は、今
でも一部が保存されている。
新宿区四谷地域センターの東側に四谷大木戸の「記念碑」が建っている。これは昭和34年、新
宿通りの地下鉄工事現場から発見された玉川上水の石樋を使って造られたものである。
この記念碑は、当初、四谷四丁目交差点の南東の角にあったが、昭和44年、新宿通りの拡幅の
際にここに移されたものである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あの日、雨降る神宮で~
学徒出陣壮行会の舞台になった「国立競技場」
(2005年5月11日・記入)
1964年に東京オリンピックの開会式の舞台になり、その後も世界陸上大
会やサッカーJリーグ等で賑わっている「国立競技場」は、戦前、「神宮
外苑陸上競技場」と言った。ここは敗色が濃くなった1943年秋、「学徒出
陣」の壮行会が行われた場所である。ペンを剣に持ち替えた多くの学生た
ちは、南方の戦線などに送り込まれ、その多くは帰らぬ人になった。

国立競技場代々木門の木立の中にある「出陣学徒壮行の碑」
第二次世界大戦の攻防が激しくなり、戦局が悪化してくると、それまでの学生に対する「徴兵猶
予」の措置は取り消された。このため、学業半ばにして何百人もの若者が敗色の濃い戦場に送り込
まれ、あたら、はたちそこそこの有為の命を落としたが、今から62年前の1943年10月21
日、秋雨の降る神宮外苑陸上競技場では「学徒出陣の壮行会」が催された。
この日、時の総理大臣東条英機は、時代めいた演説をし、関東全域から神宮に結集した学生を前
むにして「御国の若者たる諸君が勇躍学窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破
して、皇運を扶翼し奉るの日は来たのである。その燃え上がる魂、その若き肉体、その清新なる血
潮、この一切を大君の御為に捧げるは皇国に生を受けた諸君の進むべきただ一つの途である」と訓
示した。これに対して東京大学文学部の学生が参加者を代表して壮行の辞を述べ、「挺身以って頑
敵を撲滅せん、われらもとより生還を期せず」と誓った。
この後、参加者全員で「海ゆかば」を斉唱、天皇陛下万歳を三唱し、隊伍をなして各大学ごとに
二重橋まで行進した。
かくして、徴兵猶予の特権を奪われ学業半ばで出陣した学徒兵の数は20数万人にも上った。学
徒兵はそれぞれ陸海空軍の部隊に配属され、短期間の訓練を受けて、中国大陸や南方戦線、南太平
洋などの前線に送られ、その多くは生きて帰ることはなかった。彼らの多くは学問研究への情熱と
国家的要請との板ばさみにあって悩み、また、戦争への疑問や日本の国家の将来への不安などを抱
きながらも大陸の山野に、南海の海の果てに一度しかない若い生命を絶ったのである。特に、第一
回出陣学徒の大部分は1921年から23年頃の生まれであるが、最も多くの戦死者を出した。
この学徒出陣から50年目に当たる1993年10月20日、元学徒兵の有志たちが、壮行会が
挙行された神宮外苑競技場(現在の国立競技場)に「出陣学徒壮行の地」の石碑を建立した。
高さ3メートル程の石碑の銘板には次のような感動的な一文がしたためられている。
「全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年(1943)十月二十一日、ここ明治神宮外苑
陸上競技場においても文部省主催の下に、関東周辺七十七校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行
された。折から秋雨をついて分列行進する出陣学徒たち。スタンドを埋め尽くした後輩、女子学生。
往く者と送る者が一体になり、当たりは感動に包まれた。―― 時は流れて半世紀、今、学徒出陣
五十周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、往って還らなかった友の胸中を思い、
生き残った我ら一同、ここに「出陣学徒壮行の地」の由来を記して、次代を担う内外の若き世代に
この歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。」
今から12年前の五十周年記念として建立されたこの石碑は、国立競技場千駄ヶ谷門を入った左
側の木立の中にある。

「出陣学徒壮行の碑」の脇に設置されている「次世代への伝言」版
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
二葉南元保育園
先駆者たちの渾身の努力で幼児教育の歴史を拓く
(2005年5月6日・記入)
