
「さよなら、愛しい人 Farewell , My Lovely」(旧訳タイトル「さらば愛しき女」)
- レイモンド・チャンドラー Raymond Thornton
Chandler -
<村上春樹とレモンド・チャンドラー>
この小説の新約を担当した村上春樹は、昔からチャンドラーの大ファンとして有名です。彼の描くファンタジックでハードボイルドな世界とそこに登場するキャラクターは、誰もがそれぞれの確固とした生き方をもつクールな人物ばかりです。(悪役でも)当然、彼らのセリフもまた常に自信に満ちたもので、日本人とは思えないウィットに富んだ言葉を特徴としています。その世界は、かなり人工的な世界にも思えます。
しかし、そうした異世界を想像力によって構築し、その世界を読者に体感させることこそ、作家にとって唯一の仕事のはず。村上春樹の小説はまさにその究極の形ですが、その原点にあるのはあきらかにレイモンド・チャンドラーの小説です。ここではその村上春樹が自ら翻訳を行ったチャンドラーの代表作「さよなら、愛しい人」(旧訳版のタイトルは「さらば愛しき女」)を取上げ、その魅力に迫ろうと思います。
「チャンドラーの文章はあらゆる意味合いにおいてきわめて個人的なものであり、オリジナルなものであり、ほかの誰にも真似することのできない種類のものだった。チャンドラーの生きているあいだも、その死後も、彼の文体を真似しようと試みたものは数多くいたが、たいていはうまくいかなかった。そういう意味では彼の存在は、ジャズにおけるチャーリー・パーカーの存在に似たところがあるかもしれない。・・・」
村上春樹「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」より
<ファンタジックな犯罪小説>
けっしてファンタジーでもないし、スーパー・ヒーローが登場するわけでもないチャンドラーのフィリップ・マーロウものですが、改めて読んでみるとその世界はファンタジー小説と言っていいほど、リアルな犯罪小説とはかけ離れている気がします。もちろんそれは時代設定が古き良きアメリカの1930年代というノスタルジックな世界だからかもしれません。例えば、この小説のオープニングで重要人物のムース・マロイが登場する場面。その描写は実にロマンチックで映画「ゴッドファーザーPart2」で幼きドン・ビトー・コルレオーネがニューヨークへに一人たどり着く場面を思い出させます。
「彼はうっとりした表情を顔に貼り付け、頭上の汚れた窓を熱心に見つめていた。自由の女神像をはじめて目にしたヨーロッパからの移民みたいに」
<魅力的かつ詳細なキャラクター描写>
しかし、チャンドラーの世界はリアリズムを追求してはいなくても、その構築には一貫したセンスにもとづく実に詳細な描写が行われています。まるで映画を見ているかのように、読者の脳裏にはムース・マロイの人物像が描き出されるはずです。
「・・・目を向けるだけの価値のある男だった。けばだったボルサリーノ帽をかぶり、粗い布地のジャケットを着ていた。ジャケットにはボタンのかわりに白いゴルフボールが着いている。茶色のシャツに、黄色のネクタイ、プリーツのついたグレーのフランネルのズボンに、ワニ皮の靴、つま先は目映いばかりに真白だ。上着の胸ポケットからは、ネクタイと揃いの、鮮やかな黄色の飾りハンカチが咲きこぼれるように顔を出している。帽子のバンドには色のついた羽根が二本挟まれていたが、そんな装飾はまったく余分だった。セントラル・アヴェニューは決して穏やかな服装で知られた場所ではないが、それでも彼はエンジェル・ケーキに乗ったタランチュラみたいに人目をひいた。・・・」
こうした人物や建物、街並みの描写についてのこだわりは、彼の小説においては物語の本質に匹敵する意味をもっています。例えば、マーロウがミセス・グイルの豪邸を訪れた時の描写はこうです。
「屋敷自体はたいしたものではなかった。バッキンガム宮殿よりはまあ小振りだし、カリフォルニアにしてはいささかくすんだ色合いで、クライスラー・ビルディングに比べるといくぶん窓の数が少なそうだ」
