- エレクトリック・ダンス・ミュージックの時代へ -

映画「キャデラック・レコード」

マディー・ウォーターズ&ウィリー・ディクソン
Muddy Waters & Willie Dixon

<歴史を変えた曲>
 この年、黒人音楽の世界では2曲の重要な曲が誕生し、その後のポピュラー音楽史全体に大きな影響を与えて行くことになります。
 一曲はR&B初期の大物アーティスト、ジョー・ターナーの「シェイク・ラトル&ロール Shake,Rattle & Roll」です。この曲はタイトルからも予想できるように、後のR&Bの原型とも言えるだけでなく、ダンス・ミュージックとしてのR&Bの基本となった曲です。特に重要なのは、この曲はエレクトリック・ベースを使用することによって、従来の曲にない、より強力なリズムを獲得していたことです。(このエレクトリック・ベースは、1953年にレオ・フェンダーが開発したばかりのものでした)この曲以降、カントリーやブルースは、ドラムスとエレクトリック・ベースが生み出す強烈なリズムを中心とする、よりダンサブルな曲へと変化して行くのです。
 もう一曲、ブルースの世界ではマディー・ウォーターズがブルースのスタンダード・ナンバーのひとつ「フーチー・クーチー・マン Hoochie Coochie Man」を発表しています。
 この曲もまたエレクトリック・ギターを用いることで、よりリズムを強調しており、当時シカゴを中心に誕生しつつあったエレクトリック・ブルースの完成型に近いものでした。(ただし、まだこの曲ではエレクトリック・ベースは使われていません)

<ブルースの街、シカゴとマディー>
 シカゴの街は、これ以後もブルースをリアルタイムで聞ける数少ない土地として重要な位置を占めることになりますが、さらにこの街から発信されたシカゴ・ブルースの名曲たちは、海を越えたイギリスの地で若者たちに大きな影響を与え、それが後のブルース・ロックそしてブリティッシュ・ロックの下地を作ることにもなるのです。
 シカゴの街のブルース・シーンにおいて、ハウリン・ウルフと人気を二分していたマディーは、もとはと言えばブルースの故郷、南部の出身です。(ハウリン・ウルフもメンフィスの出身)それだけに彼のシカゴへの旅とそこからの飛躍、そしてその後の白人ミュージシャンたちとの交流は、まさにブルースの歴史そのものだったと言えるでしょう。

<マディー・ウォーターズ>
 マディー・ウォーターズ Muddy Watersこと、マッキンレー・モーガンフィールドは、1915年の4月にミシシッピー州のローリングフォークで生まれ、クラークスデイルで育ちました。当時のブルースマンと同じく彼もまた手製のギターを弾くことから始め、レコードなどマネしながらテクニックを磨いたようです。
 そんな彼のデビューは思いがけないものでした。ブルースやフォークミュージックの収集、研究家として有名なアラン・ローマックスによって、彼は「発見」されたのです。
 それはアラン・ローマックスが常に行っていたブルースを歌い継ぐ歴史的シンガーを探す調査旅行での出来事でした。実は、その調査旅行での最大目標は伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンを探し出すことにあったのですが、その当時すでに彼は亡くなっており見つかられるはずはありませんでした。その代わり、彼はロバート・ジョンソンに匹敵する驚くべきテクニックを持った青年を発見しました。それがマッキンレー・モーガンフィールドでした。
 なんだかアマゾン流域で発見された希少種の昆虫かなにかみたいな話しですが・・・、こうした掘り起こしがなければ、ブルースのヒーローたちの多くは誰にも知られることなく、この世を去っていたのです。彼もまたそのおかげで、生まれて初めてマイクの前に立って歌い、レコードとして録音されるチャンスを得たのです。この時(1941年)彼は26歳でしたが、それっきり彼に録音のチャンスはありませんでした。そのため、彼は次なるチャンスを求めてシカゴに向かうことになります。

<シカゴにて>
 故郷を離れシカゴに移住した彼は、そこで工場に勤めたりトラックの運転手をしたりして生活し、夜になると、ブルースの中心地サウスサイドにあるクラブで演奏するようになりました。しかし、彼がかつてアラン・ローマックスにロバート・ジョンソンの再来と認められ、レコードを録音したことがあることはもう忘れられてしまっていました。それでもやはり実力がある彼の存在は、どんどんシカゴでも有名になり、シカゴのブルース・レーベル「チェス」と1948年に契約、久方ぶりに録音のチャンスを得ました。と言っても、チェス・レコードもまた当時はほとんど無名の会社でした。