日本の幼児教育のサキガケとなった「二葉保育園」は、その前身を「二葉
幼稚園」といった。いまから105年前の明治33年(1900)に麹町に設
立された。そして、ちょうど100年前に東京三大貧民窟の一つといわれた
四谷鮫河橋に移り、創立者の野口幽香、森島美根、土台を築いた名誉都民の
徳永恕など、先駆者たちの渾身の努力により、輝かしい歴史を刻んで現在に
至っているのである。

子どもたちに囲まれている徳永恕さん。71歳の時。
JR四ッ谷駅と信濃町駅の中ほどに位置する南元町の出羽坂下にある二葉保育園は、わが国の貧
民幼児教育施設の草分けであると共に、スラム街に入り込んで彼らの生活改善に取り組んで献身的
に奉仕した数少ない「社会福祉団体」である。
私立二葉保育園の前身である二葉幼稚園は、明治33年(1900)1月10日、華族女学校教師
の野口幽香(ゆか)と森島美根(みね)の二人の女性により、麹町区ニ番町26番地に設立された。
当時、野口先生は35歳、森島先生は33歳、情熱に溢れた気鋭の若手であった。開園時の園児は
16人、設立資金は慈善事業の音楽会の収益を当て、経営に要する諸経費は篤志家の月々50銭の
会費を充当した。
設立趣意書に引用された「予防の一オンスは治療の一ポンドに勝る」ということわざに表されて
いるように、二葉幼稚園の設立は、幼児教育事業であると共に、限りない慈善事業でもあった。
幽香や美根たちの渾身の努力によって、寄付収入や教育効果も順調に上がってきたので、園舎の
拡大を計画していたところ、そこへ、四谷鮫河橋にある皇室用地を無償で貸与するという話が舞い
込んできた。二人は用地提供の申し出を受け入れた。
当時、この付近は、東京三大貧民窟の一つと言われ、貧民の幼児教育には格好の場所だった。例
えば、当時の鮫河橋の状況は「学令児を算すればおよそ五百余り、而して就学者僅かに数十名」と
いう記述に表されている通りであった。
明治39年3月、この場所に部屋数9室、延べ面積95坪の新園舎は落成した。
二葉保育園の土台を築いた徳永恕(ゆき)は、明治20年11月21日、播州安士藩(現在の兵
庫県安富町)の家老、徳永行蔵の次女として生まれた。維新後も家令職を続けた父の収入は少なく
貧しかった。そのためか、恕は貧しい人に思いやりのある少女として成長していった。
四谷大番町(いまの大京町)に住み、府立大女学校に通学していた頃、鮫河橋のスラム街をとお
りここに住む人たちの生活に心を痛めていた。その頃「私立二葉幼稚園設立用地」の立て札を見て、
恕はここを自分の一生を捧げるところと強く心に決めたのである。
明治41年、恕は念願の二葉幼稚園に採用された。以後66年間、ここに身も心も捧げることに
なる。恕の献身的な働きにより、2年余り経った43年秋には主任保母に選ばれるほどになってい
た。
一方、幽香たちは東京各地のスラム街を見学した結果、内藤新宿のスラム街に二葉保育園の分園
を造ることを決めた。新宿分園の設立は大正5年、場所は今の新宿四丁目3番地で、恕は園長に任
じられた。
新宿分園を任された恕は、今までよりも自分の意志やアイデアを充分発揮できるようになった。
保育園に加えて、未就学児童を教育する小学部の併設、無料夜間診察部の設置、五銭食堂などの事
業を行い、スラム街の住民の生活改善に尽力した。
各地に施設を拡大していた二葉保育園にとって、第二次世界大戦とその敗戦後の状態は特に厳し
いものだった。新宿分園以外の施設は全部焼失したため、分園に孤児、捨て子が殺到し、また、駆
け込み保育の実施などで足の踏み場もなくなるという状態だった。しかし、恕たちは物資の買い出
しをして何とか子どもたちの食糧を確保し、保育の仕事を続けた。
このような長年にわたる徳永恕の活動に対して、東京都は昭和29年10月に「名誉都民」の称
号を授与した。そのお祝いの会の席上、「徳永恕女史名誉都民記念・二葉保育園後援会」の設立が
話し合われ、高松宮妃殿下が名誉顧問、宮城タマヨ氏が代表委員に就任した。
生涯家を持たなかった恕は、晩年も園児らと共に生活を続け、昭和48年1月11日、厚生年金
病院で息をひき取った。二葉保育園卒園者等の関係者だけではなく、徳永恕の人柄や活動を知る人
にとって、この日は悲しみの日になった。
子どもたちのために身を粉にして生きた波乱に満ちた生涯であったが、しかし、清廉そのもので
あった。享年85歳であった。
徳永恕の部屋には、
「露はつゆの心をつくすゆふべかな」という言葉が掲げられてた。現在、二
葉保育園の理事長をつとめている梅森公代先生は、「この言葉こそ二葉の心を簡潔に表していると
思います」と語っている。
