- マイルス・デイビス Miles Davis -

<20世紀のポップスを代表する巨人、マイルス・デイビス>
 マイルス・デイビスをジャズの枠組みだけで評価することは、それ自体マイルス・デイビスの音楽を誤解していることになります。彼の音楽は、まさに20世紀ポップスの集大成でもありました。ブルースから生まれ、ジャズへ到り、ロックを生みだし、ヒップ・ホップという新しい音楽を世界に広めたアフロ・アメリカン・サウンド、その歴史をトランペットという楽器とともに生き抜いた男が、マイルス・デイビスというジャズ界出身のアーテイストだったと言えるのかもしれません。では、そんな彼の音楽性は、どうやって生み出されたのでしょうか?

<アフロ・アメリカンであること>

 マイルス・デイビスが、黒人(アフロ・アメリカン)であること。この事実は、彼の生み出した音楽の形成要素として最も重要な位置を占めるものです。
「ユダヤ人はドイツで何が起きたかを、繰り返し世界中に言い続けている。だから黒人も世界に向かって、合衆国で、あるいはジェームス・ボールドウィンがいつか言った”まだ合衆さていない国”で起きたことを語り続けなければならない」

「白人の連中が、多くの黒人の胸の内を本当に知ったら、死にそうになるくらい怖くなるだろう。黒人は公言できる力がないから、日々を過ごすために、マスクを付けて素晴らしい演技を続けているんだ」

 上記の言葉は、いずれもマイルス・デイビスのものです。いかに、彼が黒人であることを意識していたか、そして、黒人の扱いに対するアメリカへの怒りがどれほど大きなものだったかが、良くわかります。
「真剣に考えると、音楽っていうのは実に不思議なものだ。俺にとっての音楽がどこでどう始まったのか、それをはっきりさせるのは不可能だ。だが、あのアーカンサスの道端と、ラジオの「ハーレム・リズムズ」が、何かの始まりだったことは間違いない」

 黒人でなければ聴けない、道端で行われるブルース・マンたちのギター一本のコンサートや黒人専用ラジオ局の番組こそ、多くの黒人アーティストたちにとって、音楽体験の始まりであり、心の奥に潜む黒い音楽の魂の源でした。そして、それはマイルスについても例外ではなかったのです。

<トランペットにこだわり続けたこと>
 マイルスがトランペットを吹き始めたのは、父親の友人の医師から贈り物としてトランペットをもらったことが、きっかけでした。そしてその後、彼はキーボードやピアノをたまに演奏することはあっても、生涯トランペッターとして、ひとつの楽器にこだわり続けました。
「俺のサウンドは人間の声のようだと言われるが、それが俺の望むことでもある」

 彼は、トランペットで歌うアーティストであり(カインド・オブ・ブルーを頂点とする時代)、トランペットでクラシックを奏でるアーティストでもあり(「スケッチ・オブ・スペイン」が代表的な作品)トランペットでエレクトリック・ギターを奏でるアーティストでもあり(「ビッチズ・ブリュー」に代表される時代)、トランペットでストリートに飛び出すアーティストでもありました(ジャズ・ファンクの異色作「オン・ザ・コーナー」や遺作となったファンクの傑作「doo-bop」を生んだ時代)。彼は音楽のジャンルには、まったくこだわりをもたなかったのですが、トランペットによる表現にだけはこだわり続けました。(ある意味、それがマイルスの限界でもありました)

<ジュリアード音楽院で音楽理論を学んだこと>
 彼が、ニューヨークの名門校ジュリアード音楽院で学んだ音楽理論は、後の彼の音楽性を支える重要な柱になりました。(卒業はしていませんが)彼は、その音楽理論を武器に自らのイメージする音楽を、演奏する前に組み上げる能力を身につけました。後はそのイメージにあったミュージシャンを選び、演奏させること、それさえできれば、すでに彼の音楽は出来上がったようなものでした。その意味では、彼の音楽は、けっして行き当たりばったりのアドリブ演奏ではなく、十分に練り上げられ計算しつくされたものだったのです。
「何度も言うが、ジャズ・ミュージシャンの多くは怠け者だ。「勉強しなくていいんだ。天性の才能があるから、楽器を持って吹きさえすればいいんだ」と…」彼は多くのジャズ・ミュージシャンをこう評しました。

<麻薬と女と酒、それに芸術にこだわり続けたこと>
「俺の人生で最高の瞬間は…セックス以外のことだが、それはディズとバードが一緒に演奏しているのを初めて聴いた時だった」

 麻薬と女と酒、彼ほど、この危険な快楽に人生を費やした人間はそうはいないでしょう。もし、そういう人間が他にいたとしても、彼ほど長生きはできなかったでしょうし、彼のような偉業を成し遂げることもできなかったでしょう。実際、彼の仲間たちで、麻薬に関わっていたミュージシャンは、皆彼より先に世を去っています…バド・パウエル、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンス等々。自由奔放、好き放題に生きてきた彼は、当然、最悪の男、最悪の父、最悪の夫、最悪の息子でもありました。しかし、そんな音楽以外の苦悩でさえも、素晴らしい音楽に昇華させてしまうことで、彼は最高のミュージシャンになり得たのです。

<ファンキーであることにこだわり続けたこと>
「ジャズは踊るためにできたものだ。したがって、ジャズを演奏した時に、聞いている人が踊ったり足を動かしたりしたい気分にならないようなら、ジャズの理想とするものから遠ざかっているということだ…」 ディジー・ガレスピー

 マイルスは、ジャズというジャンルへのこだわりはなかったのですが、自らがアフロ・アメリカンであることの証明とも言える「ファンク」へのこだわりについては、非常に重視していました。だから、その時代の最もファンキーな音楽、ファンキーなミュージシャンを常に探していたのです。まだ、20歳にもなっていなかったトニー・ウィリアムスをドラマーとしていち早く採用したのも、そのこだわりからでした。そして、80年代を代表するファンク・ミュージックの天才、プリンスを新しい時代のデューク・エリントンになるだろうと、高く評価しているのも、そのこだわりからでした。スティングの傑作「ブルータートルの夢」で一躍有名になったファンキーなベーシスト、ダリル・ジョ−ンズにも、マイルスはいち早く目を付けています。

<ヒップであることにこだわり続けたこと>
 彼は、ステージ衣装だけでなく普段着や車、それにいっしょに歩く女たちまで、常にヒップ(時代の先を行っていること)であることを望んでいました。それは、当然彼の音楽についても同じであり、だからこそ、彼の音楽は、時代に応じて常に変化を繰り返していたのです。
「だが俺は、古いやつが聴きたかったらレコードを聴いてくれと答える。俺自身は、もうそこにはいないし、彼らのためじゃなく、自分に一番いいように生きなきゃならないからだ」
 彼は、あのジミ・ヘンドリックスとアルバムを共作する予定にもなっていました。もし、ジミがロンドンのホテルで不慮の死を遂げなければ、まさに歴史的なアルバムが制作されていたのです。そして、そのアルバムがきっかけで、マイルスの人生だけでなく音楽の歴史、世界の歴史までもが、変わっていたかもしれません。
 彼は、常にヒップであるために、若い血の導入を恐れず、それを積極的に行っていました。しかし、そのためには、自らの精神を常に若く保つ必要があるだけでなく、それを支える強靱な肉体も必要でしたが、彼はそれを死ぬまで維持し続けました。(ちなみに、彼は水泳と乗馬が好きだったといいます。それとボクシングについても本格的にトレーニングを積んでいました)
「今の俺の、演奏し、音楽を創造したいという切迫感は、演奏し始めた頃よりもすごいものだ。はるかに激しい。呪いみたいなものだ…」
 こうして、彼は死ぬ間際まで、創作意欲を失うことはありませんでした。

<新しい創造の源>
 彼の音楽が常に新しいものへと向かっていったことについて、それは彼自身が誰かの後を追って成長し続けたことの延長だったのではないか、という説もあります。

「ディジー・ガレスピーの回想によると、若いころチャーリー・パーカーのコンボにいたマイルスは、どうしても自分からソロを始めることができず、演奏のたびごとにディジーに口火を切ってもらっていたという。無名時代の挿話であるが、ここにその後のマイルスを予感させるものがある。マイルスはパーカーやコルトレンのように、けっして無の状態から延々とソロを紡ぎ出しうる類の演奏者ではなかった。彼はつねにソロが可能となる文脈に神経を使い、そのために長い序奏を必要としていた。彼が一穴のトランペッターで終わらず、マイルスと呼ばれる音楽的ジャンルの創始者となりえたのには、ひとつはこの才能の欠如が逆に影響している。そう考えてみると興味深い。・・・」
四方田犬彦(著)「音楽のアマチュア」より

<締めのお言葉>
「我々の敵は自己満足である。何かを実際に学ぶまえに、まずそれを取り除かなければならない」 毛沢東

<参考資料>
「マイルス・デイビス自叙伝」 マイルス・デイビス、クインシー・トループ著 中山康樹訳
(宝島社)
「ファンク -人物、歴史そしてワンネス- 」リッキー・ヴィンセント著(BI Press)

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