- 加藤和彦 Kazuhiko Katoh 、ザ・フォーク・クルセダーズ The Folk Crusaders -

<加藤和彦との出会い>
 僕が初めて加藤和彦さんの音楽と出会ったのは、1968年の伝説の大ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」です。といっても、あの曲はテープ・スピードを変えて作られた特殊な録音作品だったため、テレビでは人形劇にレコードをかぶせるなどしていました。そのため、フォーク・クルセダーズのメンバーを見た覚えはほとんどありません。
 第一当時の僕はまだ8歳。確かに「帰ってきたヨッパライ」は歌詞を覚えてしまうほど、歌ったり聞いたりしましたが、次いで彼らが発表した「悲しくてやりきれない」やシングル発売が中止になった幻のヒット曲「イムジン河」などの名曲を理解できるわけがありませんでした。
 その後、彼がサディスティック・ミカ・バンドを率いて、イギリスでツアーを行いメイン・アクトのロキシー・ミュージックの出番を奪ってしまったのが1975年のこと。この事件はちょっとした話題になりました。しかし、この頃僕がはまっていたのは、ロキシー・ミュージックデヴィッド・ボウイなど欧米のロック・アーティストで、日本のロックにはほとんど興味がありませんでした。
 そんなわけで、僕がきちんと彼の音楽と出会ったのは弟が買ってきた1979年発表の彼のソロ・アルバム「パパ・ヘミングウェイ」を聞いてからのことでした。日本を飛び出していた彼は、まさにあのアメリカの冒険作家アーネスト・ヘミングウェイのように世界各地を旅しながらハイ・クオリティーでゴージャスなサウンドを最愛の妻であり最高の作詞家でもあった安井かずみさんとのコラボによって生み出していました。「パパ・ヘミングウェイ」から1984年の「ヴェネツィア」あたりの彼は、仕事とプライヴェートどちらも最も順調だった時代だったのではないかと思います。そうした、幸福な時代がその妻の死から少しずつ崩れてゆき、ついにはパパ・ヘミングウェイと同じように自ら命を奪うという最悪の結末に至ることになるとは、・・・・・。2009年10月16日(鬱病に苦しんだ後の首吊り自殺とみまれます)
 旅好きだった僕は彼のライフ・スタイルに憧れていただけに、彼の死は信じられませんでした。その衝撃は、ダイビング好きだった僕のヒーロー、ジャック・マイヨールが自殺したことを知った時以来でした。天才ゆえの悩み、繊細ながらゆえの悩み、そして「老い」とともに現れる悩み・・・それがなぜだったのかは、いつか僕にもわかる時がくるのかもしれません。ここでは、憧れのヒーロー、加藤和彦氏のご冥福をお祈りしつつ、僕がリアルタイムで出会うことができなかったフォーク・クルセダーズ時代の伝説を振り返ってみようと思います。