【参考・安本直弘箸『四谷散歩』、『二葉保育園85年史』】
●余談ですが、私の三人の子どもは、産休明けから小学校に入学する直前まで、みんな二葉保育園で保育をし
てもらいました。私は、二葉保育園の果たしてきた歴史を知っていたので、いつもこの保育園に子どもを預け
られたことを一つの誇りのように感じていました。三人の子どもにも二葉保育園の歴史は、よく話して聞かせ
ました。私たち夫婦の役割分担で、私の任務は、朝、子どもを保育園まで送りに行くことでしたが、11年間
にわたって自転車の前後に子どもを乗せ、雨の日も風の日もここに通いました。大変だという気にはなりませ
んでした。梅森先生を初めとして、多くの職員に随分お世話になりました。今でも感謝しています。ありがと
うございました。(山田敏行)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
須賀神社と三十六歌仙絵
四谷の総鎮守は遷座370年の歴史を刻む
(2004年11月15日・記入)
四谷の総鎮守として地域の人たちの厚い信仰を集めている須賀神社がご当
地の四谷に移ってきたのは、1634年(寛永11年)と言われている。従っ
て今年は遷座370周年に当たり、春の例大祭は例年にも増して盛大に挙行
され、『御遷座三百七十年史』などの記念誌も刊行された。
また、須賀神社の社殿には、新宿区指定有形文化財の「三十六歌仙絵」も
飾られ、区立のミニ博物館も併設されている。
参道から見た須賀神社。正面は社殿。
ミニ博物館の「三十六歌仙絵」
須賀神社は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと・牛頭天王)と宇迦能御魂神(うかの
みたまのみこと・稲荷大神)の両神を祭っている。かつては、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と
稲荷社の二つの神社があったもので、江戸時代には「稲荷天王合社」と呼ばれていた。遷座以来、
ずっと「天王様」といわれて多くの人に親しまれてきた名社で、明治に入ってから現在の「須賀神
社」と改められた。
牛頭天王は、疫病を治す諸神を統率する神なので、疫病がはやる六月ごろに祭礼を行うのが慣わ
しになっていた。須賀神社の祭礼は「天王祭り」と言われ、麹町の「山王祭り」、神田の「神田祭
り」浅草の「三社祭り」、深川の「八幡祭り」と共に江戸の「五大祭り」として有名であった。
牛頭天王の由来について『文政寺社書上』は次のように伝えている。、
「寛永18年(1641)四谷門外明地が、日本橋伝馬町の助役地になったため、大伝馬町の産土
神、神田明神の境内にある牛頭天王を勧請して、御仮屋横丁に小祠を建てた。これが次第に繁昌し
たので、氏子が相談の上、寛永21年、寺社奉行、町奉行に願い出て、同年6月18日、宝蔵院稲
荷社殿に遷座した。これにより稲荷は鮫河橋、権田原の鎮守。天王は四谷へんの鎮守になった」
もう一方の稲荷大社は、古くから一ツ木村(鮫河橋、一ツ木、清水谷一帯)の鎮守で、今の勝興
寺あたりにあった椎の大木の下にあり、当時、清水谷にあった宝蔵院が管理していた。寛永11年
(1634)、清水谷が外堀用地になり、宝蔵院と勝興寺が隣りあって四谷に移転してきた。この
時、大木の下の稲荷神社を現在の場所に移したと伝えられている。現在、本殿南側にある天白稲荷
がそれではないか、との見方がある。
また、境内には大鳥神社があり、毎年11月には「酉の市」がたち、賑わいをみせている。
山中 笑の『四谷旧事談』には、鮫河橋の永井邸内で「鳥大明神の祭り」として、酉の市が賑わ
ったことが述べられている。永井金之三郎の屋敷か永井肥前守の屋敷か不詳であるが、「今の四谷
天王社のお酉様は、これを移したものであろう」と書かれている。大鳥神社の社殿を、明治2年に
土蔵造りに改造した時の記念碑が境内に建っているが、江戸時代には、既に須賀神社に鎮座してい
たものと思われる。
大鳥神社の酉の市は、浅草に次ぐ東京第二の賑わいと言われていた。大正10年の記録によると、
実に「熊手授与数七萬体」と記されている。参拝者はその数倍あったものと思われる。しかし、今
は新宿駅に近く、歌舞伎町という大繁華街にも隣接するという地の利を得た花園神社の酉の市には
遥かに及ばない状態になっている。
須賀神社の社殿などは、昭和20年5月25日の戦火によって消失した。戦後、各方面の協力を
得て施設の再建工事が順次行われ、昭和35年には社殿が再建された。
この社殿には、疎開によって消失を免れた「三十六歌仙絵」が掲げられて、新宿区の文化財に指
