- ジャクソン・ポロック Jackson Pollock -

<アメリカが生んだ異端の天才画家>
 パティー・スミスは、かつて「Jackson Pollock Was A Nigger」と歌いました。
 タイム誌は、「切り裂きジャック」にひっかけ「ジャック・ザ・ドリッパー Jack The Dripper」と呼びました。
 良い意味でも、悪い意味でも、ジャクソン・ポロックは美術界における異端派であり続けたと言えるでしょう。しかし、44歳という年齢での突然の死は、彼をいつしか「伝説のヒーロー」にしてしまいました。最近でも、今やポロック並みの伝説的バンドとなったストーン・ローゼスのセカンド・アルバムのジャケットがまさにポロックの作品そのままだったり、オムニバス映画「ニューヨーク物語」のマーティン・スコセッシ作品「ライフ・レッスン Life Lesson」(ニック・ノルティー、ロザンナ・アークェット主演)のモデルが明らかにジャクソン・ポロックだったりと、その存在感を示し続けています。
 確固たる自信のもとに生み出された抽象表現主義絵画における金字塔の数々は、その反面、作者の不安と恐れの表現でもあり、それが彼を早すぎる死へと追い込んで行くことになります。しかし、そんな彼の後にはアメリカが生んだもう一人のヒーロー、アンディー・ウォーホルが続き、いよいよアメリカは美術の世界でも世界をリードする国になってゆくのです。

<ポアリングとは?>
 彼が生み出した究極の絵画技法「ポアリング」とは、キャンバスに筆や棒などを使って絵の具を滴らせ、その色や厚みなどによって今までの手描きの絵画とはまったく異なる世界を生み出そうという技法です。ポロックは絵の具の色や濃さ、使用する筆や棒の素材や固さなどを変えることにより、思い通りのイメージを描き出すことができました。さらにこの技法は、意識的に細かい調節が可能な筆とは異なり、無意識の状態を直接図像へと反映することができると考えられ、当時流行していたフロイトやユングの思想とも深く結びついていました。さらにその方法論は、チベットやアメリカの先住民族たちが行っている砂絵にもとずくものでもありました。それはある意味、原始から伝わる宗教芸術と最新精神医学との出会いから生まれた技法でもあったのです。
「このやり方だと、絵のまわりを歩き、四方から制作し、文字通り絵のなかにいることができるのだから、わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。これは西部のインディアンの砂絵師たちの方法に近い。・・・」
ジャクソン・ポロック

<ポロック家の人々>
 ポール・ジャクソン・ポロックは、1912年1月28日ワイオミング州コディーに生まれました。両親はともにスコットランドとアイルランドの血を引く家系で、農園を営みながら5人の兄弟を育てました。両親はともに働き者でしたが、生活は常に苦しく、家族はカリフォルニアやアリゾナを渡り歩きながらギリギリの生活をしていました。
 それでも彼の母親ステラ・ポロックは貧しいながらも美術に関心が深く、息子たちもその影響を受けて育ち、息子たちのうち何人かが芸術関係の職につくことになります。特に長男のチャールズは「ロサンゼルス・タイムス」のレイアウト部門で働きながら美術を学び弟のジャクソンに影響を与えただけでなく、彼の精神的な支えとなって行きます。

<ロスでの美術修行>
 1928年、ポロック家はロスアンゼルスに移住します。そこで手工芸高等学校に入学したポロックは、神智学や思想家クリシュナムルティーの教え、それにインドの宗教、思想など当時ブームとなっていた神秘的な世界についての知識を得ます。ところが、そうでなくても反抗的な少年だったポロックは、学校の古い体質に反発し、退学させられてしまいます。それでも、一部の教師に才能を認められていた彼は、復学のチャンスを与えられ、美術についてより深く勉強を続けて行きます。

<壁画の影響>
 当時ロスではメキシコ人の壁画作家アーティスト、オロスコやシケイロス、リベラが活躍しており、ポロックは彼らの作品に大きな感動を受けました。そして、この時の感動が後に彼をイーゼルではなく床を用いる新しいタイプの画家へと向かわせることになります。彼は自分が目指しているのは「イーゼルと壁画の中間」に位置する作品であると言っていました。

