- ネルソン・マンデラ Nelson Mandela (前編) -

<20世紀を代表する英雄>
 20世紀の世界史を振り返る中で、ネルソン・マンデラの名前をはずすわけには行きません。遅ればせながら、やっとこのサイトでも取り上げることができました。(2011年2月)光栄です。
 有名とはいっても、2010年のワールドカップ・サッカー南アフリカ大会、映画「インビクタス 負けざる者たち」でも描かれていたラグビーのワールドカップ南アフリカ大会などによって、初めて彼の名前を聞いたという方もいるかもしれません。とはいえ、彼の名前は、将来、ガンジーキング牧師らと並び称される存在となるでしょう。さらに注目すべき点は、ガンジーもキング牧師も、偉大な社会改革者ではあっても、志半ばにしてこの世を去っていますが、マンデラは改革の後、その流れを軌道に乗せるところまで関わり続けました。この違いは非常に重要だと思います。(大統領として5年間。1999年まで)20世紀の歴史において、革命や社会改革、クーデターは何度となく起きています。しかし、その大きな変革が国家全体を変えただけでなく、隅々にまで浸透し、国家を安定させるところまでいった例はそれほど多くはありません。チェ・ゲバラは偉大な革命家でしたが、革命の後、キューバの舵をとり続け、21世紀まで平和な状態で維持し続けた最高指導者のフィデル・カストロは、それ以上に偉大な革命家いや政治家なのかもしれません。混沌とした国の状況を安定させ、発展に導くことはいかに難しいことか、それは歴史が証明しています。
 彼の波乱に満ちた人生を知ると、映画「インビクタス」におけるネルソン・マンデラの仕事がいかに大変なことだったかがわかると同時に、彼だからこそ南アフリカのラグビー代表チームが、一丸となって戦うことができたのだということが良くわかるでしょう。なにせ、「インビクタス」で描かれているエピソードは、彼が体験した苦難の人生における後日談程度のものなのですから。
 ここでは彼の人生を、時代を追いながら南アフリカの歴史とからめて書いてみたいと思います。参考にしたのは、上下二冊にわたる分厚い彼の自伝「自由へ長い道」です。もちろんここで取り上げたのは、その中のごくごく一部にすぎませんが、意外に知られていない彼の人生について少しでも知っていただければと思います。

<誕生>
 1918年7月18日、ネルソン・マンデラ Nelson Mandela は南アフリカの中東部トランスカイ自治区の小さな村ムヴェゾに生まれました。父親のガドラ・ヘンリー・ムパカニスワは、ムヴェゾの首長で、コーサ族に属するテンプ部族のマディバ氏族、その中の王族の血筋に属する名門家系の出身でした。この時、父親は彼に「ロリシュラ・シュラ」という名前を与えましたが、それはコーサ語で「トラブルメーカー」を意味するといいます。そして、後に彼の愛称が「マディバ」となるのは、その部族の名前からきています。(その後も、彼には様々な名前が与えられることになります。まだこの時彼にはネルソン・マンデラという名前はありませんでした)

 この年、後に彼が所属することになるアフリカ民族会議(ANC)の代表団が第一次世界大戦終結のためのヴェルサイユ講和会議に出席。いち早くアフリカの現状を訴えています。この時、彼らの訴えはまったく無視されてしまいましたが、ANCという組織は、1912年に設立されたアフリカにおける民族解放運動の先駆けともいえる組織としてすでに活動を始めていました。

 彼がまだ小さかった頃、父親は白人の行政官にさからったことから、首長の座を奪われ、家族ともども住む場所すら失ってしまいました。それでも家族が移住した田舎の村クヌでの彼の生活は自然の中での自由なものでした。周りが黒人ばかりだったこともあり、白人による差別を実感することのない、ある意味幸福なものだったようです。当時、彼の母親がメソジスト系のクリスチャンだったことから、彼も教会に通うようになりクリスチャンになりました。成績優秀だった彼は家族の中で初めて英国式の学校に通うことになり、学校の先生にネルソンという名前をもらいます。(たぶんイギリスの有名な軍人ネルソン提督からきているのでしょう)

<父親の死>
 1927年、父親が急病でこの世を去ります。しかし、テンブ族の摂政ジョンギンタバ・ダリンディエボが彼の後継人となり、ムケケズウェニという村で彼は暮らすことになります。テンブ族の摂政のもとで育つことで、彼はそこで行われていた部族会議を体験。その会議が部族の誰もが参加できる民主的で公平なものだったことは、彼に大きな影響を与えることになりました。さらに、そこで彼は自分の部族の歴史だけでなく南アフリカ全体の歴史についても学ぶことができました。