定されている。通常、社殿の扉は開いているので、入口からも鑑賞することができる。
「三十六歌仙絵」とは、平安時代中期の公卿藤原公任が、過去および同時代の優れた歌人三十六
人を選定し、それぞれの肖像画に代表作を一首書き添えたものである。万葉歌人から柿本人麻呂、
山部赤人、大伴家持の三人が選ばれ、また、平安時代前期の歌人として、紀貫之、在原業平、小野
小町、僧正遍照、紀 友則、源 順、藤原敏行ら三十三人が選ばれている。
須賀神社の「三十六歌仙絵」は、絹地に彩色絵で描かれている。縦55センチ、横37センチの
黒縁の額に入っており、前述のように神社の社殿内に掲げられている。画工は四谷大番町(現在の
大京町)に住み、世に「四谷南蘋」と言われ、画家として高名だった旗本の大岡雲峰、歌は正三位
中納言の千種有功の筆になるものである。天保7年(1836)、今から170年前に完成し、神
社に奉納された。
須賀神社の境内の一角は、新宿区立の「ミニ博物館」になっており、写真版の「三十六歌仙絵」
が展示され、いつでも見ることが出来る。
参考・ 安本直弘著 『四谷散歩』 ・ 須賀神社記念事業実行委員会刊行『鎮守の社』
・ 新宿ミニ博物館のリーフレット
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
玉川上水と水道記念碑
(2004年10月3日・記入)
かつての玉川上水の終点・四谷大木戸に高さ4、6メートルの堂々とした
石碑が建っている。四谷四丁目交差点の西南の角である。東京都指定有形文
化財になっている「水道記念碑」で、江戸時代の浄水開設の由来、特に玉川
上水の建設とそれを主導した玉川兄弟の功績を讃えた漢文780文字がきざ
まれている。石碑には次のようなことがかかれている。
水 道 碑 記
従三位公爵 徳 川 家 達
中国の古い詩に歌われていることであるが、かの洛の都を見ると、川は水を満々と湛えて流れい
る。聖人が帝都を造る時は、まず水の利便を第一とする。水は、一日として欠かすことが出来ない
からである。
徳川氏が江戸に都を定めた後、諸大名が移り住み、職人や商人が集まり、その数は百万人に達したが、
土地が狭かったので、海を埋めて陸となした。しかし、泉がなく人々は水をを渇望した。
将軍秀忠は、これを深く憂いて、自ら馬に乗り、四方八方あまねく水を探した。
多摩郡に泉の湧き出ている沼があつた。これを嘗めて見ると甘露の味がした。大いに悦んで工人に命じて沼を竣い、
田畑を掘り、水を東に四里半ばかり導いて関口村に入れ、水門を造り堰を築き、小石川に導いて地下に石で暗渠を造った。
神田川を越え、小川町に至って二股に分けた。一つは東神田を過ぎ柳原に注ぎ、一つは、神田橋に至り、
城内の多くの屋敷を通り、本流は龍閑橋を越え、常盤橋の外をよぎり、京橋に達した。
この間、二つに分かれ、一つは銀町、馬喰町から浅草に入り、一つは本町から折れて堀留に至り、
小舟、小網町を過ぎ、箱崎に至り、大河に入った。
人々は、各自金を出しあって、水道を引いた。地下の暗渠は網の目のようであり、水は、町の隅々まで行き渡った。
これを神田水道となし、将軍は、江戸中の井戸の源ということで自ら「井の頭」と命名した。
しかし、水はなお足らなかった。将軍家綱は、更に玉川上水を開いた。 玉川は、
甲斐山梨郡を水源とし東に三十八里流れて海に入るが、町奉行の神尾備前守を抜擢して事に当たらせた。
備前守は、玉川の川筋に住む富民の荘右衛門、清右衛門の二人を推挙し、別に役人を付ける事をしなかった。
二人は工事に精通し、道の遠近を測り、土地の校庭を測量した。経費六千五百両をもって器具を備え、役
夫を雇った。
承応三年 (承応二年の誤り) 四月には、羽村から深さ八尺、幅十二尺の堀を掘り始めた。水門を
若干設けて水流の走り溢れるのに備えた。東に十余里導いて四谷に至った。費用が足らなくなった
ので二人は自分の金を出して工事を進めたが、この金を役所に請求しなかった。
水樋を埋めて暗渠を造った。井の頭水道と同様であった。麹町に至って四つに分かれ、一つは、赤
坂に下って虎ノ門外に至り、三方に分かれた。東は、桜田門に入り、西の丸の諸区に引き、呉服橋
に注いだ。南は京橋に遡り、八丁堀、木挽町を巡り大河に入った。西は、芝の各町々に注ぎ、金杉
の海に入った。
第二の流れは平河、永田、霞ヶ関の町々に注いだ。第三、第四の流れは半蔵門に入り、一つは、
西の丸へ引き、一つは本丸へ入り庭園、の池や滝となり美観を添えた。余った流れは江戸城の掘割
に入った。
十一月に工事は完成した。暗渠の長さ若干、埋めた木樋若干、どれ一つとして不備なところがな
かった。
