- フランシス・フォード・コッポラ Francis Ford Coppola -

<すべての道は映画に通ず>
 フランシス・フォード・コッポラ、彼ほど映画監督になるべく地道に努力を積み重ね、それを着実に実現させた人物は珍しいかもしれません。彼の人生は、自分の撮りたい映画を撮るための長い長い準備期間とその実現の瞬間、その二つに凝縮されています。彼の人生を改めて振り返って見ると、彼がしてきた人生の選択は、すべて映画を作るためだったことがわかります。
「すべての道は映画に通ず」
 なんと幸福な人生!と言いたいところですが、そのために彼は多大な努力をしてきたのも確かです。そして、その努力こそが「ゴッドファーザー」にどのように映画にもないほどの歴史の重みを与え、「地獄の黙示録」のようなとんでもないスケールの映画を作る原動力となったのです。

<映画少年コッポラ>
 フランシス・フォード・コッポラは、1939年4月7日ミシガン州のデトロイトに生まれました。父親はミュージカル・コメディの管弦楽指導者で後に彼の作品の音楽も担当することになるカーミン・コッポラ。トスカニーニの元でフルート奏者だったこともあるという優れた音楽家の父により、彼は音楽教育を受けました。
 さらに、家に録音機材や8mm映写機などもそろっていたため、彼は早くから映画に興味をもつようになり、8歳の時には自分で映画を作り近所の子供たちに入場料を取って見せていたそうです。すでにこの時から彼は映画の監督であり、製作者でもあったわけです。

<映画のための学生時代>
 1956年、彼はニューヨーク州へムステッドにあるホフストラ大学に入学します。そこで彼は映画ではなく演劇に熱中し、父親の影響によって得意としていたミュージカルのオリジナル台本を書き、自ら演出、歌詞も担当、数々の演劇賞を受賞しました。しかし、この頃の彼のヒーローは映画界の伝説的監督エイゼンシュタインで、彼にとって演劇はあくまで映画を作るための基礎固めと考えられていたようです。彼はソ連が生んだ映像作家エイゼンシュタインを神とまで崇め、そのフィルムの研究に余念がありませんでした。そして、舞台の演出からは舞台装置の作り方、照明のノウハウなど、映画作りに役立つ多くのこと学びました。
 1960年彼はいよいよ映画の道を本格的に進むため、映画課のあるカリフォルニア大学に入学、映画監督への最短コースを歩み始めます。それまで映画監督になるためには、有名監督の元で長く助監督の下積みを経験する必要がありましたが、彼は大学の卒論で映画を提出し、そこから一気に映画監督へと進んだ最初の人物だったと言われます。(もしくはテレビ界で活躍するという道もその頃には生まれていましたが、・・・)

<プロの道へ>
 彼は大学に入学するとさっそく映画を撮り始めます。映画の聖地カリフォルニアでは、作品を選ぼうとさえしなければとりあえず映画の監督をすることは可能でした。ただし時代は1960年代。芸術の世界ではコマーシャルに対する批判が高まり、芸術性のかけらもない娯楽映画を撮ることはアーティストとしての誇りを棄てることであると非難される時代でした。
 しかし、「映画監督になって撮りたい映画を撮る」という目標をもつ彼は資金と実績を得るためなら作品の内容にこだわるようなことはありませんでした。
 そんなわけで彼が商業用映画として最初に撮ったとされる作品が「グラマー西部を荒らす」(1961年)です。(内容はタイトルどおりで説明するほどのものではありませんが、・・・)その後、彼はロジャー・コーマンのプロダクションに入り新たなチャンスをつかみます。

<ロジャー・コーマン>
 ロジャー・コーマンは、1926年シカゴ生まれの映画監督兼プロデューサーとして1970年代を中心に大活躍をした人物です。1953年にプロダクションを設立し、低予算のアクション、恐怖、SF、オカルト映画などのB級映画を次々にヒットさせました。「機関銃ケリー」「アッシャー家の惨劇」「恐怖の振り子」などをヒットさせると同時にスタッフとして雇った若者たちを育てることで70年代以降の映画界に大きな影響を与えました。というか、20世紀後半のアメリカ映画界を育てた最大の功労者なのかもしれません。
 彼の元から育っていった監督、俳優たちの中には、コッポラ以外にも、ピーター・フォンダ、ピーター・ボグダノヴィッチ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン、モンテ・ヘルマン、ブルース・ダーン、ジョン・セイルズマーティン・スコセッシ、ジョー・ダンテ、ジョナサン・カプラン、ジョナサン・デミ、ロン・ハワードなど、驚くほど数多くの名監督、名優が彼の出資で映画を作ったり、俳優としてデビューしています。

