
- 北野武 Takeshi Kitano -
<ビートたけしと北野武>
ビートたけしと北野武、日本を代表するコメディアンと映画監督を僕はずっと見続けてきたように思います。MANZAIブームでのツービートの毒舌漫才に「俺たちひょうきん族」でのタケチャンマン。それと番組名を忘れたのですが、タケシの対談番組も面白かった(テーマ曲は当時人気があったピッグ・バッグだったはず)
この時代のビートたけしについて、当時こんな評価をしていた人がいました。今にして思えば、素晴らしい予言だったのかもしれません。
「『赤信号、みんなで渡れば怖くない』
彼らは、その赤信号のむこうに、含蓄を持たせているのじゃないか?つまり、そのむこうには世紀末とかさらに行けば末法とか最後の審判とか地獄というものがあることを知っていて、こんなきわどいギャグを考え出したかも知れない。・・・みんなで渡れば怖くない、みんなで死のう!とアジっているようにも見える。したたかなセンスだ。・・・」
藤原新也「全東洋街道」より
お笑い芸人以外の才能を彼が証明したのは、やはり映画「戦場のメリー・クリスマス」における原軍曹のあの笑顔でしょう。未だにあの映画を初めて見た時のゾクゾクとした感覚は忘れられません。そんな彼の俳優としての活躍は、その後もテレビドラマを中心に続きました。「昭和46年大久保清の犯罪」における大久保清役に始まって、「イエスの箱舟」の千石イエス、「金の戦争、ライフル魔殺人事件」の金嬉老など、どの役も昭和の影の顔を代表する存在ばかりでした。
こうして、俳優として日本人の影の部分を演じるようになると、彼のテレビ・タレントとしての毒舌は影を潜めるようになり、映画監督としてその毒を発するようになりました。こうした彼の二面性や観客を裏切り続ける意外性などについては、すでに数多くの評論があります。それでも20世紀後半の映画について語るなら彼を取りあげないわけには行きません。なにせ今や「世界のキタノ」なのですから。
というわけで、僕は僕なりに映画監督「北野武」について、迫ってみようと思います。
<チャップリンと北野武>
以前チャップリンの未公開フィルムについてのドキュメンタリー番組を見ました。意外なことに、彼は現場まで脚本を固定せず、撮影を行いながらどんどんシーンを作り直していました。つまらないと思えば、シーンをまるごとカットすることも多かったといいます。
このやり方、北野組の撮影と似ています。彼の作品はいくつかの重要なシーンのイメージが先にあり、そのシーンに至る他のシーンを撮り、組立、完成に至るのが基本です。その重要なシーン以外は、撮ってみてだめなら脚本にあってもカットする。そのために、出演シーンがまるまる無くなってしまった俳優さんもいたとか。
もちろん、そうしたやり方はチャップリンだけではなかったでしょう。たぶんチャップリンと北野武のもっと大きな共通点は、「サイレント」へのこだわり、もしくは「映像至上主義」へのこだわりでしょう。
チャップリンが、セリフのないサイレント映画にこだわり続けたのは有名な話です。映画界がほとんどトーキーに変わってもなお、彼はサイレント映画を撮り続けていました。そんな彼がついにトーキーを撮ることになったのには、それなりの理由がありました。それはトーキーでなければ表現不可能なシーンを撮りたかったからでした。それは映画「独裁者」における最も有名なシーン、最後の演説の場面です。ヒトラーのあのカリスマ的な演説をパロディー化するためには、自らがカメラに向かって語りかけなければならない、そう考えたからです。こうして、彼は初めてトーキーに手を出したのです。しかし、そこまで彼がサイレントにこだわったのは、「映画とは、人ではなく映像にドラマを語らせること」であるという強い信念があったからでしょう。(あまりにチャップリンの放浪紳士のイメージが強く、言葉をしゃべらせることで生じる違和感を恐れたとも言われていますが、・・・すでに前作「モダン・タイムス」では、有名な意味不明言語による歌をチャーリーは披露していましたから、声を出すことを恐れていただけではないと思います)
そして、この「映像に語らせる」という信念は、北野武にも共通することです。それどころか、彼は映像に語らせるために、映画におけるドラマ性や俳優の演技、それに音楽までも排除する傾向にあるのです。考えてみると、チャップリン映画の魅力を日本人に広めた今は亡き淀川長治さんは、実は北野武の大ファンでもありました。これはけっして偶然ではないでしょう。もしかすると、彼はチャップリンと北野武に共通する美学を見ていたのではないかと思います。
