「インビクタス 負けざる者たち Invictus」

- ジョン・カーリン John Carlin
クリント・イーストウッド Clint Eastwood -

<ネルソン・マンデラ物語完結編>
 このサイトですでに取り上げているネルソン・マンデラのページは、彼の自伝「自由への長い道」を主に参考としています。そこに書かれていたのは、彼の生い立ちから反政府活動への参加と逮捕、長き渡る刑務所での生活かた出獄、そしてアパルトヘイトの撤廃までの闘いでした。しかし、その後、南アフリカはどうなったのか?それが気になっていました。そして、そんなアパルトヘイト廃止後の南アフリカを描いたのが映画化もされて一躍有名になったノンフィクション作品「インビクタス」です。
 「インビクタス 負けざる者たち」は、1995年に南アフリカで開催されたラグビーのワールドカップで南アフリカが見事に優勝するまでの道のりを描いていますが、それは単なるスポーツ・ドキュメンタリーではありません。確かにそこには、南アのラグビー代表チームの闘いが描かれていますが、それ以上に当時南アフリカを指揮していたネルソン・マンデラの政治的な闘いが描かれています。その意味では、この作品は自伝「自由への長い道」の完結編といえるでしょう。
 そして、ここで強調しておきたいのは、ケネディ、キング牧師、ガンジー、チェ・ゲバラなど多くの革命家や政治的な英雄の物語は悲劇で終わりますが、この物語は「ハッピー・エンド」だということです。ネルソン・マンデラのように改革の成功を見届けることができた例はほとんどないのです。20世紀の歴史を振り返る時、これほど改革が成功した例、幸福な例は他にないかもしれません。
 さらにここで強調しておきたいのは、南アフリカにおけるアパルトヘイトの撤廃は、国家による人種差別制度を法的に廃止に追い込んだ政治改革であるだけでなく、南アフリカという国を一つにまとめ、白人や黒人たちからなる「南アフリカ国民」という新しい人間集団を作り出すことにまで及んだということです。「革命」を起こすことは「暴力」を用いれば、誰にでも可能かもしれません。しかし、国民の心を一つのまとめることは「暴力」では不可能です。このことは、歴史がすでに証明していることです。では、どうすれば国民の心を一つにまとめることが可能になるのか?それも、長年続いてきた人種差別によって対立する異なる人種を仲直りさせ、友好関係を築き上げることは、どうすれば可能になるのか?その成功例は、歴史上ほとんど見当たりません。この20世紀最大の難問が解決された数少ない成功例、それが20世紀末の南アフリカだったのです。この事実の重要さを人類はもっともっと認識するべきだと思います。
 もちろん、一度起きたからといって、それが二度、三度と上手くゆく保障はありません。しかし、それは確かに起きたことなのです。

「一度起きたよいことは、なんであれ一度では終わらない。そこによいできごとの意味があるんだ」
デズモンド・ツツ大主教

<人集融和はなぜ実現したのか?>
 なぜ、南アフリカでは、血を流すことなく「人種融和」という奇跡が実現したのか?その最大の理由は、その中心にネルソン・マンデラという類稀な人物がいたからでした。意外かもしれませんが、彼はけっしてカリスマ的な人物ではありませんでした。彼の演説は、けっしてキング牧師やケネディ大統領のように人をひきつけるようなものではなかったそうです。見た目も、お世辞にも二枚目とはいえません。にもかかわらず、彼が多くの人々の心をつかんだのはなぜだったのか?それは歴史上の英雄たちの多くがもっていたカリスマ性とはある意味正反対の魅力によるものだったのかもしれません。

「マンデラは初対面の人物といきなり親しくなることができた。これこそが彼の最大の武器でした。・・・
・・・最大の要因は身ぶりや表情で、マンデラのそれは会う人すべてに影響を与えずにはいない。第一に姿勢がいい。次が握手の仕方。身をかがめたり、頭を下げたりは絶対にしない。動かすのは肩から伸びた片腕だけだ。さらにその手はとても大きく、ゴワゴワしていて王族の威厳が感じられた。クッツェーがおじけずにすんだのは、そこに温かいまなざしと相手を包み込むような優しいほほ笑みがあったからだ。・・・」

