「人生のちょっとした煩い The Little Disturbances of Man」

- グレイス・ペイリー Grace Paley -

<不思議な物語世界>
 すみません。この本もまた村上春樹さんの翻訳ということで読んでみました。そうでなければ、たぶん読まなかったでしょう。我が心の師匠に感謝です。
 それにしてもこの本、なんとも不思議な短編集です。でも不思議な世界観ではあっても、別にファンタジー小説というわけではありません。どの小説もそれぞれの登場人物が普通の生活を送っていて、犯罪事件や超常現象、感動の人間ドラマが展開するというわけではありません。ただ単に「人生におけるちょっとした煩い(わずらい)」について描いただけのシンプルなお話ばかりです。にもかかわらず、この短編集に収められたお話にはどこか変なところがあります。
「あれ?こう終わっちゃっていいの?」とか「え、こんな結末ありなわけ?」なんとも不思議な展開に驚かさせることもしばしばでした。しかし、そうした予想外の結末は著者が仕掛けた罠のようなものではないはずです。計算された小説には思えないところが、この短編集の凄いところです。
 それでは、それぞれの作品について、チェックしてみましょう。

「さよなら、グッドラック Goodbye and Good Luck」
 ローズ叔母さんが姪っ子のリリーに語る物語です。彼女は30年ぐらい前にさかのぼり、自分が就職先で出会ったロシア人俳優ヴラシュキンとの不倫について語ります。しかし、そのローズ叔母さんはどうやら美人でもなく、スタイルもかなり太めのようです。本当に彼女がそんな有名人と愛し合ったのか?読んでいて疑問ではあります。
 二人の関係が続いている間、家族はそんな不倫のことなど知らず早く彼女を結婚させようとします。そんな男の一人と彼女の対話から一つ。

「ロージー、僕は君に自由で幸福な、新しく大きな、そして普通ではない人生をさしあげよう」
 どうやって?
「君と僕とで力をあわせて、パレスチナの砂漠の砂を手に取り、そこに新しい築き上げるんだ。それは我々ユダヤ人のための、明日の土地なんだ」
「ははは、ルーベン。じゃあ明日になったらそこに行くわ」
「ロージー!」と彼は言った、「我々は君のような力強い女性を必要としている。母親にして農夫」
「きれいごとを言わないでちょうだいな、ルーベン。あなたが必要としているのは、荷馬車用の馬じゃない。でも馬を買うにはもっとお金がかかるものね」
「君の態度は気に入らないな、ローズ」
「気に入らなくてけっこう、さっさと行って繁殖なさいな。さようなら」

 そうそう著者についての重要な情報をひとつ。著者のグレイス・ペリーはユダヤ系のアメリカ人です。当然、ここで語られているのは、当時急激に進んでいたパレスチナに誕生したイスラエルへの入植です。それにしても、著者の分身ともいえるロージーのセリフは実に痛快です。さらに彼女は恋人だったヴィラシュキンという人物についてこう語ります。
「・・・俳優の心というのはダイヤモンドみたいなものに違いない。面が多くなればなるほど、その名前は光輝くのよ。ハニー、あんたはきっと一人の男と結婚して、二人ほどの子供を作って、退屈死にしちゃうまで、永遠に幸福に暮らすだろうね。・・・彼にとって、人生というのはリハーサルのようなものだったのね。・・・・・」

 残念ながら、その後ヴィラシュキンの劇団は解散し、二人の間の交信は途絶えてしまいます。ところが、物語の最後に意外な告白があります。つい先週、そのヴィラシュキンから彼女に電話があり、再会を果たした二人は結婚することにしたというのです!?
 え?これって昔を懐かしむ叔母さんのホラ話だったんじゃないの?

「若くしても、若くなくても、女性というものは A Woman,Young and Old」
 夫に逃げられ、二人の娘を女でひとつで育てた主婦。彼女の育った家庭には、どうやらDV(家庭内暴力)が横行していたようで、けっして幸福な人生ではなかったようです。彼女はいつか逃げた夫と同じフランス人のイケメン男と再婚してフランスに移住すると言い続けていました。そんな彼女の娘二人が一人の兵士を奪い合う三角関係のもめごとを起こします。ところが、結局この三角関係はどちらも上手くゆかず、その間に母親が兵士の上官(フランス系)と恋に落ちているのでした。
 あれあれ、そうなっちゃうわけ!