もうひとつ先日チャップリンの短編映画をみて気に入ってしまった我が家の次男(5歳)が彼の歩き方をマネしていました。(さすがはチャップリンです。21世紀生まれの子供にも彼はあっさり受け入れられてしまうのです。映像へのこだわりが時を超えさせるのでしょう)すると、そのマネをした姿が、なぜかチャップリンではなくタケチャン・マンにそっくりだったのです。どうやらチャップリンが肩をいからせて歩くとタケチャン・マンになるようです。
<「波」と北野武>
「波」と言えば、なんといっても「あの夏、いちばん静かな海」でしょう。前述の淀川長治さんは、生前、この映画を自分が生涯で見た映画の中で1,2の傑作だと言っていました。実は僕自身、この映画が北野映画の中のナンバー1かもしれないと思っています。サーファーではないのですが、かつてスキューバ・ダイビングとシーカヤックにはまっていた僕としては、海もの映画にはどうしても肩入れしたくなるのです。しかし、それ以上にこの映画には北野映画のエッセンスがびっしりとつまっているように思います。
主人公の二人を聾唖者と設定したことで、この作品は自ずと疑似サイレント映画となり、さらには背景に流れる音楽をほとんど無くすことで、サイレント以上にサイレントな映画になったのです。
「ええ、あれはもう台本自体が、『耳の聞こえない二人がサーフボードを持って行進する』というのしかありませんでしたから。ただひたすら歩いていく。男の子はひたすらサーフィンやりたくて、女の子はひたすら海で見てるって、台本はそれだけですから」
北野武対談集「頂上対談」より
<クライマックスの排除>
もうひとつ重要なのは、この作品のストーリー展開です。そこには、ほとんどの北野作品に共通する特徴があります。それは、映画の核心ともいえる肝心のクライマックス・シーンを見せることなくドラマが進み、重要な事件はいつの間にか終わっている、というものです。そして、そんな淡々と進むドラマのもつ静かなリズムは、寄せては返す波のリズムそのものだと思えるのです。静かに波が打ち寄せる波打ち際、そんなのどかな場所で事件が起きるようには思えません。もしかすると、起きたと思っても、その多くはうたた寝をしながら見た夢だったのかもしれません。それでも、ある日突然「暴力」という名の巨大な津波が襲ってくる可能性はあります。しかし、それもまた引いてしまえば、海はいつものリズムにもどることになります。海を眺めると、そこにはなんの変化もないでしょう。そこでは何も無かったかのように思えます。そして、海からは、こんな声が聞こえてきそうです。
「まだ始まっちゃいねーよ」
こうして、再び打ち寄せる波のようにいつもの日常が始まります。北野映画は、こうした淡々と続く日常が突然乱れることになる瞬間の前後だけを静かに映し出しているのです。
<二つの人生>
ビートたけし、北野武、それぞれの人生と彼の作品との関わり、そのこともやはり無視するわけには行きません。(あまり、こだわるのもどうかとは思いますが・・・)
北野武は、1947年1月18日東京都足立区で生まれました。彼の生い立ちは小説やドラマでたっぷり語られているのでカットします。
ただ1986年12月9日に彼がたけし軍団を引き連れて週刊フライデーの編集部を襲撃、逮捕された事件を忘れるわけにはゆきません。1983年に映画「戦場のメリー・クリスマス」で俳優として一気に高い評価を得て、その後連続殺人犯の大久保清、カリスマ新興宗教指導者の千石イエスをテレビで演じ、映画「夜叉」ではブルー・リボン助演男優賞を受賞。これが1985年の出来事でした。そんな好調な時期に、まるでそんなキャリアを断ち切るかのような事件を起こした彼は、その後7ヶ月間謹慎をすることになりました。場合によっては、この時彼の芸能生活は終わっていたかもしれません。当然、彼はこの時期復帰後の自分の仕事について悩んでいたはずです。以外にあっさりと彼はテレビ・タレントとして復帰を果たしましたが、そのことについても彼はこんなんで良いのだろうか?と違和感を覚えていたかもしれません。と、そんな時期に彼に突然、それまでとはまったく異なる仕事が回ってきました。
<映画初監督>
彼は1989年映画「その男、凶暴につき」で初監督を勤めることになりました。この映画のヒットによって、彼は「映画監督・北野武」というもうひとつの人生を歩み始めることになります。彼は自らが事件を起こすことで、知らないうちに映像表現者としての北野武を社会にアピールすることになっていました。もちろん、彼がそんなことを意識して事件を起こしたわけではなく、監督の仕事が回ってきたことも、元はといえば深作欣二監督がするはずのものが、彼の降板によって突然依頼が来たせいでした。
