- ルイ・アームストロング Lois Armstrong -

<瞼に焼き付いた葬儀>
 1971年、僕は11歳でした。ある朝、起きてひとりでテレビを見ていると、ニュース番組の中で多くの人々に囲まれながら教会を出る棺が目に入いりました。なぜそのシーンが、未だに瞼にこびりついているのかはわからないのですが、僕が憶えている葬儀といえば、他には祖父母の葬儀ぐらいですから、その印象はかなり強かったのかもしれません。
 それが、サッチモことルイ・アームストロングの葬儀でした。考えてみると、日本に住むジャズもろくに知らない11歳の子供ですら、彼の存在を知っていたのですから、エンターテナーとしての彼の知名度は、そうとうなものだったということになるでしょう。
 実際、彼がジャズやポピュラー音楽の世界で成し遂げた実績はたいへんなものです。しかし、歌って踊れるコミカルなエンターテナーとしての存在感、そしてリバイバル・ヒットした名曲「この素晴らしい世界」のイメージとは別に、スウィング・ジャズ時代の先駆けとなった彼のバンド・リーダーとしての価値もまた忘れてはいけないはずです。

<20世紀の始まりとともに>
 彼が生まれたのは、1900年7月4日(20世紀最初の独立記念日)。ジャズ発祥の地と言われるアメリカ南部ニューオーリンズ、ストーリー・ヴィルでした。その場所は、港湾都市として繁栄を究めていた街に生まれた政府公認の売春地域でした。彼の母親は、ここで売春婦として働いていたと言われています。彼は後にコミカルなエンターテナーとして有名になりますが、そんな彼でありながら、彼が生み出す音楽には、常に「悲しみ」という隠し味があったと言われています。それは、彼のこの悲惨な生い立ちからくるものだったのかもしれません。
 当然のごとく、彼の父親が誰なのかはわからりません。しかし、そんな生まれではありましたが、彼の母親は愛情にあふれた素晴らしい母親だったとも言われています。そうでなければ、彼の笑顔を絶やさない底抜けの明るさ、優しさは説明がつかないかもしれません。
 とはいえ、そんな環境では家に彼のいる場所があるはずもなく、すぐに彼は親類の家にあずけられることになります。そして、その後はロシア系移民のカーノフスキー家に子守として住み込むことになりました。このユダヤ系の一家は、けっして裕福ではなかったようですが、勤勉で音楽が好きな素晴らしい人たちだったようです。おかげで、彼はこの家で音楽と出会うことができ、後に死のぎりぎりまで演奏を続けることになる彼の勤勉さも、この家族たちの影響だったのではないかと言われています。

<コルネットとの出会い>
 彼の生活は、当然貧しいものでしたが、それ以上に両親の不在は彼を悪の道へと向かわせることになりました。しだいに、彼のまわりは悪い連中ばかりになってゆき、ついに彼は拳銃の発砲事件で逮捕されてしまうのです。(けっして、人を撃とうとしたわけではなかったようです)
 こうして、彼は少年矯正施設に入れられることになりましたが、それは彼にとって大きな転機となりました。多くの黒人たちが刑務所で音楽やスポーツなどと出会い、人生を大きく変えたように、彼もまたそこで大きな出会いを果たします。彼は施設のブラスバンドに入り、そこでコルネットというトランペットの親戚と出会いました。(トランペットより一回り大きな管楽器、さすがはブラス・バンド発祥の地ニュー・オーリンズです)

<ミュージシャンとしてのスタート>
 施設を出所した後、彼はミュージシャンとしての活動を始めますが、その才能はすぐに花開き、ニュー・オーリンズの街でも注目を浴びる存在になって行きました。当時の彼はまだ15歳でしたが、ご当地を代表するトランペッター、ジョー・キング・オリバーの目にすぐに留まりました。
 昼間は近くの炭坑で石炭運びをすることで、かろうじて生計を立てていた少年を気に入ったキング・オリバーは、自分のコルネットを与えて、そのテクニックを教え込んでくれました。このまま行けば、彼はキングの後を継いで、ニューオーリンズを代表するジャズ・ミュージシャンとして活躍し続けたかもしれません。しかし、運命は彼に新たな試練を与え、それによって彼は世界的なスターへの第一歩を踏み出してゆくことになります。

