- はっぴいえんど、はちみつぱい、風都市・・・ -

<J−ロック草創期(1968年〜1980年)>

<輝けるJ−ロック草創期>
 20世紀の日本におけるロックの歴史をふり返った時、1970年から1975年にかけてのロック・シーンほど面白い時代はないように思います。その当時行われた音楽的実験の数々とその成果は未だにその輝きを失っていません。ところが意外な事に、その中心となったアーティストたちは、ごくごく狭い範囲に集まって活動していました。それは、東京、渋谷とその周辺でした。そこに集まったロック好きの若者たちは少ない情報を仲間同士で交換し合いながら、それぞれのバンドを結成し21世紀に至るJ−ロックの基礎を築いたといえます。中でも伝説のバンド、はっぴえんどと彼らをバックアップしていた企画集団「風都市」の周辺には様々なミュージシャンやアーティストたちが集まり、伝説的名盤を次々と世に送り出しました。しかし、彼らの活動はわずか5年ほどで終わりを向かえてしまいます。なぜ、そんなにも短かったのか?
 今では名盤と言われている当時の作品は、当時どれもヒットせず、それらの作品を生み出したバンドはどれも数年で解散しています。彼らがやっと時代の波に乗りブレイクするのは、1976年以降のことになります。その後も、彼らのほとんどはミュージシャンや音楽業界の裏方として21世紀まで活躍を続けることになりました。しかし、時代が過ぎ、彼らも少しずつ年齢を重ねることで、その活動の歴史は幕を降ろしつつあります。2011年12月のムーンライダーズ解散は、その象徴的な出来事です。すべてが過去のものになる前に、ここでもう一度あの時代をふり返ってみたいと思います。
 当時の複雑な人間関係、バンドとバンドのつながりをできるだけわかりやすく書いて見たいと思います。先ずは簡単に当時の時代背景を説明し、主人公たちが活躍した時代と渋谷の雰囲気を思い描いてから始めようと思います。

<1960年代末>
 1960年代末、日本は1970年に自動延長される日米安全保障条約に対する反対運動が激化。特に大学における学園紛争は安保だけでなく学校運営の民主化を求める運動とともに激しさを増し、ストライキにより授業がストップするなどして、大学は休校があいついでいました。当時、多くの学生にとって革命は現実的な目標であり、大学を出ても意味がないかもしれない。そんな思いを多くの学生は抱いていました。このことは、僕が後に会社の先輩なに聞きました。
 1970年代初め、敗戦国だった日本は着実に経済大国への道を歩み続けており、1970年には大阪で万国博覧会が開催され、「モーレツ」から「ビューティフル」へというコピーが流行ったのもこの頃です。国鉄の「ディスカバー・ジャパーン」キャンペーンにより、国内旅行の一大ブームが起こり、その流れに乗って、1971年には加藤登紀子の「知床旅情」、小柳ルミ子の「わたしの城下町」が大ヒット。人々は余暇を楽しむ余裕を持ち始め、生活水準は着実に上がりつつありました。
 一方、そんな社会情勢の中、1970年3月には赤軍派による「よど号ハイジャック事件」。同じ年、小説家、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊基地に立てこもった後に割腹自殺。1971年には、成田空港建設反対運動が激化。三里塚では頭脳警察やブルース・クリエイションらが野外ライブ「幻野祭」を開催し、新宿や渋谷の駅周辺ではデモ隊と機動隊が激突を繰り返していました。しかし、こうした運動の過激化は学生の運動離れを加速させることになります。そして、1972年には連合赤軍が分裂、内紛によるリンチ殺人事件が発覚し、そんな中で起きた浅間山荘での立てこもり事件は日本中の人々に運動の崩壊を実感させることになりました。
 こうした時代状況の中、当時大学生だったり、高校生だったりした若者たちの中には、政治運動から離れ、音楽、それもロックにのめりこむ者たちが現れ始めていました。彼らがこの風都市物語の主役となります。

<はっぴえんど結成>
 大学の友人たちとバーンズというバンドを組んでいた細野晴臣(b)と松本隆(dr)は、グループ・サウンズの流れを汲むフローラルのメンバーだった小坂忠(vo)、柳田ヒロ(key)、菊池英二(g)とエイプリル・フール Apryl Foolを結成。1969年に唯一のアルバムとなった「エイプリル・フール」を発表しています。1969年といえば、あの伝説のロック・フェスティバル「ウッドストック」が開催された年。今のようにインターネットもフェイスブックもなく、タワーレコードもHMVもなく、FMのロック番組もなかった時代です。海外の最新のロックを聴くには輸入盤のレコード店で探すしかありませんでした。そんな状況の中にも関わらず彼らはいち早くサイケデリックでプログレッシブなロックを演奏していました。(洋楽オタクで大量のレコードを持っていた細野はその大切な情報源だったようです)アルバムに収められた9曲中8曲はオリジナル曲で、そのうち3曲は日本語の歌詞がつけられていました。1968年発表のジャックスのアルバム「ジャックスの世界」には及ばなかったものの、いち早く日本語でのロックを展開しており、はぴいえんどへの過渡期にあったといえます。
 このバンドの音楽的中心にいた細野は、当時アメリカで出たばかりのバッファロー・スプリングフィールドのアルバム「アゲイン」(1968年)に衝撃を受け、同じバッファロー・スプリングフィールドのファンだった大滝詠一と松本隆、そしてやはりバンド仲間の一人だった鈴木茂とともにバッファローのコピーをし始め、それをもとにオリジナルの曲を作り始めました。
 1970年、彼らは日本語による歌詞をロックにのせ風景画のように都会の姿を描き出すというそれまでにないスタイルを目標にした新たなバンド、はっぴいえんどを結成します。彼らの記念すべき初ワンマン・ライブは渋谷の「ヘアー」で、1970年7月21日のことです。しかし、電気楽器を用いるロックバンドにとって発表の場は当時ほとんどありませんでした。当時、ほとんどのライブハウスはフォークのミュージシャンが演奏できる小さなライブハウスばかりで、彼らのようなロック・バンドが出演できる大きめのライブハウスはほとんどなく、そのためのPAも存在していませんでした。そんな状況を変え、その後、風都市の中心的ライブハウスとなったのが渋谷に誕生したばかりの「BYG」でした。
 彼らは、1970年当時人気絶頂だった岡林信康の録音にバッキングに参加。元ジャックスのメンバー、早川義夫のディレクションにより制作されたそのアルバム「見る前に跳べ」は岡林がフォークロックへと方向転換した重要作として高く評価されることになります。ただし、当時は岡林がポップ化したと批判の対象ともなり今ほど高い評価を受けることはありませんでした。ある意味、岡林はロック転向当時、1965年のボブ・ディランであり、はっぴいえんどはそのバックを支えたザ・バンドにあたったといえます。

<「風都市」誕生>
「『BYG』という店名は、ヨーロッパのジャズ・レーベルをそのままいただきました。Beautiful Young Generation の頭文字でしたね。ただ、「ジャズの店」にするつもりは、実はなかったんです。私はもともと音楽と名のつくものは何でも好きでしたし、新しい店ではジャズに加え、ロックもフォークも、とにかく若者のための音楽を何でもやろうと思っていた。というより、とにかく渋谷の街のなかに新しい音楽を鳴り響かせたかったんですよ。・・・」
酒井五郎(BYG初代マネジャー)