<1968年という時代>
 時は1968年。世界は新たな時代を模索する混乱の時代にありました。
 パリで行なわれたヴェトナム戦争の和平会談により、アメリカ軍による北ヴェトナムへの爆撃(北爆)の中止が決まり、戦争の終わりがみえてきました。
 テネシー州のメンフィスでは、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺され、アメリカ全土で黒人暴動が起きました。
 メキシコ・オリンピックでは100mのメダリストが黒い手袋とシューズを手に表彰台に上がりブラック・パワーをアピールし、メダルを剥奪されてしまいました。
 パリの街では、大学生を中心に政治運動が激化、大統領が退陣に追い込まれるという「五月革命」が起きました。
 チェコでは、「プラハの春」と呼ばれた民主化運動の広がりを押さえ込むためにソ連の戦車隊による占領が行なわれました。
 世界中で「革命」を求める若者たちによるデモが行なわれる中、日本でも70年安保を阻止するための学生運動が激しさを増し、そんな中有名な「三億円事件」や「金嬉老事件」が起きていました。
 混乱の時代において、音楽の世界においても次なる時代に向けた新しい動きが起きつつありました。
 ビートルズが自らのレーベル、「アップル」を設立。ミュージシャンが自らプロデュース、マネージメントを行なう時代を切り開きつつありました。
 デジタル時代の先駆となるモーグ・シンセサイザーを用いたウォルター・カルロスの「スウィッチド・オン・バッハ」が大ヒット。
 ジャマイカでは、トゥーツ&ザ・メイタルズがレゲエのルーツとなる曲「ドゥ・ザ・レゲエ」を発表。
 ニューヨークでは、DJプレイの元祖フランシス・グラッソが初めて2台のターン・テーブルを用いてパーティーを演出しました。
 ブラジルでは、カエターノ・ヴェローゾがアルバム「トロピカリア」を発表。そこから「トロピカリズモ運動」が始まることになります。
 では、日本のポップス界では何が起きていたかというと・・・・・・。
 都はるみ、水前寺清子、森進一、青江美奈、藤圭子らがヒットを連発。「演歌」という歌謡ジャンルが確立されたが意外なことにこの時期でした。
 グループ・サウンズのブームがピークを迎えたのもこの年でした。短かったブームはあっという間に終わりを向かえ、急速にその勢いを失ってゆくことになります。
 同じ頃、並行してブームを巻き起こしていたのがアメリカの東海岸からやって来たカレッジ・フォークの流れをくむミュージシャンたちでした。フォーク・クルセダーズは、その中から生まれたグループでしたがフォークのスタイルを用いてはいても、その中身はJ-ロックの原点だったといえます。
 この年に発表されたジャックスの「ジャックスの世界」とフォーク・クルセダーズの「紀元弐千年」、翌年発売の岡林信康&はっぴえんどのアルバム「見る前に跳べ」、エイプリル・フール唯一のアルバム「エイプリル・フール」、そしてはっぴえんどのデビュー・アルバム「はっぴいえんど」により、J−ロックの時代が静かに幕を開けることになります。(ただし、それがブレイクするのは、フォーク・ブームやニューミュージックのブームが終わってからのことで、まだまだ先のことになります)

<フォーク・クルセダーズの伝説>
 彼らの伝説の中でも特に驚かされるのは、彼らが当初自主制作盤として作ったアルバムがバンドの解散記念アルバムだったということです。高校生だったメンバーはそれぞれに大学進学や就職でバラバラになるため、最後にアルバムを1200枚だけ作ったのでした。当然、彼らはそれさえ全部売れれば、それで良いと考えていたのです。ところが、身内だけでは売り切ることができず、仕方なくそのアルバムをラジオ局に持ち込んだところ、その中から「帰ってきたヨッパライ」が全国的なヒットとなり、その後、南北朝鮮の分断を歌った「イムジン河」もラジオにリクエストが殺到。当時、日本にあった洋楽系のレコード会社全社が彼らとの契約に乗り出すことになりました。
 医学部への入学が決まっていた北山修ですが、当時、大学は安保問題で大混乱になっていて、ほとんどの学校が休講状態でそのために学校に行かなくても単位が取れることになっていました。そのおかげで時間ができた彼は、一年という期限付きで再びフォークルを結成しようと加藤を誘います。もうひとりのメンバー平沼義男は脱退の意思を変えなかったため、代わりに近所に住んでいた端田宣彦を新メンバーに加えました。
 こうして、一般的に知られるフォーク・クルセダーズが本格的に活動を始めることになりました。そして、初のメジャー・アルバム「紀元弐千年」の録音が行なわれることになります。

<深夜放送の時代>
 彼らの自主制作盤が大きな話題となったのは、それが1967年という年に製作、発表されたせいだったともいえます。もし、発売がもう一年早ければ、彼らはまったく話題になることなくその活動を終えていたかもしれません。それは、彼らを一躍有名にした民放ラジオ各局の深夜放送は、1967年いっせいに始まったものだったからです。
 TBSの「パック・イン・ミュージック」、ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」、文化放送の「セイ!ヤング」など、この年に始まった深夜放送の各番組は受験生を中心とする若者たちの間で大ブームとなり、その後は吉田拓郎、中島みゆき、谷村新司、山本コータローらのミュージシャンやタモリ、おすぎとピーコのようなタレントたちの活躍の場として大きな役割を果たします。それらの番組開始当時は、深夜枠としての自由な番組作りが可能だっただけでなく、あえてスポンサーをつけないことで完全に自由な番組制作が可能な解放区的な番組として、当時の反体制派の若者たちからも強い支持を受けることになりました。僕も、1970年代前半はどっぷりと深夜放送のお世話になりました。(タモリ、なっチャコパック、山本コータローなど、毎日夜中まで、どこかの曲の番組を聞いていたものです)そして、この時代フォークのヒット曲の多くはこうした番組から生まれていました。フォークルのブームはまさにそうした深夜放送が生み出したブームの先駆けだったのです。(「放送禁止歌」の多くはこうした番組を通して多くの聴衆の耳に届けられていました)
 ちなみに彼らは、大人向けの夜の大人気番組「11PM」(大橋巨泉司会)に出演したのが、初のテレビ出演でした。そして解散前最後の出演もまた「11PM」だったそうです。彼らのブレイクは、こうしたアナーキーなメディアの誕生によって可能になったともいえるでしょう。