<ニューオーリンズからの旅立ち>
 それは1914年に始まった第一次世界大戦がきっかけでした。ヨーロッパで始まったこの戦争にアメリカは直接参戦しなかったおかげで、ヨーロッパへの工業製品の輸出が急増します。そのため、北部の工業地帯では工場で働く人手が不足し、それを補うために南部の農業地帯で苦しい生活を強いられていた黒人達がどんどん移住し始めたのです。
 さらにニューオーリンズが軍港として使用されるようになったため、ジャズの拠点だったストーリー・ヴィルの娼婦街は閉鎖されてしまいました。当然そのまわりで営業していた数多くのクラブやバーも次々に閉店に追い込まれることになり、ミュージシャンたちもまた多くの黒人達とともに北部へと移住して行くことになったのです。そして、この移動がジャズをアメリカ全土へと広める重要な役割を果たし、それぞれの地域で新しいジャズやR&Bなどの音楽を生み出して行くことになったのでした。

<ニューヨークへ>
 こうして、ルイも北への移動を開始し、再びシカゴで師匠のキング・オリバーと出会い、彼の楽団で第2コルネット奏者の職を得ます。いろいろな街で、いろいろなミュージシャンたちと共演することで、彼の演奏スタイルはより洗練されたものとなり、スウィング・ジャズの先駆けであると同時に即興プレイを活かした新しいジャズの先駆けと言えるものに成長していました。
 そしてついに、彼はジャズの黄金時代を迎えようとしていたニューヨークの街へと進出することになりました。

<ハーレム・ルネッサンス>
 彼が最初の活動の場としたのは、当時ニューヨークを中心に活躍していたフレッチャー・ヘンダーソンの楽団でした。新しいスタイルを持った彼の加入は、普通のジャズ・バンドだった楽団をニューヨーク一ヒップなダンス・バンドへと変身させます。
 特に、彼が持ち込んだそれぞれのパートによるソロの即興演奏を曲の中に織り込むという手法は、ジャズの演奏を大きく変えることになり、これによって、その後デューク・エリントンを中心として展開することになるスウィング・ジャズ黄金時代の基礎を築いたと言えるだろう。
 それだけではない。コットン・クラブなどを中心とする彼やデューク・エリントンらの活躍は、黒人たちの多く住むハーレム地区を大きく変え「ハーレム・ルネッサンス」という言葉を生み出した。

<独自の活動スタート>
 その後彼は自らをリーダーとするビッグ・バンド以外に、ホット・ファイブ(5人編成)、ホット・セブン(7人編成)を結成し、ビッグ・バンドでは出せない自分のスタイルを展開してゆきます。こうして彼は自らヴォーカルも担当するようになって行きます。この頃発表した「シービージービーズ」は、彼お得意のスキャット唱法を取り入れたもので、音楽史上初めて録音されたスキャット曲と言われています。このスキャット唱法は、即興性を重視するファンキーなサウンドという点で、彼の音楽性を象徴するものだったと言えるでしょう。(ちなみに「シービージービーズ」は、後にニューヨーク・パンクの拠点となるクラブの名前でもあります)

<サッチモ誕生>
 ところで、彼の愛称「サッチモ」とはどういう意味かご存じでしょうか?
その由来は、「Satchel Mouth(がま口)」にあるのだそうです。彼がイギリス公演を行ったときに、その大きな口がサッチェル・マウスに似ていると誰かが言い、それをよく聞き取れなかった記者たちによって、「サッチモ」という愛称が生まれたということのようです。
 彼はこの後もビッグ・バンドを率いて、1930年代の大不況も見事に乗り越えて活躍を続けますが、しだいに時代はビッグ・バンドを必要としなくなってゆきます。そこで彼は1947年、オールスターズを結成、小規模編成のスタイルで活動して行くようになります。

