- マハトマ・ガンジー Mahatma Gandhi (前編) -

<20世紀を代表する政治家>
 「20世紀を代表する政治家を二人あげなさい」
 そうきかれたら、僕はアドルフ・ヒトラーとマハトマ・ガンジーをあげたいと思います。ただし、二人とも正確には政治家と言えないかもしれません。彼らは、政治的配慮とか政治的駆け引きとは無縁な世界の人間だからです。しかし、だからこそ、彼らは世界を変えてしまうような驚くべき政策をとることができたのです。もちろん、二人の方向性はまったく正反対でしたが、・・・。
 皮肉なのは、アンチ・ヒーローナンバー1とも言えるヒトラーが未だに映画、小説、社会学など、数多くの分野で取り上げられているのに、ガンジーに関して語られることはめったにないことです。真面目なヒーローについて語るのは、残念ながらあまり面白くないのかもしれません。また、ガンジーの実像をとらえることで、彼の神聖な人間像を壊すことを恐れている部分もあるのでしょう。
 しかし、ガンジーの存在ぬきに20世紀の歴史は語ることはできないはずです。キング牧師も、チャップリンも、ネルソン・マンデーラも、ボブ・マーリーも、ジョン・レノンも、みなガンジーの思想から大きな影響を受けています。彼らが、それぞれの立場で巨大な権力や政治的圧力と闘うことができたのは、ガンジーという偉大なる思想家が切り開いた一本の道筋をたどることができたからなのです。
 ガンジーの登場以前、暴力を用いないで政治や社会を変えることが可能だと思っていた人は世界中にどれだけいたでしょうか?確かにイエス・キリストは聖書の中で「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」と言っています。しかし、それが政治の舞台で有効な手段になりうるとは、誰が思ったでしょうか?
 「サチャグラハ(真理を示す)」とも呼ばれるガンジーの「非暴力非服従闘争」という革新的な手法は、いかにして生み出されたのでしょうか?それはもう過去の手法にすぎないのでしょうか?

<ガンジー誕生>
 1869年10月2日、後にマハトマ・ガンジー(偉大なる魂)と呼ばれることになる人物、モハンダス・カラムチャンド・ガンジーは、インド西部にある街ポールバンダルに生まれました。彼の父親は地方裁判所の裁判官を務める地域の名士で、真面目で愛情にあふれた人物でした。
 しかし、母親のプトリバーイは、父親の4番目の妻であり、なんと22歳も年が違いました。母親を深く愛していたガンジー少年にとって、そんな父と母の関係は、どこか不潔なものに見え、そんな父の血を受け継いでいる自分に不安を憶えてもいました。そして、その心配はすぐに現実となりました。彼は当時のインドでの慣習通り13歳で結婚、その若さゆえに性的快楽の虜になってしまったのです。もともと真面目な人物だっただけに、このことは彼にとって非常にショックでした。そして、そんな彼の嫌悪感を決定的にしてしまう出来事が起きます。
 それは彼の父親が死を目前にして床についていた時のことでした。彼は毎日父親の看病をしていたのですが、よりによって彼が妻とベッドをともにしている間に父親がこの世を去ってしまったのです。この日以来、彼は「性欲」の存在を自らの心の内から消し去ろうと必死になります。しかし、これから青春時代を迎えようとしている若者がそう簡単に性欲を捨てきれるわけはありません。
 精神分析学者のエリク・H・エリクソン Erik H. Eriksonは、そんな青春時代のガンジーについて「ガンジーの真理 - 戦闘的非暴力の起源 Gandhi's Truth」の中でこう書いています。
「・・・ガンジーは、彼独自のはしゃぎ好き、親密性、創造性を、性欲・・・それは聖書的な意味で彼を悩ませた・・・から救わなければならなかった、そして彼は幸いにも最後には陽気さの感覚を取り戻すことができたが、しかしそれは性欲を根こそぎにすることによってであった。・・・」
 これだけでも、ガンジーは偉大です。僕には到底無理ですから。

<イギリスでの留学生活>
 こうして、もんもんとした日々を過ごしていた18歳の彼に、ある日イギリス留学の話しが舞い込みます。家族は、彼がインドを離れることでヒンズーの教えから離れてしまうのではないかと恐れ、彼のイギリス行きには反対でしたが、好奇心にあふれ、現状の生活から抜け出すことを考えていた彼にとってそれは渡りに船でした。
 イギリスでの生活を始めた彼は、当時世界一の先進国イギリスの文化に魅了され、ヒンズーの教えこそ守り続けたものの、ヨーロッパ文化を身につけようと必死になります。フランス語を勉強し、バイオリンを習い、最新のファッションを身につけてダンスのレッスンに通う、そんな毎日を過ごした彼は完璧な英国紳士に近づきつつありました。こうした経験は、後に彼がイギリスと対決する際、大いに役立つことになるのですが、ある時から彼はそんな自分の英国かぶれに嫌気がさしてきました。
 幸い、彼はロンドンで菜食主義者のための良いレストランを見つけ、そこで同じような考えをもつ人々とも出会うことができ、再び彼はヒンズーの教えに基づく質素な生活にもどることができました。こうして、彼は無事に3年間の学業をこなし弁護士の資格を得て、無事インドへの帰路につきました。

<インドでの失敗>
 インド南西部の大都市ボンベイで弁護士事務所を開設した彼は、さっそく法廷での弁護依頼を受けます。ところが、法廷に立ってすぐに彼にはこの仕事がむいていないことが明らかになりました。性格的に優しすぎて他人を傷つけることができない彼は、もともとあがり症も手伝って、法廷で相手を非難したり、攻撃したりすることができなかったのです。なんと彼は依頼者に代わりの弁護士を紹介してその場を逃げ出してしまいました。(イギリスで勉強中に、自分に適していないと気づく機会がなかったのでしょうか?不思議です)
 2年間ほとんど仕事のない状態が続き、ついには彼は事務所を閉鎖。故郷にもどると書類作成の仕事だけをして暮らします。彼にとって、人生はもう閉ざされてしまったかのようでした。ところが、神は再び彼にチャンスを与えます。

