- レオン・ラッセル Leon Russell -

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<時代が生んだレーベル>
 60年代末、次々に登場した新しいミュージシャンたちは、その多くがメジャー・レーベルと契約し、スター街道を突き進んで行きましたが、誰もがロック・スターへの道を望んだわけではありませんでした。そのうえ、メジャー・レーベルの古い感性と狭いチャンネルでは、次々に登場する新しいミュージシャンたちを、すべて調査、発掘するなど、到底不可能なことだったのです。
 そこで、そんな隙間を埋めるために、新しい感性をもつ小さなレーベルが70年代に入り次々に現れてきました。
 レーナード・スキナードらサザン・ロックのブームを築くことになるキャプリコーンや後にウェスト・コースト・ロック・ブームの中心となるアサイラム、ウッドストック系のミュージシャンやトッド・ラングレンで有名なベアズヴィルなどは、まさにこの頃生まれたレーベルでした。
 そして、同じようにオクラホマ州のタルサ市をその本拠地として設立された新興レーベルが、レオン・ラッセルを中心とするシェルター・レーベルでした。

<レオン・ラッセルの仕事>
 レオン・ラッセルと言えば、カーペンターズのカバーで有名な「スーパー・スター」、アレサ・フランクリンフランク・シナトラウィリー・ネルソン、カーペンターズらによってカバーされた名曲"A Song For You"(1970年)、ジョー・コッカーのカバーが大ヒットした"Delta Lady"(1969年)、"Tight Rope"(1971年)、ジョージ・ベンソンのカバーで大ヒットした"This Masquerade"(1971年)、"Hummingbird"(1969年)、これもまた名曲の"Lady Blue"(1975年)などのヒット曲で有名なアーティストです。
 しかし、彼はアーティストとしての活躍と同じぐらいにシェルター・レーベルのリーダーとして、また60年代末のロック・ミュージシャンたちの親分的存在として、非常に大きな役割を果たしたカリスマ的人物でもありました。彼が、多くのミュージシャンたちに慕われるようになったのは、彼のミュージシャンとしての活躍だけでなく、下積み時代に築き上げた人脈と彼の親分肌の性格がもたらしたものだったようです。

<優秀なスタジオ・ミュージシャン時代>
 レオンは、1942年4月2日オクラホマ州のロートンに生まれました。(1941年という説もあり)小さな頃からクラシック・ピアノを習い、14歳で自らのバンドを結成。すでにこの頃、ロニー・ホーキンスジェリー・リー・ルイスらのバックで演奏したこともあるといいます。
 1958年、弱冠16歳で彼はロスアンジェルスに旅立ち、60年代前半はスタジオ・ミュージシャンとして、数多くのアーティストたちのバックを務めました。ロネッツグレン・キャンベルハーブ・アルバートクリスタルズライチャス・ブラザースゲーリー・ルイス&ザ・プレイボーイズ、それにデビュー当時アルバム録音は、スタジオ・ミュージシャンに頼っていたというバーズ(あの名曲「ミスター・タンブリンマン」のピアノはレオンだったのです!)など、そうそうたるアーティストたちのバックを務め、その実力を磨いていたのです。

<ソロ・デビューするも失敗>
 彼は天才プロデューサー、フィル・スペクターの元でもスタジオ・ミュージシャンとして活躍し、作曲、編曲などの技術も少しづつ身につけて行きました。1965年ソロ・シングル"Everybody's Talking About The Young"を発表。マーク・ベノとコンビを組み、アサイラム・クワイアとして"Looking Inside"を発表するなど、自らの音楽活動もスタートしましたが、そちらは上手く行かず、再び裏方の活動に力を入れて行くことになります。

<デラニー&ボニーの活躍の影で>
 そんな裏方としての活躍のなかでも、デラニー&ボニーの躍進はレオンの存在抜きには考えられませんでした。彼は、デラニー&ボニーのバックを務めていただけでなく、まとめ役としても貢献し、プロデューサーではないがデビュー・アルバム「ホーム Home」の録音においても重要な役割を果たしていました。その手腕はしだいに有名になり、デラニー&ボニーのイギリス・ツアーの際、彼にジョー・コッカーのアルバム・プロデュースの話しが舞い込んできました。そして、その初プロデュース・アルバム「ジョー・コッカー」の中から、レオンの作品「デルタ・レディー」が見事にヒットし、一躍彼は注目の人となります。(ちなみに、この曲で歌われているデルタ・レディーというのは、フォーク&カントリー系の歌姫としてデビューしたばかりのリタ・クーリッジのことだったそうです)

<ソロとして再デビューへ>
 この時、レオンの腕を見込んでプロデュースを依頼したのは、イギリスのプロデューサー、デニー・コーデルで、彼はムーディー・ブルースプロコル・ハルムのプロデュースで知られる大物でした。(あの名盤「青い影」は彼のプロデュース作品です)彼は、すっかりレオンの才能に惚れ込み、さっそく彼にソロ・アルバムの録音をイギリスで行わせます。彼の力によってレオンのデビュー・アルバムの録音には、ビートルズやストーンズのメンバー、エリック・クラプトン、スティーブ・ウィンウッドなど、そうそうたるメンバーが集まりました。
 そして、この素晴らしいアルバム"Leon Russell"(1970年)を発表するために、デニーとレオンは新レーベル「シェルター」を立ち上げたのです。

