
- イギー・ポップ Iggy Pop -
<コアなミュージシャンたち>
あらゆるポピュラー音楽には、ルーツとなった音楽が存在します。そして、そのルーツから生まれた新しい音楽は、ルーツとなった音楽のもつ「濃い部分(コア)」をもっています。それは民族の苦しみだったり、宗教的な伝統だったり、若者たちの怒りだったりするわけです。しかし、その音楽は、その後ポピュラー音楽の一ジャンルとして世の中に広まって行く中で、しだいにその「コアな部分」を失ってゆくことになります。
しかし、そんな「コアな部分」をもつミュージシャンたちの中には、その「濃さ」故に一般大衆に認められることなく「ミュージシャンズ・ミュージシャン」としての地位に止まっている場合も多いようです。ぱっと思いつくところでは、ファンクにおけるJB's、シンガー・ソングライターならランディー・ニューマンやローラ・ニーロ、パンク・ニューウェーブにおけるポップ・グループ、パブ・ロックのドクター・フィールグッド、アバンギャルド系ロックではフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハート、それにもっと凄いのがレジデンツ、そしてパンク・グランジのルーツとも言えるサウンドでは、MC5とこのイギー・ポップを忘れるわけにはいかないでしょう。なかでも、イギー・ポップは、80年代に入り、見事な復活をとげ「ロック裏社会のボス」からメジャーなロック・アーティストへと変貌を遂げました。(彼がそれを望んだわけではないかもしれませんが・・・)しかし、もしそうならなければ、彼はロック史の裏側にしか顔を出さなかったかもしれません。
<原始パンク・バンド、ストゥージス>
イギー・ポップは、「モーターシティー」ことミシガン州のデトロイト近郊のアナーバーに1947年4月21日生まれました。初めはパイン・ムーヴァーズというローカルなバンドのドラマーでしたが、ドアーズのジム・モリソンに憧れて、ヴォーカリストに転向、ストゥージズを結成しました。(1967年のこと)
「聴衆に聴く聴かないの選択の余地すら与えない暴力的なサウンド」これが、ストゥージズのモットーでした。それは、音楽によるテロリズムであり、まさに原始パンクと呼ぶべき存在だったと言えるでしょう。
<ストゥージズ・デビュー>
レコード・デビューは1969年、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイル、プロデュースによるアルバム「イギー・ポップ&ストゥージズ」でした。
彼らは、ありとあらゆるものを否定しました。ヒッピー・ムーブメント、ラブ&ピース、モダン・アート、そして、ビートルズを頂点とするロック・シーン。当時カウンター・カルチャーと呼ばれ充分に反体制的だった文化ですら、彼らにとっては否定と憎悪の対象となりました。(これだけでも、すでに元祖パンクと呼ぶに相応しい!)