<「紀元弐千年」>
 アルバム「紀元弐千年」とそれを生み出したフォーク・クルセダーズのどこがロックの原点だったのでしょうか?
 それは楽器編成や音楽スタイルはフォークでも、製作の過程やその目指すところが、当時のカレッジ・フォークとはまったく異なり、ビートルズのような最新型のロック・バンドに近かったことだと言えるでしょう。(フォークとはいっても、すでにエレキ・ギターも用いており、テープの早回しを使うなど実験的手法をいち早く用いていました)そのことは、彼らが「従来のフォークとは異なる新しい音楽」を追求しようという共通の意志をもち、バンド名を「フォーク十字軍」としたことにも表れています。
 このアルバムにも収められているデビュー・シングル「帰ってきたヨッパライ」は、テープの回転速度を変えることで生み出された特殊な声とコメディー仕立ての歌詞によるまったく新しい曲であり、カレッジ・フォークの美しいハーモニーとはおよそかけ離れたサウンドでした。この曲の大ヒットにより、次々と二番煎じのテープ早回しによるレコードが作られアングラ・フォークという呼び名でちょっとしたブームになりました。(「ケメ子の唄」なんていうヒット曲もありました)しかし、今思うと、アンダーグラウンドでシリアスかつ芸術性の高いフォークとはかけ離れた「帰ってきたヨッパライ」は、すでにアングラ・ブームのパロディーだったともいえます。

<先進的音楽性>
 自主制作アルバムは話題になってメジャー・デビューにつながったのも画期的でしたが、彼らはアルバム録音の際、彼らはまったく自由にスタジオを使わせてもらい思い通りに時間をかけて製作することを許されました。(もちろん、最終期限だけはありましたが)ついでながら、彼らはこのアルバムの原盤権も持っていましたが、これもまた当時としては珍しいことでした。普通はレコード会社が安く買い上げてしまうのですが、なぜかそうなりませんでした。
 こうして、数多くの特殊な条件のもとで作られたアルバムは、やはり時代の先を行く日本の音楽界における初のトータル・コンセプト・アルバムとなりました。ビートルズの歴史的名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の発表が1967年ですから、世界的に見てもこのアルバムは本当に時代の先を行っていたといえると思います。
 作詞家でもある北山修のしゃべりや演出力はライブでも非常に人気が高く、ファッションへのこだわりも含め、彼らはアイドル・タレントとしてテレビなどに出演し、トレンド・リーダーとしても大活躍、その多彩な才能を発揮してゆきました。勢いに乗る彼らは、後に世界的名監督となる大島渚を監督に向かえ、ビートルズの主演映画「ビートルズがやって来る/ヤァ!ヤァ!ヤァ! A Hrad Days Night」に対抗する主演映画まで作ってしまいました。その映画「帰ってきたヨッパライ」は、かなり前衛的で面白い珍品映画のようです。