 当時、狭いとはいえエレクトリックなロック・バンドの演奏を常時聞かせることができるライブ・ハウスは、都内でもほとんどありませんでした。こうして誕生したBYGでは、はっぴいえんどの他、ブルース・クリエイション、乱魔堂、布谷文夫、DEW、そしてはちみつぱいなどが常連バンドとして活躍することになります。
 さらにこの頃、渋谷の桜丘町にはロック雑誌の草分け「ニューミュージック・マガジン」(後の「ミュージック・マガジン」)が誕生しています。中村とうようを中心とするこの雑誌は1969年4月に創刊号が発売され、その後21世紀までその発行が続くことになります。ちなみに創刊当時、表紙には「ニューロックとリズム&ブルースの専門マガジン」とありました。スタッフは他に田川律、小倉エージ、水上はる子、北中正和、浜野サトル、室谷憲治などでしたが、その中の浜野サトルは、BYGの初代レコード係りでもありました。
 ちなみに、同じ頃、月に何回か限定でロックのライブが行われていた場所としては、六本木の自由劇場もありました。そこでは東京ロックン・ロール・アンサンブルが開催され、頭脳警察、クリエイション、RCサクセション(清志郎はまだ高校生でした)元ジャックスの木田高介などが出演していました。

 BYGの常連バンドとなったはっぴいえんどの松本隆は高校時代からの友人でエイプリル・フール時代からライブの裏方を担当してくれていた石浦信三にマネージャーを依頼。彼はその後、はっぴいえんどのもう一人のメンバー的存在として作詞やアルバムのコンセプト作りに関わる重要な存在となり、「風都市」の中心人物となってゆきます。
「『風街ろまん』のころは、石浦がベンヤミンの『ベルリンの幼年時代』に傾倒していて、ぼくも読んでおもしろかった。ベンヤミンのベルリンやボードレールのパリにあたるのがぼくにとっては東京だと。そんなところから『風街ろまん』の世界が生まれてきたんです。・・・」
松本隆

 1960年代末、若者の多くはフォークにはまっていました。そんな一大フォーク・ブームの中、東京フォーク・キャンプというイベントが開催され、そのイベントに関わる人々の中からミニコミ誌「ミュージック・レター」が誕生。そのスタッフだった二人の若者、石塚幸一と前田邦昭はフォークのイベントを企画するようになり、BYGと関わるようになりました。さらにもう一人、ブルース・クリエイションのメンバーだった上村律夫が参加。(上村は、その後風都市所属のバンド、乱魔堂のマネージャーとなります)こうして、彼らはBYGで行われるライブのブッキング・チームとして、協力し合う仲間となり、その名も「風都市」という企画集団を結成することになります。
 1971年、風都市は初のイベントを東京ではなく京都で開催します。円山音楽堂、西部講堂の二箇所で二日間にわたって行われたライブには風都市のオール・スターが登場。題名は「風都市とほりぬけられますこんさあと」と名づけられました。

<風都市の方法論>
 風都市にはいくつかのこだわりがありました。その一つには「風都市のバンドには水ものと興行にはいかせない」というものです。水もの(クラブやキャバレーでの演奏)、興行(歌謡曲、演歌系のステージ)両方には出ないと言うことですから、彼らは自分たちでコンサートを企画してゆかなければバンドの出演機会はなかなか作れないということでもありました。当時は現在のようにロック・フェスティバルもないし、地方にロックを演奏できるライブ・ハウスもほとんどありませんでしたから、彼らは自らかなり厳しいハードルを設けてしまったといえます。
 もう一つ重要でなおかつ新しかったのは、風都市がアーティストやコンサートをトータルにプロモーションしたことです。アルバムの内容に基づいたジャケットやポスターの制作を自ら行うことは、それまでほとんどなかったことでした。

「・・・ただ『自分たちの信じている音楽を続けられたらいいな』と思ってました。キープできるってことが一番いい、ひょっとしたら5年後かもしれないけれど、結果として認められればいいなって。ただ、現実はそううまくはなかった、と。・・・・・」
石場幸一

「風都市には、われわれがやろうとしていることをやらせたいという愛情がありましたね。視線による愛情というかな。・・・」
大滝詠一

「あの頃、ぼくらの中に唯一共通してたのは、一旗上げようとか、故郷に錦を飾ろうとかっていう発想がまったくなかったことです。当時への思いというと、ぼくにとっては『煙草路地』っていう歌に尽きちゃうんだ。♪さぁ煙草に火をつけて、どこへ、どこへ、どこへ・・・っていう、あの感覚。あても別にないし、目的もないけど、ただそうやって生きてきたっていうことがね、うん。少なくともぼくらの周りにいた人間はみんなそうだったんじゃないか。だからいかに『風』っていう言葉があの頃の歌に多いか。」
石塚幸一(風都市スタッフ)

<はちみつぱい結成>
 和製バッファロー・スプリングフィールド的存在となった「はっぴいえんど」のデビュー・アルバムを聞き、先を越されたと感じた若者、鈴木慶一。彼は、ならば自分たちは和製グレイトフル・デッドを目指そうと自分たちのバンドを結成します。同じ頃、あがた森魚は、岡林信康がはっぴいえんどをバックに演奏するライブを見て、自分もあんなバック・バンドがほしいと思うようになり鈴木慶一に声をかけました。こうして、後のムーンライダースの母体となるバンドがスタートします。そのバンド当初、あがた森魚のバック・バンド「あがた精神病院」として活動を開始しますが、すぐに「はちみつぱい」と改名します。
 スタート時のバンド・メンバーは、鈴木慶一(vo,gu)、本多信介(gu)、渡辺勝(vo,gu)という3人で、エレキ・ギター3人という不思議なバンド構成でした。しかし、その後、武川雅寛(viol)、樫淵哲郎(dr)和田博巳(b)が参加。渡辺の脱退後には、岡田徹(kyb)とフォージョー・ハーフから駒沢裕城(pstg)が参加しています。(初期にはヴォーカル担当として山本浩美もいました)
 1971年、彼らは、はっぴいえんど同様、BYGを中心にライブ活動をスタートさせます。そして、1973年には名盤にして唯一のアルバム「センチメンタル通り」を発表しています。この時、はちみつぱいのマネージャーとなったのが、風都市のメンバーでもあった石塚幸一で、彼はあがた森魚のマネージャーも務めることになります。

<フォージョー・ハーフ結成>
 元フローラルのメンバー、小坂忠はエイプリル・フール解散後、1970年にヒッピー・ムーブメントの象徴的ミュージカル作品「ヘアー」の日本版に出演。1971年には新興のマッシュルーム・レコードからファースト・ソロ・アルバム「ありがとう」を発表します。そのアルバムにはバックに細野晴臣、ミッキー・カーチスなどが参加していました。そして、1972年には、駒沢裕城(pstg)、林立夫(dr)、後藤次利(b)そして松任谷正隆(key)と共にフォージョー・ハーフを結成。アルバム「もっともっと」を発表します。(フォージョー・ハーフとは「四畳半」のことでした!)彼らもまたBYGでライブを行い、そのマネージャーには前田邦昭が当たることになります。

