「さよなら、ニッポン ニッポンの小説2」

- 高橋源一郎 Genichiro Takahashi -

<文学の新たな師匠>
 小説家、高橋源一郎の作品は、1981年に彼がデビューした当時、うちの弟に薦められて読みました。その後、僕の大好きな「詩のボクシング」の司会を彼が担当していたこともあり、タレントとしても好きな方です。しかし、文芸評論家としての作品を読むことはなかったので、「一億三千万人のための小説教室」を読んでやっと彼の仕事の価値を知りました。遅くてすいませんでした。そんなわけで、その後、彼の評論作品「ニッポンの小説 百年の孤独」とその影響のもとに書かれた久々の少年小説「悪と戦う」も読ませてもらい、ますます高橋源一郎ファンになってしまいました。
 文学のジャンルとしては、カート・ヴォネガット村上春樹村上龍に継ぐマイ・ブームといえるかもしれません。おかげさまで、「小説とは何か?」とか「近代小説の歴史」や「小説構造の変遷」について、初めてちゃんと学ぶことができました。大学で物理学を勉強していた僕としては、「文学の歴史」は実に新鮮でした。そんなわけで、このサイトの文学ジャンルは今後きっとさらに充実すると思います。

<小説の読み方>
 ここで取上げる「さよならニッポン ニッポンの小説2」の中で、高橋師匠は自分の本の読み方について、こんな風に書いています。

 ぼくは、小説を読みながら、重要な個所、後で考えたいところに、傍線を引張る。時には、なぜか理由もわからないまま、傍線を引張ることもある。時には、傍線を引張ることに夢中になりすぎて、どんな小説だったのか、わからなくなることもある。
 引張り終わってから、傍線を引いたところばかり、チェックする。
 読後の点検だ。
 すると、その小説の全体像が、不意に、ホログラフィーみたいに、浮かび上がってくる。だいたいは、そうだ。


 わー!師匠、僕も同じ読み方をしています。ただし、図書館から借りて本を読むこともあるので、そういう場合は、いらなくなった紙を「蹴りたい背中」の主人公のように細く切り、それをしおりにして挟みながら読んでいます。それで読後に、そのページを読み返しながら、その中の気になる部分を専用ノートに書き写してゆきます。(ここは手書き)その後、それらの文書をもう一度読み返しながら、分類したり、順番を変えたり、注釈を加えたりしてゆきます。そこまでやると、なんとなくその本をどう紹介するべきかという具体像がなんとなく見えてくるといった感じでしょうか。
 もちろん、どの部分を僕が選ぶかは、個人的な趣味の問題になるので、けっして客観的な分析でも評価でもありません。そのへんはご了承下さい。そうそう、この点についても師匠はこう書いています。

・・・なにかある小説(作品)について論じようとする者は、誰でも、自分の意見を正当化しようと考える。その時、誰でもやってしまうのが、自分の意見を証明してくれるような個所を引用することだ。逆にいうなら、自分の意見を否定するような個所は、なかなか引用してくれない、ということだ。だから、ある小説について書かれたものの中に出てくる引用は、信用してはいけないのである。
 だとするなら、全文を引用するしかない。・・・


 師曰く、「小説」について語るなら、その「小説」を全文引用し、そのすべてについて「読み」、さらにその結果を用いて「小説」を書く。ここまでやって初めて「評論」といえるのだそうです。まあ、師匠自身、それは無理に決まっているけどね・・・としていますけど・・・。

 小説というものは、読まれるだけではダメだ(詩も、音楽も、映画も、みんなそう)。語られることによって、得られるものがあるのだ。時には、その小説を読むより、その小説について語り合うことの方が大切な場合だってある。

 完璧に語りつくすことよりも、「小説」について語り合うことにこそ価値がある。このことに僕も重きを置いて、あえて不十分ながらも、沢山の引用から構成されているこの本から、さらに僕が引用するという無謀な企てを行おうと思います。
 もちろん、僕に高橋師匠以上の評論が書けるわけはありません。ただ、師匠のお言葉を僕が考えた項目にそって並べ替えつつ、解説を加えることならできそうです。どんな項目かというと・・・。
<小説とは何か?><近代小説とは何か?><近代小説を生んだ社会とは?><近代小説の限界とは?><近代小説を越える小説とは?>
 小説が好きな人、小説家になりたい人には、きっと刺激になるはずです。