「淡いピンクのロースト The Pale Pink Roast」
 別れた夫に電話をして子供をあずかってほしいと頼む女性アンナのお話。元夫のピーターは、別れた妻アンナを心配してすぐに助けにやってきます。常に前向きで体力の衰えもないピーターは、そんな自分の生き方の理由についてこう説明しています。

「ねえ、おじいさん、もしもう一回人生をやり直せるとしたら、どんなところを前と違えたいと思う?何かあっというような助言はない?」
返事はすぐに返ってきたね。
「なあピーター、それならわしは毎日欠かさずジムに行くよ。仕事なんざクソ食らえ。女なんざクソ食らえ。がんがんと鍛えまくって、神様だってうまく壊せないくらいの身体を作る。なあ、ピーター、いいか」とじいさんは言った。
「この十五年ばかりわしはとんでもない憂き目にあってきた。どうしてか?どうしてか教えてやろう。この容れ物は、この・・・こいつは・・・これはきちんと維持されなくちゃならんのだ。どうしてかと言えばだな、ピーター、それが魂の住処だからだ。つまるところ長寿とは褒賞であり、美しさなんだ」


 そんなスーパーマンのようなピーターだからこそ、別れた妻を気づかい、すぐに飛んできたわけです。そして、二人はひさしぶりにSEXをして・・・・・。ところが、その後、アンナは思わぬ告白をします。そして、それを聞いたピーターは・・・・・。男って馬鹿ですねえ。

「すぐに彼の快活きわまりない顔が、春の夕暮れの薄闇に染まった戸口に現れた。通りに出ると、穏やかな見知らぬ人々のあいだで、彼は逆立ちをした。それから軽々と、臆することなく、そして実に見事に、夜の闇が迫ってくる東に向けて側転をやってのけた。」

「いちばん大きな声 The Loudest Voice」
 小学生だったアブラモウィッツは先生から大きな声をかわれて、クリスマスの劇でナレーター役に抜擢されます。ところがプロテスタントの生誕劇に出演することに厳格なユダヤ教の家族は当然反対します。それでもアメリカに住むからにはそれを認める必要があると判断した彼らはしぶしぶ出演を認めます。ほとんどがプロテスタントの白人(WASP)によって演じられた劇を見終わって、母親はこう言います。

「ヒルトン先生だって他にしようがないでしょう。あの子たちは声がとにかく小さいんだもの。それにだいたい、あの子たちが何を叫ばなくちゃならないっていうのよ?あの子たちは生まれたときから自然に英語を話してきた。そして天使のような金髪を持っている。だから、あの子たちにとって芝居に出ることがそんな大事だと、あなたは思っているわけ?クリスマス・・・あれやこれや・・・彼らはどのみちそういうのをみんな手にしているのよ」

「コンテスト The Contest」
 ユダヤ系の有名人の名前当てクイズを恋人に解かせ、その賞品として獲得したヨーロッパ旅行に一人で出発してしまった女の子のお話。この小説の主人公フレディーだけでなく、著者が描く男の多くは単純な生き物ばかりです。例えば、こんな感じ・・・・・

「・・・・・あなたは笑うだろうけれど、でもあなたって野蛮人だわ。あなたはそのときそのときの衝動のままに生きている。ラジオのそばにいれば、あなたは音楽を聴く。開いた冷蔵庫のそばにいれば、あなたは中にあるものをお腹いっぱい詰め込む。3メートル以内に女がいたら、あっという間もなく裸にはいで、串刺しにしてしまうんだから」

 やれやれ男って奴は、・・・・・確かにそんなものですかね。

「人生への関心 An Interest in Life」
 4人の子供をかかえて、夫に捨てられたヴァージニアのお話。ある日、突然彼女の夫はクリスマス・プレゼントと称して一本のほうきを置いて、軍に入隊します。といっても、軍への入隊など、嘘で家族を捨て出て行ったのでした。出て行く前に彼はこう言いました。

「俺は来るところまで来てしまった。目の前には真っ黒な壁しか見えない。俺はいったいどうすればいいんだろう?俺の人生は一度っきりだ。俺は観念して、おとなしくここで一生を終えるべきなのか?どうすればいいのか、自分でももうよくわからないな。率直に言うとだな、ヴァージニア、俺がずっとこのままここにいたら、間違いなく君は俺のことを憎しみ始めるだろうよ」