 1934年、16歳になった彼は割礼を受け、「ダリブンガ」という新たな名前を与えられます。その名前の意味は「ブンガの創設者」という意味でした。ここでいう「ブンガ」とは、トランスカイ地方に昔から存在する統治機関の名前でした。この割礼式の式典でコーサ族の首長メリグリキは、若者たちにこう述べています。

「ここに息子たちがいる。若くて、健やかで、美しい、コーサ族の華、わが民族の誇りである。この息子らは今、割礼の儀式を終え、成人の契りを得た。だが、ほんとうのことを言おう。それは意味の無い幻の契り、けっして実を結ぶことのない契りである。なぜなら、われわれコーサ族は、そして、すべての黒い肌をした南アフリカ人は、征服された民だからだ。われわれは自らの国で奴隷となった。自らの田畑の小作人となった。・・・・・」

 この言葉の意味を当初彼は理解できませんでした。しかし、後に彼はその重い意味に気づかされることになります。

<学生時代>
 1939年、メソジスト派の高校ヒールタウンを卒業後、やはりミッション系のフォートヘア大学に入学。そこで英語、人類学、政治学、ローマ・オランダ法、原住民行政(黒人向けの政策を担当する原住民問題省で働くために必要な科目)などを学び、将来は原住民問題省の通訳か事務官になるつもりだったようです。その仕事は、黒人がつける仕事としては当時もっとも高い地位と考えられていました。
 しかし、勉強に励む一方、彼は上級生からの理不尽ないじめや古い慣習に反発し、学校内での改革運動を主導。この活動は彼にとって最初の政治的活動となりました。ちなみに、当時彼が熱中した課外活動は他にサッカー、クロスカントリー、演劇などでした。

<政治活動へ>
 1940年、彼は学校でアフリカ民族会議(ANC)のメンバーだったニャティ・コンギサと親しくなります。彼はそれまで知らなかったANCという組織について初めて知ることになりました。しかし、大学内の改革運動の先頭に立ったことから、退学させられてしまいます。
 ところが、実家に戻った彼は、学校側に頭を下げて復学するように養父に命令されます。さらに彼は摂政の後継者である従兄弟とともに無理やり結婚させられることになってしまいます。養父とはいえその理不尽なやり方に耐えかねた二人は、家出をしてジョハネスバーグ(ヨハネスバーグ)の金鉱山で働き始めましたが、養父に見つかり、再び逃亡。ジョハネスバーグの貧民街にもぐこみ、自らの能力を生かして、白人の弁護士事務所で働きながら弁護士資格をとることになります。その事務所には白人、黒人様々な人々が働いており、そこで彼は白人の実習生ナット・ブレグマンから共産主義について学ぶことになりました。

<実修生生活>
 当時の実修生生活は、給料も安く食べるのものままならない厳しいものでした。そのため、彼が住んでいたのは家賃が安い、アレクサンドラという地域でしたが、そこは別名「ダークシティー」と呼ばれる危険地帯でもありました。強盗や殺人など犯罪事件が多発するその地域での生活は、命の危険を毎日感じるものでしたが、逆にそこは白人による支配が及ばない自由な地域でもありました。そこでは様々な部族出身の人々が暮らし、それまで対立関係にあった部族間の融合が進むことで南アフリカ人としての意識が高まり、白人政権に対する政治意識も高まりつつありました。そこはアメリカ、ニューヨークにおいての「ハーレム」的存在だったといえます。

 1942年、彼は家賃を節約するため、その地域の労働者募集機関WNLA(ウィットウォーターズランド原住民労働協会)の本部に住まわせてもらうことになります。そのおかげで、彼はそこを訪れる様々な部族の首長と出会うことになり、そのおかげで自分がいかに南アフリカの人種問題に無知であるかを知ることとなります。白人政権による人種分離政策が、いかに他の民族のことを誤解させ、対立させることになるのかを思い知らされることになりました。
 彼が勤める法律事務所で働く同僚ガウル・ラデベと親しくなり、彼が所属していた民族組織ANCについて詳しく知ることになりました。彼はその後ANCのメンバーとなり、すぐにその中心的存在になります。
 1943年、弁護士資格をとるためウィットウォーターズランド大学(略称ウィッツ)に入学。そこは南アフリカにおける最高峰の英語系大学として知られていましたが、黒人学生は珍しく、彼は法学部唯一の黒人学生でした。そうした環境は彼にとって大きなプレッシャーとなりましたが、逆に彼はそこで多くの異なる人種の友人を獲得することになります。

