- 阿久悠 You Aku (前編) -

<昭和の歌謡史とともに>
 作詞家、阿久悠の人生は、そのまま1970年代以降の昭和歌謡史と重なります。一部に例外があるとすれば、美空ひばりと山口百恵ぐらいかもしれません。僕自身、1970年代はロック好き、それも洋楽系専門の時期だったはずですが、それでもなぜか部屋にはピンクレディーやフィンガー5のレコードがあります。(いずれも作詞は阿久悠です)
 曲と歌詞、両方が頭に焼き付いてしまうような音楽は、21世紀の今ほとんどない気がします。当時は、マル子のような小学生からマル子のおじいちゃんまでみんなが一緒に歌える歌謡曲が数多くありました。それが当たり前だった時代を代表する作詞家、阿久悠の人生と作品に迫りたいと思います。

<「阿久悠」の少年時代>
 「阿久悠」という名前は、もちろん本名ではありません。本名は深田公之(ひろゆき)といい、1937年2月7日に淡路島で生まれています。ただし、父親は警察官として各地を転勤で移動していたこともあり、淡路島が家族にとっての故郷ではありませんでした。父親がよそ者で、地域でも有名な厳しい警察官だったことで、彼はクラスの中で常に浮いた存在だったようです。
 そんな中、彼が8歳の時、太平洋戦争が終わります。地方における軍国主義の中心的存在でもあった父親は、敗戦にショックを受け、まわりは彼が自決するのではないかと心配したといいます。そのうえ、まだ若かった長男を戦場に送り出したことで、父親はその死にも責任を感じていたといいます。深田少年にとって、敗戦は家が大きく変わる大事件だったのでした。(幸い父親は自決しませんでした)

 11歳で敗戦を経験して、天と地がひっくり返った。殺されるかと思ったが殺されないで、その代わり民主主義を与えられた。民主主義とは何ぞやと教える人がいなくて、「昨日よかったことが、今日からは悪い。昨日まで怒られたことが、今日からは褒められる。そういうこっちゃ」と乱暴な解説をされた。
 それで八歳の子どもの心は細胞分裂をくり返すアメーバのようになった。冗談みたいだが本当のことで、ぼくらはアメーバのようになった精神を、健気にも自分で再生したのである。

阿久悠(著)「清らかな厭世」より(以下、名前がない著書はすべて阿久悠の作品です)

 いくら何でも民主主義の解説は嘘だと思ったので、身体的な民主主義を探した。それが野球と映画と流行歌で、ぼくはこの三つを大人になってから、民主主義の三色旗と呼んだ。それがあったために、敗戦から朝鮮戦争勃発までの約五年間、子どもの天国を経験出来た。その間大人は迷い子になっていたからだ。
「清らかな厭世」より

 中学、高校と淡路島ですごした彼は、その後まよわず島を離れ、東京に出て明治大学に通い始めます。淡路島での青春時代、彼は、ほとんど目立たない少年で、彼にとってそこに故郷としての思い出はほとんどなかったとも言われます。そんな彼の故郷をもたないという意識は、その後も彼の歌謡曲世界にも大きな影響を与えることになります。

「阿久さんの作品には、望郷の歌はほとんどないんです。どこかに帰りたい、という想いは阿久さん自身にもなかったんじゃないかな。その代わり、旅立つ歌が多いでしょう。それが阿久さん自身の気持ちだったと思いますよ」
オフィス・トゥー・ワン社長 海老名俊則

 彼は青春時代に肺病にかかり、自宅療養していた時期があります。死をも意識した状況の中で、彼は家で悶々とした生活をしていました。常に物事をクールに見つめる視点を彼が持つことになるのは、この時期の暗く孤独な生活のせいだったともいわれています。そして、そんな彼にとって唯一、救いの場だったのが映画館でした。そこでみた数々の映画もまた彼の歌詞世界に大きな影響を与えることになります。

「目に触れるもの、耳に入るもので、夢中になれそうなものは何もなく、とにかく、非現実を探すことだけに熱心になり、その最も便利な次元移行のマシーンが、映画館という箱であった。
 この箱に入りさえすれば、どこにでも行けた。何でも知り得た。そして、どのようなことも出来た。