<「風街ろまん」誕生>
 1971年、はっぴいえんどはJ−ロック史に残る名盤「風街ろまん」を発表します。録音が行われたモウリ・スタジオには、当時日本では最先端だった8トラックの録音設備がありそのおかげで彼らは現在にも通じる素晴らしい音楽を記録することが可能になりました。実は、このアルバムのタイトルは、元々「風都市」となるでした。ところが、石浦が先に「風都市」を自分たちの企画集団に使ってしまったため、「風街ろまん」になったのだそうです。

「『風街ろまん』は、小説というよりは、ずっと詩的に映像化された、絵画的なアルバムなんですよ。サウンド的にはバッファロー・スプリングフィールドの影響が顕著なんだけど、詞は、今言ったような実体験をベースにした映像からできている。・・・」
石浦信三

 彼らはこの名作を完成させることで、それぞれの個性を発揮させると同時にそれぞれが目指すべき道が違うことを確認。その後は、それぞれのメンバーが異なる道を模索し始めます。バンドとしてできることはまだまだあったとは思いますが、それ以上にやりたいことがありすぎたということかもしれません。ただし、彼らの人気がもっとあればそうはならなかったかもしれません。残念ながら彼らはその実力を発揮する場が少なく、それがバンド解散の最大の理由だったのかもしれません。

「なんせな、はっぴいえんどのええステージ見たことないねん。何でか言うたら、それは当時のPAの問題やねんな。当時の機材ではあの人らのやってた音ってのは、客席まで伝わらんわけや、ほんではちみつぱいは8ビートの難しいことしてへんバンドやったから、ごっつ聴きやすかったんや。そういうのんあった。いまのようなPAやったら、当時にもっとはっぴいえんどに火がついたんちがうか?そのくらいちゃんとしたの見たことないんやもん。エルクのヴォーカル・アンプやからなあ。いまのカラオケセットよりちゃっちかったもんな。」
阿部登(山下洋輔トリオ・マネージャー)

 彼らのレコード録音に対するこだわりは、それが風都市を破産させたといえるほどのものでした。彼らはスタジオでの録音にそれまででは考えられないほどの時間と労力をかけていましたが、それは彼らが「レコード」という記憶媒体をそれまでとは異なる存在とみなしていたからです。

「・・・メディア時代のオリジナリティというのは音源にこそあるということに、彼らは当初から意識的だったんじゃないかな。大量生産がきくレコード盤があって、ラジオがあって・・・。そういう時代においては、もはや生演奏はレコード盤に記憶されたオリジナル音源を再現する場としてのみ機能していたりするわけで。再生メディアの中にこそオリジナルがある、と。」
萩原健太「さよならアメリカ、さよならニッポン」より(2012年追記)

<はっぴいえんど、ラスト・アルバム>
 バンドの解散が避けられない状況になり、ラスト・アルバムが作られることになりました。アルバム制作に乗り気になれない彼らをその気にさせるため、ロサンゼルス録音という案が出されました。メンバーに共通するアメリカン・ロックへの憧れを利用することでやっとメンバーの方向性は一致し、1972年10月彼らはロサンゼルスでのアルバム録音を開始します。その際、彼らはリトル・フィートヴァン・ダイク・パークスらと出会い彼らから様々なことを学びながらアルバム「HAPPY END」(1973年)を完成させました。しかし、この録音には時間がかかりすぎ、予算の倍を使ってしまいます。ミュージシャンの完ぺき主義をコントロールするはずのマネージャーが、いっしょに音楽に情熱を傾けすぎてしまい、そのことが常に風都市の仕事を予算オーバーにさせることになっていたのです。
 1972年、風都市はウィンド・コーポレーションを設立し、株式会社としてます。それは大手のレコード会社と付き合うために行われた企業戦略で、大手キング・レコードの子会社ベルウッドと提携してレコード制作を進めることになります。そこから生まれた最初のヒット作が、あがた森魚「赤色エレジー」(1972年)でした。
 キング・レコードから独立したばかりの三浦光紀が立ち上げたベルウッドは、その後、風都市とともに、あがた森魚のアルバム「乙女の儚夢(ろまん)」、大滝詠一の「ファースト・アルバム」、はっぴいえんどの「HAPPY END」、細野晴臣の「HOSONO HOUSE」、はちみつぱいの「センチメンタル通り」などを発表してゆくことになります。
 さらに1973年、風都市はもうひとつのレーベル、シティ・ミュージックを立ち上げます。こちらはトリオ・レコードの子会社「ショー・ボート・レーベル」と提携し、南佳孝のデビュー・アルバム「摩天楼のヒロイン」や吉田美奈子のソロ・デビュー・アルバム「扉の冬」を発表します。しかし、制作費をかけすぎる傾向は相変わらずで、南佳孝のアルバムには、当時のお金で1000万円をかけてしまいました。(当時の1000万円は今なら1億円には当たるはず・・・)

<はっぴいえんど解散コンサート>
 1973年9月21日東京文京公会堂において、はぴっいえんどの解散コンサートが行われました。出演したアーティストは、南佳孝、吉田美奈子、西岡恭蔵、キャラメル・ママ、ココナッツ・バンク、ムーンライダース、そして主役のはっぴいえんどです。ゲストであがた森魚やコーラスでシュガー・ベイブも出演し、司会はかまやつひろしでした。しかし、このコンサートが開催された時、すでにメンバーは個々の新たなスタートを切っており、それぞれに思いを抱きながらの演奏になりました。

「はっぴいえんどにとって、9・21のコンサートは「ラスト・ワルツ」みたいなものであると同時に、メンバーが次に何をやるかを提示するコンサートでもあった。・・・」
鈴木慶一

<松本隆>
「はっぴいえんど最後のステージは、とっても気持ちよく完全燃焼できた。解散はぼくが決めたことじゃなかったけど、四つどもえの相対的な価値観にしばられることから逃れたいという気持ちはぼくにもあった。
 ドラムはすごく好きだったけど、細野さん以外のベースでドラムを続ける気もしなかったから、これで心置きなく作詞家になれると思った。そして最後にステージからスティックを放り投げたんだ。」

松本隆

<大滝詠一とシュガー・ベイブ>
「・・・ココナッツ・バンクは歌が少し弱いかなと思っていたときに、伊藤銀次が山下達郎の自主制作LPを高円寺の「ムーヴィン」でみつけてきて、それでシュガー・ベイブとのつながりが始まって、一緒に出てもらうことになりました。・・・」
大滝詠一
 このコンサートで彼はココナッツ・バンク(伊藤銀次ほか)の演奏とシュガー・ベイブ(山下達郎ほか)のコーラスをバックに歌いました。そしてこれがナイアガラ・トライアングルVol1へと発展することになります。

