- クロード・モネ Claude Monet -

<19世紀最後の画家>
 クロード・モネといえば、印象派の画家としてのイメージが一般的でしょう。その点では、彼は19世紀を代表する画家ということになります。しかし、彼が20世紀に入ってから描いた作品群は印象派のイメージからはどんどん離れてゆきました。ジャズ界におけるセロニアス・モンクのように、彼はワン&オンリーの存在として独自の道を歩み、それは20世紀も後半になったやっと理解されるようになります。自然を描きながら、そこからまるで抽象絵画のような不思議な世界を生み出した画家。クロード・モネは、いち早く19世紀から20世紀へと踏み出した偉大な先駆者だったといえます。

<生い立ち>
 クロード・モネ Claude Monetは、1840年11月14日にフランスのパリに生まれました。父親は食料品や船具を扱う問屋で働いていて美術との関わりはまったくありませんでした。5歳の頃、彼はフランス北部の港町ル・アーヴルへと引越します。子供の頃から絵が上手かった彼は戯画(カリカチュア)という似顔絵が得意でした。そして、そのおかげで地元の有名な風景画家ヴェーヌ・ブーダンと知り合うことになります。こうして、彼は大自然を描く難しさや喜びを知り、本格的に画家としt生きて行くきっかけとなりました。彼はそのブーダンとの出会いについてこう語っています。
「私の眼はついに開かれた。私は本当に自然を理解するようになり、また自然を愛することを知ったのだった」

 1859年、彼は本格的に絵画を学ぶためパリに出ます。画塾アカデミー・シュイスに入った彼は、そこで彼の印象派の仲間ピサロと出会いました。
 1862年、故郷の海を描いた作品をサロンに出品し、それが入選します。翌年には恋人カミーユを描いた作品「緑衣の女性」で再びサロンに入選し、早くも有名画家の仲間入りをしました。
 1873年、彼はルノワール、ドガらと「共同出資会社」を設立。翌1874年に第一回の展覧会を開催。それが絵画史に残る「印象派」グループの誕生につながります。

<印象派誕生>
 1874年4月15日、パリ、カピュシーヌ大通りにある写真家ナダールのスタジオで行われた展覧会の正式名称は「画家、彫刻家、版画家など、美術家の共同出資会社による第一回展」でした。当時、画家たちが作品を発表できる場は、実質的にサロンの発表会に限られていました。そのうえ、王制が共和制に変わり、貴族階級の力も衰えたことから、パトロンとして美術界を支える階層が急激に減ったため、アーティストたちは自らの力で作品を発表する機会をつくる必要に迫られていました。
 さらにサロンは保守的な審査員が作品を選ぶことから新しいスタイルを受け入れず、若い画家たちは不満を感じていました。なんとか自分たちの力で民主的に展覧会を開き、作品を販売できるようにしたい。こうした理由から、彼らは共同出資会社を立ち上げることにしたのでした。
 そんな彼らの作品になぜ「印象派」という名前がつけられたのか?
 ルイ・ルロワという美術批評家は展覧会を訪れた際、その新しさが理解できず、新聞に批判的な記事を書きました。その中で、彼はその展覧会に出品していた作家たちを、その中心人物だったモネの作品タイトル「印象、日の出」にちなんで「印象派」と揶揄したのがきっかけでした。当初は悪い意味で使われていたのですが、彼らを擁護する批評家たちも「印象派」という呼び方を使ったため、いつしかその呼び名が定着したのでした。
 では「印象派」の絵画とは、どこが新しかったのか?
「モネは、パレットの上で絵の具を混ぜる代わりに、画布の上に基本色の斑点を適当にあんばいして並べ、或る距離をおいて画面を眺める時、これらの斑点の反射光が、重なりあって網膜に映じ、真実の混色の効果をもたらす様、そういう工夫を案出した。・・・・・」
小林秀雄(著)「近代絵画」より

