
- ビル・エヴァンス Bill Evans -
<ジャズ史に残る白人ピアニスト>
マイルス・デイビスに認められた数少ない白人ミュージシャンのひとりであり、その美しいメロディーは特に日本での人気が高く本人も日本と日本の文化が大好きだったようです。しかし、その独特なサウンドを生み出した彼の繊細な神経はあまりに脆く、暗い影に覆われがちだった人生の重さに耐えることができませんでした。しかし、その悲劇的な人生から生まれた美しいメロディーは、黒人音楽として発展してきたジャズ史の中で、数少ない白人天才アーティストの作品としてひときわ異彩を放っています。
<ロシア系の天才ピアニスト>
ビル・エヴァンスが生まれたのは、1929年8月16日アメリカ北東部ニュージャージー州のプレインフィールドという街でした。父親はウェールズ出身で、母親はロシアからやって来た移民でした。
音楽好きだった父親、ハリー・L・エヴァンスは、ビルと彼の兄ハリー・エヴァンス・Jrに小さな頃から音楽を学ばせました。ビルは6歳からピアノ、ヴァイオリン、フルートを学び、10歳でモーツァルトを弾きこなしていたと言います。
15歳で南部のサウス・イースタン・ルイジアナ・カレッジに入学した彼は、その後トニー・スコットやハービー・フィールズらの元でピアニストとしての実力をつけ、1956年にリバーサイドから初のリーダー・アルバム「New
Jazz Conception」を発表します。
<マイルスとの出会い>
彼のピアノは、クラシックからの影響を取り入れた独自の美しさをもっており、すぐにジャズ界の注目を集めるようになりました。そして、そんな彼の才能を認めた彼の師匠だったジョージ・ラッセルは、ちょうどその頃新しいピアニストを探していたマイルス・デイビスに推薦します。こうして、1958年マイルス・デイビスはレッド・ガーランドに代わるバンドの新しいピアニストとして、ビルを参加させることになったのです。マイルスはビルに「モー」というあだ名までつけてかわいがり、当時彼が取り入れ始めたばかりのモードの手法をビルに教えます。(それは中世ヨーロッパの教会音楽で用いられていた手法をジャズに応用しようという試みでした)それに対し、ビルはマイルスにラフマニノフやラベルなどのクラシックを聴かせることで、モードの完成のために大きなヒントを与えることになりました。
<白人であるがための逆差別>
マイルスは、彼のピアノが生む音楽が気に入り、バンドのサウンドを彼のスタイルに合わせて変えてしまうほどでした。しかし、そんなマイルスの好意とは反対に、他のバンドのメンバーたちは白人である彼の存在を認めようとせず、逆差別ともいえる態度をとりました。音楽的にも、彼のクラシックの影響を受けた繊細なタッチのピアノは、弱々しいと感じられたようです。
もともと繊細な神経の持ち主だったビルは、そんな扱いに耐えきれず、わずか一年でバンドを去ってしまうことになりました。
<歴史的傑作「Kind of Blue」誕生>
しかし、ビルの才能を認めていたマイルスは、1959年再びビルを呼び戻します。そして、マイルスにとってのモード時代の最高傑作「カインド・オブ・ブルー
Kind of Blue」を彼と共に録音します。このジャズ史に残る傑作はあくまでマイルスの作品ではありますが、ビルの存在を中心として企画されており、ラベルとラフマニノフの影響なしには生まれなかったとも言われています。(そのせいか、マイルスは自伝の中でこの作品を自ら失敗作だったと言っています)
<ソロ活動、黄金時代へ>
1959年、彼は再びマイルスを離れ、自らのピアノ・トリオを結成します。メンバーは、ドラムのポール・モチアン
Paul Motianとベースのスコット・ラファロ Scott
La Faroです。マイルス仕込みのモード手法によるアルバム「ポートレイト・イン・ジャズ
Potrait In Jazz」を発表します。そして、この時のメンバー、スコット・ラファロこそ、ビルにとって生涯最高のパートナーとも言えるベーシストで、彼との共演によって生み出されたこの時期の作品群によって、彼はそのキャリアにおける絶頂期を迎えることになります。
<悲劇のベーシスト、スコット・ラファロ>
スコット・ラファロは、1934年4月3日ビルと同じニュージャージー州に生まれています。学生時代はテナー・サックスやクラリネットを吹いていましたが、その後ベースに転向。チェット・ベイカーやベニー・グッドマンらの元で活躍した後、ビル・エヴァンス・トリオに加わりました。
<「ワルツ・フォー・デビー」誕生>
彼らは、1961年にアルバム「Exploration」を発表した後、ニューヨークのクラブ、ヴィレッジ・バンガードでライブを行いました。そして、このライブの最終日(6月25日の日曜日)、急遽ライブ・アルバムとしての録音が行われることになりました。なぜ、最終日となったのかは、未だに謎なようですが、後がないぶんテンションが高い演奏になっていたのかもしれません。
こうして、2枚のアルバム「ワルツ・フォー・デビー