<南佳孝>
 このコンサートのトップ・バッターは、このライブがデビューとなった南佳孝でした。
「ぼくのデビューは、はっぴいえんどの解散コンサートだったんですよ。1973年9月21日、文京公会堂から。松本隆プロデュースのデビュー・アルバム「摩天楼のヒロイン」の発売も、その日だったしね。・・・」
南佳孝

<鈴木慶一&ムーンライダース>
 1974年、はちみつぱいは解散し、新たなメンバーでムーンライダースを結成します。メンバーは、鈴木慶一(v,g)、鈴木博文(b)、武川雅寛(viol)、岡田徹(key)、樫渕和夫(dr)、椎名和夫(g)、土井正二郎(perc)(その後、土井は脱退し、1977年椎名に代わって白井良明が加入します)
「はっぴいえんどのステージ、おれは『ゆでめん』発売後の日比谷野音のライブと解散コンサートに参加してるんだよ。・・・おれが解散コンサートに呼ばれたのは風都市の石浦信三君の発想じゃないかな。そのときはピアノを弾いたんだ。はっぴいえんどの最初と最後に一緒にやれたのは、いい思い出だし、いい偶然だ。他者から見たら必然かもしれないし。・・・」
鈴木慶一

<その後の活躍>
細野晴臣キャラメル・ママ
 細野晴臣は、早くも初のソロ・アルバム「HOSONO HOUSE」の録音を開始します。そして、それはキャラメル・ママという新たなバンドの始動でもありました。キャラメル・ママ(後のティン・パン・アレー)のメンバーは、細野晴臣(b)と同じく元はっぴえんどの鈴木茂(g)、それに元フォージョー・ハーフの林立夫(d)、松任谷正隆(key)の四人。はっぴいえんどとの大きな違いは、その目指すところにありました。

「キャラメル・ママ/ティン・パン・アレーがはっぴいえんどと違っていたのは、歌が中心にまとまる音楽じゃなかったということですね。強烈にバンドを引っ張っていくヴォーカルがいなくて、楽器でつながっていた4人という印象があります。誰かヴォーカリストを入れようかという話し合いもしましたけど、意見がまとまらなくて、世の中にはいっぱいヴォーカリストがいるわけだから、われわれは演奏能力を使ってその人たちと一緒にやっていこうということになったんです。・・・」
鈴木茂


 彼は後のキャラメル・ママのメンバーたちと自宅で初のソロ・アルバム録音を開始します。それは、ビッグ・ピンクと呼ばれる一軒家で録音された名盤として知られているザ・バンドのアルバムを意識して作られました。
「民家を使ってレコーディングするというのは、たぶん日本でははじめてだったと思いますけど、もともとの発想はザ・バンドの『ビッグ・ピンク』です。ピアノの音一つ録るにしても大変でした。実際に録音してみると、床の響きまで影響してくる。『床まで楽器』ということね。そこまでいっちゃった。・・・」
石浦信三

「キャラメル・ママはとにかく常に変わったことをやってた。そもそも、ああいうミュージシャンがスタジオの仕事をするっていうのがまずなかったですから。それまでは、新室内音楽協会とかジャズの人たちがスタジオをやるのが相場で、ロックな感覚でできる人ってのがまだいなかったんです。そういうスタジオ・ワークをね、始めたのはキャラメル・ママだと思う。・・・」
重城貴美子(風都市スタッフ)

 さらにキャラメル・ママは、風都市にも出入りしていた女性アーティストのデビュー・アルバムの編曲・演奏を全面的にまかされることになりました。彼女はその後、J−ポップの歴史上最も重要な女性アーティストになります。それが、後のユーミンこと、若き日の荒井由美でした。
「・・・当時ぼくらと同じような考えを持っていたのが村井邦彦さんだった。彼は基本的にはアメリカン・スタイルのミュージック・ビジネスの幻想を抱いていた。ぼくらは日本の現実とは関係ないことを考えていたんだ。村井さんとはじめて一緒にやったのは笠井紀美子のセッションだった。その後、マッシュルーム・レーベルの仕事を一緒にして、さらにずいぶんたってから呼ばれたのがユーミンのデビュー・アルバムだった。そのときは『一度録音したものがあるけど、自分が考えていたものとはちがうから、もう一度やってきてくれ』ということだった。それが『ひこうき雲』になった。・・・」
細野晴臣
 このアルバム「ひこうき雲」の録音中に荒井由美は、同じキーボード奏者の松任谷正隆と知り合い、その後、結婚に至ることになります。

<作詞家、松本隆>
「・・・そのころぼくは『摩天楼のヒロイン』、あがた森魚の『噫無常』、岡林信康の『金色のライオン』『誰ぞこの子に愛の手を』などをプロデュースした、収入がゼロだった。月5万円の給料は半年滞っていた。結婚して子供もいたので、そんなことをしていたらとても生活できない。それで『作詞家になろうと思うけど一緒にやらないか』と石浦に相談した。しかし、彼には『ぼくはゼロには戻れない』と断られてしまった。そして吉野金次さん(レコーディング・エンジニア)の紹介でアグネス・チャンの作詞をやったら、ロックの連中から四面楚歌になったんだ。
松本隆

<風都市の経営的失敗>
 はっぴいえんどの解散コンサートは、残念ながら大きな赤字だったそうです。実は、風都市の仕事で黒字となったものはほとんどなく、唯一あがた森魚の「赤色エレジー」だけが大きな利益を生み出したヒット曲でした。
「・・・あがた森魚の『赤色エレジー』がヒットして、そのおいしさに甘えちゃったのが風都市の不幸のはじまりだったかもしれないね。それまでは音楽業界の暗黙の了解に則らない仕事していたのに、そこで業界のやり方にのっかっていくことを覚えた。それは数の信仰がはじまっちゃうということでもあったと思うんだ。・・・」
松本隆

 あがた森魚が映画製作にのめり込み、自主製作映画をつくることになったことも風都市には大きかった。風都市唯一のヒット・ミュージシャンが歌わずに映画にはまりそこに『赤色エレジー』でかせいだお金を使ってしまったことはダブルで経営に影響を与えた。(製作費の半分ぐらいは風都市が出費)もちろん映画がヒットすることはなく、お金はそのまま消えてゆきました。といっても、元々あがた森魚が自ら稼いだお金なのですから、彼には何の罪もないのですが・・・。

