「マイ・バック・ページ My Back Page ある60年代の物語」
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「傍役グラフィティ」

- 川本三郎 Saburo Kawamoto -

<「傍役グラフィティ」>
 我が家には、大量のレコード、CDに匹敵するぐらい本もあります。しかし、ほとんどの本は一度読んだだけで、本棚にしまわれたまま。そんな中、何度も何度もページを開いた数少ない本のひとつに「傍役グラフィティ」という本があります。その本の副題は「現代アメリカ映画傍役事典」となっています。著者は、映画評論家の川本三郎と真淵哲。(その他にもライターが参加)1977年出版のこの本は、僕の人生に大きな影響を与えてくれました。でもなぜ、アメリカ映画の傍役が僕の人生に影響を与えたのか?
 その本と出会った当時、僕は17歳。映画好きの高校生だった僕は、週末深夜に放映されていたアメリカ映画「真夜中のカウボーイ」「アリスのレストラン」などの映画に魅せられ、ニューシネマの作品群を追っかけ始めた頃でした。その翌年、東京の大学に進学した僕は、都内の様々な駅周辺にある名画座を巡りながら、見られる限りの映画を見て回ったものです。名画座の黄金時代だった当時、僕は年に100本近く見ることができました。もちろん、それらの映画から得た新しいデータは、「傍役グラフィティ」に手書きで追加されています。そして、続編の「女優グラフィティ」ともども、今でも手元に置いてあります。
 そんな僕にとって、アメリカン・ニューシネマの作品に出ていた俳優たちの存在は映画と切っても切れない関係に感じられました。それはなぜかというと、ニューシネマの作品には、ヒーローが存在せず、登場人物は主人公も含めてみなダメな男たち。(注:ニューシネマにはまだ女性の登場人物は少なかったのでここはあえて「ダメ男」としておきます)そんなダメ男たちの群像劇こそ、ニューシネマだったからです。

「・・・いまにして思えば彼女のこの意見は”大発見”だったわけで、アメリカン・ニューシネマは、それまでアメリカ映画のなかでタブーとされていた『泣く男』を堂々と見せることで、新しい男性のイメージを作り上げたのだ。・・・」
以下引用はすべて「マイ・バック・ページ」より

 それでも、そんなダメ男たちなりの美学を芸術の域にまで高めて見せたサム・ペキンパーの「ワイルド・バンチ」やダメ女まで交えて一つの巨大な群像劇映画の世界を確立したロバート・アルトマン「ナッシュビル」などは、僕にとって最高の作品でした。そこには新しい映画のスタイルが生まれつつあったのだと思います。
 子供の頃からテレビの洋画劇場を毎日のように見ていた僕は、いつの間にかアカデミー作品賞を受賞するような完璧な映画に物足りなさを感じるようになっていました。そのぶん、未完成でハッピーエンドとはほど遠いエンディングのニューシネマ作品にひかれるようになっていました。考えてみると、同じ頃に僕が大好きになってしまったロック・ミュージックもまた「未完成」であることを目指す音楽でした。

<「マイ・バック・ページ」との出会い>
 1977年出版の「傍役グラフィティ」を買った時、僕は著者の川本三郎を映画雑誌などで見て知っていました。たぶん好きな評論家だったからこそ、その本を買ったのだと思います。そして、彼の名前は忘れられない存在となりました。しかし、今回彼が1988に発表した「マイ・バック・ページ」を読んでみて驚きました。川本三郎という作家について、何も知らなかったことに驚いたと同時に、愛読書「傍役グラフィティ」という本が、30年以上たった今、違ったものに見えてきたのです。
 考えて見ると、1988年に発表された「マイ・バック・ページ」は、2010年に山下敦弘監督によって映画化されることににならなければ、そなまま廃刊になり、それほど多くの人に世まれることなく、まして僕も読むことがなかっただろうと思います。さらにいうと、21世紀に入り、60年代末から70年代にかけての全共闘の時代がちょっとしたブーム、いや再評価になったこと。そして、その時代が歴史のひとコマとして客観的に語られるほど過去のものになったこと。それらの条件がそろわなければ、もともと映画化も不可能だったはずです。それでもなお、僕がこの本に出会ったことは、もしかすると必然だったのかもしれない。そんな気がしています。
 何せ、川本三郎の「傍役グラフィティ」は、僕の中で生き続け、発展をし続け、僕自身にとっての「20世紀グラフィティ」ともいえるこのサイト「ポップの世紀」へ、そして僕の著作「音魂大全」へとつながっていったのです。実は、このサイトは「20世紀」という巨大な人間ドラマに出演した様々なジャンルの傍役たちを僕なりに選んで作りあげた「20世紀・傍役グラフィティ」でもあるのです。