「生きっぱなしの記」より

 明治大学在学中も、やはり彼は目立つ存在ではありませんでした。こうした何かに熱く燃えることがなかった青春時代の思い出が後にあの名曲を生んだのかもしれません。

青春時代が夢なんて あとからほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり
青春時代が夢なんて あとからほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は 胸に棘さすことばかり
 
森田公一とトップギャラン「青春時代」より

<阿久悠誕生!>
 1959年4月深田青年は、広告代理店「宣弘社」に入社します。その会社は大人気番組「月光仮面」を制作していて、映画の脚本を書きたかった彼にとってはぴったりの会社でもあったようです。彼はそこでサラリーマンとして働きながら、バイトとして放送用の台本を書くようになります。最初に評価されることになった作品は、吉永小百合主演のラジオドラマ「吉永小百合のお父さん大好き!」の台本で、彼はこの時初めてペンネームの阿久悠を用いました。
 ところで「阿久悠」の意味は?そこには様々な説があり、どれが正解かは本人にもわからなかったのかもしれません。
「アクが強いのアク」?「阿Q正伝」?「悪友」?「I LIKE YOU」?「アクエリアス(みずがめ座)」?「ACT YOU」?

 広告代理店でのサラリーマン生活とラジオやテレビの放送台本を書く放送作家としての生活。その二重生活を続けながら彼は少しずつ音楽業界との関わりを深めてゆくことになりました。それはエレキブームが巻き起こっていた1960年代半ばでしたが、1966年のビートルズの来日により、いっきに日本にはグループ・サウンズのブームが訪れることになります。
 そんな中、彼は放送作家として音楽番組と関わり続けいましたが、1967年、彼に初めて作詞の依頼が舞い込みます。それは鈴木ヒロミツがヴォーカルを担当するバンドのデビュー曲を作曲家の村井邦彦と一晩で書き上げてくれというものでした。
 こうして誕生したのが、ザ・モップスのヒット曲「朝まで待てない」です。そして、この曲から作詞家・阿久悠の人生がスタートすることになります。

 ビートルズがあの時代に華々しく誕生し、世界の若者と同様に日本の若者も熱狂したために、ぼくらフリーランスの作家が、レコード製作に関われるようになったのである。流行歌と全く質の違う音楽が主流になったため、レコード業界の強固な専属制度は崩壊したのである。いや、現実には崩壊以前に、旧体制下の作家や製作者が、エレキブームやグループ・サウンズというものを、一種の熱病と解したところがあって、手を出さなかったのであろう。
 だから、それらで求められる作詞も作曲も、半素人にやらせておけばいい、どうせ半年、一年で消えてなくなるからという計算である。ブームが去れば、また流行歌が復活する。その時を待てばいい、である。
 しかし、時代の風は少々強く、波は思ったよりも大きかった。

「生きっぱなしの記」より

<時代の流れに乗って>
 すき間を埋めるために与えられた仕事とはいえ、彼にとって作詞の仕事はやりがいのあるものでした。
 なぜなら、それは時代にとって求められている仕事だという思いをもつことができていたからです。
 彼が活躍を始めた1960年代末といえば、日本が最もゆれ動いていた時代かもしれません。1960年代後半、日本は安保闘争を中心に政治運動が激化し、革命一歩手前の時代でした。しかし、1970年に安保条約が自動延長されたのを機に時代は急激に変化。街にあふれていた革命家たちは、いつの間にかそれぞれの居場所へと帰り始めます。そんな状況を彼は感じるとともに、だからこそ、自分にできる仕事があると考えたようです。

 時代は貧しいのか豊かなのか、人々は自由なのか不自由なのか、未来は明るいのか暗いのか、立場立場の人の発言でどちらとも思える時代を、なかなか個人では確認出来なくて大いに惑い、揺れた年である。
 お前さんは自由だよ、勝手だよ、気ままなんだよと言われることは、捨てられたと同じ気持ちになることがある。昭和四十五年という年は、日本人が、自由なのか捨てられたのか判断がつきかねる状態になった分岐点のような年で・・・ぼくが歌にテーマを見つけていくのも、この分岐点の時代に迷子になりそうな人間を見たからだと言っていいかもしれない。