家綱はこれを誉めて二人に玉川の姓を賜い、二百万石の俸禄を与え、武士に取り立てた。
嗚呼、水道が都にもたらした便益は、誠に莫大なものがある。日照りにも涸れず、大雨が降って
も溢れず、こんこんと流れる水は、三百年止まることがなかった。今日でも人々、一日として水に
不自由することがない。その上、この水は遠くから流れ生きているので水質がなごやかで、江戸の
人々はライ病や疥癬を患わず、実に大きな恵みとなった。
このように、玉川二氏は力を尽くし、少なからず苦労して、また自ら金を出しながらこれを惜し
むことがなかった。こうした行為は、後の世の手本になり、及ぼす利益は百世に続き、偉大という
他ない。
しかし、神田浄水と同様に概略を記録したものはあるがはっきりしない。賜った金高や雇った役
人の数は明確にならなかった。惜しいことである。私は古い文書を検討し、ほぼそのいきさつを知
ったのであるが、年を経るにつれて功績が分からなくなり、後の人もこのことについて何も考えな
くなるのを恐れるものである。
このような訳で、拙い文ではあるがその概略を書き、同志と力を合わせ、石に刻み付けて朽ちる
事がない証しとするものである。
明治十八年四月
薩摩 肝付兼武 撰
内閣大書記官従五位勲五等 金井之恭 書
【追記】
この「水道記念碑」は昭和5年12月に東京都指定有形文化財に指定されてい
ます。高さ4.6メートル、幅2.3メートルの堂々とした石碑の表面には、上記のよう
な江戸の水道の建設の由来が780字の篆刻で刻まれております。また、裏面には、石碑
建立の発起人であった西座真治が建設計画中に資金難に陥り、その後、死亡してしまった
ので、一時、計画は中断したけれども妻が真治の意志を受けて完成させたと書かれていま
す。
このような事情があったために、石碑には 「明治十八年四月」 と書かれていますが、
実際に建立されたのは、10年後の明治二十八年(1895)のことになります。
(山田敏行)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
四谷の二・二六事件
青年将校たちが斉藤實内大臣の四谷の私邸を急襲
(2004年10月3日・記入)
今から68年前の2月26日、雪で覆われた首都東京を震撼させる大事件が
発生した。「二・二六事件」である。この事件では、四谷もひとつの大きな舞
台になった。犬養毅首相の後を受けて総理大臣になり、事件当時は内務大臣の
要職にあった斎藤實の四谷区若葉一丁目にあった私邸が青年将校たちに襲撃さ
れたのである。
総理大臣時代の斉藤実。
学習院初等科の裏にある陸橋・朝日橋を渡り、道なりに右折した左側に日本たばこ中央研修所が
ある(若葉二丁目21番地。現在は民間マンション建設中)。
ここは二・二六事件で暗殺された斎藤實内大臣(元首相)の私邸跡で、暗殺の舞台になったとこ
ろである。
二・二六事件とは、昭和11年2月26日、天皇を取り巻く政治家たちの政策を不満として青年将校
らが武装蜂起した歴史的な事件である。
この事件には、青年将校24名を中心とする近衞歩兵第3、陸軍歩兵第1と第3、戦車砲兵第7
の各連隊の下士官と兵、1500人が参加した。将校らは、首相官邸、斎藤内大臣私邸、高橋蔵相
私邸など10数カ所を襲い、斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監ら政府や軍の高官5名と警官2
名を殺害、他にも多人数に障害を与えた後、4日間にわたり、首都の中央部を占拠したのである。
四谷の斎藤邸襲撃の状況は次のようなものであった。
2月26日未明、前夜半から降り出した雪は、30年ぶりに積雪30センチを超す大雪になった。
午前2時歩兵第3連隊(現六本本七丁目)に非常呼集が掛けられた。
斎藤邸襲撃は、指揮官坂井直中尉の他、高橋太郎・麦屋清済・安田優の各少尉。下士官と兵15
0名。重機関銃4、軽機関銃8、小銃140、ピストル10数挺を装備し、4時20分、徒歩で兵
舎を出発、5時に斎藤邸に到着した。
麦屋隊は重軽機をもって斎藤邸を包囲し、坂井中尉は表門、安田少尉は裏門から、それぞれ侵入
し、機関銃で女中部屋の雨戸を破壊、屋内に乱入した。
将校らは、うろたえる女中に、内大臣の寝所を聞いたが答えなかったため、方々を捜した末、2
階に上がっていった。そこで寝室から出ようとした内大臣を発見したのである。
将校らはここに集合し、ただちに内大臣を殺害しようとしたが、同席していた春子夫人が前に立
ちふさがり、「殺すなら私を殺してください。できないならせめて一緒に殺してください」と内大
臣をかばった。そのため、将校らは夫人を引き離しながら内大臣をピストルと機関銃で撃ったとい