セカンド・アルバム"Fun House"(1970年)発表後、一度バンドは解散しますが、国境を越えたドラッグ仲間、デヴィッド・ボウィの助力により、再びイギー・ポップ&ストゥージズとして、彼の代表作のひとつサード・アルバム"Raw Power"(1973年)を発表しました。
しかし、ストゥージズとしての活動はここまでで精一杯でした。イギーはドラッグ中毒が悪化し、ついに入院を余儀なくされ、音楽活動は到底継続不可能になったのです。
<ベルリンでの復活>
1970年代半ば、彼はベルリンへと渡たり、そこで同じようにドラッグ中毒に苦しんでいたデヴィッド・ボウィと共作活動をスタートさせます。その中から1977年、ソロ・アルバム「イディオット Idiot」、「ラスト・フォー・ライフ Lust For Life」の2作が次々に生まれ、彼はボウィとともに見事な復活をとげました。
しかし、ボウィと別れ、再び完全なソロ・アーティストとして活動を開始してからは、再び低迷を続けることになりました。"New Values"(1979年)、"Soldier"(1980年)、"Party"(1981年)、"Zombie Birdhouse"(1982年)と発表しますが、その後4年間は沈黙が続きました。
<再び復活>
しかし、この間に彼は完全にドラッグと手を切ることに成功し、ボウィの力を借りて再び復活の狼煙を上げます。それが、彼にとって最大のヒット作となったアルバム「ブラー・ブラー・ブラー Blah-Blah-Blah」(1986年)でした。この作品からは"Real Wild Child"という彼の初シングル・ヒットが生まれています。それは、このアルバムをヒットさせなければ、もうミュージシャンとして生活して行くことは不可能だと言われていただけに、このアルバムが彼にとって不本意ながら、売れ線を意識した作りになっていたからだったのかもしれません。しかし、彼はそんな評判が気に入らず、それを吹き飛ばそうとするかのように、次作「インスティンクト Instinct」(1988年)では、再び自らの原点に帰った荒々しい作風を取り戻してみせます。それどころか、あまりに原点に戻りすぎ、彼はレコード会社(A&M)と上手く行かなくなり、ヴァージンへ移籍せざるを得なくなってしまいます。
<ヴァージンでの復活>
しかし、、移籍したヴァージンで彼は再び甦り、新たな傑作を発表します。それが、彼にとって新境地となった作品"Brick By Brick"(1990年)でした。このアルバムのプロデューサーは、Was(Not Was)のドン・ウォズ。ファンク系、ジャズ系のサウンドを得意とする職人ドン・ウォズと無手勝流イギーの組み合わせでしたが、これがイギーの新しい面を引き出すことに成功しました。それ以外にも、ガンズ&ローゼスのスラッシュとダフ・マッケイガンという若手ロッカーにワディ・ワクテル、デヴィッド・リンドレーというベテラン・スタジオ・ミュージシャンなど異色の顔ぶれがそろい、イギーにとっては画期的なアルバムとなりました。こうして、イギーは40代に入り、再び全盛期を迎えることになり、「アメリカン・シーザー」(1993年)、「ノーティー・リトル・ドギー」(1996年)と好調にアルバムを発表して行きます。
<パンクの肉体、パンクの精神>
イギー・ポップが50歳を過ぎてなお、鋼のような肉体を保持し、コンサートの度に舞台からのダイブを繰り替えしているというのは、それだけでも驚くべきことです。
しかし、本当に凄いのは、彼の美しい肉体や強靱な体力にあるのではなく、10代の頃抱いていた社会に対する怒りや不満を未だに忘れていないことかもしれません。70年代に活躍したパンク・ミュージシャンたちですら今やすっかりオヤジと化し、セックス・ピストルズのように自らそのパロディーを演じることで、かろうじてその存在をアピールしているくらいなのですから。
<ロック界のシーラカンス>
彼は、自分のキャリアについて、ヒット曲に恵まれなかったことが幸いしたと語っています。そのおかげで、彼は大スターになることもなく、60年代から20世紀末に至るまでコンサート中心の生活を続けることができたのかもしれません。そのうえ、彼のサウンドはパンクの時代には5年以上早かったし、イギリスでもニューヨークでもない中東部のミュージシャンということで、同志にもライバルにも恵まれず、初めから孤高の存在でした。(彼の数少ない同志、デビィッド・ボウィはアメリカ人ではなく、イギリス人でした)
まるで、アフリカ沖で発見されたシーラカンスのように、彼の怒りの初期衝動は時代の影響を受けることなく21世紀に到るまで、ぐつぐつとそのエネルギーを保ち続けたということなのかもしれません。
<締めのお言葉>
「宗教の創始者、予言者、聖人、占い師たちは、時折、目に見えないテキストを一部読むことができた。しかし、その後、彼らはあちこち文をつけたし、脚色し、飾り立てたから、もはや、彼ら自身にも、どの部分が本当なのかわからなくなってしまった」
アーサー・ケストラー著「ホロン革命」より
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