 子供たちをかかえ生活に困った彼女は、貧困に苦しむ人々にチャンスを与える実在のクイズ番組「リッチになろう」への出演を考え始めます。しかし、かつて彼女の恋人だった今は妻のいる男性ジョンはそんな彼女に想いをよせるようになり、テレビへの出演を止めさせます。出演申し込みのために書いた彼女の手紙を見て、彼はこういいます。

「君だってあの番組を見たことはあるだろう?ここに書かれているのは、つまり『人生のちょっとした煩い』みたいなものでしかない。でもあの人たちはね、それこそとことん苦しんでいるんだよ」(この本のタイトルはここからとられています)

 まじめなクリスチャンで既婚者のジョンは、この後、ヴァージニアと恋仲になり、不倫関係が続くことになります。でも、ラストにはなぜか家出した夫が帰ってきます。(それも何の反省も無しに)どうやらそれは夢の中の出来事のようですが、なぜ夢の中?(ヴァージニアの内なる願望なのでしょうか?)

「長くて幸福な人生からとった、二つの短くて悲しい物語 Two Short Sad Stories from a Long and Happy Life」
「2.少年期の問題 A Subject of Childhood」
 夫と別れ二人の男の子を育てる女性フェイスのお話。
 女手ひとつで苦労しながら悪ガキ二人を育てている彼女は、子供たちのいたずらに手を焼いています。そんな彼女に元彼クリフォードは、ある時、「君は子育てにしくじったんだ」と言います。その言葉に対し、彼女は突然切れてしまい、彼に灰皿をぶつけて血だらけにしてしまい、なおもこう言います。

「そんなことを女に向かって言うべきじゃないのよ」
「この間抜け。そんなこと、口が裂けても女に向かって言うべきじゃない。血を拭きなさいよ、馬鹿たれ。失血死しちゃうよ」


 おお怖!この本の中でもこの場面が最も怖いかもしれません。女性を怒らせてはいけません。しかし、このお話のラストにはこんな美しい文章が・・・・・。

「私は子供を抱きしめて、ゆすった。彼をあやした。目を閉じて、彼の黒髪の頭に頬を寄せた。しかし、軌道を進む太陽が、ダウンタウンのオフィス・ビルの給水塔のあいだからさっと姿を見せ、私をまぶしく、真っ白に照らし出した。それから私の息子の短くむっくりした指の隙間を抜け、縞模様に照らされた私のハートを、まるでアルカトラス刑務所に閉じ込められた白黒縞服の王様のように、永遠に埋葬した。」

「そのとき私たちはみんな、一匹の猿になってしまった In Time Which Made A Monkey of Us All」
 この短編集の中で最も奇妙な内容で、ブラッド・ピットの「12モンキーズ」や大友克洋の中篇アニメ映画「最臭兵器」を思い出させるブラックな毒ガス・テロ事件のお話です。
 科学オタクのおかしな青年エディーが、社会からあぶれた仲間たちと共に世界平和のためにと生命に危険を及ぼさない強烈な臭いの兵器を開発。ところが、それが思わぬ事件を引き起こしてしまいます。この主人公のキャラクターが実に不思議です。

「そのうちに人間はみんな皮膚なんて剥ぎ取って、より耐久性のあるプラスチックに換えてしまうだろう、というのがエディーの持論だった。そうなれば人種問題なんて消えてなくなる。人は好きな皮膚の色が選べるし、透明にすることだってできる。・・・・・・」

 さらに彼は仲間たちのために政治的な講義も行います。

「『敵とは、誰のことだったのか?』と彼は、クラブの仲間たちに少しばかり歴史性を注入するべく問うた。『バイキングたちか?トロイ人たちか?ローマ人たちか?サラセン人たちか?フン族か?ロシア人か?アフリカの植民者か、それとも汚らしいプロレタリアートか?懐のホットな資本家たちか?』
 例によって、彼は答えを与えなかった。・・・」


 エディーは広範な知識を有する人物でもあり、単なる科学オタクではなかったのでしょう。そんな彼が臭いによって人の命を奪わずして無能力化する特殊な毒ガスを開発。仲間たちとともにその実験を行い完成を目指します。

「だからね、それが俺の言わんとすることだよ、みなさん。これはゴキブリ隔離器によって学んだことだ。平和を望み、 五感の警告に耳を傾けるものだけが、幾世代もの敗北を通して生き残ることになる。核酸の中に惨めたらしい毒性を抱え込んだシラミの遺伝形質なんて、いったいどこの誰が必要としているんだ?そうだろう?俺は政治的な戦略もではまだ考えていない。しかしいずれ」にせよ、俺たちがここで成すべきことは、ただその技術の達成だ」