<小説とは何か?>
 いきなり解答から始まるみたいかもしれませんが、高橋師匠による「小説とは何ぞや」を先ずは掲げておきましょう。

 「ことば」を武器に(でも、決して、完全には信用せず)、未知の光景を探そうとする行いを、ぼくは「小説」と秘かに呼んでいる。

 「秘かに呼んでいる」というぐらいですから、それは誰もが認める「小説の定義」ではないのかもしれません。さらに師匠は「小説」とは、読ませるだけではなく、そこから先へ読者を進ませるものでなければならない、とも書いています。

 小説は、「通常の思考のやり方を逃れ、通常の生活をしているときにはありえない状況を作り出」す。しかし、そこには、伝えるべきメッセージはない。小説は、ある「空間」、ある「場所」でさえあればいい。小説は、その読者を「マイク」の前に連れてゆくのが、その最大の使命なのである。
 だから、「僕ら」は、「マイク」の前に歩み出した。だが、小説という「パフォーマンス」は、それだけでは完結しない。小説は、その読者を、その「パフォーマンス」に参加させることによって、前進し続けることのできる、終わりのない運動のことをいうのである。


 ある意味、ここで語られているのは、「小説」の理想論であり、小説の目指すべきところであって、具体的な小説のスタイルを示しているわけではありません。そして、「小説」は、その理想に向かって、常に変化するべきものなので、時代によってその「顔」は変わって当然ということになります。だからこそ、一般的にいう「文学」から「小説」は離れてゆくのは必然なわけです。

 だが、誤解を恐れずにいうなら、小説は、文学ではなくても、いいのである。小説は小説でありさえすればいい。他のなにものにも似る必要はないのだ。・・・
 小説が読まれなくなったのではない。文学が読まれなくなったのだ。それは一時的な現象ではない。おそらく二度と、かつてのように、文学が必要とされることはないのである。
 だが、小説はちがう。小説は、いつも、現代を、あるいは、現在を生きようとするものだからだ。
 文学には、豊かな過去があるが、現在には乏しい。逆に、小説には、現在ばかりが氾濫する。ついでにいうと、そこに未来の成分も含まれる。


<近代小説とは何か?>
 では、「小説」が今乗り越えてゆくべき「小説」、一般的には「近代小説」と呼ばれるのはいかなる「小説」なのでしょうか?この問いについては、前作の「ニッポンの小説 百年の孤独」で詳しく解説されていますが、本書にはより明確に説明されている部分があるので、そこを取上げておきます。
 先ず重要なのは、「近代小説」とは「近代社会」の誕生によって初めて生まれた文学スタイルだということです。いや、もしかするとその逆で近代小説が生まれたことが近代社会を発展成立させたのかもしれません。(たぶん、その両方なのでしょう)

 ベネディクト・アンダーソンは「小説」と「国家」について、本質的で、かつきわめて奇妙なことをいっている。
 簡単にいうなら、近代国家はその成立のために、最初にまず、小説と小学校の教科書を必要とする、そのことに例外はない、というものだ。・・・
 小説と小学校の教科書、それはかけ離れたものだ。だが、それは、ある一つの巨大なものの両端、という意味で、かけ離れたものだ。その巨大なものとは、その近代国家を一つにまとめている、ことばのシステム、であり、そのシステムによって成立している認識の構造だ。
 小説と小学校の教科書は、ばらばらな個人を一つの空間の中で繋ぎ合わせる。
 なにによって?
 共通のことばと共通の認識スタイルによって、いや、それらが混ざり合った粒子の、ある一定の「速度」によって。
 そして、そのことに、彼らは決して気づかないのである。


 近代社会の誕生とそこに生きる自我をもつ個人があって初めて「近代小説」が成立したわけです。だからこそ「近代小説」を高橋師匠はこう定義しているわけです。

「近代小説」というやつを、極端に形式化していうと、「主体性を持った個人」が「社会や他人との相剋に悩む」話です。ほとんど全部、そう。例外なし、です。

<近代社会とは何か?>
 ではここでいう「近代社会」とはいかなる社会のことでしょうか?「近代小説」が「近代社会」と結びついているなら、「近代社会」の終わりは「近代小説」の終わりと結びついているはずです。20世紀が終わった今、「20世紀」という「近代」は終わりを迎えているように思えます。
 ここでいう「近代社会」とは、ぶっちゃけ「合理的にすべてを判断する社会」といえるでしょう。逆に考えると、「前近代的社会」とは、宗教や占いによる社会システムや政治から成り立つ社会ということになります。しかし、「近代社会」には未だにそうした合理的な考えに基づかないシステムや文化が存在し、それらは社会からアウトサイダーと呼ばれています。「宗教」(ただし、宗教は合理的な社会システムに組み込まれた経済学的な宗教も存在しますが・・・)、「SEX」、「犯罪」、「芸術」、「賭博」、「愛」・・・などは、その代表的存在といえます。「合理主義」に基づく社会はこうした存在を、社会から排除するか去勢して取り込むことで、そのシステムを保ってきたといえます。