「”ウィッツ”は新しい世界を、理念と政治的信条と討論の世界、政治に人が情熱を燃やす世界、政治に人が情熱を燃やす世界を、わたしに開いてくれた。わたしの周りに集まった白人やインド人たちは、その後の数年間、最も重要な政治運動の前衛を務めることになる知識人だった。恵まれた立場にありながら、抑圧された人々のためにみずからを犠牲にしようとしているのだ。わたしははじめて、同じ年代の仲間たちが解放闘争に向けてしっかり手を組んでいることを知った。」

<ANCのメンバーとして>
 1944年、ANCのメンバーとなった彼は仲間たちとともにANC青年同盟、その後南アフリカにおける民族解放運動の中心となる組織を設立し、本格的な反政府活動を開始します。

「現代の歴史は、民族主義の歴史である。人民闘争や戦火の試練をくぐり抜けた民族主義は、外国による支配や現代帝国主義に対する唯一の解毒剤としての地位を確立した。それゆえに、巨大な帝国主義勢力は、被支配者のあいだに見られる民族主義的傾向を抑えつけ、かつ根絶することに全力を傾けている。そして、この目的のために、莫大な金額を投じて、民族主義が”偏狭”で”野蛮”で”非文化的”で”呪わしい”ものだという宣伝工作を繰り広げてきた。被支配者のなかには、この邪悪な宣伝を信じ込まされ、あげくは帝国主義の手先や道具となって、大いに貢献させられる者もいる。その人々は、”文化的”で”リベラル”で”進歩的”で”偏見がない”と、帝国主義者たちの賛辞を浴びることになるのである。」
アントン・レンベデ(ANCの中心人物がアフリカ人向けの新聞「インクンドラ・ヤ・バンツー」に書いた文章より)

 1946年、南アフリカの歴史上最大規模のストライキが鉱山で行われました。この時、警察の発砲により鉱山労働者12人が死亡する惨事となりました。同じ年、「アジア人土地保有法」が制定され、インド人の国内移動、移住、通商、不動産購入に厳しい制限がもうけられることになりました。これに対し、南ア在住のインド人は二年間に渡る非暴力的な抵抗運動を展開します。かつて若かりしガンジーが南アフリカに住んでいた時代にも行われた反政府運動が再現され、学生や主婦、子供までもが参加する素晴らしい団結ぶりは、マンデラに大きな影響を与えることになります。

 1947年、ANC青年同盟のトップだったレンベデが病死。ピーター・ムダが後継者となります。レンベデの過激な民族主義に比べ、人種的偏見の少ないムダの影響で、ANCに白人やインド人など他の人種も参加することが可能になり、運動はより広範なものへと変化し始めます。

<アパルトヘイトの始まり>
 1948年、総選挙でイギリス系中心の与党である連合党が、オランダ系(アフリカーンス)中心の右派国民党に敗れます。オランダ改革派教会の元牧師であり新聞編集人のダニエル・マラン博士率いる国民党は、新たな改革案として「アパルトヘイト」をスローガンとする政権を発足させます。
 オランダからの移民の子孫たち「アフリカーナー」は、神に選ばれ黒人を支配する役目を与えられているというのが、オランダ改革派教会の基本思想でした。彼らが政権を握ったことで、あの有名な「アパルトヘイト」の時代が始まることになります。
 アパルトヘイトによって、南アフリカ国内にはアフリカ人のために黒人国(ホームランド)がつくられました。この政策によって、彼らは名目的には独立したことになったといえます。ところが、白人主導の政府はホームランドからの黒人たちの出稼ぎによって、経済を成り立たせるので、経済構造としてはそれまでとは変わりませんでした。そのうえ、そうした出稼ぎの黒人たちは、「法律的な異国」で働くがゆえに選挙権も市民権も与えられないことになります。なんとも都合の良い上手いシステムを考え出したものです!
 ただし、南アフリカの経済構造が農業中心から工業中心へと変化し始めることで経済が近代化。さらに国全体の国際化も進み、上記のシステム自体が時代遅れとなってゆきます。

