「イントレランス INTOLERANCE」
1916年

- D・W・グリフィス David Wark Griffith -

<D・W・グリフィスの偉業>
 映画はその誕生以来、大衆娯楽の王様として常に進化を続けてきました。それは数多くの監督、数多くの製作者、数多くのカメラマンや特殊撮影の専門家らの努力によって少しづつ積み上げられてきた結果といえるでしょう。しかし、この年、そうした映画の歴史の中でも最も大きな進化が一本の映画、一人の監督によって成し遂げられました。その人物こそ、「映画の父」と後に呼ばれることになる映画監督、D・W・グリフィスです。彼がこの年に完成させた「国民の創生」はいろいろな意味でこの後の映画の歴史を変えてしまった重要な作品なのです。
 彼がこの作品で成し遂げたことをざっとあげるとこんな感じになります。
その当時の映画は10分程度の短編ばかりでした。それがこの作品によって、2時間枠という長編映画の時代が訪れることになります。
エジソンが生み出したキネトスコープはのぞき穴から見る一人用の映画でした。それが5000人もの観客が同時に見る大画面映画となりました。
ドタバタ喜劇かアクション活劇ばかりだった映画を、歴史と人間、社会を描きだすシリアスな映像作品として芸術作品の仲間入りをさせました。
 しかし、そうした映画の進化を成し遂げるために彼が生み出した数々の撮影手法や編集技術の重要性こそが、彼を「映画の父」と呼ばせることになった最大の理由かもしれません。
 「映画の父」の人生、そして映画が見世物から芸術性をあわせ持つ娯楽作品へと進化した20世紀初頭のアメリカ映画界へと向かうことにしましょう。

<D・W・グリフィス>
 D・W・グリフィスは、1875年1月23日アメリカ南部ケンタッキー州のクレスウッドという町に生まれました。すでに南北戦争が終わって10年が過ぎてしまいましたが、かつては大きな農園を経営していた彼の家はすかり落ちぶれ、大きな借金を抱えていた父親は、彼がまだ10歳の時にこの世を去っています。彼はそんな父親から過去の繁栄していた時代の農園の様子や南軍の兵士として戦った時の話、農園が奴隷の解放によって崩壊してゆく過程を聞かされながら育ちました。この頃に父親から受けた影響が後に彼が作る映画「国民の創生」の大きな基礎となります。
 すべての財産を失った彼でしたが、両親からしっかりとした教育を受けていたおかげで、ルイヴィルの街で本屋や新聞社で働くことができました。そして、彼は仕事のあい間を縫って詩や小説、戯曲などの創作を始めるようになります。その後、20歳を過ぎてから地方の劇団に入った彼は、そこで俳優として活動するようになり、31歳の時、ついにショービジネスの本場ニューヨークへの進出を果たしました。しかし、元々俳優よりは劇作家か舞台の演出家になりたかった彼は相変わらず創作活動を続けており、チャンスを狙っていました。

<不本意ながら映画界へ>
 演劇の世界にこだわる彼は戯曲を書いては売り込みを行いましたが、さっぱり売れませんでした。そんな時、友人が彼に映画の仕事をしてみないか?と持ちかけてきたのです。しかし、当時の映画は見世物小屋でのぞき窓を通してみる安っぽいドタバタ喜劇か長くて10分のハラハラ・ドキドキ・アクション・ドラマの域を出ていませんでした。世間以上に舞台を芸術の最高峰とみていた彼にとって、映画はゲテモノ的娯楽に過ぎなかったのですが、生活費を稼ぐためには文句も言えず、しかたなく映画の脚本を書く仕事を始めました。当時の映画界は映画館はどんどん増えるもののそれに見合っただけの作品を供給できる体制がなく、常に人材が不足していました。それだけに彼のような人間が求められていたのです。そんなわけで不本意ながら映画界入りした彼でしたが、ある程度仕事をこなすうちに彼自身にも映画の面白さが分かってきました。そして、ここでも自分のしたいことができるのではないか、という自信も生まれてきます。こうして、彼は本気で映画の脚本を書き始め、それを映画会社に持ち込むことにしました。
 彼が最初に自分の脚本を持ち込んだのは、当時の映画界における最大手エジソン社の看板監督エドウィン・ポーターでした。ポーターといえば、元祖犯罪アクション西部劇「大列車強盗」を撮った監督。彼もまた映画の進化を進めた重要人物の一人ですが、グリフィスの脚本を評価しませんでした。翌年、グリフィスは新しい脚本を書き上げると、今度はエジソン社のライバルだったバイオグラフ社に持ち込みました。するとこちらは彼の脚本を高く評価。それどころか、すぐに彼に監督をやらないかという誘いをかけてくれました。当時映画の世界は倍々の勢いで伸びていたため、監督の数は常に不足していたのです。
 こうして1908年、彼は第一回監督作品「ドリーの冒険」を発表。するとこの映画は見事にヒットし、その後の彼の作品も次々にヒットして、彼の評価はどんどん高くなってゆきました。結局、彼は後に独立して映画会社を作るまで、このバイオグラフ社で500本近い映画を撮ることになります。