<本格的デビュー>
 コッポラは自らのアイデアをコーマンに持ち込み映画化のための出資と協力を得て、本格的な処女作の撮影を開始しました。映画のタイトルは「恐怖の棲む館」。オカルト系の恐怖映画ですが、脚本もコッポラが自ら書き上げたオリジナル作品でした。ただし、この映画はアイルランドのダブリンで撮影を行った作品であり、たいしてヒットもしなかったことから彼の名がハリウッドで知られることにはなりませんでした。

<結婚、サイドビジネス>
 やっと監督としてのスタートを切ったばかりのコッポラでしたが、「恐怖の棲む館」撮影中に知り合った女性に一目惚れ、その後すぐに結婚します。食べて行くためには、監督業にばかりこだわっていられなくなります。こうして、彼のもうひとつの仕事、脚本作家業というサイドビジネスがスタートすることになります。
 ジョージ・ヒューストン監督の「禁じられた情事の森」、シドニー・ポラック監督の「雨のニューオーリンズ」、ルネ・クレマン監督の大作戦争映画「パリは燃えているか」、そしてフランクリン・J・シャフナー監督の傑作戦争映画「パットン大戦車軍団」(この作品でコッポラは1970年度のアカデミー脚本賞を受賞しています)。どれも一流監督の有名な作品ばかりで、彼の名前は一気に有名になりました。
 こうして、脚本家としてやっとお金を稼げるようになった彼は、個人的に映画化権をおさえていた小説「きみはもう大人だ」を自らの手で映画化するチャンスを得ます。こうして、苦労の末に完成した「きみはもう大人だ」は1966年に公開されますが、評価は今ひとつ。それでも彼には次なる企画、舞台ミュージカル劇の「フィニアンの虹」映画化の依頼が来ます。実はこの作品20年以上も前に初演された作品で、長い間のすったもんだの後やっと映画化が決まったという曰く付きのものでした。当然、映画化は決まったものの古くさすぎる内容に監督の受け手がいないというのが現状だったのです。なにせ時代は激動の60年代後半です。そこで監督としてミュージカル劇の演出経験があるコッポラの名前があがってきたわけです。
 しかし、いかにコッポラに才能があっても、古くさい題材、予算の不足、振り付けスタッフの人材不足などが足かせとなり、結局この作品は失敗作となります。ただし、この作品は初めからたいして期待されていなかったので、彼は無難にこなしたとして映画界からそれなりの評価を得ることになります。(このあたりがハリウッド映画界の変なところでもあります)

<「雨のなかの女」>
 おかげで、すぐに彼は次回作を作れることになります。そして、その作品「雨のなか女」(1969年)によって、初めて彼は映画監督として高い評価を得ることになります。主婦版イージー・ライダーとも言えるこのロード・ムービーは、コッポラが脚本を書き、全米を実際にバスで旅しながら撮影されました。この作品の斬新な製作手法と時代を切り取る優れたセンスは海外でも高い評価を受け、サンセバスチャン国際映画祭で最優秀作品賞と監督賞を受賞。やっと彼の名は海外でも知られるようになりました。
 「フィニアンの虹」では、多くの監督が嫌がった作品を無難にこなし、なおかつ「雨のなかの女」によって芸術性の高い作品も撮れることを証明した彼にいよいよビッグ・チャンスがめぐってきます。

<「ゴッド・ファーザー」>
 マリオ・プーゾ原作の超大作「ゴッド・ファーザー」の監督は、その受け手がなくなんと12名もの監督がオファーを断ったと言われています。それまでタブーとされていたマフィアがらみの作品ということでトラブルが発生する可能性が高かったこと。今まで悪役としてしか描かれていなかったギャングたちを主人公とする歴史ドラマがヒットするとは思えなかったこと。とはいえ、大ベストセラーの映画化であり、大金を投じる超大作になることは明らかなため、大ヒットしなければ採算がとれないことも明らかでした。そうなると、大物監督たちも怖じ気づいて手が出せず、監督役が完全に中に浮いてしまったのです。
 これが歴史的超大作が当時まだ無名だったコッポラに回ってきた最大の理由だったようです。(もしかすると、3部作「ロード・オブ・ザ・リング」の監督が公開当時ほとんどその名を知られていなかったピーター・ジャクソンに決まったのもこれと同じ理由だったのではないか?ふとそんなことを思いました。一作目が転けたら後がない3部作を一気に監督するなんていう賭は大物監督には恐くてできなかったかもしれません。)