Waltz for Debby」と「サンデイ・アット・ザ・ビレッジ・ヴァンガード
Sunday At The Village Vangard」が誕生し、後にジャズ史に残る傑作と呼ばれることになったのです。
<早すぎる死>
多くの黒人ジャズ・ピアニストが、リズムを生み出す力強いタッチを売り物にしていたのに対し、ビルのピアノはリズムの間をかいくぐるようにメロディーを紡ぎ出すのが特徴でした。そして、このリズムとの絡み合いを得意とする彼だからこそ生まれたのが、天才ベーシスト、スコット・ラファロとの共演作だったと言えるのでしょう。しかし、残念なことに、この頃から彼の人生の歯車は、少しずつ狂い始めます。それは、彼にとっての最高のパートナーだったスコット・ラファロの交通事故死がきっかけだったのかもしれません。
1961年7月6日、「ワルツ・フォー・デビー」の録音からわずか11日後に、スコット・ラファロの運転する車が路外に飛び出して木に激突、彼は27歳の若さでこの世を去ってしまいました。彼の死は多くの人々に衝撃を与えましたが、最もショックを受けたのはビルだったのかもしれません。
<新しい挑戦、ジム・ホールとの共演>
スコットの死の後、ビルは後任のベーシストとして、チャック・イスラエルを迎え、アルバム「Moon Beams」(1962年)を発表しますが、その出来に満足できなかったのか、すぐにリズム楽器なしの作品に挑みます。その相棒は、ジャズ・ギタリストのジム・ホール、元々メロディーを生み出すための楽器、ギターとピアノがお互いにアドリブでやり取りをしながら、一つの音楽を生み出して行くというのは、それまでにない画期的な試みでした。しかし、この作品「Undercurrent」(1962年)はけっして実験的な作品にありがちな分かりにくい作品にはならず、実に聞き易い彼にとっての代表作となりました。(ジャケット写真の美しさも魅力です!)
<新しい挑戦、自分との共演>
ギターとピアノ、一対一の他流試合の成功に気をよくしたビルは、さらにもうひとつ先を行く共演作に挑みます。それが、オーバー・ダビングによる自分自身との共演作「自己との対話
Conversations with Myself」です。彼はよりストイックにピアノと自分自身を追求して行きました。
1973年には日本に来日し、日本における自分の人気に驚くことになるビルは、サルトル、フロイト、プラトンらの愛読者であると同時に、日本の文化である禅にひかれており、水墨画も大好きだったようです。彼の無駄を省いたシンプルで美しい演奏スタイルは、日本文化特有の「わび、さび」から来ていたのかもしれません。
<ライブ・アルバム、ソロ・アルバム>
1968年、彼はジャック・デジョネット(Dr.)、エディ・ゴメス(Bass)とトリオを組み、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演。ライブ・アルバム「Evans
at the Montreux Jazz Festival」が発売されます。さらに1969年には、初のピアノ・ソロ・アルバム「Alone」を発表しました。
<悲劇の季節>
しかし、その後再び彼を悲劇が襲います。離婚したばかりの彼のもとの妻エレインがニューヨークの地下鉄に飛び込んで自殺してしまったのです。当時、彼は麻薬にどっぷりと浸かっていましたが、この悲劇は彼をさらに麻薬の深みへと追いやって行きました。
悲劇はそれだけでは済みませんでした。1979年に彼はピアニストでもありピアノ教師でもあった実の兄のためにアルバム「We
Will Meet Again」を発表しますが、この作品を聴くことなく彼の兄が自らの頭を銃で打ち抜いてしまったのです。
この悲劇が彼を襲った時、すでに彼の身体は麻薬と栄養失調によって、取り返しのつかない状態になっていました。
1980年9月15日、彼はクラブ・ファッツ・チューズデイでの演奏中に倒れてしまい、そのまま息を引き取ってしまいました。直接の死因は、出血性潰瘍と気管支肺炎でしたが、肝炎とドラッグの乱用によって、すでに彼の身体はボロボロになっていたようです。
<ジャズにこだわり続けた男>
1970年代、彼ほどジャズにこだわり続けたアーティストはいなかっったかもしれません。マイルスを筆頭にして、多くのミュージシャンたちがフュージョン化、ロック化を試みて話題作を発表してゆく中、彼は伝統的なピアノ・トリオなど純粋なスタイルにこだわり続けました。
彼がガラス細工のように繊細で美しい独自のピアノ・サウンドを構築できたのは、彼がジャズ界における異端的存在、白人であると同時に誰よりも「もろい心」の持ち主だったせいかもしれません。
<締めのお言葉>
「ビルの演奏には、いかにもピアノという感じの、静かな炎のようなものがあった」
マイルス・デイビス
参考資料「季刊ジャズ批評 ビル・エヴァンス」
「マイルス・デイビス自叙伝」マイルス・デイビス、クインシー・トループ(著) 中山康樹(訳)
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