われている。
この殺害で夫人も銃弾を受けて負傷した。内大臣は身体に47カ所も銃弾を撃ち込まれた上、更
に軍刀で数10カ所も斬り込まれるというむごい殺され方あった。
この間わずか15分、5時15分には全員が引き上げを開始した。高橋・安田の両少尉は軍のト
ラックに便乗し、次の目的地、杉並の渡辺教育総監殺害の現場に向かったのである。
( 安本直弘著 『四谷散歩』より )
海軍大臣時代の斉藤実
『四谷怪談』 のお岩さん
実在のお岩さんは、美人で貞淑な女性だったそうです。
(2004年10月3日・記入)
四谷といえば「四谷怪談」。「四谷怪談」といえば芝居の主人公のお岩さん。
そのお岩さんを祀っているのが、 左門町にある「於岩稲荷田宮神社」である。
実在のお岩さんと歌舞伎の世界のお岩さんの物語は全然違うが、 それはとに
かく、ここは全国に名を馳せた四谷を代表する「名所」なのである。

新宿区左門町17番地の「お岩稲荷田宮神社」
四谷怪談で有名な「お岩さん」というのは、江戸時代の初期、四谷左門町で夫を助け、健気な一
生を送った女性のことで、左門町にある「於岩稲荷田宮神社」はそのお岩さんを祀っている。
お岩は、徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨むとても仲のいい
夫婦だった。しかし、30俵3人扶持というから毎年の俸給は16石足らずで、田宮家の台所はいつ
も火の車だった。
お岩夫婦は家計を支えるために商家に奉公に出て働き、またお岩が屋敷社を熱心に信仰したこと
もあって、田宮家はかつての隆盛を取り戻した。
お岩は美人で貞淑な女性であったと言われているが、そのお岩の熱心な信仰のために田宮家が復
活したという話は、たちまち江戸の評判になり、人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を
「お岩稲荷」と呼んで参拝し、信仰するようになった。
お岩が亡くなってから200年後の江戸時代後期。
依然として衰えを知らないお岩の人気に注目したのは歌舞伎作家の鶴屋南北だった。南北は、美
人で貞淑と評判が高いお岩という名前を使って歌舞伎にすれば大当たり間違いなしと確信した。し
かし、刺激を好む江戸で人気を取るには脚色が必要だった。お岩が善人ではおもしろくない。そこ
で南北は、お岩の名前だけを拝借し、あとは当時江戸で発生したさまざまな事件を劇的に組み合わ
せていった。密通のために戸板に釘づけになった男女が神田川に浮かんだ事件、人気役者が姦通の
相手に図られて殺された事件、その他、江戸の人なら誰でも記憶しているさまざまな事件を、持ち
前の空想力で操って歌舞伎の脚本はできあがった。
四谷左門町の浪人・田宮伊右衛門は、不義をした上、妻のお岩を毒殺し、その亡霊に報復される
というショッキングなストーリーだった。天才的な劇作家が虚実織り混ぜて創作したのが、いまだ
に歌舞伎では人気の出し物のひとつであるお岩の怨霊劇だった。舞台も四谷では露骨すぎるという
ことで題名は『東海道四谷怪談』とした。 江戸が最も華やかで、文化が爛熟したと言われた文政
12年(1825)、浅草の中村座で初演された。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十
郎。果たせるかな『東海道四谷怪談』は大当たりになり、江戸中の話題をさらった。以来、お岩の
役は尾上家の「お家芸」になったほどだった。
歌舞伎がますます「於岩稲荷」の人気をあおった。あまりの評判ぶりに幕府も当惑し、歌舞伎初
演から2年ほど後のことだが、事情を把握するために四谷塩町の名主・茂八郎に命じて町内の様子
や出来事を纏めさせ、奉行に提出させたほどだった。
その後、この「於岩稲荷神社」は、歌舞伎に出演した役者がたびたび参拝するようになった。そ
のうちに、上演前に参拝しないと役者が病気になるとか事故が起こるといった話にまで発展するよ
うになった。たたりがあるという声が起こったりしたが、勿論、病気や事故の原因は他にあった。
なにしろ怪談である。トリックに懲り、道具だても巧妙で複雑だし、障害物も多い。照明は暗いし、
天井からの吊るし物もたくさんある。そんな中で芝居をするのだから事故や怪我が多いのはごく当
たり前のことなのである。それが怪談にからめて「たたり」と結び付いていったのである。
明治に入って、『東海道四谷怪談』を演じさせては天下一品といわれた市川左団次から「四谷ま
で毎度出掛けて行くのは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」とい
う要望が出された。