<レコード業界の変化と風都市>
 1960年代半ば、日本のレコード業界にCBS、EMI、キャピトル、RCA、フィリップス、ワーナー、アトランティックなど海外の企業が日本のレコード会社との合併という形で日本進出を開始しようとしていました。その中から、CBSソニー、ワーナーパイオニアなどの企業が誕生。しかし、そうなる以前、日本のレコード会社は外資の進出を食い止めるため、自社の中に洋楽系のレーベルを立ち上げ、そこから発表したレコードの利益を海外の企業に払っていた時期がありました。ここから生まれたのがエミー・ジャクソン、ブルー・コメッツ、ビレッジ・シンガースらによる和製ポップスのヒットでした。ところが、この和製ポップスはGSのようなロック・サウンドで、それまでの歌謡曲の制作方法とは異なる流れが必要になりました。日本の市場をほぼ独占していた7社日本コロンビア、ビクター、キング、東芝、テイチク、グラモフォン、クラウンはそれぞれは歌手だけでなく、作詞家、作曲家、編曲家、オーケストラなどを専属としてもっていましたが、それでは対応できないジャンルだったといえます。
 しだいにそのシステムではフォークやGSのブームに対応することができないことが明らかになり、それを社外に外注する必要が生じてきました。例えば、1966年ジョニー・ティロットソンの「涙くんさよなら」はシンコー・ミュージックの草野昌が自力で制作してその原盤をレコード会社にゆずったことで誕生しました。マイク真木の「バラが咲いた」もその手法で製作されて大ヒットしました。この流れにのり、それまでGSのヒット曲を作っていた作曲家たち橋本淳、筒美京平、阿久悠、村井邦彦らが専属ではなく独立したソングライターとして活躍し始めます。こうして、日本の歌謡界においても、原盤を制作してそれをレコード会社に売るビジネスが誕生することになりました。
 そして、そのために必要になったのが、主役となるアーティストとそのバックで演奏するスタジオ・ミュージシャン、曲を作り上げるソング・ライティング・チーム、そして、それらを仕切るプロデューサーです。ということは、これらがチームとして完成すれば新しい時代をリードできるのではないか、そう考える人々が風都市を作ったのだと言えます。しかし、そうした音楽業界の隙間は、当時はまだまだ狭く、それだけで食べてゆくのに十分な稼ぎを獲ることは不可能でした。

「キャラメル・ママの夢は、マッスルショールズみたにスタジオワークをまとまったリズムセクションでやろうということだった。でも仕事が多かったわけじゃなく、残った作品はユーミン、吉田美奈子、雪村いずみ(アルバム「スーパー・ジェネレーション」)、いしだあゆみ、アグネス・チャンくらいだな。それだけじゃ仕事としては成り立たなかったんだ。当時の日本の音楽界の歌謡曲のシステムは強固で、メジャーはあくまでもメジャーで安定した力があって、隙間があまりなくて、こっちは手が出せなかった。・・・」
細野晴臣

 残念ながら、風都市はその理念の素晴らしさにも関わらず、多額の借金を抱え3年ほどでその活動を停止することになりました。しかし、風都市の解散後、数年すると「風向き」は変わり始めます。バラバラになったメンバーはそれぞれにその活躍の場所を見つけ、その多くが大きな成功を収めることになります。
 キャラメル・ママが始めた新しいスタジオ・ワークの仕方は、その後のニューミュージック時代を支えることになり、はっぴいえんどのメンバーは様々なアーティストのプロデュースを担当し、数多くのヒット曲を生み出すことになります。松本隆が始めた歌謡曲への詞の提供は、大滝詠一などの作曲家とともに歌謡曲のニューミュージック化を進め、現在のJ−ポップへと移項する新しい流れを作ることになりました。さらに風都市がやろうとしたコンサートのスタイルは全国各地に広まり、地方にも様々なロックフェスティバルやライブハウスが誕生することになります。

「・・・風都市は当たり前のように生まれ、当たり前のようにやり、当たり前のように消滅していった。だから、風都市という名前は残り、その当時のミュージシャンたちも生き残った。そういうことだと思う。
 われわれみんなの出会い自体も、必然的なものだったんじゃないかなあ、という感じがしていますね。あそこにみんな、自然に集まったんだと思う。・・・」

洪栄龍(乱魔堂)

「風都市ってどんなとこだったかって?・・・それは眼に見えない幻の都市。つかの間、そこに住んだ人間はとにかくよく遊び、ただただ音楽三昧の日々をおくっていた・・・まあ、そんな感じだったんじゃないですかね。」
宮崎まさ夫(風都市スタッフ)

「時代も変わりはじめていたと思うんですよ。大滝さんが作ったサイダーのCMは、誰がうたっているかわからないけど、いい曲だなと言われていたし、松本隆さんがアグネス・チャンに詞を書いて、キャラメル・ママがそのバックをやったりして、それまで山の離れたところに集落を作っていた人たちが都会の人と関係を持つ感じのところまではきていた。そこで風都市は勝負に出たけど、時期が5年くらい早かったんですね。お金もかけすぎた。それくらいアーティスト重視のプロダクションだった。給料が出なかったりして、ひどい目にあったわけだけど、誰もよくわかってなかったから、誰も責められない気がします。」
伊藤銀次(ココナッツ・バンク、ナイアガラ・トライアングルVol1)

「風都市がめざしていたのは、プロデューサー集団がいて、レコードを作って、ヒット曲も出しているアメリカ方式のチームだった。それ以前の芸能界とはちがうものを、という意識はすごい強かったと思う。スタッフも、こういうミュージシャンでこういう企画はどうだろうと提案したりして、企画力があった気がする。ビジネスもめざそうとはしていたとは思うんだ。いままでの日本の音楽界にないビジネスを。でもお金がザルからこぼれるように出ていってしまうというのが大きな失敗だよね。・・・」
鈴木慶一

「風都市は思い出深い幻の事務所ですね。ほんとに音楽の好きな人の集まりだった。日本のロックをポリシーを持って運動体としてやったのは、彼らが最初で最後かもしれない。ビジネス的には問題があったんだろうけど、変に成功してビジネスマンになるよりよかったんじゃないかな。・・・」
三浦光紀(ベルウッド・レーベル・プロデューサー)

