- ビリー・ホリデイ Billie Holiday
& カフェ・ソサエティ -

<歴史的名曲の謎>
 20世紀のポピュラー音楽の歴史をながめていると、そこには社会の変化に連動して、生まれるべくして生まれた歴史的なヒット曲が存在することに気づかされます。そんな歴史的名曲の中でも、一際輝きを放つ作品、それがビリー・ホリデイの代表曲である「奇妙な果実」です。
 1950年代から1960年代後半にかけてアメリカ中を揺るがした黒人解放運動の大きな流れは音楽の世界にも当然のごとく大きな影響を与えました。サム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム A Change Is Gonna Come」やジェームス・ブラウンの 「Say It Loud.I'm Black and I'm Proud」、それに公民権運動におけるテーマ曲的存在だった「We Shall Over Come」など、名曲は数多く存在します。しかし、それより前の50年以前にはそうした曲はほとんど見当たりません。しかし、1939年という遙か昔に黒人差別の問題を直接的に訴えかける衝撃的な歌詞をもつ曲、「奇妙な果実」が存在していました。そのうえ、その曲を歌っていた歌い手は迫害されることなく、逆にその曲は見事ヒットしたというのです。このことは僕も以前から気になっていて、なぜ10年もの空白があるのか?その理由を知りたいと思っていました。この疑問の答えがわかったのはつい最近のことです。それはデヴィッド・マーゴリックによって書かれた「ビリー・ホリデイと<奇妙な果実>」という本のおかげでした。
 どうやらビリーは「奇妙な果実」という曲を歌うことでいち早く1950年代への扉をこじ開けてしまったようです。そして、もしかするとそうすることで彼女は自らの寿命を縮めてしまったのかもしれません。

<悲惨な少女時代から歌手時代へ>
 ビリー・ホリデイは1915年4月7日フィラデルフィアで生まれたと言われています。母親は未婚の母として彼女を生みますが、結局彼女は養護施設で育てられることになります。しかし、それもほんのわずかの期間で、15歳になる前には彼女は売春宿で働くようになっていたといいます。
 そしてこの頃、彼女はベッシー・スミスやルイ・アームストロングの曲と出会い、自らも歌い始めました。こうした、彼女の悲劇的な青春時代については彼女の自伝「奇妙な果実 Lady Sings the Blues」に書かれています。(内容的な真偽については怪しい部分もあるようですが、彼女の生き様を考えると責めることはできない気がします)
 歌手として本格的に活躍するようになった彼女は1920年代後半には、黒人芸能の中心地ニューヨークのハーレムで歌うようになります。そして、1933年レコード・プロデューサーのジョン・ハモンド John Hammondが彼女の歌を気に入り、自らが育てた当時人気絶頂のベニー・グッドマンやカウント・ベイシーらの楽団と彼女を共演させます。このチャンスを活かした彼女は一気にその知名度をあげて行きました。
 当時の彼女はしっとりとしたラブ・バラードを歌う他のジャズ・ヴォーカリストたちと歌う曲に関しては大差ありませんでした。しかし、その表現力に関しては謎に包まれたその悲惨な生い立ちの影響があったのか、他のアーティストたちとは違う優れたものをもっていました。だからこそ彼女は、ニューヨークで当時話題のナイト・クラブ「カフェ・ソサエティ」の専属歌手という地位を得ることができたのです。

<カフェ・ソサエティ>
 実は「カフェ・ソサエティ」の存在こそ、ビリー・ホリデイと「奇妙な果実」の出会いの場であり、その曲が歌われることが許された数少ない場所のひとつでもありました。早すぎたはずの歴史的名曲を守り、育て、世界へと広める「孵化器」の役目を担ったのが「カフェ・ソサエティ」だったのです。
 「カフェ・ソサエティ」とは、やり手の靴のセールスマン、バーニー・ジョセフソンという人物がグリニッチ・ビレッジにあったもぐり酒場を改装してオープンさせたナイト・クラブでした。その店の常連客は知識人、作家、各界の有名人、進歩的な学生、芸術家など様々でしたが、けっして気取った上流階級のための店ではなく、逆に急進派、左派、自由主義者たちなどが集まる進歩的な雰囲気に満ちあふれた店でした。そのため、店内には黒人も自由に出入りでき、当時としては珍しい画期的な存在でした。
 女性のヌードを見せ物にすることもなく、みだらなギャグを聞かせることもなく、白人に迎合する黒人たちのショーを売り物にすることもない。当時としては非常に珍しいタイプのナイト・クラブ、それが「カフェ・ソサエティ」でした。その常連客の中には、チャーリー・チャップリン、エロール・フリン、ローレン・バコール、リリアン・ヘルマン、ラングストン・ヒューズなど、一癖二癖ある有名人たちもいました。
 こうした、進歩的な素晴らしい観客に恵まれたからこそ、「奇妙な果実」という過激な歌は1930年代という早い時期に存在しえたわけです。もちろん、この歴史的名曲を作ったこれまた時代の先を行く人物の存在もまた、この名曲の誕生物語にとって重要なのは言うまでもありません。