明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを契機に、隅田川の畔にあった
田宮家の敷地内にも同体の神社がつくられた。これが現在の中央区新川にある「於岩神社」である。
四谷左門町には小祠だけが残ったが、太平洋戦争の戦火で焼失した。その後、昭和27年(195
2)に現在の現在の「於岩稲荷田宮神社」が再建・復興興された。神社は東京都の史跡として指定
されている。福を招き、商売繁盛の御利益があり、芸能の成功にはことさら霊験あらたかというこ
とで、今でも参拝の人が絶えることがない。
私が上の写真を撮影した時も、演劇関係の集団がお払いを受けていた。
何と言っても、四谷と言えば『四谷怪談』のお岩さんである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
沖田総司 終焉の地
「白眉の天才剣士は大京町で亡くなった」
(2004年9月30日・記入)
今年のNHKの大河ドラマは 「新撰組」。若者に人気の俳優が出ていて評
判だ。ドラマの主人公は言うまでもなく近藤 勇だが、白眉の剣士・沖田総
司も重要な役割をはたしている。その沖田総司の終焉の地は、四谷 ・大京
町だがこのことは案外知られていない。

中央を走る道路は外苑西通り。カーブしている道路の左側当たりが沖田総司
の終焉の地。 右側に「新宿御苑」の正門がある。
この道路のもう少し先が千駄ヶ谷駅でその左側に神宮外苑や国立競技場等が
 
;ひろがっている。
(私が住んでいるマンションの屋上から撮ったものです)
幕末維新期に「白眉の天才的な剣士」とうたわれ沖田総司は、近藤勇と共に「新撰組」の創設に
加わり、副長、剣術師範頭、一番隊組長などを務めた最高幹部である。幕末の歴史を一陣の風のよ
うに通り過ぎた沖田総司の人気は今でも高く、総司が登場する番組がテレビなどで放映されたりす
ると、若い女性などから強く支持される時代劇の「大スター」である。今年のNHKの大河ドラマ
では、藤原龍也が沖田総司を演じており、人気を博している。
総司は、天保13年(1842)に麻布で生まれ、慶応4年に没したと言われている。名前は房
良、幼名を惣治郎という。父は、江戸詰めの陸奥白河藩の藩士で沖田勝次郎といったが、総司が2
歳の時に他界した。総司は、江戸・市ヶ谷の近藤周助の内弟子になり、剣の腕を磨いた。
後に総司が塾長を務めた市ヶ谷の道場の名前は「試衛館」といい、今の新宿区市ヶ谷柳町25番
地にあった。若き日の総司は、ここで近藤勇や土方歳三などと共に「天然理心流」の剣技の鍛錬に
明け暮れた。
近藤周助の養子になった近藤勇は、文久3年(1863)2月、将軍徳川家茂の上洛を警護する
「浪人組」に沖田総司や土方歳三、山南敬助などの門人を連れて参加し、千番宿割り役を務めた。
近藤勇や沖田総司は、その後も京都に残留し、京都守護職支配下に属して、芹沢 鴨(せりざわ
かも)の「新撰組」の創設に加わった。後に近藤勇は芹沢鴨を粛清して新撰組の実験を握った。
沖田総司は、元治元年(1864)の「池田屋事件」では、討幕派の長州藩や土佐藩の藩士を急
襲し宮部鼎蔵らを殺害するなど奮迅の立ち回りを演じたが、この時の戦いで吐血したとも言われて
いる。急性の肺結核である。総司を蝕んでいた病は、その後も確実に進行していった。
沖田総司は、「池田屋事件」の後も、同志で参謀の山南敬助の脱走罪による切腹の介錯をしたり、
酒井兵庫や浅野薫の討伐に加わったりして、新撰組の幹部として大いにその名を馳せたが、慶応3
年(1867)頃から肺病が悪化し、「鳥羽・伏見の闘い」には参加できなかった。
江戸に引き上げた後は、神田和泉橋の医務所や今戸八幡の松本良順宅に寄宿して療養した。しか
し、病状は悪化の一途を辿り、ついに慶応4年5月30日、潜伏先の千駄ヶ谷池尻橋の植木屋・平
五郎宅の納屋で没したと言われている。
終焉の地の千駄ヶ谷池尻橋は、現在の新宿区大京町29番地ある。「富士見ビル」が建っている
辺りで、新宿御苑正門前の外苑西通りに架かる横断歩道橋のすぐ近くになる。当時の地図をみると、
玉川上水の余り水や新宿御苑の池を水源としてこのあたりを南北に流れていた渋谷川には、水車が
あり、一帯には何軒か植木屋があった。平五郎の家はこの中の一軒だったと思われる。
辞世の句は「動かねば闇にへだつや花と水」と言われる。
なお、沖田総司の墓地は、港区元麻布の専称寺にある。風化が進んでいて普段は非公開である。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
野口英世記念会館