<参考:1968年〜ロックの時代のヒット曲>
1968年
ジャックス 「ジャックスの世界」 脱GS、脱洋楽コピーの日本語アルバムの先駆作であり、J−ロックの原点
早川義夫(vo,g)、木田高介(dr,flut)、谷野ひとし(b)、水橋春夫(g)
ダイナマイツ 「ヤングサウンド
R&Bはこれだ!」
山口冨士夫(g,vo)、瀬川洋(vo)など
フォーク・クルセダーズ 「紀元前貮阡年」 大ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」、永遠の名曲「悲しくてやりきれない」収録のJ−ロック史に残る名盤
加藤和彦、北山修、橋田のりひこ
1969年
エイプリル・フール 「エイプリル・フール」 元フローラルのメンバー小坂忠(vo)、柳田ヒロ(keyb)、菊地英二(g)
元バーンズの細野晴臣(b)、松本隆(dr)によって結成されたバンド唯一のアルバム
加藤和彦 「ぼくのそばにおいでよ」 加藤和彦のソロ・デビュー・アルバム
ゴールデン・カップス 「ブルース・メッセージ」 「長い髪の少女」の大ヒットで知られるが、実際は本格的なR&Bバンド
エディ藩(g)、デイブ平尾(vo)、ミッキー吉野(pia)、加藤正義(b)、ケンス伊東(g)、マモル・マヌー(dr)
ジャックス 「ジャックスの奇蹟」 ジャックスのラスト・アルバム
はしだのりひこと
シューベルツ
「風」 シングル「風」が大ヒット
長谷川きよし 「別れのサンバ」 和製ホセ・フェリシアーノとも呼ばれた盲目のシンガー
早川義夫 「かっこいいことはなんて
かっこ悪いんだろう」
元ジャックスのリーダー初ソロ・アルバム
パワー・ハウス 「ブルースの新星〜
パワーハウス登場」
ゴールデン・カップスに匹敵する本格ブルース・バンド
チー坊(vo)、柳ジョージ(b)、陳信輝(g)、野木信一(dr)
ブルース・クリエイション 「ブルース・クリエイション」 本格派ブルース・ロック・バンドのデヴュー・アルバム
竹田和夫(g)、布谷文夫(vo)、野地義行(b)、田代信一(dr)
1970年
かまやつひろし 「ムシュー〜
かまやつひろしの世界」
元スパイダース初ソロ・アルバム
「皮肉にも、ギタリストのかまやつひろし - 日本で最初に来る音楽革命のノイズを聞き取り、グループ・サウンズの限界を乗り越える必要を切実に感じたミュージシャンのひとり - は、ギター・ノイズから遠ざかることによって、1970年代ロックへの転進を成功させたのである。」
マイケル・ボーダッシュ著「さよなるアメリカ、さよならニッポン」より
浅川マキ 「浅川マキの世界」 デビュー作だが半分は寺山修司のアルバムともいえるアングラ・ブームを象徴するアルバム
岡林信康 「見るまえに跳べ」 岡林のフォークロック転向作。早川義夫のディレクションとはっぴいえんどのバッキングが生んだ名盤
はっぴいえんど 「はっぴいえんど」 通称「ゆでめん」と呼ばれる記念すべきデビュー・アルバム
フードブレイン 「晩餐」 ロック・インストの伝説的名盤
陳信輝(g)、加部正義(b)、角田ヒロ(dr)、柳田ヒロ(kyb)
1971年
赤い鳥 「竹田の子守歌」 「竹田の子守歌」「翼をください」「忘れていた朝」など収録の3枚目
遠藤賢司 「満足できるかな」 大ヒット「カレーライス」収録。バックは大滝詠一ぬきのはっぴいえんど
ガロ 「ガロ」 デビュー・アルバム
小坂忠 「ありがとう」 元エイプリルフール小坂忠ソロ・デビュー作。細野晴臣との共同作。バックにはユーミンも参加
高田渡 「ファースト・アルバム〜
ごあいさつ」
プロデュースは早川義夫でバックにははっぴいえんども参加
DEW 布谷文夫LIVE」 全日本フォーク・ジャンボリーでのライブ
はっぴいえんど 「風街ろまん」 Jーロックの歴史に燦然と輝く永遠の名作
ミッキー・カーティス&
サムライ
「河童」 ハードでプログレッシブなロック・バンド唯一のアルバム
吉田拓郎 「人間なんて」 吉田拓郎の名を知らしめた代表作
モップス 「御意見無用(いいじゃないか)」 独自のアレンジが子供にも受けた「月光仮面」は大ヒット
柳田ヒロ 「七才の老人天国」 ジャパニーズ・プログレの先駆作となったキーボード奏者のソロ二枚目
(オムニバス) 「幻野〜幻の野は現出したか」 DEW、ブルース・クリエイション、頭脳警察など
成田空港建設に反対して行われた三里塚での野外ライブの録音盤
1972年
あがた森魚 「乙女の儚夢」 30万枚を売り上げた「赤色エレジー」収録のメジャー・デビュー・アルバム
人気漫画家、林静一のイラスト、はちみつぱいの演奏
泉谷しげる 「春夏秋冬」 名曲「春夏秋冬」、「黒いカバン」収録の初期代表作
加藤和彦のプロデューズで高中正義やつのだひろらがバックに参加
大滝詠一 「大滝詠一」 はっぴいえんど在籍中に発表された初ソロ・アルバム
頭脳警察 「セカンド」 過激な内容が問題となり発売中止になったファースト・アルバムを受け発売できることを目的に修正
しかし、発売後、一ヶ月で再び発売中止となる
五輪真弓 「少女」 当時としては珍しいロサンゼルス録音でキャロル・キングが二曲参加
西岡恭蔵 「ディランにて」 関西フォークを代表する大物シンガーのデビュー作
多くのカバー・バージョンを生んだ名曲「プカプカ」収録
古井戸 「古井戸の世界」 後にRCサクセションに参加する仲井戸麗市と加奈崎芳太郎によるフォーク・デュオ・デビュー作
「さなえちゃん」の大ヒットで有名になる
フライド・エッグ 「ドクター・シーゲルの
フライド・エッグ・マシーン」
成毛滋とつのだひろのユニット。ギターは高中正義
吉田拓郎 「元気です」 「夏休み」「旅の宿」など収録。個人的にはリアル・タイムで買った最初のフォークのアルバム。
「乱魔堂」 「乱魔堂」 洪栄龍のギターと松吉久雄のヴォーカルを中心とするハード・ロック・バンドのデビュー作
(オムニバス) 「’72春一番コンサート・ライブ」 遠藤賢司、あがた森魚&はちみつぱい、小坂忠&フォージョー・ハーフ、ごまのはえ、友部正人・・・
1973年
荒井由美 「ひこうき雲」 J−ポップ史に残る永遠の名盤。キャラメル・ママの名演とユーミンの才能が見事に融合した傑作
デビューは1972年のシングル「返事はいらない」で、この時彼女はまだ大学生だった
井上陽水 「氷の世界」 アナログ・レコードの史上最高売り上げ131万枚を記録したモンスター・アルバム
大ヒット曲「心もよう」収録
このアルバム収録の「帰れない二人」の共作者忌野清志郎はこの曲の印税でミュージシャンを続けられた?
オフコース 「僕の贈りもの」 小田和正と鈴木康博によるフォーク・デュオのデビュー作
キャロル 「「ルイジアンナ」 ミッキー・カーティスのプロデュースによるデビュー・アルバム
12曲中6曲はオリジナルで残りはロックン・ロールのスタンダード曲
キャロル 「ファンキー・モンキー・ベイビー」 永遠の名曲「ファンキー・モンキー・ベイビー」収録のセカンド・アルバム
1972年結成。矢沢永吉(vo)、ジョニー大倉(vo,g)、内海利勝(g)、相原誠(dr)
ドラムはその後すぐに相原から岡崎ユウに交代。その後、相原はダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドへ移籍
サディスティック・ミカ・バンド 「サディスティック・ミカ
バンド」
加藤和彦(vo,g)、ミカ(vo)、つのだひろ(dr)で1972年スタート。
日本初のプライベート・レーベル「ドーナツ」からシングル「サイクリング・ブギ」でデビュー。
その後、加藤、ミカ、高中正義(g)、小原礼(b)、高橋幸宏(dr)となってからのデビュー・アルバム
チューリップ 「心の旅」 「心の旅」の大ヒットを受けたベスト・アルバム
ダッチャ 「26号線」 上村律夫プロデュースのショーボート・レーベルにとってのラスト・アルバム
バックはごまのはえ、駒沢裕城、矢野誠らが参加。風都市最後の傑作?
友部正人 「にんじん」 70年代フォークを代表する名盤のひとつ
バズ 「バズ」 大ヒット曲「ケンとメリー〜愛と風のように」収録
はちみつぱい 「センチメンタル通り」 J−ロック史に残る名盤
大貫妙子、吉田美奈子がコーラスに参加。坂田明がサックスで参加
はっぴいえんど 「HAPPY END」 すでに心はバラバラだったメンバーが最後にLAに終結して最後の録音を行った
リトルフィート、ヴァン・ダイク・パークスの影響大のアルバム
細野晴臣 「HOSONO HOUSE」 初ソロ・アルバムであり、キャラメル・ママのデビュー・アルバムでもあった作品
南佳孝 「摩天楼のヒロイン」 松本隆プロデュースによるデビュー・アルバム。細野、矢野誠、小原礼、松本隆、林立夫、鈴木茂らが参加