<エイベル・ミーアポル>
 「奇妙な果実」の存在は有名でも、以外にその作者の名前は知られていないようです。それは、一時期ビリー・ホリデイがこの曲の詞を作ったのは自分だと言っていたりしたせいかもしれませんし、それが白人だったせいかもしれません。
 ブロンクスにある高校で教師として働いていた白人のエイベル・ミーアポルは妻とともに共産党に入党していました。しかし、当時アメリカで共産党員であることは、社会的な地位を維持するためには秘密にする必要がありました。その後、マッカーシーによる赤狩りが始まると、さらに彼らは危険な状況に追い込まれますが、二人は秘密共産党員として活動を続けています。しかし、ミーアポルの隠された顔はそれだけではありませんでした。彼にはルイス・アランというもうひとつの名前、ペンネームがありました。彼はこの名前を用いて「作家」「作曲家」「詩人」としての仕事をしており、そうして稼いだ中から共産党に寄付をし続けていました。彼は数多くのミュージカルや芝居の台本を書き、その後教師をやめてからは映画などの音楽を専門に作曲する作家として活躍することになります。(ビリーの自叙伝「奇妙な果実」には、彼の名前は偽名のルイス・アランとして登場しています)

<「苦い果実」との出会い>
 ミーアポルは進歩的な人物だったこともあり人種問題にはもともと関心を持っていました。しかし、ある日公民権運動の雑誌を見ていて、大きな衝撃を受けます。それは、南部のどこかで写された写真で、リンチをされてぶら下げられた黒人の無惨な姿が写されていました。当時、すでに黒人がリンチにあうことは減っており、珍しいことになりつつありましたが、未だにアメリカ国内でこうしたことが行われていることを知った彼は、その時の思いを一編の詩に込めました。その詩のタイトルは「苦い果実 Bitter Fruits」。彼は自らこの詩に曲をつけ、彼の妻や黒人の歌い手たちに歌ってもらうようになります。当初その発表の場は、あくまで仲間内の集まりに限られていました。しかし、しだいにその曲は評判になり、政治的な集会などの場でも歌われるようになります。そして、ある時前述のカフェ・ソサエティのオーナー、バーニー・ジョセフソンがこの曲を耳にしました。

<ビリーと禁断の果実>
 ある日ミーアポルは、ジョセフソンに呼ばれてカフェ・ソサエティを訪れます。そして、ビリー・ホリデイの前でピアノを弾きながら「苦い果実」を歌ってみせました。初め彼女はそれほどその歌を歌うことに対し積極的ではなかったようです。その曲は歌詞は衝撃的ではあっても、曲自体はそれほど目新しいものではなく、彼女にとってそう魅力的には映らなかったのかもしれません。しかし、その後彼女がある小さなパーティーでその歌を歌ったところ、その場にいた人たちが感動し、是非それを歌うべきだと彼女に勧めてくれました。こうして、ついに彼女はその曲を自分のレパートリーに加える決意を固めたのでした。

<カフェ・ソサエティにて>
 1939年のある日、その歌は初めてカフェ・ソサエティの舞台上で披露されました。彼女が歌い終わると観客席ではしばらく沈黙が続き、その後拍手がわき起こり、人々は口々に彼女の歌を讃えました。何の偏見ももたず、素直に芸術を愛することのできる素晴らしい聴衆に見守られこの曲は幸福なデビューを飾ることができたのでした。もちろん、オーナーのジョセフソンは、その曲にちょっとした演出を加えていました。
 彼女のステージにおいて、常にこの曲はラストを飾ることになり、その後彼女はいっさいアンコールを受けず、そのまま歩いてステージを降りるようになります。さらにこの歌を歌うとき、明かりのほとんどは消され彼女にスポットをあてることで観客の心を歌に集中させ、うるさい観客は店から追い出す場合もあるなど、徹底的に曲の雰囲気作りにこだわりました。
 こうして、「奇妙な果実」は彼女のテーマ曲的な存在となり、カフェ・ソサエティの人気とともにその名がしだいに店の外、ニューヨークから全米へと広がって行きました。

<レコード化に向けて>
 カフェ・ソサエティとともに有名になった「奇妙な果実」でしたが、そのままでは歴史的名曲と呼ばれるまでにはならなかったはずです。より多くの人に聞かせるためには、やはりレコード化が必要でした。しかし、この曲のレコーディングについて、彼女の所属するコロンビアはあまりに内容が過激であるとして及び腰でした。この曲をレコード化して発売することは、コロンビア・レコードが抱える南部の顧客たちを敵に回すことが明らかだったからです。そして、もうひとつプロデューサーのジョン・ハモンドが、「奇妙な果実」という曲を気に入っていなかったからでもありました。その曲は、けっしてジャズっぽくなく、メロディーが美しいわけでもなかったことから、ビリーにはむいていないと思ったからでした。実際「奇妙な果実」が発売された当初、このレコードが売れたのは、カップリングされていたもう一つの曲「ファイン・アンド・メロー Fine and Mellow」のおかげだったとも言われています。
 結局、この曲は左翼系の小さなレーベル、コモドア・レコードによって録音、発売されることになりました。しかし、レコード化はされたものの、弱小レーベルからの発売では販促活動もままならず、当初は販売エリアもごく小さな範囲に限られていました。そのうえ、ラジオ局はこのあまりに刺激的な歌詞の曲をかけようとしなかったため、その存在を知らせるには一部の雑誌や口コミに頼るしかありませんでした。そんなわけで、このレコードは1945年までの5年間で5万枚程度の販売枚数にとどまっていました。(もちろん、当時のレコード販売枚数からすれば十分ヒットと呼べる枚数ではありましたが・・・)

