- ジェームス・ブラウン James Brown - Part.2

<社会活動家としての闘い>
 JBは1960年代の後半に入ると、しだいに自ら社会に対しメッセージを発するようになって行きます。「It's A Man's Man's World」では、世の中が男性中心の社会であることを歌い、「Don't Be A Drop Out」では黒人の子供たちに「落ちこぼれるな!」と歌いかけ、コンサートの売上から奨学金のための基金を寄付し始めます。さらに彼はNAACP(米国黒人地位向上会議)の永久会員として、非暴力の立場での公民権運動を支持。自ら黒人の地位向上、職場確保と能力開発のためにラジオ局を買収、その運営を始めています。当然、マーティン・ルーサー・キング牧師とも親交が深く、彼が暗殺された1968年4月4日には、JBは社会活動家として大きな仕事をすることになります。

<暴力との闘い>
 キング牧師が暗殺された日から数日間、全米各地120以上の都市で暴動が発生しました。(それは黒人たちによるものだけではなく、KKKなど白人たちによるどさくさ紛れの暴動もありました)暴動鎮圧のために派遣された州兵の数は6万5千人。1万5千人が逮捕され、38人が死亡しています。
 暗殺事件直後、そんな状況が起きることを予想したJBは、自らの所有するラジオ局から「平静を保つことでキング牧師の名誉を称えよう」とメッセージを流し続けました。さらに翌日ボストンで行われることになっていたコンサートをあえて中止せず、そのライブを生中継でテレビ放映させ、人々を外出させないようにしました。当然そのコンサートではキング牧師を称えるとともに、暴力に訴えることは彼の魂を救うことにはならないと人々に自制するよう求めました。このライブ中継は何度も再放送され、幸いにもボストンの街ではまったく事件が起きずにすんだと言われています。この後も彼は暴徒が荒れ狂っていたワシントンへも出向き、テレビやラジオからメッセージを発し続けました。

<権力と反権力の狭間で>
 JBの大活躍はアメリカ政府をも喜ばせ、彼はホワイトハウス主催の晩餐会に招かれました。その後彼は民主党から大統領に立候補することになるヒューバート・ハンフリーや共和党のニクソンなど、政治家たちとつき合うようになります。
 「アメリカ・イズ・マイ・ホーム」は、ちょうどその後発表された曲、彼なりの愛国心を歌ったアメリカを援護する歌でした。さらに彼は自ら志願してベトナムへ向かい、前線で闘う兵士たちのために慰問ライブを行っています。
 しかし、これらの行為は反戦運動、公民権運動の活動家たちにとって裏切り行為ととられても仕方がありませんでした。こうして彼はブラック・パンサーなど過激な活動グループからの脅迫を受けることになります。この脅迫が功を奏したのか、それともJB自身が自らの間違いに気づいたのか、1968年彼は再び衝撃的な曲を発表します。
 「Say It Loud.I'm Black and I'm Proud」 俺は黒人であり、それを誇りにしていると大声でいえ!
 この曲は、R&Bチャートの1位になんと6週間とどまり、ポップチャートでも10位までのぼる大ヒットとなりました。
 しかし、彼のあまりに強力なブラック・パワー支持宣言は、それまでせっかく増やしてきた白人ファンをいっきに失うことにつながってしまいました。(少なくともライブ会場では白人ファンの姿が見られなくなったようです)さらに彼はFBIからもマークされる存在となり、この後国税局からは税金の滞納などの罪で徹底的に追及されることになります。
 厳しい時代だったが故に、彼は自己主張するたびに新しい敵を作ってしまう状況に追い込まれてしまいました。実際彼が言いたかったことは、1969年に発売された曲「I Don't Want Nobody To Give Me Nothing」に込められているようです。
「俺はドアを開けてさえくれればいい。そうすれば自分の力で手に入れてみせるから・・・」
 この点では、彼の生き方は、実は首尾一貫しているのかもしれません。