<川本三郎と僕>
 1944年7月15日に東京で生まれた川本三郎は、内務官僚の父親のもとに生まれた秀才で大学は東大の法学部を卒業しています。
 1969年1月19日、東大安田講堂陥落。この年、著者の川本三郎は「週刊朝日」の記者として働き始めていました。バイトで記者の助手として現場に同行した彼は、学生たちの側に立っていながら何もできないことにもどかしく感じ、その場を去ってしまったそうです。

「今日、あのころのことが回想されるとき、しばしば『60年代にはまだ正義があった』と美化されて語られるが、それはおそらく間違っている。私たちはたしかにベトナム戦争に心の底から反対した。
 しかし同時に、私たちは、安全地帯にいながら戦争に反対することの『正義』にうとましさ、うしろめたさも感じていたのだ。だから『正義』を語れば語るほど、むしろ『沈黙』したと思うようになっていったのだ。『正義』と『沈黙』はほとんど紙一重だった。・・・」


 同じ頃、小学校5年生だった僕は、この安田講堂での攻防をテレビにかじりついて見ていました。当時、担任の先生が大学を卒業したばかりのバリバリ左派で、その影響で僕はすっかり学生たちを応援する側になっていました。(当時の言い方でいうと「コミットしていました」)当時は、僕以外にもそんな小学生は、きっといっぱいいたはずです。
 この年の春休み、僕は東京方面へ母とその友人家族と旅行に出かけ、なぜか安田講堂を見に行きました。親たちが東大を目指してほしかったから連れていったのか?単に名所ツアー的に旬の場所を尋ねたのかはっきりしませんが、とにかく僕にとっては聖地に来たような感慨がありました。
 しかし、この時すでに学生運動の時代を終わろうとしていました。ビートルズも解散し、時代は大きく変り始めていて、幸か不幸か、僕はそんな時代の波に乗り遅れることになります。

「全共闘の学生たちが問題にしたのは何よりもこの自らの加害性だった。体制に加担している自分自身を懐疑し続けることだった。自己処罰、自己否定だった。だからそれは当初から政治的行動というより思想行動だった。なにか具体的な解決策を探る運動というより「お前は誰だ?」という自己懐疑をし続けることが重要だったのだ。質問に答えを見つけることによりつねに質問し続けることが大事だったのだ。だからそれはついにゴールのない永久懐疑の運動だった。現実レベルではあらかじめ敗北が予測された運動だった」

<事件の始まり>

「『非暴力』の者へ!
 要するに次のことを理解してくれたまえ・・・もし暴力が今夜はじめて開始されたもので、かつて地上には搾取も圧制も存在しなかったというならば、あるいは非暴力の看板をかかげて紛争を鎮めることができるかもしれない。ところが、もし体制全体が、そして君たちの非暴力思想までが一千年にわたる圧制によって規定されるならば、受身の態度は君らを圧制者の側につけるだけである」