 なんだかわけのわからない兵器です。ブラック・ユーモアにしては、何を皮肉っているのかがよくわかりません。その結末の意外性は読者を驚かせるはずです。

<グレイス・ペイリー>
 さて、この不思議な小説の作者グレイス・ペイリーとはいかなる人物なのでしょうか?
 グレイス・ペイリー Grace Paley は、1922年ニューヨークに生まれたロシア系のユダヤ人です。育ったのは、ユダヤ人が多いブロンクス地区。父親は革命前のロシアで社会主義者としてシベリアの収容所に送られた経験もあり、その後アメリカに移住しました。その後彼は苦労して医師となりますが、彼女の少女時代はまだ貧しい生活が続いていました。
 彼女はニューヨーク大学の分校、ハンター・カレッジに入学しますが、中退してしまい映画のカメラマンと結婚。二人の子供をもうけた後に離婚。苦労しながら子育てをし、その後、詩人のロバート・ニコルズと再婚しています。彼女の小説に出てくる物語の多くは、この時代の彼女の体験に基づいているのでしょう。彼女は、そうしたシングルマザー時代に子育ての傍ら執筆を始め、台所で書いた原稿を雑誌社に送ってチャンスを持ちました。しかし、当時彼女の作品はまったく受け入れられず、皆彼女の元に送り返されてきました。この本に載せられている小説は、どれも当時雑誌社から送り返されたものばかりです。
 彼女の作品は、フェミニズム運動など存在せず、まだまだ戦前の古い体制が続いていた1950年代アメリカには早すぎたといえそうです。(当時人気のビート族も男ばかりの世界でした)
 そんな彼女の作品にダブルデイ社のある編集者が注目。彼女の未発表作品をハードカバーの短編集として世に出しました。それが1959年、彼女が37歳の時でした。作家としては遅咲きのデビューだったといえますが、この時点でもこの本は話題にもならずに絶版になってしまいます。それでも彼女は作家になることをあきらめず、グッゲンハイム財団からの助成金を得てなんとか作家活動を続けてゆきます。
 1960年代に入り、やっと彼女の作品に時代が追いつきます。「エスクワイヤ」などの雑誌が彼女の小説を掲載するようになり、やっと彼女の名は世に知られるようになりだしたのです。しかし、その頃彼女は作家以外の活動にも積極的に関わりだしていました。1960年代といえば、アメリカ中が時代の急激な変化に揺れていた時代です。そんな中、彼女は公民権運動、フェミニズム運動、環境保護活動、ヴェトナム反戦運動などに彼女は積極的に参加。何度も、彼女はデモに参加したために逮捕、投獄され、そのことでさらに彼女の知名度は上がることになりました。いつしか彼女は若者たちの間でカリスマ的な人気を獲得し始めます。そんな中、1968年に本書「人生のちょっとした煩い」がハードカバーで復刊。一躍話題の書となり、ペーパーバック本も出版されました。
 1974年に彼女は第二短編集「最後の瞬間のすごく大きな変化」を発表し、その人気を不動のものとします。しかし、その後、作家としての活動はほとんどなくなり、彼女は「母親業」と「政治活動」に生きるようになりました。
 こうして、彼女の生い立ちを知ると、彼女の短編小説にはもっとも深い意味がこめられているように思えてきます。あなたも「人生のちょっとした煩い」に疲れたら是非、この本をお読みください!癒されるかどうかは・・・?ですが。

「人生のちょっとした煩い The Little Disturbances of Man」 (1959年)
(著)グレイス・ペイリー Grace Paley
(訳)村上春樹
文芸春秋社

「グレイス・ペイリーの物語と文体には、いったんはまりこむと、もうこれなしにはいられなくなるという、不思議な中毒性がある。ごつごつしながらも流麗、ぶっきらぼうだが親切、戦闘的にして人情味あふれ、即物的にして耽美的、庶民的にして高踏的、わけはわからないけどよくわかる、男なんかクソくらえだけど大好き、というどこをとっても二律背反的に難儀なその文体が、逆にいとおしくてたまらなくなってしまうのである。・・・」
村上春樹「グレイス・ペイリーの中毒的『歯ごたえ』」

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