早すぎたAORの名作アルバム
フジテレビの人気番組「リブ・ヤング」のコンテストに入賞して注目されることになったアーティスト。
1979年郷ひろみに提供した「モンロー・ウォーク」の大ヒットで有名になる
吉田美奈子 「扉の冬」 和製ローラ・ニーロとも言われてた時代のデビュー作。キャラメル・ママのもうひとつの傑作
元ジャックスの木田高介、ブルース・クリエイションの野地義行の「らぶみいてんだあ」に参加
その後、野地と「ぱふ」結成後、ソロとなる
村八分 「ライブ」 チャーボーこと柴田和志(vo)、山口冨士夫(g)、青木真一(b)、浅田哲夫(g)、上原裕(dr)でデビュー
1972年、上原はココナッツ・バンクそしてシュガー・ベイブへ、青木も脱退.
代わって、加藤義明(b)、村瀬スゲト(dr)が加入
伝説的ロック・バンドの貴重なライブ・アルバム(このバンドのスタジオ盤は発表されていない!)
1974年
外道 「外道」 日本国内より海外で有名になった加納秀人中心の本格的ロック・バンドの代表作
斉藤哲夫 「グッドタイム・ミュージック」 白井良明の参加しているノスタルジックな代表作
サディスティック・ミカ
バンド
「黒船」 クリス・トーマスのプロデュースによるJーロック伝説の名盤
沢田研二 「ジュエル・ジュリー〜追憶」 歌謡曲路線とは異なるロック色を前面に押し出し井上バンドをバックにしたソロ8作目。
三上寛 「BANG !」 フォークからはみ出していたパンクでアングラでフリーキーなアーティストの代表作
山口冨士夫 「ひまつぶし」 元村八分の山口冨士夫によるソロ・デビュー・アルバム
四人囃子 「一触即発」 和製プログレを代表するバンドのデビュー作にして名盤
森園勝敏(g)、岡井大二(dr)、坂下秀美(key)、中村真一(b)でスタートし、21世紀まで活躍
雪村いづみ 「スーパージェネレーション」 歌謡界の大御所、服部良一ナンバーをキャラメル・ママをバックに復活させた名盤
マイ・フェバリット・アルバムのひとつで、夜、しみじみと聴いています。「昔のあなた」は聞くたびに泣きそうになってしまいます。
1975年
荒井由美 「コバルト・アワー」 「ルージュのい伝言」が大ヒットし、ユーミン時代始まる。キャラメル・ママとの共作による傑作
上田正樹と
サウス・トゥ・サウス
「この熱い魂を伝えたいんや」 和製ソウルの最高峰による代表作。キーボードには後のピチカート・ファイヴ中西泰晴がいた!
甲斐バンド 「英雄と悪魔」 大ヒット曲「裏切りの街角」収録
カルメン・マキ&OZ 「カルメン・マキ&OZ」 女性ハード・ロッカーの先駆となったデビュー・アルバム
久保田麻琴と夕焼け楽団 「ハワイ・チャンプルー」 駒沢裕城がスティール・ギターで参加したハワイ録音の和製エスニック・ポップの先駆作
小坂忠 「ほうろう」 ティンパン・アレー(キャラメル・ママ)がバックを担当した小坂忠の最高傑作。
和製ジェームス・テイラーとフィリー・ソウルの融合が生んだ永遠の名作
サンハウス 「有頂天」 福岡が生んだメンタイ・ビートを代表するバンドによるブルース・ロックの代表作。
鮎川誠はその後シーナ&ザ・ロケッツ結成
シュガーベイブ 「ソングス」 大滝詠一主催「ナイアガラ・レーベル」の第一作でありシュガーベイブ唯一のアルバム
山下達郎(vo,g)、大貫妙子(vo,key)、松村邦男(g)、鰐川己久男(b)、野口明彦(dr)
この後、鰐川と野口は脱退し、ココナッツバンクの伊藤銀次(g)、上原裕(dr)、さらに寺尾次郎(b)が参加
名盤を残し、ブレイクしないまま1976年解散
鈴木茂 「バンド・ワゴン」 元はっぴいえんどの鈴木茂(vo,g)による初ソロ・アルバム。名曲「砂の女」収録
リトル・フィートの影響のもとで生み出されたJーロックの名盤
センチメンタル・シティ・ロマンス 「センチメンタル・シティ・ロマンス」 名古屋から登場したウェスト・コースト・ロック・バンド。地方発のロック・バンドが急増
ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンド 「続・脱どん底」 「スモーキン・ブギ」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」収録
ティン・パン・アレー 「キャラメル・ママ」 細野、鈴木、林、松任谷によるキャラメル・ママの新スタート
友川かずき 「やっと一枚目」 頭脳警察、ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドなどもバックに参加した大物シンガーのデビュー・アルバム
森田童子 「グッド・バイ」 全共闘時代の終わり、シラケ時代の始まりを象徴する青春哀歌の名作
矢沢永吉 「I LOVE YOU OK」 矢沢永吉のソロ・デビュー・アルバム
山崎ハコ 「飛・び・ま・す」 元祖ネクラ・フォーク。時代を象徴するアルバム。
憂歌団 「憂歌団」 「おそうじオバチャン」(放送禁止となった曲)など収録のデビュー作
1976年
大貫妙子 「グレイ・スカイズ」 山下達郎、坂本龍一、細野晴臣などが参加したデビュー作
RCサクセション 「シングルマン」 名曲「スロー・バラード」収録のサード・アルバム。しかし、まだブレイクには至らず。
尾崎亜美 「シェイデイ」 70年代ニューミュージックを代表する女性シンガー、ティン・パン・アレーがバックに参加
ゴダイゴ 「新創世紀」 デビュー作
鈴木慶一&
ムーンライダース
「火の玉ボーイ」 実質的なムーンライダースのデビュー・アルバム
Char 「Char」 チャーこと竹中尚人のソロ・デビュー・アルバム。
当時すでにPANTA、山崎ハコ、NSPらのバックとして活躍する有名なギタリストだった
ツトム・ヤマシタ
「GO」
世界的なパーカッショニストの代表作
中島みゆき 「私の声が聞こえますか」 名曲「時代」「アザミ嬢のララバイ」収録のデビュー作
浜田省吾 「生まれたところを遠く離れて」 1980年代を代表することになる青春シンガーのデビュー作
細野晴臣 「奉安洋行」 和製ワールド・ミュージックの先駆的傑作アルバム
矢野顕子 「ジャパニーズ・ガール」 いきなりリトル・フィートとコラボしたデビュー・アルバム。ムーンライダースやあがた森魚らの参加
山下達郎 「サーカス・タウン」 今も輝きを失わないソロ・デビュー・アルバム
吉田美奈子 「フラッパー」 ティン・パン・アレー、山下達郎、大貫妙子などが参加した代表作
ナイアガラ・トライアングルvol1 「ナイアガラ・トライアングルvol1」 大滝詠一、山下達郎、伊藤銀次によるトリオ作品
1977年
喜納昌吉&チャンプルーズ 「喜納昌吉&チャンプルーズ」 ライブ録音によるデビュー作にして最高傑作?
YMO 「イエロー・マジック・オーケストラ」 村井邦彦プロデュースによるデビュー作
1978年
遠藤賢司 「東京ワッショイ」 フォークからフォーク・ロックへそしてパンク?音頭?新たな時代へ突入
サザンオールスターズ 「熱い胸さわぎ」 「勝手にシンドバッド」「いとしのフィート」など収録のデビュー・アルバム
竹内まりや 「ビギニング」 安井かずみ&加藤和彦などによるカレッジ・ポップス時代を象徴するスター
近田春夫&ハルヲフォン 「電撃的東京」 新たな歌謡ロックともいえるジャンルを開拓した隠れた名作
原田真二 「Feel Happy」 ティーンズ・ロック・ヒーローのデビュー作
柳ジョージ&レイニーウッド 「Weeping in the Rain」 大ヒットした「Weeping in the Rain」収録のブレイク作
1979年
(オムニバス) 「東京ロッカーズ」 フリクション、ミスター・カイト、ミラーズ、S−KEN、リザード
ARB 「アレクサンダー・ラグタイム
・バンド
石橋凌を中心とする硬派ロックバンドのデビュー作
P−MODEL 「イン・ア・モデルルーム」 日本を代表するテクノ・バンドのデビュー作
1980年
佐野元春 「バック・トゥ・ザ・ストリート」 日本語ロックの新時代を築いた男、ついに登場
プラスチックス 「ウェルカム・プラスチックス」 テクノ・パンク?アートとロックのコラボを実現させた先駆的バンド
サンディー 「イーティン・プレジャー」 ジャパニーズ・エスニック・サウンドの女神ソロ・デビュー作
山下久美子 「バスルームから愛をこめて」 80年代を代表する女性ロック・ヴォーカリストのデビュー作
ヒカシュー 「ヒカシュー」 アーティスティック・テクノの先駆バンドのデビュー・アルバム
フリクション 「軋轢」 ジャパニーズ・パンクの先駆であり、その後も活躍を続ける本格派ロック