<チェス・レコード>
 ナイト・クラブを経営していたユダヤ系の白人フィルとレナードのチェス兄弟は、事業の拡大を目指して、当時伸び盛りだったレコードの仕事に手を出します。彼らは地元のレコード会社を買収し、自分たちでアーティストをスカウトし録音させることにしたのです。そして、その第一号アーティストとして白羽の矢が立てられたのがマディーでした。この時、マディーはエレキギターに持ち替えてすでに4年がたち、テクニック的に自分の新しいスタイルを確立ちょうどいい時期でした。
 彼は期待どうりに「I Can't Be Satisfied」をヒットさせ、自分だけでなくチェス・レコードの名をも世に知らしめることになりました。

<新しいブルース・スタイル>
 彼はその後次々に新しい曲を発表して行きます。「Young Fashioned Way」「I'm Ready」「I Just Want To Make Love To You」「You Shook Me」それに「( I 'm Your) Hoochie Coochie Man」などです。
 彼は南部でアコースティック・ギター一本で歌っていた頃のボトル・ネック奏法とジャズ・ギターの革新者であり、モダンジャズの始祖とも言われるチャーリー・クリスチャンの都会的な奏法を融合させることで、まったく新しいシカゴ風エレクトリック・ブルースを確立して行きます。
 と言っても、その革新は彼一人の力でなされたのではありません。彼のバンドには、エレクトリック・ハープの革新者としてその名を知られるリトル・ウォルターが在籍しており、ファンキーなブギで長く活躍することになるジェームス・コットンもまたこのバンドで活躍していたのです。そして、もう一人重要な人物、ウィリー・ディクソンが彼らの活躍を裏でしっかりと支えていました。

<ウィリー・ディクソン>
 ウィリー・ディクソン Willie Dixonは、マディーのバンドにおいてだけでなく、チェスのアーティスト全員のためにベースを担当し、作曲、編曲もこなすオールマイティーの裏方的人物でした。しかし、白人経営者のチェス兄弟にとっての彼は、便利な小間使い兼音楽家といった存在だったようで、初めはまったく曲を採用してもらえなかったようです。しかし、ある日彼はマディーにあの有名な「Hoochie Coochie Man」のアイデアを話し、トイレで練習させると、いきなりその日のライブの一曲目に演奏し大受けしました。自身を得た彼はこの曲をシングル発売するよう社長のチェスに申し出、発売された後見事にR&Bチャート8位まで上昇するヒットとなりました。
 このヒットによって彼の才能は認められ、その後次々に彼の曲が採用されてゆくことになります。歌うのがいやで渋っていたリトル・ウォルターに無理やり「マイ・ベイブ My Babe」を歌わせ、ソロとしても活躍できる人気アーティストにしたのも彼の功績でしたし、チェスでライバル関係にあって犬猿の仲だったハウリン・ウルフとマディーを競わせることで、どんどん新しい魅力を発揮させたのも彼の功績でした。シカゴ・ブルースの黄金時代を築いたのは、ある意味彼の功績なのかもしれません。その後チェスからは、マディー、リトル・ウォルター、ハウリン・ウルフ以外にも、ロウエル・フルソン、ココ・テイラー、ボ゙・ディドリー、それにチャック・ベリーが登場し、60年代には多くのブリティッシュ・ロック・バンドはチェスこそアメリカ最高の黒人音楽レーベルであると賞賛することになるのです。(それどころか、ローリング・ストーンズは、デビュー当初このチェスとレコーディング契約を結ぶことになります)
 こうして、ウィリー・ディクソンは、チェス栄光の時代をソングライター、ベーシスト、スタジオでのバンド・リーダーだけでなく、実質的な編曲者、プロデューサーとしてすべてを支えて行きました。その貢献度は、もしかするとモータウンにおけるファンク・ブラザース以上のものかもしれません。しかし、僕自身今回の文章を書くまで彼の功績をほとんど知らなかったですし、一般的にも彼の知名度はほとんどゼロに近いのかもしれません。1992年1月29日、彼はこの世を去っていますが、彼の仕事については「The Chess Box / Willie Dixon」(日本盤あり)に詳しく収められています。(チェスの主要アーティストたちの曲と彼自身が歌った曲がたっぷりと収められていて、お薦めです!)