同郷の石塚先生が野口英世博士を顕彰
(2004年9月30日・記入)
「お札の顔」である肖像がもうすぐ変わる。5000円札は明治時代の小説
家・樋口一葉、1000円札は医学博士で細菌学者の野口英世。野口英世は福
島県猪苗代町の出身だが、新宿区大京町には「野口英世記念会館」があり、
さまざまな資料が展示されている。ここは野口博士とどのような関係があ
るのだろうか。
(余談ですが、私が住んでいる野口ハウスは、野口英世記念会館に併設されています)
野口英世記念会館の前景 (写真の左上の角の部分が「わが家」です)
もうすぐ、夏目漱石が描かれた千円札と新渡戸稲造が描かれた五千円札の肖像に代わって、野口
英世と樋口一葉が新紙幣の「顔」になって登場する。
野口英世は、1876年(明治9年)11月9日、現在の福島県猪苗代町の農家に生まれた。小
さい時に大やけどをしたが、その時の手の手術に感動して医学の道に進む決心をしたのは有名な話
である。
1900年(明治33年)に単身渡米した英世は、ロックフェラー医学研究所などで数々の輝か
しい業績をあげ、世界的に注目される人になった。この間、日本の学位も取り、渡米後、ただ一度
だけ帰国した時には大歓迎を受けた。
しかし、英世はアフリカのアクラ(現在のガーナ)で、当時大流行していた黄熱病の研究中に自
ら感染し、1928年(昭和3年)5月21日に51歳の若さで亡くなった。
新宿区大京町26番地には、「野口英世記念会館」がある。この会館は、連日医学関係の集会に
利用されている。また、館内には「資料展示室」があり、野口英世ゆかりの資料が展示されている。
この記念会館は、野口英世の後援者が土地や資金を提供して造ったものだ。会館の敷地は、学習
院大学教授であった渡辺繁太郎先生の屋敷だった。
一方、道路を隔てた内藤町には、野口英世の青年時代からの親友であった歯科医の石塚三郎先生
が住んでいた。この石塚先生が「野口英世記念会館」の誕生に決定的な役割を果たした。
石塚先生は野口英世と同じ明治9年の生まれで二人は20歳になる明治29年に揃って上京した。
その頃、今の港区芝伊皿子に日本で最初に出来た歯科専門学校の高山歯科医学院があり、二人はこ
この玄関番になって医学の勉強に励んだのだった。
その後、石塚先生は、歯科医として大成し、東京や新潟で歯科医院を経営していたが、72歳の
時にある決断をした。「俺も72歳になった。それなのに野口は51歳の若さで逝ってしまった。
俺はこれからの余生を親友野口の志を生かすために捧げよう」。
こう決断した石塚先生は、病院等を全て処分し、殆どすべての財産を投じて同じ医療関係の仲間
で親しい間柄にあった大京町の渡辺家の屋敷を購入し、そこに二階建の事務所を建築した。
当時、渡辺家の屋敷には広い池があって、睡蓮が咲き、鯉が戯れ、また、大きな白い石塔が建っ
た築山には小鳥が群れ、池はその影は写していて実に美しい景観であったと言われている。
石塚先生が建設した事務所は、1949年(昭和24年)に正式に「財団法人野口英世記念会」
に寄付されたが、先生は1958年(昭和33年)に亡くなるまで財団の理事長を勤め、野口英世
の顕彰のために尽力したのだった。
石塚先生が長い間理事長を勤めた「財団法人・野口英世記念会」というのは、そもそもは野口博
士が亡くなった1928年(昭和3年)、その業績を顕彰しようという有志が集まってつくられた
ものだ。猪苗代町の野口英世の生家の保存や記念碑の建立などを手初めにさまざまな活動をし、1
938年(昭和13年)には正式に財団法人として文部省の許可を受けた。翌年には、生家の隣に
記念館を開設し、野口博士の遺品等を公開展示した。
財団は、生家のある猪苗代町ではなく東京神田の日本医師会館の中に本拠地を置いて活動してい
たが、1949年(昭和24年)に新宿区大京町に移ってきた。
現在の「野口英世記念会館」は、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)に建
て替えられたもので、既に40年の歴史を刻んでいる。会館には、300人以上収容できるホール
があり、毎年一回、野口英世記念医学賞の受賞式がここで盛大に行われいる。
「野口英世資料展示室」はいつも無料で解放され、連日、近隣の人たちはもちろん、全国の小中
学生や野口英世のファンが訪れ賑わっている。
【参考・『野口英世記念会館と野口博士』(関山英夫著・野口英世記念会専務理事)】
野口英世世記念会館前の案内板
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【このコーナーは以上でおしまいです】