彼は後に、この時監督の役が回ってきたことについて、自分は監督をやろうとしたのではなく、監督になるよう選ばれたのかもしれない、と述べています。彼は生まれながらにして映画を撮るよう運命づけられていたのかもしれません。だからこそ、1994年に彼が起こしたバイク事故の時も、神様は彼を死の淵から救い出してくれたのではないでしょうか。
<映画の神に愛された男>
彼はその後「3−4X10月」(1990年)「あの夏、いちばん静かな海」(1991年)「ソナチネ」(1993年)と連続して素晴らしい作品を撮ります。しかし、どれも国内ではまったくヒットしませんでした。そんな煮詰まった状態で彼が初のコメディー映画「みんなーやってるか!」を撮り終えた直後、あやうく命を失いかけたバイク事故が起きました。もしかすると、ここで再び彼は人生を良い方向へとリセットすることができたのかもしれません。彼は7ヶ月間の療養生活を余儀なくされ、顔に麻痺が残ったこともあり、いよいよ映画監督の仕事に打ち込むことができるようになりました。
優れた芸術家の人生は、それ自体芸術作品のように見えてくるものですが、彼の人生はまさにその典型であると同時に「映画の神」に愛された幸福な人生でもありました。(戦争もなく平和な現在の日本で、彼のように波瀾万丈の生き方をすることは非常に困難なことです)その後、彼の映画に対する評価は、ヨーロッパを中心にどんどん高まり、「キッズ・リターン」(1996年)の次作「HANA-BI」(1997年)では、ついにヴェネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞しました。
彼は「生きている映画の神」黒澤明にも愛されていたことも有名です。死を目前にした黒澤監督は、彼に「日本映画の未来は君に任せた」と言ったといいます。
「キッズ・リターン」について
「新聞の起床転結がある四コマ漫画みたいに絵があって。最初の絵は校庭を二人が変な乗り方してて。最後も同じ絵で、ただ今度は普通に乗ってて「まだ終わってねえ」なんて言って。二つ目はボクサーに殴られたのがあって、三つ目は片っぽがヤクザで片っぽがボクサーになってるのがある。この四つの絵を通過すれば映画はできるかなあって。」
北野武対談集「頂上対談」より
<意外性を追求する映画>
二つの事件は別としても、彼は常に常識を覆すことにこだわる監督です。素晴らしい映画を連発し「世界のタケシ」と呼ばれ出すと、「みんなーやってるか!」のような映画を撮ってみたり。「座頭市」(2003年)では、ミュージカルの要素を持ち込み、彼お得意のタップダンスで観客を驚かせました。この映画で再びベネチアで監督賞を受賞し、再び頂点に立ったかと思えば、「Takeshis'」(2005年)を撮って再び観客を煙に巻いてしまいました。(やっぱり「Takeshis'」は、自作のパロディーなんでしょうね。小難しく考えながら笑っちゃたので今ひとつ楽しくなかったような気がします)
彼は芸術家として、完成されたひとつの枠組みを作ることにこだわり続けていますが、それを壊してみせることに、作ることと同じぐらい喜びを感じているのでしょう。このことは、観客の前で自らのキャラクターを壊してみせることで笑いをとる「お笑い芸人」の手法と共通しています。やはりビートたけしと北野武、二つの人生は根っこのところでつながっているのでしょう。
<たけし少年の幸福な人生>
以前から向田邦子原作のドラマ・シリーズを見るたびに知りもしない戦前の日本が妙に懐かしくて涙していましたが、それと同じようにたけし少年が主役のドラマ・シリーズを見ても戦後日本の古き良き時代に涙が出てしまう今日この頃です。
彼の映画が乾ききったストーリーを持ちながら、どこか暖かみを失っていないこと、そして常にユーモアを忘れていないこと、その根本には彼のあの素敵な少年時代の原体験があるのも間違いなさそうです。そう考えると、彼は人生のすべてを無駄なく効率よく芸術に捧げることのできている誰よも幸福なアーティストなのかもしれません。そして、そのために彼がテレビに向けている労力は誰にも負けないものかもしれません。(映画を撮るという目標があればこそかもしれませんが)
そう考えると、彼が出演している数多くのテレビ番組の中で、最も楽しんで出演しているのは「誰でもピカソ」かもしれません。ギャラは一番安いかもしれないけど。