<新たな映画技法の創造>
 誕生したばかりの映画は、回しっ放しのカメラの前で行うお芝居の記録映像のようなものでした。そこには撮影における工夫や編集技法はまだほとんどありませんでした。それだけに、彼は数多くの作品を撮りながら次々とアイデアをためし、より良い手法を築き上げるという絶好の機会に恵まれたわけです。こうして、彼が生み出した方法はいろいろあります。
 今では、ごく当たり前に使われている「クローズ・アップ撮影」や「フラッシュ・バック」も彼が生み出した手法。それに移動撮影も彼が本格的に使い出した手法で、異なるシーンを交互に映し出す「クロス・カッティング」という編集技法も彼が生み出したものです。犯人と被害者の表情を交互に映し出したりしながら、映画の緊迫感を少しずつ高めてゆくこの方法は、今でもサスペンス映画になくてはならないものです。その他、彼は一本の映画に複数のストーリーを盛り込むという新しい映画のスタイルも生み出しています。
 彼の独自の演出法は、カメラや編集に関することだけではありませんでした。彼は俳優の演技に関してもそれまでの監督たちとは違うこだわりをもっていました。主役のリリアン・ギッシュの感情を高めるためオーケストラに演奏をさせたり、哀しい物語を聞かせたりして、彼女が涙を流すまで撮影を止めたとも言われるほど、演技のリアリズムにこだわった監督はそれまでいませんでした。
 こうして、彼は次々と新しい手法を取り入れながら、映画をドタバタ喜劇からシリアスな人間ドラマへ、さらには芝居の世界では実現不可能な壮大なスケールのドラマへと進化させてゆきます。そうした彼の最初の集大成ともいえる作品が、この年に彼が発表した映画「国民の創生」でした。
「映画監督は、詩人や小説家と同じだ。違いがあるとすれば、タイプライターの代わりにカメラを使うことだ」D・W・グリフィス

<「国民の創生」>
 当時の映画は10分程度の上映時間が普通でしたが、この作品はなんと2時間7分。休憩なしでは疲れるということで中休みがもうけられました。
 映画館の建物もこうした作品の登場に合わせるように大型化が進み、中には5000人収容可能という巨大な施設まで登場しました。
 まだトーキーではなかったため、普通ならオルガンなどの演奏付で上映されるのですが、この映画は映画史上初めてオーケストラの生演奏が付きました。当然、入場料も高額になり、ニッケル・オデオンなら5セントで見られたところをこの作品は2ドルという当時としては破格の値段になりました。しかし、それだけ入場料が高くなったにもかかわらず、この映画は大ヒットを記録。一気にアメリカの映画界には新しい時代が訪れることになりました。
 もうひとつ重要なのは、この映画がヒットしたのは、時代の変化にぴたりと作品のストーリーがはまったせいでもありました。それは作品の題材がアメリカ人のすべてが関わった南北戦争の歴史を扱っていたことによるものでした。当時、南北戦争は今ほど遠い過去のことではなく、一世代前のまだ記憶に新しい出来事であると同時にやっと客観的に振り返ることができる時代になっていたのです。だからこそ、多くの人々がその真実の物語を知りたがっていたのです。(ただし、残念ながら南部育ちの彼の作品は「真実の物語」とはいい難い、差別と偏見に満ちたものでした)