<ニューヨークへ>
 1930年代に入り、ポロックはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに入学し、トーマス・ハート・ベントンという画家のもとで学び始めます。懐古趣味的で牧歌的な作風をもつ彼の師は、後のポロックの抽象的、前衛的な作風とは対極に位置する存在でしたが、意外なことに二人の師弟関係は、その後長く続きます。彼は師の作風を否定するように自らの作風を育てて行きますが、人間的な部分では固い信頼関係ができていたのです。

<極貧芸術家>
 1933年、ポロックが学校を出た時、アメリカはまさに不況のどん底にありました。働き口もろくにない状況ではプロの画家として食べて行けるはずもなく、彼は政府が用意した芸術家救済プロジェクトで公共建築物に作品を提供しながらかろうじて生活をなりたたせていました。(この芸術家を守るプロジェクトがなければ、ジャクソン・ポロックという天才は世に出ることはなかったかもしれません。このへんが日本とは大違いでしょう)

<新技法との出会い>
 1936年、ポロックはかつて彼が感動させられたメキシコの壁画作家シケイロスが主催する「実験工房」に参加します。そこでスプレイガンやエア・ブラシ、特殊塗料などを用いる新しい絵画技法を学んだ彼は、後に自分が始めることになるポアリングの大きなヒントをつかみました。

<ジョン・グレアム、ピカソの影響のもとで>
 1937年、ポロックはロシアから亡命してきた前衛芸術家ジョン・グレアムと知り合います。彼からフロイトやユングの思想を学んだポロックは、無意識が生み出す芸術の意味について理解を深めて行きます。そして、これもまた後に彼のポアリングに大きな影響を与えることになります。
 さらに、当時アフリカの原始的な芸術に大きな影響を受け新たな作品に取り組んでいたピカソもまたポロックに大きな影響を与えました。この頃の彼の作品は、イーゼルを用いた油絵の具と筆による絵画でしたが、すでにその作品は後にポアリングを用いて描くことになる前衛的抽象的な題材へと変わっていました。

<アルコール依存症との闘い>
 この年、ポロックはアルコール依存症を治すため、精神科に通い始めています。しかし、通院程度の治療で治るはずもなく、翌年には入院治療を受けることになります。しかし、完全にアルコールと手を切ることができたのは1947年になってからのことでした。

<具象から抽象へ>
 そんな不安定な精神状態にも関わらず、彼は着実に自らの技法を磨いて行きます。特に「具象的な形態を抽象的なものへと自由自在に変換させるテクニック」をつかむことに彼は多くの時間を費やしました。
 彼は常に「描こうとするテーマにベールをかける」ことを意識していたと言いますが、そのために「ポアリング」という究極の技法が生まれたのでしょう。
 しかし、この技法をマスターするためには、絵の具を思い通りにしたたらせるために「重力」を手なずけるテクニックを身につけなければなりません。さらに自らの「無意識の世界」をそこに解放するというある意味相反する行為をも同時にやってのけなければならないのです。

<美術界の新星登場>
 1942年、ポロックはニューヨークのマクミラン画廊で行われた展覧会に招待されました。彼を招待者してくれたのはジョン・グレアムで、彼以外の出展者はピカソ、マチス、ブラック、ボナール、モディリアニなど、そうそうたる顔ぶれでした。彼は一躍美術界における期待の星となったのです。この時期の彼の作品は、ピカソのキュビズム時代のものにかなり近いもので、より抽象的に分解されたものでした。(「男性と女性」(1942年頃)、「月の女が円を切る」(1943年頃))
 その後、いよいよ彼の作品はポアリングの技法を含むようになります。(「ポアリングのある構成」(1943年))

<結婚、充実の日々>
 1945年、ポロックは個展で知り合った画家仲間のリー・クラスナーと結婚します。ロングアイランドの田舎に農家を購入した二人は、そこで創作活動に専念。充実した活動を繰り広げて行きます。
 こうして、1947年頃ついに彼はポアリングの技法を完成させ、「五尋の深み」(1947年)「大聖堂」(1947年)などの大作を次々に発表し始めます。
「自分の絵の中にいる時、自分が何をしているか意識しません。いわば”なじんだ”後になって、初めて自分が何をしていたかを知るのです。私は変更することやイメージを壊すことなどを恐れません。なぜなら絵はそれ自体の生命を持っているのですから。私はそれを全うさせてやろうとします。・・・」