<作品の数々>
 1869年の「ラ・グルヌイエール」で水に浮かぶパリのお洒落なカフェを描いた彼は、早くも独自の水の描き方をしています。しかし、彼がパリのお洒落な風俗を描くのはこの頃までとなります。
 1871年、パリから離れアルジェントゥイユに家を借りた彼は、その後は庭に咲く花々や周りの野山などの風景を描くようになりました。この時期の代表作となったのが、愛妻カミーユと息子のジャンを描いた「散歩、日傘の女性」(1875年)です。あまりにも有名なこの肖像画は、いかにモネが妻を愛していたのかの証でもありました。ところが、この絵が完成した4年後、彼は妻を病で失ってしまいます。その悲しみがいかに深いものだったのか、それは彼がこの時描いた「死の床のカミーユ」(1879年)を見れば明らかでしょう。
 彼が体験した「喜びの瞬間」と「哀しいの瞬間」を描いたこの2作品は、人生における2つの大切な瞬間を一枚のキャンバスに見事に閉じ込めることに成功しています。もしかすると、その後、彼が風景や花々を描くことにのめりこんでゆくきっかけは「愛する者の死」だったのかもしれません。どちらにしてもカミーユの死によって受けた衝撃は、彼の作家活動に大きな影響を与え、翌年、翌々年の印象派展に彼は作品を出品することはありませんでした。そんな悲しみを癒すためだったのか、1880年代、彼はフランス国内を旅をしながら多くの作品を描いています。ノルマンディー地方や地中海沿岸、ブルターニュ地方のベリール島などで海岸や島の風景を描きながら、彼は風景が時間によって、天候によって、いかに変化するものであるかに気づかされ、その主な原因となっている「光」の存在にさらに強く着目するようになりました。

<光を描く試みの初まり>
 同じ場所で同じアングルの風景を描いても、時々刻々と変化することに改めて驚かされた彼は、「光」の変化を「連作」という形で表現し始めます。
 彼の連作は、すでに1877年第三回印象派展に出品していたサンラザール駅の風景から始まっていました。同じ駅を同じアングルで描いた二枚の絵は、晴天と曇り、二つの違いを見事に描き分けていましたが、それをさらに推し進めたのが、1890年の夏から彼が描き始めた「積みわら」の連作です。
(ところで、「積みわら」と日本では訳されていますが、実際にここで描かれているのは刈り取られた麦の穂で、「積み麦の穂」が正確なようです)
 1891年の5月に行われた彼の個展で「積みわら」の連作15点が先ず発表され、大きな話題となりました。季節はずれの畑の中に「積みわら」が置かれた寂しい風景は、一枚だけなら、何の注目も浴びなかったかもしれません。しかし、様々なアングル、様々な時間、様々な光の下で浮かび上がる「積みわら」は、元々それが豊かな農業国フランスの象徴的風景だったこともあり、見るものに様々なイメージを与える存在になりました。モネは、その後、「ポプラ並木」の連作や「ルーアン大聖堂」の連作などを制作しています。それらは単に同じ風景を異なる時間に描いた作品を並べただけではあく、同時に並べることによって「時間」、「光の変化」、「季節」など、一枚の絵画では描ききれない概念を見る者に感じさせる新しい芸術スタイルだったとみることも可能でしょう。
 そして、そうした「時間」や「季節」を表現するために、逆に彼はその瞬間を絵画の中に閉じ込めることにこだわり続けることになります。

「『積みわら』の様々な光の効果の連作に夢中なのですが、近頃は陽が早く沈むので、追いつくことができません。しかし、描き進めるにしたがって、私が求めているもの - 「瞬間性」、とりわけ周囲を包むもの、いたるところに輝く均一な光 - を表現するためには、もっと努力しなければいけないことが分かるのです。・・・・・」
批評家のジェフロワにあてたモネの手紙より(1890年)

 彼は目の前に存在する風景をカメラのように瞬間的にとらえるためには、どうすればよいのか?モネという画家は、そのための手法に挑戦し続けた究極の「技術者」なのかもしれません。

「彼(=芸術家)の自然との交感は、他の人々より、もっと直接的である。もっとも賞讃される芸術家とは、自然が隠している神秘にもっとも近づいた人であり、またもっとも謙虚な人である」
批評家オクターヴ・ミルボー「二つの世界の芸術」より