<バンド・メンバーたちとの闘い>
 ショービジネス界ナンバー1のライブを行うため、JBはバンドのメンバーに対しても妥協を許しませんでした。ステージでの演奏の最中にバンドのメンバーがちょっとでもミスをすると、その場で罰金の合図を出していたというのは有名な話です。しかし、そのぶんバンドのメンバーとの対立は絶えなかったようです。その中でも、1970年に起きたバンドそう取り替え事件は最も有名です。
 ジョージア州のコロンバスでライブを行う予定だったJBですが、公演当日バンドのメンバー全員が賃上げを要求、ストライキを始めてしまいました。夕方の6時になっても要求を撤回せず、演奏の準備を始めようとしないバンドに対し、JBはその場でクビを言い渡します。しかし、当日のコンサートを中止するわけにはいかず、彼は急いでバンドを代わりの探します。そして、当時キング・レコードでセッション・バンドとして働いていた若手のバンド、ペースセッターズをJBの自家用飛行機に乗せて呼び寄せました。こうして彼らはその日からJBの新しいバック・バンドとして、フェイマス・フレイムス改めJB’sとして活動することになりました。
 この臨時雇いのバンドには、後にP−ファンクの中心人物となるブーツィー・コリンズがいました。彼のおかげでJBファンクはさらなる発展を遂げることになります。まさに怪我の功名です。(ちなみに、メイシオ・パーカーは、すぐにバンドに呼びもどされています)さすがはゴッド・ファーザー・オブ・ソウル、ただでは転びません。

<「セックス・マシーン」誕生>
 こうして誕生した新たなバンド、JB’sとの共演で生まれた最初の成果が、ファンクの歴史的名曲「セックス・マシーン」です。
 JB’sの優れたパフォーマンスは、彼らが単独で録音したアルバムにも収められており、それらの曲の多くが今やサンプリング・ネタの宝庫として、多くのDJやラッパーに用いられています。その代表的アルバムとしては、「Food for Thought」「Doin' It to Death」「Damn Right I Am Somebody」「Breakin' Bread」などがあげられますが、どれもJBの真髄を味わうことのできる名作ばかりです。
 ちなみに、この頃彼らはヨーロッパとアフリカを巡るツアーを行っており、ナイジェリアのラゴスではアフリカン・ファンクのパイオニア、フェラ・クティーと出会っています。彼らがどんな話をし、お互いにどんな影響を与えあったのか、実に興味深いところです。

<「コールド・スウェット」誕生秘話>
 最近知ったのですが、彼の代表曲のひとつ「コールド・スウェット」の有名なリフはなんとマイルス・デイヴィスの歴史的名盤「カインド・オブ・ブルー」の中のあの名曲「ソー・ホワット So What」の有名なフレーズからの引用なのだそうです。確かに比べて聞くと似ています!
 なるほどねえ。

<ディスコとの闘い>
 1970年代に入り、JBはキング・レコードを離れ、巨大企業ポリドールと契約します。キング時代よりも金銭的に恵まれた条件での移籍でしたが、レコード制作の自由度の点では大きく後退してしまいました。そのうえ、世の中はファンクではなくディスコの時代を迎えようとしていました。当然、レコード会社は彼にディスコ向けの単調なリズム・パターンの曲を要求するようになりました。おまけに、ヴーツィーに続いて、メイシオ・パーカー、フレェッド・ウェズリーまでもが、ディスコ時代にも勢いを失わなかった数少ないバンド、Pーファンク軍団へと移籍してしまったのです。

<失意の日々と白いキングの死>
 1977年8月のエルヴィス・プレスリーの死は、そんな状況に追い込まれていた彼にとって、大きなショックでした。同じ時期に同じように南部の田舎町から登場した二人は、意外なことにかなり親しい間柄でした。葬儀に駆けつけた彼はエルヴィスの棺の前で「どうして先にいっちまったんだ」と言いながら涙を流したそうです。ほとんど涙を流すということがなかった彼も、この頃はかなり弱きになっていたようです。こうして、数年間に渡り彼は半分引退に近い生活をおくることになります。