<追記>
ビートたけし対談集 「頂上対談 Takeshi Summit」(2001年)より
アジアの監督たちがハリウッドで活躍する現状について
「彼らがアジアの監督に目を付けるのも、要はカネがかからないからですよ。アメリカの監督なら億単位のカネを払わなきゃいけないけど、アジアの監督なら安くて済む。そもそも監督と言っても、台本はあらかじめできてるし、編集は自分たちで別にやるし、アメリカの映画産業の監督はファクトリーに雇われる職人みたいなものなんです。」
北野映画は暴力を助長するのではないかという指摘について
「暴力を煽るという意味でどっちが問題かっていえば、アメリカのアクション映画の方がずっと問題だと思うんですよ。『ダイ・ハード』ちょか、ああいう映画はジャンボ・ジェット機まで落としてる。あれは五百人乗りですよ。五百人が一瞬で死んでるのに、死体も何も出ない。こっちの方がよほどまずいですよ。
もっと悪いのは、湾岸戦争を映したあんたたちのCNNじゃないかってオレは言うんです。コンピューター・ゲームのようにピンポイントでやって、当たったらそれでおしまい。でも、その後の死んだイラク兵の死体を見せなきゃおかしいだろうって。戦争で手足が飛び散った奴とか、そういう戦場の死体を見せなきゃ、戦争がどんなものかもわかりゃしない。
オレの暴力映画っていうのは、死体を汚物のように見せることで、逆にそういうことをしなくなるんだって言い張ってるんですけどね。」
北野映画の描写方法について、作家、柳美里の言葉
「たけしさんの映画は、静寂を静寂でつなげていますよね。凡庸な映画だと、殺す側も殺される側も大騒ぎするんだけども、暴力シーンに静寂を際立たせている。なぜか私は、あんなに暴力がない映画なんだけれども、小津安二郎に近いものを感じるんです。小津が着ること、食べること、嫁ぐことを描いたように、たけしさんは殺すこと、殺されることというのを撮っている。」
柳美里
北野映画の特徴でもある「死」の描写について
「おいらが基本的に一番好きなのは、変な解釈を一切受け付けない死というものなんだね。臭い芝居だと死ぬまでいろんな理屈をつける。おいらはそういうのは死じゃない、死というのは、その一瞬ですべて断ち切ってしまうものだと思うから、それに対しては変な理屈は要らないという感じがする。暴力シーンもそのひとつだね。」
一枚の「絵画」から生まれる北野映画の特徴について
「なんか、頭の中に役者の会話よりも絵のほうが先に出てきちゃう。写真のスライドを並べているような気がしてしょうがないんですよ。そうすると、紙芝居のとり方の図々しさみたいなもんで、十枚で浦島太郎が完結してしまう。だから紙芝居みたいな映画になる。」
北野監督が役者に求める演技について
「あとは、なるたけ演技しないでっていうのあるよね。定番の演技。なんか役者さんってさ、演技のラインがあるんじゃないかと思う。樋口可南子、桃井かおり、大竹しのぶ、あのへんのライン。安田成美ラインとかさ、可愛くやるような感じの。片一方に原田芳雄ラインとかさ、三國連太郎ラインとか、みんなあるでしょう。それをみんな勉強になりたくて来た人ばかりなんじゃないかとおもう時がある。」
北野映画の意外な弱点とは?自由さを追求するがゆえに
「おれ、食事のシーンが大嫌いで、ぜんぜん撮れないんだけど、それは段取りつけなきゃいけないから。自由にやったら、カメラの位置が変わった瞬間に、手の位置が違うとかなんかあるんじゃない。もうつながらなくなる可能性があるんで、どうも食事のシーンってだめなんだ。」
北野映画のもうひとつの弱点は「女」?
「そうね。あんたは女を軽蔑してるね。」
「うーん。女と会話してるシーンがもったいないんですよ。」
「わかる。『あんた来なかったわね、どうしてよ』なんて台詞、ばかばかしいもんね。そういう台詞、ばかばかしいもんね、ちょっと考えてね」
淀川長治
北野映画の「暴」力について
「・・・横の関係、友情の関係なんです。その横の関係には一瞬の至福があるわけですが、それを壊すのは縦社会の論理です。縦の線と横の線がぶつかった時に暴力が起こる。なぜひとが暴力をふるうのかについてはさまざまな理由と動機がありますが、私は北野映画の暴力の根底にはプライドがあると思うんです。プライドを持てば、そこに暴力が生まれるといってもいい、けれど日本のような平和主義、ことなかれ主義の国では、プライドを棄てなければ生きづらいんです。」
柳美里
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