<幻の曲「イムジン河」>
 「帰ってきたヨッパライ」が全国的な大ヒットとなり、その後第二弾シングルとして「イムジン河」が選ばれました。実は、当初は業界の常識に従い「帰ってきたヨッパライ」の続編が企画されていました。そのタイトルも「幻のヨッパライ」や「さすらいのヨッパライ」などと前宣伝が行なわれていたといいます。しかし、フォークルのメンバーはあえてシリアスな「イムジン河」を選択しました。彼らにとって、ヒットさせることは目標ではなかったからこその選択だったともいえます。ところが、発売の直前になって突然、それは中止になってしまいました。当時、その原因は、朝鮮の分断について歌った「イムジン河」の歌詞を問題視した朝鮮総連からのクレームによるものとされていましたが、後にそれはクレームではなく朝鮮総連からの質問に対して、発売元の東芝が自主規制してしまったせいだったことが明らかになりました。(朝鮮総連はその歌を認め、フォークルによるライブを依頼してもいます)
 「イムジン河」の発売中止を受けて、急遽フォークルのメンバーには、第二弾シングルの制作に入るよう指令がきます。なんと彼らは、3時間以内に新曲を作るようにと事務所の部屋にカンズメにされました。そして部屋の中で、加藤和彦が「イムジン河」の楽譜を頭に浮かべながらそれをいじっているうちに新たなメロディーが浮かんできたといいます。それが次なる新曲であり、これまた名曲「悲しくてやりきれない」の原曲でした。一週間後、その曲には名作詞家サトウ・ハチローにより素晴らしい詞がつけられ、彼らのもうひとつの代表曲が誕生することになります。

<自由な発想による活動>
 時間はないが自由はある。そんな状況の中彼らは次々に仕事をこなし、前述のようにテレビ、ラジオなどメディア全体を使ってその才能を発揮してゆきました。当時の彼らはあまりに忙しかったので、同時代にヒットしていたロックやフォークをほとんど聞く暇がなかったそうです。(当時はウォークマンもラジカセもありませんでしたから、電車での長い移動中に音楽を聴くということも不可能でした)
 もしかすると、彼らの音楽がもつ「和風」もしくは「無国籍」な雰囲気は、中途半端なロックやフォークの影響を受けることがなかったからかもしれません。こうして、生み出された彼の音楽のもつ特質は後にサディスティック・ミカ・バンドの名盤「黒船」などの作品に見事に生かされることになります。

 泉谷しげる「春夏秋冬」、吉田拓郎「結婚しようよ」などのヒット曲の編曲も担当。まだ音楽プロデュースやスタジオ録音における編曲家の仕事が定まっておらず、そういった仕事ができる人がなかったこともあり、彼はフォーク系アーティストに引っ張りダコの存在となりました。
 それに彼はロンドンを旅した際に音楽的影響だけでなく技術的なものも持ち帰りました。そのひとつは、彼が自費で購入してきたPAシステムは当時に日本にはなかった最新のもので、彼はそれを使ってレンタルPAの会社まで立ち上げ、コンサートの音響にも革命を起こしました。

<型破りな解散、もしくは散解>
 彼らの新しさは登場の仕方だけでなく、解散の仕方にも表れていました。一年という期限付きで再結成した彼らでしたが、その人気の物凄さに当然、解散などあり得ないだろうというふうに周りからは見られました。しかし、究極のアマチュア・バンドだった彼らにとっては、バンドの解散は単なる「卒業」でしかありませんでした。
 端田は解散ライブの時、すでに杉田二郎らとシューベルツを結成しており、翌年には大ヒットすることになる名曲「風」を収めたアルバム「未完成」を発表します。北山修は、予定通り医学部に入学し、精神科医になる道を歩み始めます。
 加藤和彦も、翌年にはソロ・アルバム「ぼくのそばにおいでよ」を発表し、その後1972年に女性ヴォーカルのミカ、つのだひろとサディスティック・ミカ・バンドを結成。日本初のプライヴェート・レーベルとなった「ドーナツ」を設立し、「サイクリング・ブギ」でデビューを飾ります。
 その後、メンバーに高中正義(ギター)、小原礼(ベース)、高橋幸宏(ドラムスのつのだと交代)を加え、アルバム「サディスティック・ミカ・バンド」を発表します。あまりに新しすぎて日本では受け入れられないと知った彼らは、活動の場を海外に求め、プロデューサーにロキシー・ミュージックの作品で有名なイギリス人クリス・トーマスを迎えセカンド・アルバム「黒船」を発表。このアルバムは、日本のロックの歴史に燦然と輝く名盤となりました。和の要素とトータル・コンセプト・アルバムとしてストーリー性のあるスタイルをロックに取り込んだ、ファンキーでハードでプログレッシブなサウンドは、海外でも高く評価され、イギリス、アメリカ発売となり、J-ロックの海外進出元年となりました。1975年、彼らは今や伝説となったイギリス・ツアーを成功させますが、帰国後、加藤和彦はバンドを脱退し、ソロ活動に入ります。(この時のライブは、アルバム「ライブ・イン・ロンドン」として発売されています)
 ここで彼はその後の人生を左右することになる大切な女性、作詞家の安井かずみと出会いました。彼は愛する妻となった彼女の詞とともに音楽活動を新たな段階へと進めることになります。それは大人のための新しいロック、エレガントな音楽世界を構築し始めます。
 こうして生み出されたソロ・アルバム「パパ・ヘミングウェイ」(1979年)、「うたかたのオペラ」(1980年)、「ベル・エキセントリック」(1981年)、「あの頃、マリー・ローランサン」(1983年)、「ヴェネツィア」(1984年)などのアルバムが僕は大好きです。それらのアルバムを発表した時期は彼の絶頂期であり、日本という国にとってもバブルの時代が重なってもいました。二人のエレガントでゴージャスな音楽世界は、そのまま時代にフィットしていたといえます。僕にとっても、二人は本当に憧れの存在でした。あんな大人になりたい。そういう人生の目標になりうる存在でした。
 しかし、そんな幸福な時代は以外に早く終わりを迎えてしまいます。最愛の女性が54歳の若さでこの世を去ってしまったのです。(死因は癌でした)彼は彼女とともに音楽を作るという人生の目的を失ってしまったのでした。
 その後、彼は市川猿之介のスーパー歌舞伎の音楽を依頼され、やっと音楽活動に復活。さらに彼をアルフィーの坂崎が音楽番組に引っ張り出したのをきっかけに彼とかつての仲間、北山修を加えてフォーク・クルセダースを復活させたり、木村カエラをヴォーカルに迎えてサディスティック・ミカバンドを再結成するなど、本格的に活動を再開してゆきます。しかし、その活動もいつしかかつてのフォークル時代の回顧的なものになり、そこに彼はやりがいを見出せなくなっていったのかもしれません。こうして、少しずつ彼は彼の美学とはかけ離れた方向へと向かい、ついにはその人生の終わりを自ら選ぶことになったのかもしれません。