<マディーの有名な話>
 ところでチェスとマディーについては、有名な後日談があります。1960年代に入り、英国ではブルースマンたちの曲をカバーするロック・バンドが次々に登場し、その中から現れたローリング・ストーンズは、アメリカを訪れチェス・レーベルと契約を結びました。
 契約のためにシカゴのチェス本社を訪れたストーンズのメンバーは、そこで驚くべき光景を目にしました。それはあのマディー・ウォーターズがチェス本社の内壁にペンキを塗っている姿でした。その当時、ブルースの本場アメリカでは、ブルースはすでに過去の音楽になっており、マディーのような大物がアルバイトをしていたのでした。
 かつて、マディーは、ブルースの研究家アラン・ローマックスによって発見され、その20年後、再び英国のブルースバンド、ローリング・ストーンズによって再発見されたのです。
 その後もブルースは忘れられ、再発見される歴史を繰り返します。例えば、1960年代のブリティッシュ・ロック・バンドたちによって、1970年代後半にはブルース・ブラザースによって、1980年代にはロバート・クレイの登場によって、2000年代に入ってからもマーティン・スコセッシ監督の「ブルース・ムービー・プロジェクト」によって、・・・。
 とはいえ、少なくとも1954年シカゴの街では、ブルースが現役バリバリの音楽として輝いていたのです。

<映画「キャデラック・レコード」>
 2008年、彼女がかつて所属していたレコード会社「チェス」の黄金時代を描いた映画「キャデラック・レコード」が公開されました。チェスといえば、ブルース、R&Bの大物たちが多く所属していたレーベルです。(彼女の他に所属していたアーティストは、マディ・ウォーターズチャック・ベリー、ハウリン・ウルフ、リトル・ウォルター、ボ・ディドリー、オーティス・ラッシュ、リトル・ミルトン、ココ・テイラーなどなど)映画の中でも、彼女はその中心となる人物として描かれ、その役を今やアメリカ・ナンバー1の黒人女性ヴォーカリスト、ビヨンセ・ノウルズが演じています。ビヨンセはこの映画の脚本とエタの役に惚れこみ、自ら製作総指揮も担当する入れ込みようで、この映画についてこう語っています。
「エタ・ジェームスの成功なしに、私のようなR&Bシンガーは現代に存在できなかったわ。私たちのような若い世代も知っておくべき、歴史の1チャプターだと感じたの」

 映画は前述のアーティストたちの多くに曲を提供したチェスを代表するソングライター、ウィリー・ディクソンの語りで進みます。チェスとともに生きた彼の視点で語ることで、この映画は客観的でぶれの無い質の高い作品となりました。これまでR&Bファンたちが頭の中でしか描けていなかった歴史上の名場面の数々がものの見事に実写化されています。

(1)ミシシッピーの農村でロバート・ジョンソンを探していた研究家のローマックス親子が、マディ・ウォーターズと出会う場面。
(2)チェス・レコードを設立し白人と黒人の音楽を融合させレイス・ミュージックからR&Bへの移行を推し進めたレナード・チェスとミュージシャンたちとの出会いの場面。
(3)ブルース・ハープとマイクを同時に持ちエレクトリック・ブルースの時代を切り開いたリトル・ウォルターの悲劇的は死の場面。
(4)チェス・レーベルに憧れ、チェスと契約しシカゴにやって来たローリング・ストーンズとバンド名の由来となった曲の作者マディとの出会いの場面。
(5)あの有名なダック・ウォークを披露し人々を驚かせたチャック・ベリーの伝説的ライブの場面。
(6)それまでR&Bという呼び名だった新しい音楽に「ロックン・ロール」という名前をつけた伝説のDJアラン・フリードとペイオラの場面。
(7)薬物に依存しその才能を失いつつある中、エタ・ジェームスが名曲「アット・ラスト」を録音する場面。
(8)歴史の表舞台に登場することのなかった偉大なソングライター、ウィリー・ディクソンが活躍する場面。
(9)田舎からトラックで現れた怪物ヴォーカリスト、ハウリン・ウルフがチェスにやって来た場面。

 観客が歴史の目撃者になれる貴重な作品ですが、それぞれの登場人物はけっして美化されておらず、お金、薬物、アルコール、名誉、愛、そしてキャデラックを求めて苦悩する姿がドキュメンタリー・タッチで描かれていることに好感がもてます。唯一、美化しすぎなのは、ビヨンセ演じるエタ・ジェームスが本物より美人過ぎることぐらいでしょうか・・・。
 黒人音楽の歴史を映像として刻んだことの価値は高いのですが、栄光と富を求めて挑戦し続けた人々の悲劇の物語として十分に見ごたえがある映画であることを評価したいと思います。

「キャデラック・レコード 〜音楽でアメリカを変えた人々の物語 Cadillac Records」 2008年
(監)(脚)ダーネル・マーティン
(製総)ビヨンセ・ノウルズ、マーク・レヴィン
(出)エイドリアン・ブロディ、ジェフリー・ライト、ビヨンセ・ノウルズ、モス・デフ