サルトルとフランツ・ファノンの言葉より

 当時彼が働いていたのは、新聞の部門ではなく、週刊誌など雑誌の部門でした。(「週刊朝日」「朝日ジャーナル」「朝日グラフ」など)記者クラブを通じ取材を行う新聞記者とは異なり、週刊誌の記者は独自の取材を行う分、警察との関わりが少なく、そのため報道に対する規制を受けずらかったといいます。そのため、新聞記者に比べると左派よりの人物が多かったのだそうです。しかし、彼が働き始めた1969年、すでに学生運動は、べ平連(ベトナムにへいわを!しみんれんごう)に代表される穏健派と武器の使用を認める連合赤軍に代表される急進派へと急激に分裂し始めていました。そのため、急進派への取材は一歩間違うと過激派との共闘ととられかねない危険なものとなっていました。
 そうして状況の中、1970年には赤軍派による「よど号ハイジャック事件」が起き、1972年に起きた浅間山荘事件では一般市民を人質に立てこもった学生たちは機動隊員を殺害。その方法の過激さによりシンパを一気に失ってしまいました。さらにその後に起きた「総括(連合赤軍内部の分裂とリンチ殺害事件)」により、完全に彼らは社会から孤立することになります。この時点での彼らは、1960年代までの英雄から、一気に1995年以降のオウム真理教のような存在になっていました。
 小学校を卒業した僕にとっても、それらの事件は衝撃でした。卒業により、それまで絶対的存在だった担任の先生から離れた僕は、急に身も心も自由になり、ほっと肩から力が抜けた感じがしていました。何せ、小学校時代、学級活動で何か失敗をすると、クラス全体による「つるし上げ」が行われるなど、学校では気が休まらない日々が続いていたのですから・・・。新任で研究熱心な担任は、自分が思った実験的な教育方法を実施することで、どれだけ生徒たちがキツイ毎日を送っていたのか理解できずにいました。僕は、いち早くそんなやり方に違和感を覚えるようになっていて、クラスの中でもいち早くシラケ派になっていたように思います。
 その先生が60歳を過ぎ癌でこの世を去ってから、同級生でよく集まるようになっています。そんな時は、必ず当時の話をします。「当時の先生のやり方はひどかった」と言う意見は多いのですが、あれから半世紀近くたって、今ではみんな良い思いでに変わっているようです。僕自身も、「権力は疑ってかかれ!」という先生の教えのおかげで、今でもこうして時代を描こうと、悪戦苦闘し続けているのですから・・・。本当に感謝です。
 そうそう、その先生がある日、面白い映画を見たぞ!といって教えてくれたのいが、ニューシネマの傑作の一つ「バニシング・ポイント」でした!

「学生たちの中には、粛正の名のもとに、山中で殺しあった者もいた。また、打倒すべき資本主義を研究しすぎたあまり、その最良の幹部となった者もいる。他の運動と同じくここにも陰謀家もいれば出世主義者もいたのだ。しかしこの運動は、チェ・ゲバラのいうように『ただ一つの不正にも身を震わす』という人々すべてを立ち上がらせたのだ。この優しさは、彼らの政治行為そのものよりも長い生命を持つことだろう。だから、二十歳は一番美しい季節ではない、などとは、僕はけっしていわせない」
映画「サン・ソレイユ」より

<朝霞自衛官殺害事件>
 「マイ・バック・ページ」で描かれている事件「朝霞自衛官刺殺事件」は、1971年に彼が、反政府テロ組織に関わるKという人物(後にこの人物の本名は菊井良治であることがわかります)と出会ったことから始まります。栃木県の真岡市で起きた過激派による鉄砲店襲撃事件。その犯人グループの一人と名乗るKから独占インタビューを受けてもいいと連絡をとってきたのがきっかけでした。そのインタビューの際、Kが宮沢賢治とCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)のファンであることを知った彼(川本三郎)は、その人柄からKを信じることにします。しかし、Kが本当に襲撃グループのメンバーかどうかは証明できず、狂言であることも考えられたことから、この取材結果はお蔵入りになります。しかし、その翌年、再び彼はKからの連絡を受け、もう一度インタビューを行うことになります。それがこの殺人事件に関するものでした。
 彼がKの言葉を信用したのは、彼の中に自分と共通する信じるに値する何かを感じたからなのでしょう。そして、それは当時の社会状況ではそれほど不思議なことではなかったといえます。そのことを理解できないと、この事件も理解できないかもしれません。