 司法大臣だったコビー・クッツェーとの初会見。映画でネルソン・マンデラを演じたモーガン・フリーマンは実際にネルソン・マンデラと親しい関係にあり、マンデラ自身が彼を指名したとのことです。彼のはにかんだ笑顔と背丈はマンデラ役にぴったりですが、改めて、彼が初対面の人々とどんな挨拶を交わすのか、注目してみてください。

 この中で描かれているのは、彼がその最大の武器を様々な場所で用いたエピソードの傑作選ともいえるでしょう。彼が刑務所の中で看守たちと信頼関係を築きながら、その環境を改善していった話は有名ですが、その後、彼はさらに上の人々との信頼関係を築きながら、国を変えてゆくことになります。そのきっかけとなったのが、当時の司法長官コビー・クッツェーとの前述の会見でした。彼はある意味、黒人を迫害する警察組織のトップという最大の敵と信頼関係を築き、その後は国のトップに立つP・W・ボタ大統領からの信頼も得ます。そして、白人市民層の信頼を得るための様々な取り組みにおける最大の目玉としてラグビーのワールドカップが選ばれたわけです。
 それでは彼が釈放されたところから、歴史的なラグビー・ワールドカップの決勝戦に至るまでに起きた様々なエピソードの中から、彼がいかに人々の心をつかんでいったのかを示すものを選んでみました。

<釈放の日>
 映画「インビクタス」でも最初に描かれているネルソン・マンデラ釈放の日のエピソードから・・・。刑務所を出た彼は、車に乗って演説を行うための会場へと向かいました。しかし、彼を待ちわびた群衆が集まり、車は身動きがとれなくなり、仕方なく車は白人居住区で道があくまで待機することになりました。そこでの出来事です。

「・・・突然ドアがノックされた。現れたのはヴァネッサの友達で、マンデラを乗せた車がふたりの家の前に停まっていると言う。『そんなばかな。冗談がすぎるよ』とドクターは返した。『冗談じゃないわ。マンデラがいるの』いいから外に出て、早く!」
 夫妻は双子を抱き、母親を連れて外に出た。目の前に5台の車が並んでいた。『たしかにマンデラでした』と、ドクターは言う。
『まんなかの車にいたんです。ぼくたちは立ったまま・・・驚いてその顔を見つめていました。全世界の注目が集まっているというのに、マンデラはぼくたちの家の前にいる。こんなところにいるはずのない人がいたんです。ぼくたちが黙って立っていると、マンデラは窓を開けて手で合図しながら、こちらに来てください、と言いました』
 そして、彼は夫妻の赤ちゃんを抱き上げ、あやしながら二人としばし会話してゆきました。


<釈放後の記者会見にて>
 その後、記者会見にのぞんだ彼は、27年に及んだ刑務所での生活について、こう語りました。

「刑務所の生活はひどいものでしたが、行動計画について考えるよい機会でもありました。・・・それから刑務所は、ある意味でわれわれの立場に理解を示す善良な人々がいました。事情の許す範囲内で、すこしでも満足のいくようにできるだけのことをしてくれた。その気持ちが、」
 マンデラは文章に下線を引くように、そこを強調した。
「ひとりの人間が抱き合ういかなる遺恨も消し去ったのです」


 さらにこうした記者会見においても、彼は周囲の人々の心をとらえます。世界中からやってきた記者たちもまたその例外ではありませんでした。

「1990年2月12日の朝、大主教邸の芝生に立つ報道陣が受けた印象は、格別なものだった。たった四十五分で、マンデラは世界のメディアを抜け目なく手中に収めた。報道関係者は、そのことにすぐ気づいたわけではなかった。感動で頭が充分はたらかなかったせいだが、やがてマンデラは練達の策士、天賊の才で集団感情を巧みに操作できるのだとわかる。政治の舞台での演技は完成度が高く、ビル・クリントンやロナルド・レーガンにもひけをとらない。この会見の舞台は、クリントンやレーガンもうらやむほどの大当たりだった。集まっていた二百人のジャーナリストは、最後にそれまで一度も見せたことのない行動をとる。内に秘めた人間性が仕事を忘れさせたのか、当人たちも困惑し驚いたことに、全員が思わず盛大な拍手を送っていた。」
アフリカーンスの新聞「ビールト紙」の政治部主任記者