<復活の機会をもたらしたブルース兄弟>
 復活のきっかけは二人組の神からの使いによって、もたらされました。JBに復活の意志有りと見たダン・エイクロイドとジョン・ベルーシから映画版「ブルース・ブラザース」への出演依頼がきたのです。そして、この映画の大ヒットをきっかけにR&Bのブームが起き、JBファンクへのリスペクトが急に熱をおびてきました。さらに映画「ロッキーW」のテーマ曲「リビング・イン・アメリカ」も大ヒット。再びJBはショービジネス界のトップへと返り咲いたのです。
 1984年にはヒップ・ホップの創始者のひとりアフリカ・バンバータとの共演で「ユニティーUNITY」を発表。彼はヒップ・ホップ系の若手アーティストたちからもリスペクトを受けることになります。
 しかし、そのため彼の曲は次々と無断にサンプリング使用されることになります。まだサンプリングに関する著作権侵害が取り締まられていなかった時期だったため、彼にはどうすることもできませんでした。そんな状況に対して、JBが怒りをあらわにした作品が、この頃の代表作「I'm Real」(1988年)でした。この曲は当時の人気ファンク・バンド、フル・フォースとの共同作品で、旧世代のJBが新世代のファンクと五分に渡り合えることを証明してみせています。

<自らの手で破壊した成功>
 このまま彼はソウルとファンクの殿堂入りを果たして静かに余生を送ることもできたでしょう。しかし、そうはなりませんでした。
 スタジオでの口論から喧嘩騒ぎになって逮捕されたり、妻への暴力が取り上げられたり、つい最近2004年には、子供への暴力で再び逮捕されるなど、すっかり私生活でのJBは評判を落としてしまいました。「たたきあげ」によって、築き上げてきた彼の実績は、彼の心に暴力によるトラウマとして残っていたのかもしれません。

<たたきあげられた肉体派ファンク>
 貧しさと闘い、前科者という偏見と闘い、誰にも負けない根性をつかんだ男。
 レコード会社に騙され、悪徳プロデューサーに騙され、若者たちには、かってに自分の曲をサンプリングされる中で、すべてを自らの手で仕切る能力を身につけていった男。
 ステージ上のライバルだけでなく、ロックン・ロールやディスコ、ヒップ・ホップなど、数多くのライバルたちと競い合う中で、独自のファンクとステージングを生み出した男。
 黒人として差別され、時代の流れの中で闘う中で、ブラック・アメリカンの代表者の一人となった男。
 そして、誰よりも強いエゴをもつが故に、誰よりもたたかれたために、自らの才能を伸ばさざるを得なかった男。
 こうして、生み出された独自のリズム・アンサンブル・ファンクは、その鍛えられた肉体性故に、今後生バンドでの正確な再現は困難になってゆくでしょう。(プリンスは、自らメイシオ・パーカーをバンドに加え、その再現と進化に力を注いでいます)
 それにしても、100年先の音楽家たちはJBファンクの真髄が、こうした天才のエゴイズムと厳しい罰金制度の賜物であるということを理解できるでしょうか?

<ファンクとは?>
 今さらながら、最後に「ファンク」とはなんぞや?について、記しておきたいと思います。ファンク・サウンドの聖書とも言える名著「ファンク - 人物、歴史そしてワンネス -」リッキー・ヴィンセント著(BIプレス)よりの抜粋です。
「ベースのフレーズにシンコペイションをきかせて、そこへドラマーがとても強くて重いビートを裏拍子で入れ、ギターかキーボードがベースに呼応するフレーズを弾き、これらの音に合わせて誰かがゴスペル流でソウルフルに歌えばファンクになる。・・・」
フレッド・ウェズリー

<ファンクの基礎知識>
(1) リズムと潜在リズムの対比という原則に基づいてリズム構成をする
(2) 打楽器を叩くようにして、歌や楽器を演奏する
(3) コール&レスポンスという音楽的構造をもつ
(4) 音楽制作過程における不可欠な要素として、身体の動きを取り入れる

「ジェイムス・ブラウンは、バンド全体をドラム・セットとして使うことによって、音楽をアフリカに回帰させる多重リズムを作ることが可能なのだということを実際にやって見せたのだった」
サラ・ブラウン&ジョン・モースランド

<ご冥福をお祈りします>
 なぜか大物たちが亡くなることの多い12月。やはりJ・Bも12月に旅立って行きました。それも2006年12月25日クリスマスとは。死因は急性肺炎とのことです。
ご冥福をお祈りいたします。

<締めのお言葉>
「力がなければ自由は手に入らない。
 そして、自由がなけらば創れない」

ジェームス・ブラウン 

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