「いまにして思うと、こういう過激な行動への傾斜は、”世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯にいて平和に暮らしているのは耐えきれない”という、うしろめたさに衝き上げられた焦燥感が生んだものではなかっただろうか。”彼らは生きるか死ぬかの危険に直面している。それなのに自分は平和のなかにいる”。この負い目を断ち切るには自ら過激な行動にダイビングするしかない・・・。」

 朝霞自衛隊基地の襲撃を予め予告していたことから、彼が犯人であると信じた川本は、独占インタビューに応じます。しかし、それは殺人犯を知りながら警察に通報しないということであり、場合によっては犯人を隠蔽し逃亡を助けたととられる可能性もあります。一応は社の上司から許可を得たものの、あまりに危険な賭けでした。
 Kは本当に犯人なのか?彼の背後に仲間はいないのか?何のための殺人事件だったのか?単なる虚言壁の単独犯ではないのか?赤軍派の新グループの誕生だったのか?
 そうして、悩みながらも彼は犯人から証拠となる自衛官の腕章などをあずかります。それが後に彼をさらなる危機へと追い込むことになるのですが、・・・。

<現実とは小説よりも情けない>
 結局、彼が行ったインタビューは記事になることはありませんでした。それどころか、逮捕されたKは協力者として川本の名前だしてしまいます。警察に証言を求められた彼が記者としてのモラルを守るためにKについての証言を拒んだことはなんの意味もなくなりました。こうして、彼は国家権力に屈し、記者としてのモラルを捨て、すべてを自白することになりました。それは彼にとって屈辱的な敗北でした。
 現実にはドラマや映画のように英雄は登場しないもの。ほとんどの場合、どこかで人は挫折してしまい、そんなダメな人間たちのドラマが時代を作っているのです。そんな主人公やまわりの人々のダメ人間ぶりを正直に描ききった著者の勇気に拍手を送りたいと思います。そして、そのダメ人間ぶりこそが、この作品の魅力といえるのです。その後、執行猶予つきの有罪となった彼は朝日新聞を解雇されてしまいます。

「・・・だんだん他人と会うことが嫌になってしまった。いろんなことから逃れるために毎日のように東京の知らない町を歩いた。墨東や江東の裏通りを歩いた。逃げるようにして場末の映画館でアメリカのB級映画を見続けた。・・・」

 この部分を読んで、あっと思いました。そうか、この時に見たB級アメリカ映画の登場人物たちこそが、あの「傍役グラフィティ」に描かれることになったんだ!
 改めて調べて見ると、川本三郎にとって、1977年発表の「傍役グラフィティ」は処女作品でした。まさにこの本は、評論家川本三郎の原点だったのです。本人はどれだけ意識しているかはわかりませんが、僕にとって34年の時を経て出会った二冊の本は明らかに深いところでつながっているように思えました。
 そして、久しぶりに1970年代の懐かしく熱い日々のことを思い出すことができたことに感謝したいと思います。

「愛するということが、もし幻想を抱かずに愛するということなら、僕は、あの世代を愛したといえる。彼らのユートピアには感心しなかったが、しかし、彼らは何よりもまず叫びを、原初の叫びを上げたのだった」

<参考>太字の引用はすべて下記の「マイ・バック・ページ」からです!
「マイ・バック・ページ My Back Page ある60年代の物語」 1988年(初版)2010年(改訂版)
川本三郎(著)
平凡社

「傍役グラフィティ」 現代アメリカ映画傍役事典 1977年
川本三郎、真淵哲(共著)
ブロンズ社

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