・・・「合理的」であるとは、「合理的」ではないと考えられる他のすべてを「否定」することによって成り立っています。自分と他人を区別する、とは、自分に侵入してくる他人を「否定」することです。

 そう考えると「イスラム教徒」は、今や西欧人という合理主義社会の中心的存在にとって、最大のアウトサイダーなのかもしれません。しかし、世界の最大勢力がキリスト教徒ではないように、合理主義に基づく文学である「近代小説」は、もしかするとすでに最大勢力ではないのかもしれません。それは我々にとって、ごく普通の小説に思えますが、実は我々が、それしか知らないだけなのかもしれません。

<現実を認識する目>
 「近代小説」のもつ最大の武器、それは現実を正確に写し取り、それを描写することでリアルな世界像を生み出せるところにありました。それは「カメラ」というよりも「超高感度ステディーカム」のような存在で、自由自在に移動できる視点をもち、すべてを映し出せる神の目のごとき存在といえるでしょう。

 では、こうやって、このカメラ(文章)がやっている、そのこととは、なんなのか。それは、自然・社会・個人の内面それぞれの間に、自由に移動することだ。あるいは、自由に移動できると(読者に)思わせることだ。
 自由に移動できる、ということは、そのことが「わかる」と思わせることでもある。
 だから、このカメラ(文章)の運んで来たものを見る人は、自然・社会・個人・内面というものは、実にクリアなもので、誰だって、それを見ることができる、と思うはずだ。
 ぼくは、それこそが、一つの社会を成立させるための条件であると感じる。
 しかし、そんなカメラ(文章)の「自由運動」を可能にしているものはなんだろう。
 どうして、誰も、カメラ(文章)が、どの段階でも、同じ速度で動いていたからだ。
 高度一万メートルから下降する時も(自然を撮影する時も)、高度数メートルまで降りながら甲板上でうごめく人たちを撮影する時も(社会を撮影する時も)、個人に接近し、ついにその中に無理矢理入り込む時も、まったく同じ速度で、運動していたからだ。
 だから、ぼくたち観客は、そのカメラが、自然・社会・個人・内面と、まったく次元のちがうものを通過していることに気づかなかった。というか、それらが、次元のちがうものであることに気づかなかったのである。


 では、そんなスーパーカメラを持つことで近代の作家は「現実」を描き出すことを完璧に成しえたのでしょうか?もちろん「ことば」によって現実がそう簡単にとらえられるわけではありません。

 「現実」というもののことを、ぼくたちは、ほんとうは知らない。なぜかというと、それを、見てはいないからだ。
 「現実」というものは、みんなが見てるといい、そして、確かにそれは存在しているといっているので、自分も、なんだか存在しているような気になっているだけなのだ。・・・
 「   」がはずれた世界が、目の前にあること、それを告げ知らせるために、小説というものは、あるのかもしれない。
 「   」をはずせ、というために、あるいは、どうすれば「   」をはずせるかを教えてくれるために、小説というものは、あるのかもしれない。
 そして、そのためには、なによりも、正確に観察することが大切であることを、それらの、正しい「始まり」を持つ小説たちは、教えてくれるのである。


 ここでいう「 」は、合理的に誰もが認識している現実とでもいえばよいのでしょうか。文章のはじまりは、そうした現実を認識しようという人間の基本的な欲求から始まった行為ともいえるのかもしれません。しかし、そこには必ず合理性では理解できない何かが存在しています。そして、その存在を浮き上がらせることこそ、「小説」の役割なのかもしれないわけです。

 しかし、我々は、「現実」というものが目の前に生起していくのに立ち会いながら、同時に、その「現実」を強引に解釈しようとする。目の前で起こる出来事に、次々と意味を与えようとする。だから、我々は「生の現実」を知らないともいえる。

 あくまでも、合理的に現実を認識するために必要なものとして発展した最大の武器が「ことば」であり「文字」だったのです。

 ぼくたちは、ことばと関係を結ぶことで、この世界と関係を結ぶ。最初は、「その他大勢」の関係である。みんなが、関係を結んでいるので、見よう見まねで関係を結ぶのである。
 ぼくたちは、この世界と「直接」関係を結ぶことはできない。ことばを通して、関係を結ぶのである。・・・
 しかし、ある瞬間、ぼくたちは、「その他大勢」の関係ではなく、個人的な関係ではなく、個人的な関係を世界と、とり結ぶ。その時、初めて、ぼくたちは、なにかを「読む」ことになるのだ。
 その「読み」を起点にして、つまり、その、世界との最初の関わりを起点にして、ぼくたちは、次のステップに進む。たとえば、それが「書く」だ。