<伝説の映画「イントレランス」>
 グリフィスの映画監督としての評価は、「国民の創生」によって不動のものとなります。そして、その不動の地位があったからこそ、次なる彼の作品「イントレランス」(1916年)は映画史に残る伝説の作品となりえたのです。
 彼の最も有名な作品「イントレランス」は、彼が生み出した手法と映画界から得た信用と資金をすべて用いた究極の作品で、古代バビロン、イエス・キリストの住むナザレの町、中世のパリ、そして現代のアメリカで起きた四つの物語から成り立つ複雑でスケールの大きな作品で、上映時間はなんと8時間を越えてしまいました。グリフィスはこの作品を4時間づつの2部構成に分けて公開しようと考えていたようですが、映画会社や映画館側はそれを認めませんでした。結局、この映画は2時間半という長さに切り刻まれた短縮版だけが公開されることになりました。(アカデミー作品賞を受賞した名作「ディア・ハンター」成功の後、巨大作品「天国の門」を作り上げ、映画会社を倒産に追い込んでしまったマイケル・チミノを思い出させる話ですが、そう考えると「ロード・オブ・ザ・リング」のような3部作の超大作が製作可能になったのは、時代が変わり映画がビジネスとして、再び輝きを取り戻していたおかげだったといえるでしょう)
 1916年9月5日、それでもなんとかニューヨークで初公開された「イントレランス」でしたが、興行的にこの映画は大失敗に終わってしまいました。
 大幅なカットを余儀なくされただけに、ストーリーが分かりにくくなったのですから、それだけでも不評は当然だったかもしれません。しかし、他にもヒットしなかったいくつかの原因がありました。
 芸術性の高い作品を好むヨーロッパで第一次世界大戦が始まってしまい、映画どころではない状況になっていたことがひとつ。前作の「国民の創生」がアメリカ人なら誰もが関心の高い「南北戦争」の歴史を扱っていたのに対し、「イントレランス」の舞台はほとんどがアメリカ以外、それも過去の話だったことも人々の関心を引かなかった理由のひとつ。そして、まだ多くの観客にとっては4つのドラマの同時進行という形式が目新しすぎてついてゆけなかったということもありそうです。まして、8時間分のドラマを縮めてしまったのですから、分かりにくいのは当然でしょう。

<その後の半生>
 完ぺき主義者で自分の思い通りに作らなければ納得できない彼は、この事件の後、独立することを決意。1919年、当時人気No.1だった二人の俳優メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスと喜劇王チャーリー・チャップリンと4人でユナイテッド・アーティスツ社を設立。映画の製作と配給にも乗り出します。しかし、この頃すでに彼は映画監督としてのピークを越えようとしていました。彼の映画に関する感覚は確かに優れていましたが、幼い頃に築かれた彼の保守的な思想を新しい時代の流れに合わせることができず、それ以上に彼は自分の考えを他人から否定されることを望みませんでした。
 こうした彼の保守的な傾向は「国民の創生」にすでに現れていました。南北戦争を中心に描かれたその映画のヒーローはなんとKKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーだったのです。南部生まれの南部育ちという彼の生い立ちからすると、そうした彼の感覚はごく普通のことだったのかもしれません。だからこそ、「国民の創生」は多くの普通のアメリカ人にとって理解しやすい映画だったともいえるのです。しかし、時代は変わり、人々の考え方も急激に変わりつつありました。そして、こうした彼の古い感覚は時代の変化に置いて行かれる原因となったのです。
 映画をわずか数年の間に芸術の域にまで高めた「映画の父」は、革新的な手法を次々と生み出したものの、完ぺき主義者ゆえに自らの思想を革新することはできなかったのかもしれません。しだいに酒に溺れるようになっていった彼は1948年にホテルの一室で一人寂しくこの世を去りました。
 享年73歳。映画に人生のすべてを賭けた彼は、誰一人その死を見取るもののないままその人生を終えてしまいました。

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