<アカデミー賞受賞>
 「ゴッド・ファーザー The God Father」(1971年)は見事に大ヒットしただけでなくアカデミー賞において最優秀作品賞、主演男優賞、脚色賞を受賞。文句なしに1971年を代表する作品となりますが、続くパート2、パート3も含め、シリーズ全体もまた20世紀を代表する質の高い作品となりました。ほとんどのシリーズものは、2作目、3作目と監督が代わるものですが、「ゴッド・ファーザー」はすべてコッポラ自らが監督しています。それだけ彼はこの作品に思いをこめていたのでしょう。そのうえ、続編のパート2については1作目をも越えるほどの傑作に仕上がっていました。これはめったに無いことです。
 このシリーズの撮影をすべて担当した世界的名カメラマンのゴードン・ウィリスは、パート2について、こう言っています。
「パート2は続編ではなく、取り直しの機会を与えられた作品だった。だから、撮影も構成も1本目より良いのは当然なんだ」

<カンヌ・グランプリ受賞>
 コッポラが凄いのは、こうして「ゴッド・ファーザー」という歴史的超大作を2本たて続けに撮っている間にも、スコット・フィッツジェラルドの原作を映画化した「華麗なるギャッツビー」の共同脚本、ジョージ・ルーカスの出世作「アメリカン・グラフィッティー」の製作、さらには自分の撮りたい作品として「カンヴァセーション The Conversation」(1974年)を準備製作し、見事にカンヌ映画祭グランプリを受賞していることです。

<映画を製作するための努力>
 アカデミー賞をとり、世界的な大ヒット作を生み出してもなお、彼は撮りたい作品を撮るためにお金を稼ぎ、それを湯水のように注ぎ込んではまたゼロからやり直すというデビュー当時と変わらない生活を続けたわけです。ただ作品につぎ込む金額が桁違いに増え、それとともに失敗によるリスクも巨額になったということです。日本が生んだ世界の巨匠、北野武は「映画とは俺にとって最も金のかかるオモチャだ」と言っていましたが、コッポラにとっても同様だったのです。
 ピーター・ボグダノヴィッチ、ウィリアム・フリードキンと設立したディレクターズ・カンパニーもまた、監督たち同志の協力体制によって、より映画を作りやすくしようという取り組みのひとつでした。
 ついでながら、彼は映画作りのための資金を稼ぐため、株に投資をして失敗したり、ワイン作りに手を出して会社を倒産させたりと、映画以外の分野での苦労も人並み以上です。この後の超大作「地獄の黙示録」でも危うく破産しかけます。このあたりは「地獄の黙示録」のページをご覧下さい!

<恐るべし、コッポラ・ファミリー>
 「すべては映画のために」それは彼の人生であると同時にコッポラ・ファミリーの歴史になろうとしているのかもしれません。父親のカーミンはニーノ・ロータ亡き後、「ゴッド・ファーザーPart3」の音楽を担当。そして、ソニーを奥さん役だったタリア・シャイアはコッポラの妹です。(映画「ロッキー」のエイドリアンと言った方が分かりやすいかもしれません)それに「ゴッド・ファーザーPart3」でデビューし、その後「ロスト・イン・トランスレーション」の監督としてその才能を開花させたソフィア・コッポラは彼の娘。そして、意外なことにニコラス・ケイジもまた本名をニコラス・コッポラと言い、コッポラの甥っ子になるそうです。恐るべし、コッポラ・ファミリー!
 いつか誰かが、映画作りに人生のすべてを捧げた伝説の監督とそのファミリーの物語として「コッポラ物語」を映画化する時が来ることでしょう。

<締めのお言葉>
「これからの映画は、ハリウッドのような世界の映画の中心地で作られることが少なくなるだろう。実際に物語が起こる所で作られるようになるだろう」

フランシス・フォード・コッポラ

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