<マスコミからのバッシング>
 美術界での彼に対する評価は、しだいに高まりましたが、逆にマスコミは彼をゲテモノ扱いし始めます。特にアクション・ペインティングと名付けられたポアリングのパフォーマンスは徹底的に胡散臭がられ、彼はインチキ画家のレッテルを貼られてしまいます。それに対し、彼はあえて自分が制作している姿を記録し、世間に公表するため、ドキュメンタリー映画への出演を受けます。こうして、1950年彼の制作する姿をとらえた貴重なドキュメンタリー映画が制作されました。
 この映像を見ると彼がいかに作品に集中し、丁寧かつ大胆に絵の具をキャンバスに落としているかがわかります。

<再びアルコールの泥沼へ>
 アメリカの抽象絵画の世界において、ついに彼はその頂点に立ちました。しかし、もともとどんなグループにも属さずに独自の道を歩んでいた彼は、ただ一人の成功者として逆に孤立感を深めて行きます。さらに次のステップへの迷いやプレッシャーも加わり、彼は再びアルコール依存症の泥沼にはまってしましました。作品的にも、一時はより原始的な黒を中心とするまるで日本の書道のような「ブラック・ペインティング」と呼ばれる作品群を発表。退行現象ではないかと言われたりもしましたが、それはアーティストとして変化し続ける姿勢の現れでもありました。
 しかし、優れた作品を発表はするものの、しだいに彼の作品の数は減り、その身体もしだいにアルコールによって、弱って行きました。
 そして、1956年8月11日夜半、彼は運転中にハンドル操作を誤り木に激突、自らの人生にピリオドをうってしまったのです。当然、その夜も彼は飲酒運転で、その死は来るべくして、来たものだったのかもしれません。享年44歳でした。
 彼は絵画をイーゼルから降ろし、床に広げることで新しい芸術の道を切り開きました。それは古典的な絵画の時代の終わりであり、より複合的な総合芸術の始まりだったとも言えます。彼は最後の画家であり、ピカソとアンディー・ウォーホルをつなぐ重要な架け橋だったと言えるでしょう。

<映画「ポロック 二人だけのアトリエ」>
 先日映画「ポロック」をみました。素晴らしい映画でした。監督までかってでたエド・ハリス入魂の一作と言っていいでしょう。彼のポアリングによる製作風景は、まったく吹き替え無しで行われたといいます。まるでポロックが乗り移ったかのように鬼気迫る演技でした。(初監督でありながら彼の演出も見事です)

「ポロック 二人だけのアトリエ」 2003年 (追記2005年2月16日)
(監)エド・ハリス Ed Harris
(製)フレッド・バーナー Fred Berner、エド・ハリス
   ジョン・キリク Jon Kirrik、ジェームス・フランシス・トレッツァ James Francis Trezza
(原)スティーブン・ネイファー Steven Naifeh、グレゴリー・ホワイト・スミス Gregory White Smith
(脚)バーバラ・ターナー Barbara Turner、スーザン・J・エムシュイラー Susan J.Emshillert
(撮)リサ・リンスラー Lisa Rinzler (音)ジェフ・ビール Jeff Beal
(出)エド・ハリス
   マーシャ・ゲイ・ハーデン Marcia Gay Harden、エイミー・マディガン Amy Madigan
   ジェニファー・コネリー Jennifer Connelly、ジェフリー・タンバー Jeffrey Tambor
   バッド・コート Bud Cort、ジョン・ハード John Heard
   バル・キルマー Val Kilmer  
<締めのお言葉>
「作品はちょうど音楽が楽しまれるように味わわれればいい。しばらくするとそれを好きになったりならなかったり。それにしても、そんなに深刻な問題とは思えませんね。・・・」

ジャクソン・ポロック
   
20世紀異人伝へ   トップページヘ