<ジャズ革新の枠の外へ>
 しかし、この頃からジャズの世界の革新は、いよいよ加速度的になってゆき、サッチモはその流れの枠の外にはずれるようになってしまいます。モダン・ジャズの進歩的なミュージシャンたちにとって、サッチモは過去の人になろうとしていました。
 その上彼は音楽活動以外に映画への出演も行うなど、エンターテナーとしての活動が多くなっており、そんな彼を白人のエンターテナーたちを引き立てるための「アンクル・サム」だと決めつける黒人たちが増えていました。彼の温厚で笑顔いっぱいの演技は、「ブラック・イズ・ビューティフル」を唱える先鋭的な黒人活動家たちにとっては、許せない存在だったのです。しかし、彼はけっして白人を引き立てるための「アンクル・サム」ではありませんでした。

<人種問題との関わり>
 1956年初のアフリカン・ツアーを行なった際、当時まだイギリス領だったガーナのコンサートで黒人たちの暴動を鎮圧する警官隊の暴力を目撃し、大きな衝撃を受けます。そして翌1957年には、自らの国アメリカで黒人少年の高校入学を拒否したことから始まったリトル・ロック高校事件が起きました。(この事件から、いよいよアメリカ全土が公民権運動の争乱に巻き込まれて行くことになります)
 この事件にショックを受けた彼は、事態を解決できない大統領を批判し、政府主催のソビエトへの親善ツアーをキャンセルしてしまいます。多くの黒人アーティストは、この時世論の非難を気にしてはっきりとした意思表示をしようとはしなかった中で、彼は一人その意志を貫いたのです。(サミー・デイビスJr.は、この時ツアーにしっかり参加しています)

<トランペッターからヴォーカリストへ>
 1960年代に入ると、時代の変化はいよいよ激しさを増していましたが、この頃から彼は自分の体力に限界を感じ始め、並はずれた体力を必要とするトランペット演奏を控え、ヴォーカリストとしての活動に重きを置くようになっていました。そんな彼が発表したのが、あの名曲「この素晴らしい世界」(1967年)でした。
 当時アメリカは、国内では公民権運動による人種間の対立が激化し、国外ではベトナム戦争の泥沼にどっぷりつかってしまっていた。そんな時代に「それでも世界は充分に素晴らしいじゃないか!よく見てご覧」と訴えかけた彼の歌が大ヒットしたのは、まさに彼の歌がもつ説得力にあったと言えるでしょう。曲も歌詞も素晴らしいのは確かですが、だからといって彼以外の歌手が取り上げても、これだけの説得力をもつことはなかったかもしれません。だからこそ、この曲に関しては、彼のオリジナル・バージョンだけが唯一絶対的な価値を持っているもではないでしょうか?

<ミュージシャンへのこだわり>
 その後彼は脳梗塞で倒れ入院を余儀なくされます。それでも彼は最後までミュージシャンへの活動にこだわり続け、1970年に病院から退院すると、すぐに3週間ラスベガスのホテルで演奏を行いました。最後の演奏終了後、彼はバンドのメンバーに「私はもう演奏できない」と言い残し、その7週間後、安らかに「この素晴らしき世界」に別れを告げ、天国へと旅立って行きました。

<締めのお言葉>
「目の前にかざした手が、大いなる山を隠すように、この地上のちっぽけな生命は、世界を満たす計り知れぬほどの光と神秘を自ら隠してしまう。だから、目の前から手をとりさることができるものは、手をはずしさえすれば、内なる世界の大いなる輝きを見るのである」

ブラツラフのラビ、ナッチマン

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページヘ