- マリリン・モンロー Marilyn Monroe (前編) -

<マリリン・モンローの真実>
 「マリリン・モンローの真実」という本があります。(上下巻)なぜか扶桑社のミステリー文庫から出ています。(確かに内容的には、どんなミステリーよりもミステリアスな作品です)以前アインシュタインのページを作成している途中で映画「マリリンとアインシュタイン」のことを調べました。すると本棚の中に偶然この本を発見。それは以前うちの奥さんが買ったものでした。気になった僕は、それをちょっと読んでみたのですが、その中身の凄さに驚いてしまいました。
 政治的に危険すぎるだけでなく、性描写の面でも過激すぎ、とても映画化などできない内容です。それに映画の都ハリウッドに対するイメージが破壊されかねない内容でもあります。
 次々と登場する有名人たち、その誰もがマリリンと関係をもっていたのか?そんなことが物理的、精神的に可能なのか?わずか36年の人生でどうすればあれだけの男たちとつきあえたのか?不眠症だったから?多重人格だったから?クスリとアルコールのせいだった?営業活動と割り切るほどの野心家だったから?男に弄ばれていることがわからないほど馬鹿だったのか?純粋だったのか?謎は謎を呼び、けっして解決されることはなさそうです。

<マリリン最後の恋>
 今まで数多くのアーティストの人生をのぞいてきましたが、彼女ほど理解困難な人物はいません。もともと20世紀を代表するセックス・シンボルである女性をごく普通の男が理解することは、到底不可能なのかもしれませんが、・・・。僕にできるのは、3番目の夫アーサー・ミラーと2番目の夫ジョー・ディマジオに同情を寄せることぐらいかもしれません。最後までマリリンを愛し続けたジョー・ディマジオのけなげな努力には、思わず涙してしまいました。
 世界一有名な作家と世界一有名なスポーツマンを愛の罠に陥れた彼女は、世界一有名な政治家をも愛の罠に陥れようとしたのか?それとも単に利用されただけなのか?
 60年代という混沌に満ちた時代が生んだ世界一有名な危険な恋の物語。「マリリン最後の恋」の始まりです。

<ノーマ・ジーン>
 マリリン・モンローはもちろん本名ではありません。ノーマ・ジーン・モーテンスンというのが出生証明書に記してある名前です。エルトン・ジョンの名盤「グッドバイ・イエロー・ブリックロード」の中に「グッドバイ・ノーマ・ジーン」という曲があります。これはもちろん、亡くなったマリリンに捧げられた曲です。そして、この曲が後に歌詞を変えて「キャンドル・イン・ザ・ウインド」となり、世界中で大ヒットを遂げます。あのダイアナ妃に捧げられた曲です。
 マリリンの場合、本名のノーマ・ジーンもかなり有名で多くの人の記憶に残っています。それは彼女の存在がノーマ・ジーンという一人の女性とマリリン・モンローという世界的な女優との二つの人格から成り立っていることを人々がいつの間にか理解していたからかもしれません。

<孤独な少女時代>
 愛を求め続ける彼女の悲劇の人生は、1926年6月1日にロスで彼女が生まれた時からすでに始まっていました。ノルウェー系の移民でパン職人だった父親とクリスチャン・サイエンス派という真面目なキリスト教の信者だった母親のもとに彼女は生まれたのですが、実の父親は同じアパートに住む別の男だったというふうにも言われています。そのせいか、彼女はすぐに里子に出され、「家庭」というものをほとんど知らずに育ちました。それどころか、里子に出された先の家で彼女はどうやら虐待もしくは性的虐待を受けていたようなのです。
 そのうえ、彼女の母親の精神は鬱病だった祖母ゆずりでいつも情緒不安定でした。そのため、彼女は一時は母親のもとで暮らしたものの結局母親が精神病院に入院してしまい、再び彼女は里子に出されたり、孤児院で暮らすことになります。両親がともに生きているにも関わらず、自分を置き去りにしていったという事実は、この後も彼女を苦しませ続けることになります。だからこそ、彼女は生涯「父親」の代わりとなる「男性」を求め続け、後にはあらかじめ失われた家庭を取り戻すために子供を産もうと必死になるのです。(そう思った時、彼女の身体はすでに子供を産めない身体になっていたのですが・・・)

<悲惨な性体験と結婚>
 そんな生活の中、彼女は10歳を前にして暴力によって性体験をさせられます。15歳の時には妊娠、出産を経験したと言われています。(その時の子供は里子に出されたようですが、その行方はわかりません)そして、16歳の時、彼女は里親の都合によって、無理やり近所の若者ジム・ドガティーと結婚させられることになりました。
 1944年、18歳の時、夫が海軍に入隊して不在だったこともあり、彼女はバーバンクの兵器工場で働き始めます。しかし、そんな油まみれの工場内で働く人々の中で、彼女は一際光り輝き、回りの男たちの視線を釘付けにしていたようです。たまたま工場を取材に来ていた軍の写真班のひとりが彼女に声をかけ、それをきっかけに彼女はモデルとしての活動をスタートさせることになります。

<モデル活動、そして離婚、映画界へ> 
 1945年、彼女はスター専門のポートレート・カメラマンとして後に有名になるアンドレ・ド・ディーンズのモデルとなり、彼と恋におちます。軍隊から戻った夫は、すぐに彼女と離婚。彼女はスターを夢みて、ハリウッドへと旅立ちました。そして、翌年20世紀フォックスとの契約にこぎ着けます。マリリン・モンローという名の女優がこの時誕生しました。まさに、ここまではシンデレラ物語と言えるかもしれません。しかし、そう簡単にスターへの道は開けませんでした。1947年、彼女は「危険な歳月」という映画でデビューしますが、すぐに解雇されてしまいます。どうやら、それは当時の大物プロデューサー、ダリル・F・ザナックとの「お付き合い」を断ったからのようです。(ダリル・F・ザナックと言えば、「史上最大の作戦」「陽はまた昇る」「紳士協定」「わが谷は緑なりき」などのプロデューサーです。いやはや)

<ピンナップ・モデルからコールガールまで>
 仕事を失った彼女は、再びピンナップ写真のモデルに戻りますが、高級コール・ガールとして働くこともあったようです。スター女優になるという目標をもった彼女は、チャンスをもう一度つかむためなら、どんなことでもする覚悟を決めていたのでしょう。彼女は20世紀フォックスの創設者のひとりである大物ジョセフ・スケンクと関係をもつようになります。その後は、彼女より、何十歳も年上の高齢の大物エージェント、ジョニー・ハイドにも気に入られ、彼の家に住み込んで彼の「下半身の世話係」となります。そのおかげで、彼女は再び20世紀フォックスと契約を結ぶことができました。ちなみに彼はマリリンに結婚を申し込みましたが、彼女は断ったと言います。彼女がもしお金だけが目的だったとすれば、この時彼女は申し出を断ることはなかったでしょう。彼はその後すぐにこの世を去っており、その気になれば彼女は巨額の遺産を相続することも可能だったのです。
 彼女の目標はあくまで銀幕のスターだったのでしょう。

<チャーリー・チャップリンの息子>
 彼女がまだ無名だった1947年頃、彼女は俳優志望の同じ年の男と同棲していたことがあります。この時、彼女は妊娠してしまい女優を目指すために中絶手術を受けました。彼女はこうした手術をこの後何度も受けることになり、若くして子供を産めない身体になってしまいます。そして、このことが後に彼女を精神的に苦しめることになります。(13回は受けていたと言われています)
 この時の相手こそ、なんとあの有名なチャーリー・チャップリンの息子だったのです。無名のまま、42歳の若さでこの世を去ったダメ男をでしたが、彼女は本当に愛していたようです。さらにもう一人、無名のまま消えていった名優エドワード・G・ロビンソンの息子とも彼女は付き合っていたという話です。自らが無名時代に付き合っていた同じように無名の男たち、そして、自らが有名になってから付き合った世界一の政治家や世界一のプロ野球選手たち、彼女にとってはどちらも愛おしさにかわりはなかったのかもしれません。それとも、彼女は自らのステップ・アップに合わせて男もステップ・アップしていったということなのでしょうか?

<本格的映画デビュー>
 1950年、24歳になったマリリンは、大物監督ジョン・ヒューストンの「アスファルト・ジャングル」に出演。初めて俳優として注目を浴びることになりました。この頃から、彼女は俳優として認められるために必要な「知性」を獲得するための努力を本格的に開始します。
 トマス・ウルフ、ジェームス・ジョイス、フロイトから歴史本、詩集、そして演技理論の本まで、彼女はものすごい量の本を読んでいます。さらに演技の質を高めるために、彼女はモルス・カーノフスキーの演技工房やロシアの有名な劇作家チェーホフの甥であるマイケル・チェーホフのもとで演技指導を受けたり、個人的な演技指導者として、ドイツ出身のラターシャ・ライテスを雇うなど、実に真剣に取り組んでいます。
 そんな彼女の努力が報われたのか、しだいに俳優マリリン・モンローは世の注目を集めるようになります。しかし、まだまだお色気映画のお飾り的な存在から抜け出すことはできませんでした。

<アクターズ・スタジオの特別生として>
 1955年、彼女はアクターズ・スタジオへの入学を願い出ます。アクターズ・スタジオと言えば、マーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ポール・ニューマン、モンゴメリー・クリフト、スティーブ・マックィーンら、そうそうたる顔ぶれの俳優たちを輩出した名門俳優養成所です。創設者のリー・ストラスバーグは、ポーランドのユダヤ人ゲットー出身で、子供の頃、両親に連れられてアメリカに渡った人物で偉大な俳優というよりも演劇界、映画界のドンとも言える存在です。彼がコッポラに頼み込まれて出演した「ゴッドファーザーPart2」のマフィアのフィクサー役は、まさにそんな彼の貫禄を活かした適役でした。
 彼が俳優たちに教え込んだリアリズム演技は現在の映画や芝居の重要な基礎となっています。(ちなみにNHKで放映されている「アクターズ・スタジオ・インタビュー」のシリーズは、僕の大のお気に入り番組です)
 残念ながら、アクターズ・スタジオは無名の俳優たちが通う養成所なため、マリリンの入所は許可されませんでした。しかし、熱心なマリリンの願いに折れたストラスバーグは、彼女に個人的に演技指導をすると約束します。
 こうして、彼女の映画撮影にはリー・ストラスバーグの妻ポーラが同行し、演技指導だけでなく彼女の世話役として、たいへんな苦労を背負い込むことになります。
 しかし、ストラスバーグにとっては、彼女を受け入れることでスタジオのイメージ・アップをはかることに成功。それが彼の狙いだったとも言われています。

<アメリカを代表するセックス・シンボルへ>
 1952年、20世紀フォックスを首になり無一文だった時に撮った彼女のヌード写真がカレンダーとして世に出、一躍大きな話題となってしまいます。ところが、このスキャンダルは、マリリン自身が自ら仕掛けたとも言われており、実際彼女は見事大衆のアイドルとなり、知名度は全米規模に広がりました。こうして、彼女は「アメリカのセックス・シンボル」としての地位を手に入れたのです。

<不安感との闘い>
 彼女はこうしてどんどん有名になりましたが、自分の実力に対する疑問は逆に増してきました。そのため、彼女は演技の勉強だけでなく、肉体の鍛錬にも気をつかうようになります。まだ、ジョギング・ブームなどほど遠いこの頃から、彼女は早朝のジョギングを習慣にしていたといいます。しかし、そんな努力だけでは不安感をぬぐい去ることはできず、彼女はしだいに精神的な安らぎを求めるためにアルコールやクスリに走り始めます。
 彼女はアルコールとクスリに溺れるようになりますが、それまで以上に不眠症がひどくなり、夜中に電話をかけまくったり、パーティーで出会った男性と簡単に一時の恋におちるなど、生活はどんどん荒れて行きます。(ただし、彼女は17,18歳の頃から、すでに薬物に依存していたのではないか、という説もあります。彼女の独特のセックス・アピールは、クスリ依存から生まれたのかもしれません)

<ジョー・ディマジオとの出会い>
 この頃、「アメリカのセックス・シンボル」となった彼女に惚れ込み、死ぬまで彼女を愛し続けることになる男が現れます。マリリン・モンローの二人目の夫、ジョー・ディマジオです。
 ジョー・ディマジオと言えば、アメリカの野球界のヒーローとしてベーブ・ルースに匹敵する存在です。(56試合連続安打という記録は特に有名です)1952年、すでに引退していたディマジオは、まだ38歳でおまけに独身でした。彼はある日、野球場でポーズをとるマリリンの写真を雑誌で見て、彼女をディナーに誘います。すると、二人はすぐに親しくなり肉体関係をもつにいたります。どうやら、彼はマリリンの人生において唯一ベッドの上で満足感を与えてくれる人物だったようです。しかし、サンフランシスコ近郊の漁師の家に生まれ、野球しか知らずに育った彼に、彼女が求めていた「知性」を求めることは無理でした。そのうえ、彼は異常なまでに嫉妬深い正確で、彼女に対して暴力を振るうこともたびたびあったようです。(後にマリリンのスカートがふわりと舞い上がる、あの有名な「七年目の浮気」のシーンの撮影中、彼は現場近くで怒りまくっていたそうです)それでも彼の正直さ、真面目さ、そしてしつこいまでのプロポーズに根負けしたのか、マリリンもついに結婚を承諾します。1954年、二人はついに結婚式を挙げ、新婚旅行として日本を訪れました。しかし、この旅行中すでに二人の関係は終わりを向かえようとしており、次なる恋のお相手、アーサー・ミラーとの出会いが訪れようとしていました。

<モンロー・ウォークの秘密>
 1953年公開の彼女の代表作「ナイアガラ」あたりから、彼女の「モンロー・ウォーク」が話題になり始めます。しかし、お尻を揺らす彼女独特のあの歩き方にも、しっかりとした彼女の計算があったようです。彼女はその歩き方のために片方の靴のヒールを4分の1インチ短くし、わざとバランスを崩していたのです。彼女のセクシーさの影には、したたか計算があったのです。

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