皮肉と嫉妬心に満ちていながら、それをユーモアに転化させてしまうのはさすがです。そこまで描写にこだわるからには、それぞれの人物描写には、その後の展開を予感させ、謎を解く鍵になるメッセージがこめられていると考えるべきでしょう。例えば、怪しげな霊能力者ジェームズ・アムサーは、こんな感じで描写されて登場します。
「・・・男はやせて背が高く、金属棒でも入れたみたいに背筋がまっすぐだった。髪はこれ以上ないくらい細く、みごとに白かった。絹のガーゼで漉されたのかと思うほどだ。皮膚はバラの花弁のように艶やかだ。年齢は三十五歳とも六十五歳とも見えた。・・・」
なんとも胡散臭い人物です。後半に登場する汚職と不正の街、ベイシティーの警察署長ジョン・ワックスの描写はさらに念入りで皮肉もきいています。
「彼は椅子の中で身体をねじり、太い脚を組み、考え深げに窓のひとつをじっと凝視した。そのおかげで私はライル糸で織られた高級靴下と、穴飾りのついた英国風の短靴を目にすることができた。靴はポートワインに長く漬け込まれたような色合いだった。財布の中身は別にして、目に見えないところまで含めると、五百ドルばかりは身にまとっていそうだ。きっと金持ちの女と結婚したのだろう。」
もちろん事件の陰には女がいるものです。きれいどころの怪しい美女がいなくてはお話は始まりません。ということで、謎の女性グレイル夫人が登場します。
「金髪の女。僧正がステンドグラスの窓を蹴破りたくなるような豪勢なブロンドだ。白と黒に見える街着を着ていた。それにあった帽子もかぶっていた。いくぶん気取っていたが、気取りすぎというほどでもない。どのような男であれ、男たるものが求める一切を不足なく備えている女だ。三十歳というあたりだろう。・・・
『そいつをどうかさせてくれ』と私は言った。
『跳ね回り出しそうだから』」
<フィリップ・マーロウの魅力>
こうしてチャンドラーは登場人物一人一人を実に丹念に描いているので、それぞれの人物像を映画の登場人物のように思い描くことが可能です。そして、ここで重要なのは、それらの登場人物がそれぞれ魅力的なキャラクターをもっていて、読書をひきつけて飽きさせないことです。
もし、フィリップ・マーロウがどこかの市役所窓口における日常業務を描いただけの小説だったとしても、これだけ魅力的なキャラクターがそろっていれば十分楽しめる小説になるはずです。もちろん、マーロウといえば「私立探偵」です。そして、彼のキャラクターほど、その後の探偵小説や映画に影響を与えている存在はいないでしょう。
彼が私立探偵を仕事にしていないのは、根本的にその仕事が好きだからです。これは非常に大事なことです。けっして喰うためにやっているわけではありません。
「・・・私の商売を成り立たせているのは、まず好奇心である。打ち明けた話、この一ヶ月ばかり仕事らしい仕事は一件も入っていなかった。収入が見込めなくても、気晴らしにはなるかもしれない。」
ただし、「好奇心」が大切なモチベーションではありますが、彼の心の奥には「正義」を守るというちょっとばかり気障な部分も存在します。
「・・・いいかい、巨大な警察機構がなし得ないことを、腕まくりして一人で片付けてしまおうか、そんな大それたことは考えちゃいない。もし私の頭にささやかで個人的な考えがあるとしても、それを文字通りささやかで個人的なものだよ」
そして、彼の仕事に対する姿勢は、まさにハードボイルドそのものです。
「私は貧しい人間だが、自分のことは自分で好きなようにやっている。そして私のやり方は、あなたのお気に入るほどやわではない」
しかしい、主人公が常にハードボイルドで、ある意味単純なヒーローというわけではないこともまたこの小説の魅力です。小説の中とはいえ、彼は食べるために仕事を選んでばかりもいられないのです。
「ハーヴァードの卒業生だろう。仮定法の使い方が見事だ。足の先っぽだどうにもむずむずした。しかし、私の預金残高は、水面下で必死にあひるの水かきのようなことをしている。私は声を甘く和らげた。
『電話をいただいて感謝しています。・・・』」
ジゴロのリンゼイ・マリオットからの依頼電話に対して
<粋なセリフの連続攻撃>
しかし、なんといってもフィリップ・マーロウ最大の魅力は彼のウィットと皮肉に富む語りにあります。あるホテルに聞き込み捜査に行った彼は情報を得るため、こう切り出します。
「好きな方を選んでくれ」と私は言った。