「風都市地図」
(人物・グループの相関図)
(追記)2012年1月
時間軸は右に進みます。色分けは、関連性のあることを示していますが、もちろん絶対的なものではありません。不備はいろいろあると思いますのであくまで参考です。
ジャックス
(1968〜1969)

早川義雄
木田高介
水橋春夫
早川義雄
(1969〜)
高石ともやとナターシャ・セブン
(1971〜)

高石ともや
木田高介
木田高介
(1980)
フォーク・クルセダース
(1968)

加藤和彦
北山修
はしだのりひこ
はしだのりひこと
シューベルツ
(1968〜1970)

はしだのりひこ
杉田二郎
加藤和彦
(1979〜2009)
つのだひろ
フード・ブレイン
(1970)

加部正義
角田ひろ
柳田ヒロ
陳信輝
フライド・エッグ
(1971)

成毛滋
角田ひろ
高中正義
サディスティック・ミカ・バンド
(1972〜1975)

加藤和彦
ミカ(加藤和彦と結婚・離婚)
小原礼後藤次利
高中正義
角田ひろ高橋幸宏
YMO
(1978〜1983)

細野晴臣
坂本龍一
高橋幸宏
(矢野誠)
(矢野顕子)
高中正義
細野晴臣
坂本龍一
矢野顕子と結婚
高橋幸宏
高中正義
エイプリルフール
(1969)

細野晴臣
松本隆
柳田ヒロ
小坂忠
菊地英二
はっぴいえんど
(1970〜1974)

元は、岡林信康遠藤賢司のバック・バンド
細野晴臣
松本隆
鈴木茂
大滝詠一
キャラメルママ→ティンパン・アレー
(1973〜1975)

細野晴臣
鈴木茂
林立夫
松任谷正隆
荒井由美松任谷由美
(1973〜)
松任谷正隆と結婚
南佳孝
(1973〜)
吉田美奈子
(1973〜)
小坂忠
(1975〜)
尾崎亜美
(1976〜)
小原礼と結婚
フローラル
(グループサウンズ)

小坂忠
柳田ヒロ
菊地英二
フォージョー・ハーフ
(1972)

小坂忠
駒沢裕城
松任谷正隆
後藤次利
林立夫
大滝詠一
(1972〜)
ナイアガラ・トライアングルVol1
(1976)

大滝詠一
山下達郎
伊藤銀次
ナイアガラ・トライアングルVol2
(1982)
大滝詠一
佐野元春
杉真理
ダイナマイツ
(1968)

山口冨士夫
瀬川洋
村八分
(1969〜1973)

山口冨士夫
上原裕
柴田和志
裸のラリーズ
水谷孝
山口冨士夫
久保田麻琴

山口冨士夫グループ
久保田麻琴と夕焼け楽団
(1973〜)
サンディー&ザ・サンセッツ
(1981〜)
久保田麻琴と結婚(離婚)
サンディー
(1990〜)
ココナッツバンク(ごまのはえ)
(〜1976)

伊藤銀次
駒沢裕城
上原裕
シュガー・ベイブ
(1972〜1976)
(ココナッツバンクのバックコーラス3人)
山下達郎
大貫妙子
村松邦男
(大滝詠一プロデュース)

上原裕など
山下達郎
(1976〜)
竹内まりや
(1978〜)
山下達郎と結婚
大貫妙子
(1976〜)
はちみつぱい
(1970〜1974)

元は、あがた森魚のバック・バンド
鈴木慶一
駒沢裕城
武川雅寛
岡田徹
ムーンライダース
(1974〜2011)

鈴木慶一
武川雅寛
岡田徹
樫渕哲郎
鈴木慶一
(1974〜)
ザ・ビートニクス
(1981〜)
鈴木慶一
高橋幸宏
矢野顕子
(1976〜)
あがた森魚
(1972〜)

<参考資料>
「風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から」 2004年
(責任編集)北中正和
(編)川村恭子、浜野智、宮崎まさ夫、山本智志
(株)音楽出版社

レコード・コレクターズ「特集・はっぴいえんど」 1993年7月号
(編)寺田正典
(株)ミュージック・マガジン

「ロック・クロニクル・ジャパン Vol.1(1968〜1980)」 1999年
(編)藤本国彦、市川誠
(株)音楽出版社

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