<時代の先を歩んだ男>
 振り返ってみると、加藤和彦というアーティストは常に時代の先を歩んでいました。フォーク・クルセダーズとして、アングラ・フォーク時代の先駆者となり、そこで生み出した日本語ロックのエッセンスを和製ロックの先駆けとなったサディスティック・ミカ・バンドで完成させ、J-ロック海外進出の先駆けともなりました。その後のソロ活動では、無国籍でエスニックでヨーロピアンなサウンドを展開。バブル時代のポップスともいえるリゾート&退廃なサウンドの先駆者にもなりました。
 1990年代に入り、時代がやっと彼に追いついた頃、サディスティック・ミカ・バンドの再結成が実現。その後はフォーク・クルセダーズの再結成も実現しました。でも、彼にとってそれはうれしいことだったかどうか?
 「自殺」という選択に「NO」ということは簡単です。しかし、あまりにも「自殺」という行為と結びつかない人による「自殺報道」に出会うたびに、そこに何かの「意義」を見出すべきかもしれないと思ってしまいます。加藤和彦氏の自殺もまたそのひとつです。もちろん、赤の他人の僕に彼の心の奥底がわかるはずはありません。彼が悩みに悩んだ末に自ら死を選んだのも確かですが、うつ病という病が影響してとも言われています。できることなら、病のせいだった、そう思いたいところです。しかし、そうでなければ、彼の魂が死によって救われたことだけでも願いたいと思います。
 自らの生き様にエレガントさを求める彼の美学にとって、愛する人を失い、やるべきことをやってしまい、理解者を失くしてしまったことは、人生の意義を失うことと同義だったのかもしれません。ならば、自らにまだ選択権のある内にそれを美しく終わらせたい。それもまた人生なのかもしれません。彼が終わりの日に晴天の素晴らしい日を選んだのも、その表れだったのでしょう。それは素晴らしき終わりの日でなければならなかったのです。
 改めて思いますが、そのファッション、その音楽センス、その生き方、どれもが僕の憧れでした。
 どうせ生きるなら格好良く生きたい!
 ご冥福をお祈りいたします。

<参考>
「ロック画報(16) ザ・フォーク・クルセダーズ・リターンズ」

(株)ブルース・インター・アクションズ

ハイヴィジョン特集「早過ぎたひと 世紀の伊達男 加藤和彦」(ドキュメンタリーTV)
BS NHK

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