<近代小説の弱点>
 なるほど、「ことば」と「合理的な考え」が共闘した「近代小説」は、文句なしに最強の文学スタイルに思えます。ただし、そこに弱点がないわけではありません。それは合理的であるがゆえに、「非合理」を排除してゆくことで、いつしかすべての小説が「合理的に売れる小説」、「合理的に芸術的にみえる小説」、「合理的に面白い小説などへと、収斂してゆこうとしていることです。本当は、「非合理」を認識するために「ことば」と「合理的精神」を進化させるべきなのですが、・・・。
 それぞれの作家が「合理的」に自分の作品を書けば書くほど、それはある種「究極の推理小説」、「究極の歴史小説」、「究極の冒険小説」へと収斂することで、どれもが同じような内容になってしまう危険をもっているのです。
 そして、書き手がそうやって小説を書くならば、読む手もまたそれに合わせた読み方を「するようになるはずです。

 たいていの小説は、あらかじめ、なにかが決まっていることが多いのだ。そのなにかは、テーマであるとか、物語であるとか、教訓や情報であるとか、登場人物のキャラクターであるとか、十万部は売れて映画化されたいとか、有名になりたいとか、オレはエラいとか、これが文学だとか、作者がいちばんいいたいのは「わたしって綺麗?」ということだとか、そういったような、誰にでも想像がつくようなことだ。
 そして、そういう、「決まっているなにか」は、それがある場所もわかっているので、そこを指して、「そこの、そのところに、物語があります」とか、「そのあたりと、それから、少し先の、そのあたりに、テーマがあります、それから、抜粋もね」とかいえば、一丁上がりなのだ。
 だから、その小説を遥か上空から見下ろし手、重要な個所を地図に書き記す。あるいは、書き込んでいく、それが、小説を論じる、という仕事のほとんどだ。というか、小説を読む、ということのほとんどだ。


 作家はそれぞれが自分の頭の中にある「究極のシナリオ」に基づいて作品を書いているのです。

 小説を書く前に、なにか「シナリオ」のようなものがある。それに従って、小説も書き進められる。
 その、小説を書き進めさせている「シナリオ」は、えらく尊大だ。自分に自信を持っているし、プライドもある。


 もちろん、それはそれで素晴らしい作品が生まれて良いのかもしれません。しかし、そうなると「小説」はどんどん「現実」から離れてゆくことになるのも確かです。

 この文章を読んでいると、通常、ぼくたちが読んでいる文章の大半が、「見る」ことも「聴く」こともしないで書かれていることがわかる。目の前の文章を、自分が書いている文章を、その書いている当人が、きちんと読んではいないのである。
 そんな馬鹿な?
 いや、それは、よくあることなのだ。
 では、なぜ、そんなことが起こるのか。
 それは、たいていの場合、ぼくたちが読んでいる「文章」というものの大半が「できあがっている」ものだからだ。
 みんな既製品を組み合わせて、書いているのだ。


<新たな時代への対応>
 もちろん「小説」は常に現在を描くために新しい題材を追い続けていますから、日々新しい小説が誕生し続けています。しかし、「近代小説」を支えてきた「近代社会」自体が変化してゆくことで、その柱となっていた「合理主義」が変更を迫られるなら、今までのような対応ではついてゆけないはずです。
 例えば、この本では「1983年」という「おたく文化」発祥の年について書かれています。21世紀の日本文化を象徴するのは、やはりこの「おたく文化」であり、その影響は間違いなく小説にも及んでいるのですから。
<「おたく」の語源>
 「おたく」という語は、1983年の『漫画ブリック』六月号において中森明夫が、現在の意味で初めて用いた、といわれています。

<1983年とはこんな年でした>
NHKの連続ドラマ「おしん」が大ブームとなる。
落ち込み続けていた経済成長率がプラスに転じ、いよいよバブル経済が始まろうとしていた。
その象徴ともいえる東京ディズニーランドの開業がこの年です。
任天堂のファミコン発売。
無印良品の開店。
西武の「おいしい生活」キャンペーン。(コピーライターが人気職種となる)
YMO散開。
大友克洋の代表作「童夢」発表。
浅田彰の「構造と力 - 記号論を超えて」発表。
中沢新一の「チベットのモーツァルト」発表。
吉本隆明の「マス・イメージ論」発表。