[アフリカーナーの歴史]
 南アフリカの白人人口は550万人。そのうち、保守的なオランダ系の「アフリカーナー」は300万人で、その中心となっているのは農民、軍人、官僚です。それに対して、イギリス系の白人は200万人で、彼らの多くは経済界で活躍しています。簡単に「アフリカーナー」の歴史を振り返ると・・・・・。
 1899年から1902年、ボーア戦争においてイギリスに敗れたことで、それまで南アフリカを支配していたオランダからの移民たち「アフリカーナー」の時代は終わりました。それ以来、南アフリカは英連邦の一つとなります。ところが、1948年にアフリカーナー中心の国民党が選挙で勝利をおさめ、南アフリカは1961年に英連邦を離脱します。しかし、イギリスによる支配からは逃れたものの、時代は民族独立のブームが広がりつつあり、アフリカ各国ではアフリカ系住民による独立運動が活発化していました。次々とアフリカ人たちは自分たちの国を独立させており、彼らの独立運動を共産圏の国々が支援することで、アフリカには共産主義国家が次々に誕生するという動きも広がっていました。そうした流れが自国にも及ぶことを恐れた国民党政権は、その方法として「アパルトヘイト」という政治手法を生み出したと言われています。

<闘争の始まり>
 「アパルトヘイト」政策を打ち出した政府に対し、ANCも歴史的な政策転換を選択します。それは外部の組織を巻き込んだ大衆運動により政府に対抗する道へと歩みだすことでした。
 1950年、こうして「言論の自由を守る会議」が開催されます。この会議に参加したのは、ANCとインド人会議、アフリカ人民機構、共産党地区委員会など様々な組織でした。さらに、6月26日には「国民抗議の日」としてANC主催による南アフリカ初の全国規模の政治ストライキが行われ、無事に成功します。

 1952年、不平等な法律を廃止させるため、全国的な不服従運動が実行されます。この時、すでに暴力を用いたデモも提案されていましたが、この時点では「非暴力」を貫くべきという意見が多数を占めていました。そこで、参加者は「白人専用入り口から駅に入る」、「白人居住区に侵入する」、「夜11時を過ぎて外出する」など、アパルトヘイト政策の禁止事項をあえて無視することでわざと警察に逮捕され、抗議の姿勢を示しました。これにより全国で250人以上が逮捕されることになりました。
 7月30日、抗議運動がピークに達した頃、彼は20人の仲間とともに逮捕されます。この時様々なグループのリーダーが逮捕され、全員が同時に裁判にかけられることになりました。結局、この時の判決は、全員が共産主義弾圧法の適用によって有罪となりますが、実刑とはならず執行猶予が与えられました。
 これらの抗議活動は、実質的な成果を生み出すことはできませんでしたが、ANCの知名度は一気に上がり会員数は10万人を越えました。さらに、多くのメンバーが刑務所に自ら入ったことで、刑務所に入ることは名誉であるという考え方が広まり、誰もが逮捕を恐れることなく活動するとこが可能になり、運動のモチベーションが上がることにもなりました。
 この頃、マンデラはANCの副議長に就任。ANCが近い将来、政府によって非合法組織とした弾圧を受けることになると予測した彼は、組織が地下に潜っても活動を続けられるよう組織の再編成に向けた準備を始めることを提案しています。この計画は、発案者の名前をとってM計画と名づけられました。
 この年の8月、彼は後に彼と同じようにANCの指導的人物となるオリバー・タンボとともに法律事務所を設立。ジョハネスバーグの中心部に、南アフリカでは初めてアフリカ人弁護士だけからなるマンデラ&タンボ法律事務所がスタートしました。