" Hoochie Coochie Man " Muddy Waters
" I Got A Woman " Ray Charles
「シュブーン Sh-Boom」 コーズ The Chords
" Shake,Rattle,& Roll " Big Joe Turner
" That's All Right " エルヴィス・プレスリー Elvis Presley
" The Things That I Used To Do " Guitar Slim
" Work with me Annie " Hank Ballard & The Midnighters

" Bags Groove " Miles Davis
" Cliford Brown & Max Roach In Concert "
" A Night at Birdland " Art Blakey
"Song in a Mellow Mood" Ella Fitzgerald
" Workin' " Miles Davis


「お富さん」春日八郎(リズム演歌の元祖のひとつ)


アメリカの最高裁でブラウン判決が下される。(教育の現場における人種隔離を違法とする判決)
リチャード・ライト著「ブラック・パワー」出版
ベトナム内戦に突入
ジュネーブ会議開催
 (インドネシア休戦協定調印へ)
ロバート・キャパ、ヴェトナムで地雷により死亡
東南アジア集団防衛条約機構SEATO
原子力潜水艦ノーチラス号出航
ビキニ環礁で米国が水爆実験実施
バルカン軍事同盟設立(ギリシア、トルコ、ユーゴ)
ソ連で原子力発電所が操業開始
エジプトの首相兼革命軍事会議議長にナセル氏就任
<日本>
警察予備隊が保安隊を経て自衛隊となる

<芸術、文化、商品関連>
「悲しみよ、こんにちわ」フランソワーズ・サガン著(仏)
「蝿の王」ウィリアム・ゴールディング著(英)
「ブリキの太鼓」ギュンター・グラス著(独)
「オーギー・マーチの冒険」ソール・ベロウ著(全米図書賞)
「アメリカン・スクール」小島信夫著
映画「麗しのサブリナ」のヒットでジバンシー・デザインのサブリナ・パンツが大流行


<音楽関連(海外)>
第一回ニューポート・ジャズ・フェスティバル開催
エルヴィス・プレスリーがサン・スタジオで「ザッツ・オールライ」を録音
ロバート・モーグがモーグ社を設立。シンセサイザーの開発始まる
フランス映画「過去を持つ愛情」のヒットで、ファドの女王アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ Barco Negro」が世界的ヒットとなる(ポルトガル)
フェンダー社の「ストラトキャスター」登場
<音楽関連(国内)>
銀座の銀巴里がシャンソン喫茶となり、シャンソン・ブームの火付け役となる
(ジョセフィン・ベイカー来日)

<映画>
この年の映画についてはここから!


FIFA創立50周年大会  44ヶ国が参加
戦後最初の前大会に戦争責任のために参加できなかった西ドイツが大活躍
予選リーグでわざと2位になることで決勝リーグを楽に切り抜け、決勝戦で優勝候補筆頭だったハンガリーを破り見事優勝を飾った。
準々決勝 ハンガリー×ブラジル 西ドイツ×ユーゴスラビア
準決勝  ハンガリー×ウルグアイ 西ドイツ×オーストリア
決勝   西ドイツ 3×2 ハンガリー(0×2からの逆転)
西ドイツは、フリッツ・ワルターが大活躍
ハンガリーでは、プスカシュ・フェレンツが活躍するが、その後彼はスペインに亡命
(東欧では反ソ連の運動が激しくハンガリーも動乱に巻き込まれていた)

<1954年という年> 橋本治著「二十世紀」より 
 1954年3月、日本のマグロ漁船、第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験により被爆
その場所は危険区域の外だった。
「米ソが対立する第二次世界大戦後の世界に、『支配の構図』は確定されてしまった。そこに『侵略』は起こり得ない。あるのは、『独立』に代表される、『支配からの離脱』である。もう『侵略』は重要事ではない。重要なのは、『侵略の抑止』であり、『既得権の確保』なのだ。『核の抑止力』という幻想は、そういう前提にのっとって存在し、であればこそ、『核実験』というデモンストレーションもありえた。・・・」
「第二次世界大戦後の世界では、被害者意識が加害者意識にとって代わった。『私は正しい。だから防御する』とだけ考えて、目の前の”相手”を直視しなかった。だからこそ、不安は蔓延し、冷戦は続いた。その冷戦の時代、米ソは歴然と”豊か”だったのである」
<作者からのコメント>
 この年、日本では映画史に残るキャラクター「ゴジラ」が誕生しています。被爆国日本が核兵器を否定する強い思いをこめたこのキャラクターは、世界的な人気を獲得。21世紀までその活躍は続きます。しかし、残念なことに核兵器の方もゴジラ同様、進化と増殖を続けています。
 やはり核兵器をなくすためには、「ゴジラ」より「原爆資料館」を海外に持ち出す方が効果が高そうです。僕自身、大学生の時に訪れた「原爆資料館」の衝撃は未だに忘れられません。

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