<ヒットの裏側で>
 彼女は「奇妙な果実」のおかげでいよいよその人気はピークに達し、アーティストとして充実した時期を迎えようとしていました。
 しかしその反面、私生活の方は母親の死や暴力によって彼女を虐待し続けた男の存在などによりボロボロの状態になっていました。
 すでにマリファナとアルコールにどっぷりつかっていた彼女は、1940年代に入るとより習慣性の強いヘロインに手を出すようになります。1947年には、ついに麻薬治療のためにニューヨークの病院に入院しますが、そこから抜け出すことはできず、ついに麻薬の不法所持で逮捕されてしまいます。ペンシルヴァニアの連邦刑務所に収監された彼女は、そこで一年近く過ごして後に出所しますが、すでに彼女にかつての面影はなく、ふくよかだった肉体はげっそりと痩せ衰え、ダブダブの衣装を来た彼女の姿を見て多くの観客が「死」を予感するようになりました。
 1959年2月彼女はイギリスに渡り、テレビ放映用のコンサートに出演しました。その時「奇妙な果実」を歌った彼女の鬼気迫る姿は、まるでその曲で歌われている木からぶら下げられた腐りかけの死体を思わせるほどの迫力だったといいます。すでに彼女の精神と肉体はギリギリのところまで来ていました。
 1959年7月17日彼女はこの世の苦しみから救われるようにして、静かに天国へと旅立って行きました。

<その後の「奇妙な果実」>
 「奇妙な果実」は、有名な曲の割にはあまりカバーされていないかもしれません。実際彼女が歌っていた当時、その曲をカバーしていたのは黒人フォーク・シンガーのジョシュ・ホワイトぐらいで、その後1960年代にニーナ・シモンがカバーして以降、しばらく目立ったカバーは現れませんでした。
 この曲はあまりに暗く直接すぎる内容であったため、かえって黒人アーティストには敬遠されるようになってしまったようです。そのためか、1980年代以降逆に白人のアーティストたちがこの曲をカバーするようになりました。
 UB40(1980年)、スージー&ザ・バンシーズ(1987年)、スティング(1986年)、ロバート・ワイアット(1986年)など、彼らによってカバーされることで、リンチによって殺された黒人たちのことを歌っていた曲は、より広い範囲の差別と暴力についての曲へと変身をとげたと言えるのかもしれません。その分、かつての毒気は薄められてしまったのかもしれませんが、同じ黒人ジャズ・ヴォーカリスト、カサンドラ・ウイルソンのカバーは十分に刺激的な歌に仕上げられています。(アルバム「ニュー・ムーン・ドーター」収録)

<「奇妙な果実」のもつ意味>
 1960年代末にピークを迎えることになる公民権運動。「奇妙な果実」は、20年近く前にその運動を先取りする形でニューヨークから全米へと拡がり始めました。
 ビリー・ホリデイは、『「奇妙な果実」は頑固な偏見をもつ人と真っ直ぐな人をわける力がある』と言いました。確かに一度でもこの曲を聴いたことがある人で、良識をもつ人なら、その後公民権運動が拡がりをみせた時、迷うことなく人種差別に対し「No ! 」と言ったかもしれません。
 歴史の流れは急激な変化を見せるように思えても、その底流にはもっと長い周期をもつゆったりとした流れもあり、静かに少しずつ時代を変え続けているのではないでしょうか。
 「奇妙な果実」は、「進歩的なカフェのオーナーと客たち」それと「時代を先取りする優れたソング・ライター」この奇跡的な出会いによって、生まれた時代を揺り動かす静かなる革命宣言だったのかもしれません。

<締めのお言葉>
「ユダヤ人はドイツで何が起きたかを、繰り返し世界中に言い続けている。だから黒人も世界に向かって、合衆国で、あるいはジェームス・ボールドウィンがいつか言った”まだ合衆されていない国”で起きたことを語り続けなければならない」

マイルス・デイヴィス自叙伝」より


<追記>2012年4月
「・・・彼女はふと思う。生まれ落ちたそのときから、私たちの人生には、損なわれるための種子が蒔かれていたのかしら、と。数年はなんとかごまかせても、結局は避けがたい損壊に至るように。酒、麻薬、刑務所、・・・・・ジャズ・ミュージシャンは早死にするのではない。ただ早く老いるだけだ。これまで歌ってきたあまたの唄の中で、彼女は一千年も生きたのだ。・・・・・」
ジェフ・ダイヤー(著)「バット・ビューティフル」より

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