「愛すべき名歌たち」より

 今になって振り返ると、よくわかることですが、彼はこの後、常に時代の流れを感じながら、その時代に生きる人々のための詞を書く続けることになります。

 僕は、ある意味では阿久さんは静かな社会学者だったんではないかな、と思うんです。数限りないアンテナを張りながら、時代のにおいとか、、移りゆく時代の息吹きとかを、自分の美学と合わせて、作品にした。社会や大衆がどういうものを要求しているかということを、ほんとうにつぶさに分析して作品にあらわした。阿久さんは、それを『時代の飢餓を満たす』と呼んでいました。『時代はいつも飢えているんだ。その飢えている時代に対して僕は言葉を投げかけて、その飢えを満たすんだ』と」
都倉俊一(作曲家)

 もう一度、人々が元気に立ち上がれるように・・・。そんな彼の思いを象徴するような曲として、1970年に大ヒットしたのが、人気を失いかけていた歌手・森山加代子をもう一度スターに返り咲かせるために企画された曲「白い蝶のサンバ」でした。これは、彼の仕事において、重要な役割の一つとなる、アーティストをカムバックさせる企画での最初の成功例となりました。

 カムバック・ソングに不可欠な要素は、爆発力だと思う。大衆によけいなことを考えさせないうちに、アレヨアレヨといううちに先制攻撃をかけ、ペースに巻き込んでしまう必要がある。これは、宣伝力ももちろん大きいが、作品自体に、そのような勢いを備えていなければならないことなのだ。
 だから、シミル歌より、タタク歌のほうが、このような場合に適していると思う。

「生きっぱなしの記」より

<理論武装した作詞家>
 彼の仕事ぶりは、広告代理店のサラリーマン時代に行っていた「企画ありき」による理尽めのものでしたが、そこで重要だったのは、アーティストの個性重視ではなく聴く側のニーズ重視だったという点です。マーケティング・リサーチによるヒット曲の創造。彼の仕事は、まさにその先駆けだったのです。

 企画の段階でいちばん重要なのは、コマーシャルの精神である。昔は、一人の歌手にぞっこん惚れ込んで、「この泣きの部分がいいから、どうしてもいかしたい」となってしまうことが多かった。歌手と制作者との、一対一の惚れ合いみたいなことだ。しかし、現在では、これはあきらかにマイナスとなる。

 こうした彼の仕事の姿勢を示した究極の決め事。それが以下に記す彼自身が残した15か条の作詞家憲法です。これを作ったのは、彼が「白い蝶のサンバ」をヒットさせた直後のことでした。

(1) 美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。

(2) 日本人の情念、あるいは精神性は、「怨」と「自虐」だけなのだろうか。

(3) そろそろ都市型の生活の中での、人間関係に目を向けてもいいのではないか。

(4) それは同時に、歌詞世界と歌詞人間像との決別を意味することにならないか。

(5) 個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に、社会へのメッセージにすることは不可能か。

(6) 「女」として描かれている流行歌を、「女性」に書き換えられないか。

(7) 電信の整備、交通機関の発展、自動車社会、住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と情報はどういう関わりを持つだろうか。

(8) 人間の表情、しぐさ、習慣は不変であろうか。時代によって、全くなくなったものもあるのではないか。

(9) 歌手をかたりべの役から、ドラマの主人公に役替えすることも必要ではないか。

(10)それは、歌手のアップですべて表現されるのではなく、歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、そこまでのイメージを要求してもいいのではない    か。
(11)「どうせ」と「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。

(12)七・五調の他にも、音楽的快感を感じさせる言葉があるのではなかろうか。

(13)歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じボリウムを四分間に盛ることも可能ではなか   ろうか。
(14)時代というものは、見えるようで見えない。しかし、時代に正対していると、その時代特有のものが何であるのか、見えるのではなかろうか。

(15)歌は時代とのキャッチボール。時代の中の隠れた飢餓に命中することが、ヒットではなかろうか。

「生きっぱなしの記」より

 こうした理論武装はある意味、この時代、この世代がもつ最大の特徴かもしれません。そして、ここにこそ彼が生涯つらぬいた生き方の美学までもがおさめられているといえます。彼はまさに「理論武装した作詞家」だったのです。