<進むアパルトヘイトの強化>
 1953年、南アフリカ政府が西部地域移転計画を発表。それは6万人から10万人のアフリカ人を市街地から20キロ離れたメドーランドの土地に人種ごと移住させようという計画でした。さらに政府は、ANCに対し従来とはことなる方法で締め付けを始めます。それは政府が作った「共産主義弾圧法」をANCにも適用することでした。マンデラは、この法律の適用により、ANCからの脱退、行動範囲の制限などの命令を受けます。さらにこの法律により、新聞はANCの見解を載せることができなくなり、印刷会社もANCの印刷物を作ることができなくなり、集会を行うことも困難になりました。(たとえ共産主義者の集まりでなくても、共産主義思想をもつ団体と指定されれば、どんな団体も政府の取り締まり対象になるということです)
 この年、学校教育などアフリカ人への教育を管轄する部署が教育省から原住民問題省へと移管されました。これにより、事実上アフリカ人への教育は政府が直接行うことになり、それまで私立学校や教会によって行われていた平等な教育は不可能になります。(助成金の打ち切りなどにより、運営が厳しくなるのは明らかでした)さらに学校では、「アフリカーンス語」が公用語となり、アフリカ人たちの言語は使用禁止となります。「バンツー教育法」と呼ばれたこの法律に反発し、ANCは学校に対するボイコット運動を実施。独自の教育組織を立ち上げるなどしますが、長続きさせられず失敗に終わります。しかし、「バンツー教育法」の元で育てられた子供たち、そこからはみ出した子供たちは、その後政府への反発心を強く持ち続けることになり、彼らは新たな反政府活動の担い手となってゆきます。

<「自由の憲章」誕生>
 1955年6月25、26日、ANCの呼びかけにより、様々な組織、団体が参加する人民会議が開催されました。(白人の団体も参加)この会議は新しい南アフリカの土台となる原則を作り上げることが目的でした。
「自分で法律を作れるとしたら・・・あなたはどうしますか?」
「南アフリカを国民みんなにとって住みやすい国にするために、あなたならどうしますか?」
 こうした呼びかけのもと、国中にチラシがまかれ「自由の憲章」のためのアイデアが募集されました。素晴らしい理念のもとで開催されたこの会議は、残念ながら警察によって途中で解散させられてしまいますが、「自由の憲章」は無事に完成します。

「自由の憲章」前文より
「われわれ南アフリカ国民は、わが国と世界のすべての人々に、以下のことを宣言する。
 南アフリカは、黒人と白人とのべつを問わず、そこに住むすべての人間のものであり、いかなる政府も、国民の意思にもとづくものでない限り、権力の行使を正当化されない。
 われわれ国民は、不正と不平等を奉ずる政府により、土地、自由、平和に関する生まれながらの権利を奪われ続けてきた。
 わが国は、すべての国民が同胞となり、権利と機会の平等を与えられる日が来るまで、繁栄と自由を得ることができないだろう。
 国民の意思にもとづく民主的な国家だけが、肌の色、人種、性別、信条による差別なく、国民の生まれながらの権利を保証することができる。ゆえに、われわれ南アフリカ国民は、黒人も白人もともに、対等な同国人、同胞として、この”自由の憲章”を採択する。そして、われわれは、ここに掲げた民主的改革を勝ち取る日まで、力と勇気の及ぶ限り、ともに闘い抜くことを誓うものである。」


 さらにそこで自由な南アフリカへの必要条件として以下のような項目があげられています。
(1)「国民が統括しなくてはならない!」
 すべての男女は、すべての立法機関への選挙権と被選挙権を持たなくてはならない。
 すべての国民は、国家の運営に参加する資格を与えられなくてはならない。
 国民ひとりひとりの権利は、人種、肌の色、性別に関わりなく平等である。
 少数支配のすべての機関、諮問委員会、評議会、官庁は、民主的な自治組織に置き換えられなくてはならない。
(2)「すべての民族集団は平等な権利を持たなくてはならない!」
 国の機関、裁判所、学校などでは、すべての人種、民族集団に平等の地位が与えられなくてはならない。
 すべての民族集団は、その属する人種を、また民族の誇りを傷つけられることがないよう、法によって守られなくてはならない。
 すべての国民は、それぞれ固有の言語を使用し、固有の民族文化と慣習を発展させる平等の権利を持たなくてはならない。
 民族、人種、肌の色のちがいによる差別や侮蔑をなくし、それを実行することを犯罪として罰しなくてはならない。
 アパルトヘイトの法律と慣行は、すべて廃止されなくてはならない。
(3)「国民が国の富を分け合わなくてはならない!」
 わが国の富とすべての南アフリカの遺産は、国民に還元されなくてはならない。
 地下の鉱物資源、銀行、独占企業は、国民全体の所有に移されなくてはならない。その他すべての産業と貿易は、国民の福利に役立つよう管理されなくてはならない。
 すべての国民は、みずから選んだ場所で営業し、生産に従事し、あらゆる職業に就く平等な権利を与えられなくてはならない。
 (この項目と次の項目は共産主義的な考え方でもあり、それが反共団体から批判されることにもまります)
(4)「土地は耕す者に分け与えられるなくたはならない!」
 人種にもとづく土地の所有制限を撤廃し、また、飢えと奪い合いをなくすため、すべての土地はそこに耕す者に再配分されなくてはならない。

 この年、バンツースタン制度導入に向けた動きが明らかになります。バンツースタンとは、アフリカ人の種族ごとの居留地、ホームランドを意味します。「アフリカ人は居留地の中でそれぞれ自立し、自らの力で発展するべき」という考え方に基づいたものです。
 広大な土地を種族ごとに住めるよう分割し、そこに移住させるという計画(大アパルトヘイト)は、その理念だけを聞くと素晴らしいようにも聞こえます。しかし、その政策が行おうとしていたのは、300万人の白人が住む87%の土地は固定したままで、800万人の黒人をわずか13%の土地に押し込めることでした。

 1956年12月5日、彼は反逆罪で逮捕されます。この日は、彼と同じように全国で156人の仲間が逮捕されました。しかし、このおかげでジョハネスバーグ刑務所には、彼を含め様々な部族や考え方のグループの指導者たちが収監されることになり、反政府活動グループの全国大会的な様相を呈することになりました。
 さらにこの年、彼は「エホバの証人」に入信し異なる方向に歩み出した妻と意見が合わなくなり離婚に至ります。しかし、同じ頃、黒人初のソーシャルワーカーとして活躍していた女性ウィニーと出会い、二人は1958年には結婚にいたります。

 1957年、政府は女性にも身分証明のためのパスを携帯することを義務づけます。それに対し女性たちの間から抗議活動が起きます。そして、パスの交付所を占拠した女性たちが数百人逮捕されるという事件が起きました。

 1959年、ANCに対立するアフリカ人の政治組織として、より過激な思想をもつパンアフリカニスト会議(PAC)が設立されます。議長のロバート・ソブクウェは「アフリカ人のアフリカ人によるアフリカ人のための政府」を目指すと主張。そのため、彼らは白人だけでなくインド人などの有色人種をも排斥し、その後はANCに反発し続けます。

<暴力闘争の時代始まる>
 1959年、政府によってバンツー自治促進法が採択されます。それに対して、国内各地で反対デモが大規模に行われました。3月21日、それらの運動の中、PACが主催したシャープビルでのデモ行進において、数千人のデモ隊に対し、警官隊が発泡する事件が起きました。混乱の中、デモ参加者69人が死亡し、400人以上が怪我をするという大惨事となりました。この事件は悲惨な事件として語り継がれることになりましたが、それまで無名の存在だったPACの名前を国内に一躍広めることにもなりました。これにより、より民族主義的な活動が活発化することになり、運動は分裂し始めることになってゆきます。

 同じ頃、反逆罪で逮捕されていた、マンデラを含む29人の弁護をマンデラが自ら弁護することを選択します。

 1960年、政府は、民主的な対応では反政府活動を押さえ込むことが困難と考え、ついにANCとPACを非合法組織に指定します。これにより、彼らの活動は法的に規制を受けることになりました。

 1961年3月29日、反逆罪についての裁判は全員無罪となります。これは、白人でありながら人種的な偏見をもたずに公平な判断を下した裁判官たちの優れた裁定によるものでした。三権分立が基本となる民主的なイギリスの司法制度は、その伝統を受け継ぐ南アフリカでも十分に機能していたといえるでしょう。ただし、その結果、政府がANCに対し、より厳しい対抗措置を取ることが予想されたため、釈放されたマンデラは地下に潜り、反政府活動を続けることになります。そして、非暴力路線の継続もまた困難になるとして、暴力闘争のための組織作りを開始します。
 こうして、ANCとは別の組織「ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)」(略称MK)が誕生することになります。

 ANCがパンアフリカ自由運動の会議に招待されたため、彼は密出国して会議の開催地であるアジスアベバに向かいます。さらに彼はアフリカ各地を回り、運動のための支援を得るため交渉を行い、その後エチオピアに戻って自らエチオピア軍の指導者から軍事訓練を受けました。
 そして、再びジョハネスバーグへと帰還しますが、そこで彼は再び逮捕され、そこから長い長い刑務所での生活が始まることになります。しかし、それが30年近い長さになろうとは、誰も思わなかったのではないでしょうか。

後編へ続く

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