<南アフリカへ>
 インドと同じく英国の植民地だった南アフリカ共和国に住むインド人の実業家が、彼を顧問弁護士として雇いたいと行って来たのです。法廷に立つ仕事ではないし、肩身の狭い故郷からも離れられるとあって、彼は喜んでその申し出を受けました。そして、この南アフリカ行きこそが、マハトマ・ガンジーという偉大な思想家を生み出すことになるのです。
 同じイギリス領でありながら、インドとアフリカには大きな違いがありました。それは、南アフリカという国は自治が認められており、イギリスから移住してきた白人たちが独自の法律のもとで政治を行っていたということです。しかし、その法律の中には、この後1980年代まで続くことになる人種隔離に関するものも含まれていました。そして、この人種差別の考え方はアフリカ系の黒人だけでなくインド人も含めすべての有色人種に向けられるものでした。従って、例え弁護士の資格をもつ有能な人物であっても、彼はその国では差別される側に回らざるを得ませんでした。列車に乗る際、一等の切符を買っても、彼はそこから追い出されてしまいました。そのうえ、白人が泊まるホテルに宿泊することができず、法廷ではターバンを脱がされました。次々に差別による屈辱を味わううちに、彼はいつしかインド人であることの自覚に目覚めて行きました。

<インド人への差別>
 南アフリカにおいて、インド人の数は移民としてはイギリス系白人につぐもので、労働力としても重要な地位にありました。しかし、その存在がしだいに無視できなくなるにつれ、彼らに対し選挙の制限、人頭税の徴収、移民の受け入れ制限、さらにはキリスト教以外での結婚式の禁止など、新しい法律による締め付けが行われ出します。
 こうして、現状を変えるための運動に彼は自然に関わり始めます。そして、その中で彼はインドの独立運動につながる多くのことを学んで行くことになりました。

<南アでの闘い>
 彼は自らの思想を具体化して行く場として農場をつくります。そして、そこで獲れたもので生活しながら、ヒンズー教の教えに基づく小さな世界を築いて行きます。さらには「インド評論」という機関誌を発行、自らの思想を世に問うようになります。こうして、彼の存在は南アフリカのインド人社会で重要な位置を占めるようになって行きました。
 1879年、南アフリカの東部に住む先住民ズールー人が反乱を起こしました。この時ガンジーはインド人の部隊を組織、戦争への参加ではなく救援活動への参加という形で政府への協力を行います。この救援部隊は、1899年に起きたオランダ系移民ボーア人とイギリス系移民との戦争「ボーア戦争」でも活躍、その指導者としての彼の名は南ア政府にも知られるようになります。しかし、こうした彼の努力も南ア政府にはまったく認められませんでした。そこで彼は炭坑労働者たちに協力を呼びかけ大規模なストライキを実施します。
 こうして、彼の非暴力、非服従というそれまでにはなかった抗議行動が実行に移されるようになします。1913年に行われた炭鉱労働者たちによるナタール州からトランスバール州への抗議の行進を指揮した彼は、そのために逮捕されます。しかし、暴力をいっさい用いないこの運動に対し、海外からは多くの賛辞が寄せられ、一躍彼の名は世界中に知られるようになりました。

<インドへの帰還>
 一年の契約で旅立った南アフリカでの仕事は、結局21年という長きに及び、彼はいつしか落ちこぼれの弁護士から大衆のリーダーへと成長を遂げていました。こうして1915年、故国インドにもどった彼は一躍ヒーローとして迎えられます。
 その後インドにもどってガンジーが行ったのは、南アフリカで彼が行ってきたことの延長であり、その発展形だったと言えるでしょう。自らの手で農園をつくると、そこではあえてカースト制度のもとで差別されていた「不可触民」と呼ばれる人々を雇いました。
 南アフリカでは、黒人たちが奴隷として扱われていましたが、インドにおける不可触民は、奴隷以下の存在と言えるかもしれません。彼らに対する差別をなくすことは、彼にとってインドの独立と並ぶ生涯の目標となります。
 彼はそれ以外にも、農園主の搾取に苦しむ小作農たちを解放するための運動。都市部で急速に発展しつつあった工場に従事する労働者たちの賃金闘争や労働条件闘争のためのストライキなど、多くの人々を救うために走り回りました。そして、そんな彼の活動以上にその後大きな位置を占めることになるのが、インド独立に向けた非暴力・非服従の闘いです。

<インド独立運動の始まり>
 1885年インドでは第一回のインド国民会議が開かれました。これは元々イギリスが植民地政策に理解のあるインド人有権者を集めて、形ばかりの政策会議を行わせたことから始まったことでした。
 しかし、時代とともにそのメンバーでもある国民会議派と呼ばれるグループは、イギリスからの独立を目指す政治団体へと変化し、ガンジーもまたその中心メンバーとなります。その中には、武力による解放を目指していたチャンドラ・ボースや後にガンジーの後継者となるジャワハラル・ネルー、それにノーベル文学賞を受賞していた世界的詩人のタゴールもいました。
 インドの独立運動は、この国民会議派の成長とともに急速に現実味をおびてくることになります。その具体的な闘争は後編で!

<中締めのお言葉>
「大地はひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない」

「神があなたに現れるのは人格においてではなく、つねに行為においてである」

マハトマ・ガンジー

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