<黄金時代の始まり>
 1971年、彼の代表作であり、昭和歌謡を代表する名曲、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が大ヒットします。もともとこの曲は、筒美京平がCM用のインストロメンタル曲として作った曲でした。その後、1970年にその曲に阿久悠が詞をつけ、それをズーニーブーが歌って「ひとりの悲しみ」というタイトルで発表されました。しかし、その時の詞はこんな感じでした。

明日が見える 今日の終わりに
背伸びをしてみても 何も見えない
なぜか さみしいだけ なぜかむなしいだけ
こうして はじまる ひとりの悲しみが
こころを寄せておいで あたためあっておいで
その時二人は何かを見るだろう

「なぜ詞を変えたのか。それは時代性である。
 なぜ売れたか。これもまた、時代性なのである。」

「作詞入門」より

 71年になると、70年という時代をくぐりぬけてきて、いわゆる優しさとか、触れあいを求める時代になった。「ラブ・ストーリー ある愛の詩」という本がアメリカでものすごく売れていた。そこで僕は、ひとつの新しい別れのパターンをつくってやろうと考えた。
「作詞入門」より

 こうして、阿久悠は、それまでの歌謡曲にはなかったカラッとした別れ、カラッとした女性像を創造してみせ、それがメガヒットを生むことになりました。さらにこの年、彼はもうひとつのメガヒット森田健作の「さらば涙と言おう」(テレビ・ドラマ「おれは男だ!」テーマ曲)、そして異色のヒット曲「ピンポンパン体操」と、大人向け、青春もの、子供向けとあらゆる世代に向けたヒット曲を生み出しています。それぞれの性別、それぞれの世代のニーズを拾い上げていたということでしょう。ちなみに、この年は、他にも彼の作詞の曲として、井上順の「昨日、今日、明日」、尾崎紀世彦の「さよならをもう一度」も大ヒットしています。

 体操というからには、アクションがしやすくなければいけない。どうやれば面白いアクションにつながるかということを第一のポイントに考えた。・・・レコードにするからには、レコード屋にまで走らせるだけのものがなければいけない。
 それは何か。それは、たくさんのメロディがゴチャまぜになっていて、全部面白く全部憶えたいけれども、長くて憶えきれないのがいい。
 こんなにサービスした詞は他にない。

「作詞入門」より
 意外な事に「ピンポンパン体操」は子供たちの間ではなく、キャバレーでお姉さんたちに歌われて人気が出ました。そして、それが国民的ヒットになったというまったく予想外のヒット曲でした。どんなにマーケッティング・リサーチを念入りに行っても、それが予想どうりに行くとは限らない。それもまた面白いところです。

 1970年に「anan」、1971年に「nonno」が相次いで21世紀につながる女性向け情報誌が創刊され、アンノン族という新たな女性像が注目を集めるようになります。さらに1971年阿久悠のかつての同僚、上村一夫がマンガ家として「同棲時代」を発表して、一大ブームを巻き起こします。さらにはフォークソングのブームの中「神田川」(1973年)の大ヒットもあり、若者文化は急激に変化していました。
 そんな中、日本中を驚かせたのが山本リンダの「こまっちゃうな」(1972年)の大ヒット。これもまた阿久悠と都倉俊一コンビの作品でした。二人は企画段階から山本リンダをブレイクさせることを目的にプロジェクト・チームを結成していました。ちなみに、この年には和田アキ子の代表曲「あの鐘を鳴らすのはあなた」も発表されています。
 阿久悠はまさに時代の寵児でしたが、彼の活躍はこの後、さらなる広がりをみせることになります。それがあの伝説の番組「スター誕生!」の立ち上げです。

「ハッピーじゃないか、
 常識ってやつとオサラバしたときに
 自由という名の切符が手にはいる」

カップヌードルのCMソング第一号の歌詞。もちろん作詞は阿久悠

<参考資料>
「星をつくった男 - 阿久悠と、その時代 -」
 2009年
(著)重松清
講談社

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