<危機的状況への対応>
 彼は白人市民層の信頼を得るのと同じくらい、同胞である黒人たちからの信頼も必要としていました。なぜなら、政府との交渉が行われている間にも、その交渉が行われている間にも、その交渉を失敗させるためのテロ行為や暗殺事件が起こされていて、黒人たちが武力による闘争を本格化させる可能性が常に存在していたからです。その最大の危機がクリス・ハニ暗殺事件でした。

 1993年4月10日、ネルソン・マンデラの後継者とも言われていた黒人解放運動の指導者クリス・ハニが暗殺されます。南アフリカ国内は、この事件によって一触即発の状況となります。そこでマンデラは国営放送SABCのゴールデン・タイムに生出演し、国民への訴えかけを行いました。(特に黒人たち)
「偏見と憎しみに満ちた白人が外国からやってきて、卑劣な行為に走りました。この国は大きく揺れ、崩壊の瀬戸際に立たされています。・・・犯人を裁きにかけられるのは、この国で生を受けたアフリカーナーの女性が、身の危険を承知で通報してくれたおかげです」(アフリカーナーは、アフリカ生まれのオランダ系白人)
 マンデラが女性の勇気ある行動を誇張したのは、政治上の明確な目的があってのことだった。
『わたしたちはひとりの例外もなく、重大な転機に立たされています』マンデラはカメラの向こうに呼びかけた。

『それでも、みずからの決断と行動によって、この痛み、この悲しみ、この怒りを力に変え、まえに進むことは可能です。この国を存続させるには、選挙による国民政府の実現に向けて歩み続けるしかないのです・・・・・わたしは委ねられた全権限をもって、同志であるみなさんにお願いします。どうか平静を保ってください。記憶のなかのクリス・ハニを大切に思うなら、平和のために秩序を守ろうではありませんか』」

<白人市民層への配慮>
 当時、マンデラが改革において最も重要視していたのは、それまでの権力や権利を失うことで、すべてのモノを失うのではないか?と疑心暗鬼になっている白人市民層を安心させることでした。例えば、国歌を決める会議においては、こんなことがありました。
 ANCの会議において、政権を黒人側が獲得した場合、国歌をどうするかについての話し合いが行われ、多くのメンバーが黒人たちが抵抗の歌として歌ってきた「ンコシ・シケレリ」を採用することを支持。それまでの「ディ・ステム」は不要と判断しました。しかし、この時会議の場から離れていたマンデラは、その結果を聞き、すぐに異を唱えます。そして、彼は2曲とも国歌にして常に2曲演奏するようにするべきだと主張しました。

「・・・マンデラは、アフリカーナを見方につける方法、アフリカーナーの象徴にどう敬意を示せばいいのかをメンバーに教えた。面倒かもしれないが、たとえ数語でもアフリカーンス語を使って話しかけるというのもひとつ。『頭に訴えてはいけません』とマンデラは言った。『心に訴えることです』」

 こうして、彼は少しずつ人々の不安を取り除きながら信頼関係を築いてゆきましたが、そこで最も重要なことはなんだったのか?それはやはり彼自身の人間性にあったようです。
 反ANCの中心グループのひとつフォルクスフロントの党首、元将軍のコンスタント・フィリューンは、自分たちの運動がいきづまっていることを認識。マンデラとの交渉を行えるか、会見を行うことに同意します。そして、会見後、自らの判断で交渉に応じる決断を下しました。それは、それまでANCに対してもっていた不安がマンデラとの会見で消えたからでした。その理由は何だったのか?

「敵の人格です。信頼できるか、心から平和を願っているか。交渉の席で重要なのは、向かい側に座る人間が品性を備え、民の支持を得ているか否かということです。マンデラにはその両方がありました」

 右派の指導者からも信用を得た彼は、いよいよ国の指導者を選ぶための統一選挙に挑みます。そこで彼の対立候補となった前大統領のデクラークとのテレビ討論においても、彼はその優れた能力を発揮します。
 話し上手とはいえないマンデラに対し、デクラークは討論中、常に優位に立っていました。

「『わたしだけでなく、おそらくだれもが判定したと思います。わたしの方が勝っていた』と、デクラーク。
 『ところがマンデラは、もう一度体勢を立て直して突然すっと手を伸ばした。わたしを称えながらこの手を取ったんです。ずらりと並んだテレビカメラのまえで。計画どおりの行動だったかもしれない。政治的な意図はあったと思います。ただ、マンデラのメディアにおける勝利の大部分は、本能的な反応を見せたことにある、という気がしてなりません。そういうことに驚くほど才能のある人なのです』」


<ラグビーとアパルトヘイト>
 彼はこの時点で様々な白人グループのトップと信頼関係を築くことに成功していましたが、それはあくまで彼が直接会うことで築かれた関係であり、南アフリカに住む白人たちの多くは疑心暗鬼のままでした。だからこそ、彼はラグビーという南アフリカに住む白人たちいとっての国技ともいえるスポーツを利用することを思いついたのです。
 それまでラグビーというイギリスから持ち込まれたスポーツは、白人支配階級を象徴するものとして、黒人たちには嫌われる存在でした。そのため、国際試合がテレビで放映されると、ほとんどの黒人は、母国南アフリカ・チームを応援せず、相手チームを応援するのが常識だったといいます。ANCはラグビーというスポーツは、白人のスポーツであると同時に若者たちが政治に関心をもたないようにするためのドラッグの役目を果たしていると考えていました。そこで考え出されたのが南アフリカのラグビー・チームを国際試合から締め出させるためのキャンペーン活動でした。当時すでに南アフリカチームには世界各地での遠征先でデモ隊に囲まれるなど、厳しい立場におかれつつありました。そのため、代表チームのメンバーはいやでもアパルトヘイトがもたらしたラグビーへの影響に気づかざるをえなかったのです。代表チームのスタンド・オフ、ストランスキーも早くからそのことに気がついていました。

「・・・14歳になっていたストランスキーは、ニュージーランド国民の半分が南アフリカの選手に憤るのを見て、それなりの理由があるにちがいないと思った。反対運動の成果は、ストランスキーにはっきり表れていた。アーノルド・ストフィーレやともに運動を推進するANCの活動家は、白人国民にそう思わせたかった。都合のよいドラッグを取り上げることで、白人の意識を目覚めさせる。変革に必要な条件を整えるのが狙いだった。・・・」

 こうした状況の中、マンデラは逆にラグビーを国民全員が応援することで白人と黒人の融和をはかり、白人たちの不安を一掃することが可能になると考えたわけです。しかし、そのためには南アフリカ代表チームが勝ち続けることが求められます。そこで彼はチームのメンバーに大会の重要性を理解させようと考えます。そのために、先ず彼はチームの新キャプテン、フランソワ・ピナールと会い信頼関係を築きます。

「マンデラもピナールも本来の任務に戻った。どちらも気づいてはいなかったが、ふたりが直面する大仕事には、思いもよらない共通点があった。ピナールはキャプテンになって間がなく、彼の人格と能力を疑う一団のラガーマンは、キャプテンという役割を条件付きでとらえていた。前途は多難。自分の権威を確実なものにし、チームをひとつにまとめるのは容易なことではなかった。この仕事には、かなりの政治的スキルが求められた。・・・」

 代表チームの監督のモーネ・デュプレシスは、それまで自分たちがこうした問題に関わってこなかったことを後悔していました。そのため、ただ勝利をめざすだけでなく、いかにチームが大会に望むべきかを選手一人一人に理解させようと様々な取り組みを行いました。そのおかげで、大会が近づくにつれて、それまで白人のスポーツをなぜ応援しなければならないのか?と納得できずにいた黒人たちも、マンデラの意図を理解するようになってゆきました。

 後にハウラン州の知事になるマンデラの同僚トーキョー・セクワレは、閉会式を見ながらこう思ったといいます。
「あのとき、はっきりわかりました。われわれは、黒人を奴隷のような立場から解放するためだけに闘っていたわけではなかった」
 刑務所でマンデラから教わったなにより重要なことに、セクワレは気づいていた。
「大事なのは、白人を恐怖から解放すること。そのとおりだった。『ネルソン!ネルソン!ネルソン!』あの叫びで恐怖は去っていったのです」

 南アフリカの代表チーム「スプリングボクス」のメンバーは、大会に向けて生まれて初めて黒人たちの「国家」だった「ンコシ・シケレリ」の練習を行いました。するとその中の3人の大型選手が自らもう一度歌わせてほしいと歌唱指導の女性に志願。素晴らしい声で歌い始めたといいます。

三人の大男は、この歌を歌うことで本質的な発見をした。
『知らずにすませていたことが、見えてきたんです』ヴィースは声を張り上げた。
『歌詞の意味がわかったときに、扉がバンと開いて。それから黒人が集団で歌う「ンコシ・シケレリ」を聞くと、そう、圧倒されたっていうか・・・ほんと、胸が熱くなります』


<ワールドカップ本大会始まる>
 スプリングボクスのメンバーは、大会が始まる前、休日に全員でロベン島の刑務所を訪れました。それは監督のモーネ・デュプレシスのアイデアでした。当時、ロベン島の刑務所はまだ現役で使われていて、多くの囚人たちがいました。しかし、もうマンデラが閉じ込められていた狭い独房は使われておらず、彼が作業労働としてやらされていた石割の行われてはいませんでした。(この場面は映画でも重要なシーンとして登場しています)
 メンバーは、マンデラが収容されていた部屋を見せてもらった後、多くの「黒人」の囚人たちから熱い歓迎を受けました。そのときのメンバーの一人ジェイムズ・スモールは、後にこう語っています。
「あそこで、自分は新しい南アフリカの一員なんだって強く意識したんだけど、それだけじゃなかった。スプリングボクスとしての責任感も、あのとき芽生えた。あそこで拍手を聞きながら、マンデラの独房は愛と友情を抱えて外に出てきた。いろんな思いが一気に押し寄せて、いろんなことがわかってきて、こらえきれずにぼくは泣いたんです」
 さらに選手の一人、ヘニー・ルルーはこう語っています。
「みんなわかっていました。この国はぼくらを中心にひとつになっていた。でもそれは試合に勝ったから。結びつきが強くなったのは、勝ったからなんです。ピッチでいいプレーを見せれば見せるほど、輪が広がっていくのがわかりました」

 大会が始まると、南アフリカ代表チームは、全国民からの応援を背に勝ち進んでゆき、準決勝では優勝候補の一角だったフランスを激闘の末撃破。この時のフランスの中心選手アブドラティフ・ベナッジは数年後にデュプレシスと再会。この時の試合について、こう語ったそうです。

「あなたのチームに負けて、ぼくらはさんざん泣きましたよ。でも、次の終末に決勝戦を見に行って、ぼくはもう一度泣きました。グラウンドにいるのは、それほど重要なことじゃなかった。目の前で起きていたのは、試合の勝ち負けよりずっと意味のあることでした」

<決勝戦を前にして>
 決勝を前にして、スプリングボクスは南アフリカ国民すべての思いを背負うことになり、そのプレッシゃーは彼らを押しつぶしかねないほどになっていました。そのため、決勝戦の当日。緊張しきった選手たちはリラックスするためにと、ホテルの周りを2キロほどジョギングをしたといいます。(この場面も映画に登場しています)

「みんなすごく神経質になっていました。ひとかたまりになって走っていたんですが、ホテルを出て左に曲がったところで、うしろからワァワァいう声が聞こえてきた。新聞売りの黒人の子供が四人、ぼくたちに気づいて追いかけてきたらしくて。四人はぼくたいの名前を呼びはじめました。ほとんどの選手を知っていたんです。ゾクゾクしました。字が読めるかどうかもわからない小さな子が、ぼくたちのことをちゃんと知っていた。あの子たちにとってスプリングボクスは自分のチームだったんです。そのときでしたね。ほんとうに実感したのは、これはぼくたちの騒動をはるかに越えた凄いことなんだって」

 決勝戦の開始直前、彼らの士気を高める出来事が二つありました。ひとつは音楽に関するもの、もうひとつは映画にも描かれていたジャンボ・ジェットのアクロバット飛行事件です。
 当時、黒人労働者たちの人気曲「ショショローザ」をヒットさせた人気DJのダン・モヤネを中心に62000人がその曲の大合唱を行い、会場全体で試合を盛り上げました。
 もうひとつは、南アフリカ航空SAAのパイロット、ローリー・ケイがSAAの広告も兼ねて、スタジアム上空を超低空飛行して、スタジアム全体を驚かせたことです。それ以前に機内でマンデラに挨拶され、彼のファンになっていたケイは、打ち合わせの飛行高度をさらに下回る高度60メートルにまで降下し、さらにジェットエンジンをふかすことで観客たちを驚かせたのでした。映画では、大統領の警護チームがテロと勘違いしますが、ギリギリまで降下するというのは、確かに予定外だったようです。
 こうして、決勝戦開始の瞬間、観客はみなスプリングボクスを応援するため一つのチームになっていたのでした。そして、その状況はその後もずっと続いているのです。2010年に開催されたサッカーのワールドカップは、南アフリカ・チームの活躍こそなかったものの、大会自体は大成功に終わりました。それもまた、彼らの改革がもたらしたものといえるでしょう。
 しかし、こうした巨大イベントの成功は単に大会の誘致を行えばよいというものではありません。それには、マンデラが27年という年月をかけて培ってきた信頼関係という大きな財産が不可欠でした。

<マンデラの築いた遺産>

「マンデラの弱点は、最大の強みでもあった。マンデラが成功したのは、百人中九十九人が救いがたいと思う人間に、長所を見ようとするからだ。国際連合がアパルトヘイトを人道に対する罪と考えるなら、アパルトヘイト時代の司法大臣、情報局長、軍の最高司令官、国家元首より罪の重い人間はないだろう。それでもマンデラは、外からはうかがい知れない人間性の核の部分に目を向けた。そこには天使が隠れていて、だれでもが心の奥にもつ美点を押し出してくれると信じたのだ。」

 彼を黒人という差別されてきた人々の代表であり代弁者と考えるだけでは、その成功の意味を理解したことにはなりません。彼はたまたま黒人として生まれてきただけで、もし彼が白人であったとしても、彼は同じことを成し遂げたのかもしれません。そう思える人物だから、その偉業は可能になったのです。

「マンデラを人種によって位置づければ、その名誉を傷つけ、重要な点を見落としかねない。真実を突いていると思われるのは、イギリスの元下院議員トニー・ベンの言葉。除幕式に参列したベンは、マンデラを『プレジデント・オブ・ヒューマニティー』と呼んだのだ」

 そして、もうひとつ大切なこと。それは、彼はけっして孤独な闘いをしていたわけではなかったということです。もしかすると、南アフリカに住む黒人たち、白人たちが本質的にもつ、素晴らしい美徳が、それを可能にさせたのかもしれません。

「・・・南アフリカにとってなによりよかったのは、マンデラの存在ではなく、ミニ・マンデラが大勢いたことだろう。・・・」

 なぜ、世界は南アフリカそしてネルソン・マンデラから、もっと多くのことを学ぼうとしないのでしょうか?
 ネルソン・マンデラは一人しか存在せず、真似は不可能だから?
 しかし、ネルソン・マンデラという人物は確かに存在したのです。そして、一度起きた事は、間違いなくもう一度起こせるはずです。
 そのことを認識するだけできっと世界は変わるはず。そう僕は思います。 

<追記>(2013年12月)
 2013年12月5日マンデラ氏は95歳でお亡くなりになられました。
 お疲れ様でした。ご冥福をお祈りいたします。

「インビクタス 負けざる者たち Playing The Enemy:Nelson Mandela and the Game that Made a Nation」 2008年
(著)ジョン・カーリン John Carlin
(訳)八坂ありさ
NHK出版

映画「インビクタス 負けざる者たち Invictus」 2009年
(監)クリント・イーストウッド
(製)ロリー・マクレアリー、ロバート・ロレンツ、メイス・ニューフェルド
(原)ジョン・カーリン
(脚)アンソニー・ベッカム
(撮)トム・スターン
(編)ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ
(音)カイル・イーストウッド、マイケル・スティーブンス
(出)モーガン・フリーマン、マット・デイモン、トニー・ギゴロギ、パトリック・モフォケン、マット・スターン

(感想)
 さすがはイーストウッド作品です。政治とラグビー・ワールドカップ、二つの出来事を同時並行で描く込み入った物語展開をわかりやすくかつスピード感を落さずに見事映像化しています。ただし、南アフリカのそれまでの歴史を理解しているといないとでは、その面白さはかなり違うはず。できれば、このサイトで南アフリカの歴史について勉強してから見て欲しいと思います。
ネルソン・マンデラ(前編)(後編) 小説「この道を行く人なしに」(ナディン・ゴーディマ) 小説「恥辱 Disgrace」(J・M・クッツェー) 映画・小説ツォツィ(アソル・フガート)

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