「聖書を一章読んであげてもいいし、酒をいっぱいおごってもいい。どっちがいいね?」
彼の場合、そうした語り口はどんな状況でも飛び出します。例えば、彼が何ものかに襲われて気を失う時ですら、その瞬間の状況をまるで「本日の教訓」を発表するように解説してくれます。
「そのとき誰かが、私の首の後ろに手際の良い一撃を食らわせた。どこかの誰かだ。ブラックジャクがさっと空気を切る音を耳にしたような気が、あとになってした。人はいつもあとになって思うものなのかもしれない。そういえばと。」
こうした気の利いたセリフは、もちろんマーロウだけのものではありません。様々なキャラクターがそれぞれのキャラクターならではのセリフを聞かせてくれます。マロイの恋人がかつて働いていた店のオーナーの未亡人ジェシー・フロリアンは、マーロウに重要な秘密を隠していますが、彼が持ってきた酒によって少しずつ口を聞きだします。
・・・彼女は私に指を向け、からかい半分の非難を込めて、ひょいひょいと振った。
「しかし、あんたの持ってきた酒は、あんたがまともな人間だってことを示してる。犯罪に乾杯」
彼女は自分で三杯目を注ぎ、それを飲み干した。
マーロウのそんな余計とも思えるおしゃべりに彼の捜査を助けてくれ、密かに思いをよせる女性アン・リオーダンとはこんな会話がありました。
「何かにつけその手の言い回しをしなくちゃ気が済まないのね」
「シェークスピア的なタッチと言ってもらいたい。ドライブに行こうじゃないか。あと一杯ずつ飲んでからね」
さらに彼は自らのそうした性癖についてこうも語っています。
私は哀しげな笑みを浮かべた。
「もう少し当たり前のしゃべり方ができるといいんだが、きっと時代がそうさせてくれないのさ。・・・」
彼独特の一人語りは、物語の中に登場する名もなきキャラクターをも、一瞬主人公に変えてしまうほどで物語に深い味わいと優しいユーモアをもたらします。
「気の毒と言えば気の毒だった。この男はただ、与えられた仕事を汲々とこなしている小物に過ぎない。くびにならず、週給をつつがなく受け取ることだけが彼の望みなのだ。女房もいれば子供もいるのだろう。哀れな話ではないか。おまけに彼が頼みにできるのは一本の棍棒だけだ。報われた人生とはとても言えない。手が届くところにクスリ入りのウィスキーを置いてやった。両手をストラップで縛り付けられていなかったら、一杯やれるところだが。私はその男の肩を、励ますように叩いた。あやうく同情の涙まで流すところだった。」
そして、こうしたハードボイルドものになくてはならないのが探偵が女性に対してあまりに鈍感なことです。どんなにダイ・ハードな奴でも、恋愛ドラマにおいては絶対に生き延びることはなく、この小説でもアン・リオーダンはマーロウの鈍感ぶりにしびれを切らしてしまいます。主人公は本当に女性に対して鈍感なのか?それとも鈍感なふりをしてるだけなのか?たぶん前者なのだと僕は思うのですが・・・。
「あなたって大したものよね」
と彼女は言った。
「どこまでも勇敢で、強情で、ほんの僅かな報酬のために身を粉にして働く。みんながよってたかってあなたの頭をぶちのめし、首を絞め、顎に一発食らわせ、身体を麻薬漬けにする。それでもあなたはボールを離すことなく前に前にと敵陣を攻め立て、最後には相手に根負けしてしまう。どうしてそんなことができるのかしら」
「遠慮するよ」
私はしびれを切らせた。
「言いたいことは言った方がいい」
アン・リオーダンはあきらめた。
「私はキスされたいのよ。ひどい人ね」
<チャンドラーのもつ魔法の文章力>
もしかすると、この小説で描かれている事件は「さよなら、愛しい人」というタイトルどうりの格好いいものではないかもしれません。昔、裏切られて捨てられた情けない男が、その事実を理解できずにストーカーになってしまい、うざい!と逆切れされ殺されてしまう。
物語の骨子はそれだけのことです。その上、女は他にも男たちを何人も虜にしてきた悪女の典型。馬鹿な男が悪女のワナにはまるだけの話。
そんなくだらない話に、主人公が余計なウンチクやユーモアと皮肉を加えることで、なぜか極上のエンターテイメント小説に変身してしまう。これこそ、レイモンド・チャンドラーという作家のもつ天才的な手腕の成せる業なのです!