 多くの科学者が科学の言葉によって宇宙を表現しようとするほど、「神の存在」や「神秘的な力」の存在にひきこまれていったことは、よく知られています。(あのアインシュタインも、神の存在を信じるがゆえに宇宙は数学的に美しくなければならないという信念を持っていたため、不確定性理論という「美しくない」理論を認めなかったのです)
 「光」を絵の具によってキャンバスに写し取るという究極の絵画技術に挑み続けた彼の挑戦は、技術の追求という目的をもっていましたが、そこから現れてきたのは単なる写真のような絵画ではなく、「生命のいとなみ」や「大自然の偉大さ」を感じさせるよりスケールの大きな抽象絵画作品を生み出すことにつながっていたと見ることもできます。
<水に写る影を描く試み>
 彼の瞬間をとらえようとする試みは、物やその影を描くだけでなく、その物が水面に映し出す「反映」にも及んでゆきます。1900年11月に開かれた彼の個展で発表された「睡蓮」の連作13点(第一連作)は、その最初の試みでした。彼は友人でもある批評家のジェフロワへの手紙にこう書いています。
「水と反映の風景に取り付かれてしまいました。年老いた私の手に負えないものですが、感じているものを何とか描き出したいと思っています」

 この時、モネはすでに68歳。当時の平均寿命からすれば、かなりの高齢であり、白内障による視力の低下により、彼は失明の危機にもありました。それでも、彼は水とそこに浮かぶ反映を描き出すことにこだわり続け、第一連作を描き上げ、その中の48点を発表します。ところが、それから2年後の1911年、彼の二人目の妻アリスが死去、さらには、1914年に長男のジャンまでもがこの世を去り、彼は悲しみに打ちひしがれます。しかし、彼の表現へのこだわりは70歳を過ぎてなお衰えておらず、1923年、83歳という高齢で彼は白内障の手術を受け、視力を取り戻すと、再び筆を取り、作品を描き始めました。
 1926年、86歳でこの世を去るまで、彼は自らの目で見たイメージをキャンバスに描き写す作業を続けました。こうして描き上げられた「睡蓮」の連作は、彼の願いに従ってオランジュリー美術館に寄贈され、彼の死の翌年に飾られました。それも彼が生前思い描いていた「睡蓮」によって部屋を埋めるという構想どおり、二つの楕円形の部屋を巨大な8枚の「睡蓮」の絵で囲むという特別な展示方法が用いられています。その展示室に飾られた彼の作品群は、それまでの「絵画」の枠をすでにはみ出した「環境芸術」という20世紀に登場する新たな創作活動の先駆けだったといえるでしょう。彼が亡くなる前の年、第一回シュルレアリスム展が開かれ、新しい芸術表現のスタイルとして抽象絵画が登場することになります。

<心を写し撮る試み>
究極の具象を追及したモネの作品は、目で見た世界をキャンバスに再現したいという多くの画家の願いを実現するための最後で最大の挑戦となりました。それは、19世紀末に「カメラ」という「世界」を写し撮る技術が発明されたことで、画家の役割は、「世界」を写し撮ることから「心」を写し撮ることへと変わっていったからです。
 モネはそうした世の中の動きとは関わりなく、自らの求めるイメージを再現し続けたある意味「ドンキホーテ」的な存在だったのかもしれません。しかし、時代が過ぎて彼の作品を今改めて見ると、そうした彼の熱い思いがこめられた作品の数々ほど、一人の男の「心」を描いた作品はない、そう思える気がします。彼の残した絵画は、具象絵画として「世界」を写し撮ったものと見ることもできますが、抽象絵画として、彼の心を写し撮ったものと見ることも可能に思えるのです。
 あらゆるジャンルにおいて、たとえそれが「芸術」と呼ばれるジャンルではなくても、人がその究極の存在を目指して挑戦した結果は、見る者、読む者、聞く者を感動させるものです。

<参考資料>
「モネ - <睡蓮>への歩み - 」
六人部昭典(著)
六耀社

「近代絵画」
小林秀雄(著)

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