<シェルター・レーベル>
 彼らがレーベルを立ち上げ、そこからアルバムを発売することは、けっして一攫千金を狙った行為ではありませんでした。社長のデニー、副社長となったレオンが、このレーベルの立ち上げで目指したのは、実力がありながらメジャー・レーベルと契約できないミュージシャンたちの「隠れ家(シェルター)」を作ることだったのです。だからこそ、彼らは自らのレーベルの仕事だけにこだわらず、それ以外の仕事にも積極的に参加して行きます。
 ジョー・コッカーの名盤「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」の制作とツアーのバック・アップ、それにジョージ・ハリソンが提唱したバングラディッシュ難民の救済コンサートへの参加などは、特に有名です。(ボブ・ディランがバングラディッシュのライブに参加したのも、レオンの説得によるものだったらしい)
 これらの活動は、ほとんど彼らの利益にはつながらなかったのですが、おかげでシェルターの知名度だけは、着実に上がって行きました。そして、レオンのセカンド・アルバム"Leon Russell&The Shelter People"の発売でいよいよ「シェルター」の名は世界に知られるようになります。

<J・J・ケイル>
 こうして、スタートしたシェルターが先ず最初に世にその名を知らしめたアーティストは、意外なことにレオンではありませんでした。かつて、エリック・クラプトンが最も憧れたアーティストのひとり「Mr.レイドバック」J・J・ケイルでした。
 彼はシェルター・レーベルの地元オクラホマ州タルサ生まれ(1939年)のカントリー・ロック系ミュージシャンで、かつてはレオンとバンド仲間だったこともありました。彼は、1965年にソロ・シンガーとして、「アフター・ミッドナイト」というシングルを発表するがまったくヒットせず、一時は引退に近い状態になっていました。ところが、彼の不発だったシングル「アフター・ミッドナイト」をエリック・クラプトンが気に入り、カバーしたところ見事にヒット。おかげで作者のJ・Jは、一躍注目を浴びる存在になります。
 当時、エリック・クラプトンのベースを担当し、シェルターのメンバー(シェルター・ピープル)でもあった友人、カール・レイドルの紹介により、J・Jはシェルターと契約、1971年ついにソロ・アルバム"Naturally"が発売されます。そして、そのアルバムからのシングル「クレイジー・ママ」が全米22位のヒットとなり、やっとシェルターは、レーベルとして本格的な活動に入ったのでした。

<シェルター軌道に乗る>
 レオン自身のサード・アルバム"Carney"(1972年)は、シングル「タイトロープ」のヒット(全米11位)もあり、アルバム・チャートで4週連続で2位になり、いよいよシェルターは軌道に乗り始めます。彼らは、念願でもあった自分たちのレコーディング・スタジオをタルサに建設し、初めてシェルター・ピープル以外のアーティスト、大物新人フィービー・スノウと契約します。この大物新人のファースト・アルバム"Phoebe Snow"は、シェルターの全面的なバック・アップで見事なヒット作となりました。
 しかし、この頃から少しずつ音楽業界の流れは変わりつつありました。

<アルバム単位の巨大産業時代へ>
 1975年頃から、音楽業界はアルバム中心による巨額な売上を目指す企業間競争の時代に突入していたのです。シェルターが目指していた手作りの音楽が、そんな時代の流れに太刀打ちすることは、ほとんど不可能と言ってよかったのです。
 3人組みの黒人ファンク・バンドで、この後活躍を開始することになるギャップ・バンドや80年代に入りスーパー・スターの仲間入りをすることになるトム・ペティー&ザ・ハート・ブレイカーズなども、この頃シェルターが育てたバンドでしたが、彼らがブレイクするころには、すでにレオンはシェルターを離れていました。

<レオンのその後>
 レオンは、自らがプロデュースした元スライ&ザ・ファミリーストーンの黒人女性ヴォーカリスト、マリー・マクリアリーと結婚し、デュエット・アルバム"Wedding Album"(1976年)を発表しますがぱっとせず、1975年の"Lady Blue"のヒットを最後にソロ・ミュージシャンとしての活動はすっかりトーン・ダウンしてしまいました。
 デニー・コーデルと別れシェルターという隠れ家を失ったレオンにとって、すでにひとつの時代は終わってしまっていたのかもしれません。シェルターの消滅もまた、60年代末に生まれた「ロックの時代」の終焉を象徴するものであり、レオンはその時代とともに表舞台から姿を消してしまったと言えるでしょう。彼は本当の意味の「隠れ家」に隠れてしまったのかもしれません。

<締めのお言葉>
「あなたは、我々の過去から来た人のようなのです-昔の理想主義者たち、自由を夢想した人々。だというのにまるであなたが未来のことを語ろうとしているかのように、わたしたちにはあなたのことがわからなくなる。・・・」

アーシュラ・K・ルグィン著「所有せざる人々」より

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