「何も彼女が聖女だったって言ってるわけじゃない。良いところも少しはあった、と言うのだって無理がある。そいつは確かだ。もし追いつめられなければ、自殺もしなかっただろう。それでも彼女としては、連れ戻されて裁判にかけられることだけは避けたかった。だからこそああして命を絶ったんだ。よく考えてくれ。そんな裁判があったら誰がいちばん傷つくだろう?そんな裁判に最も耐えられそうにないのは誰だ?勝つにせよ、負けるにせよ、引き分けに終わるにせよ、そんな見せ物のために大枚をはたくことになるのは誰だ?賢明とは言えずとも、まぎれもない真摯な愛情を注いだ一人の老人だ」
ランドールははねつけるように言った。
「お涙ちょうだいに過ぎるぜ」
上記のラストの一節だけでも、彼の上手さに脱帽です。この小説を翻訳した村上春樹氏は、こう書いています。
「・・・読んだ時は感心しても、あるいはそれなりに感動すらしても、ある程度時間が経過したら結局なんにもイメージが残っていないという作品も、世の中には決して少なくない。チャンドラーがそういう鮮やかなイメージを、それぞれの作品ごとに読者の脳裏に、あるいは手のひらに確実に残していけるというのは、やはりこの人の作家としての懐の深さと、圧倒的なまでの文章力のおかげだろう。・・・」
彼はこうも言っています。
「チャンドラーの小説のある人生と、チャンドラーの小説のない人生とでは、確実にいろんなものごとが変わってくるはずだ。そう思いませんか?」
人生のあらゆる局面で、もしフィリップ・マーロウのように客観的かつ冷静に出来事を解説することができたとしたら・・・人生は間違いなくチャンドラーの小説のようにドラマチックで味わい深いものになるはずです。誰にとっても、たった一度の人生です。どうせなら格好良く生きましょうよ!
「さよなら、愛しい人 Farewell , My Lovely」(旧訳タイトル「さらば愛しき女」) 1940年
(著)レイモンド・チャンドラー Raymond Thornton
Chandler
(訳)村上春樹
早川書房
映画「さらば愛しき女よ Farewell , My Lovely」 (1975年)
(監)ディック・リチャーズ
(脚)デヴィッド・Z・グッドマン
(原)レイモンド・チャンドラー
(撮)ジョン・A・アロンゾ
(音)デヴィッド・シャイア
(出)ロバート・ミッチャム、シャーロット・ランプリング、ジャック・オハローラン(ムース・マロイ)、ハリー・ディーン・スタントン、シルベスター・スタローン、デヴィッド・キャラダイン
1930年代の雰囲気が見事に再現されたセット、シャーロット・ランプリングの悪女ぶり、ジャック・オハローランのムースの心優しさ、ロバート・ミッチャム演じる眠い目のマーロー、デヴィッド・シャイアの素晴らしい音楽と映像の美しさ。
それをとっても一級品の名作。チャンドラーものの中でも最も原作に忠実に映像化された作品かもしれません。
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