 さらにこの後、インターネットや携帯電話から始まったコミュニケーション革命は、小説の存在自体を危くさせつつあります。気がつくと「近代小説」は、明治以前の文語調の小説とともに「古典」の仲間入りをしつつあるかもしれません。
 では「小説」の世界で「新しい小説」は生まれているのでしょうか?
 もちろん、「新しい社会」は「新しい小説」を少しずつ生み出しつつあります。高橋師匠は、そこで何人かの新しい作家たちのことを紹介してくれています。その中の一人に綿矢リサがいます。

 さっき、ぼくは、「もちろん、『直喩』が鮮やか!であった時代もあったのだ。その一つは、近代文学の黎明期だ。それから、実は、もう一つ、人が言語というものを芸術にしはじめた頃だ」と書いた。ということは、「直喩」が「鮮やか!」であるような使い方をする人は、「近代文学の黎明期」もしくは「人が言語というものを芸術にしはじめた頃」に生きているのではないか、ということだ。もっというなら、「文学史の外」で生きているのではないか、ということだ。・・・

 ところが、綿矢りさの「直喩」は、以前の『インストール』や『蹴りたい背中』もそうだったが、「退場!」といいたくならない。というか、逆に「ビューティフル!」といいたくなる。

 次に師匠があげているのは、川上弘美です。彼女のこだわりのひとつ「ひらがなの多用」については、先ずこう書いています。

 ・・・漢字だと、なぜか、そのことばを、いや、ことばを、人は読まない。ただ、見る、だけだ。「強い」ではなく、「強」を読む。「難しい」ではなく「難」を読む。そこに、集中的に、意味を見る。意味を見て、さっと、通りすぎる。なぜかというと、我々は、きわめて忙しいからだ。・・・

 「意味」だけを伝えるなら「漢字」の方が早いし有効かもしれません。しかし、その合理性をあえて避けたのが、川上文学というわけです。さらに彼女の代表作のひとつ「真鶴」についてこう記しています。

 『真鶴』という小説を動かすエンジンは、作者にとっても、その論理(原理)が未知な存在である「女」だ。「女」の、予期できぬ動きに誘われるように、『真鶴』は流れてゆく。その「流動」が、『真鶴』の本体だ。
 後半、「女」に、地上の論理(原理)が浸透してゆく。それは、『真鶴』の敗北だろうか。ぼくは、そうは思わない。
 未知なる存在に導かれ、地上から、高く舞い上がった小説は、再度、地上に戻るべきなのかもしれないからだ。
 それが不本意なものであるとしても、地上にしか、人の住む場所はないのである。

(ここに出て来る「女」とは、主人公につきまとう謎の亡霊?のような存在のことです)

 そして、「一億三千万人のための小説教室」においても、大きく紹介されていた猫田道子「うわさのベーコン」(2000年)も再び取上げられています。この部分の引用はあえて長くしました。たぶんこの本のなかでも、彼女がメイン・イベンター的存在なので・・・。

 どこかに存在している、この「小説」の、仮想のオリジナルを、いま『ベーコン』と呼ぶことにしよう。
 この作者は、『ベーコン』を真似ようと試みて、『うわさのベーコン』をかいたのである。
 『ベーコン』とは、ぼくたちが通常、小説と呼んでいるものだ。いや、ほんとうは、ぼくたちが、通常、「ことば」と呼んでいるものだ。
 「ことば」を知らない子どもは、その「ことば」を使うことで、知らず知らず、「ことば」を成立させている「規則」を憶える。いや、強制的に覚えさせられる。
 『ベーコン』を真似て、子どもたちは、彼らの『うわさのベーコン』を書くのである。
 だが、子どもたちは、いつまでも『うわさのベ−コン』を書きつづけるわけではない。真似る必要がなくなったとき、真似ているという意識がなくなったとき、子どもたちは、『うわさのベーコン』ではなく、『ベーコン』を書くようになる。
 だが、勘違いしてはならない。
 なにより重要なのは、そのとき、あるいは、そのあと、彼らは、彼らが、『うわさのベーコン』を書いていたということ、その記憶を失うのである。
 「規則」をおぼえた瞬間、その「規則」を覚えようとしていたことを忘れさせるものがある。
 この作者の『うわさのベーコン』がおそろしいのは、ぼくたちが封印していた、その記憶を呼び覚ますからだ。
 では、この作者は、子どもなのだろうか?
 ちがう。
 この作者は、子どもではない。なぜなら、子どもはいつか「おとな」に(非・子どもに)なる。そして、「規則」を覚えようとしていたことを忘れる。
 だが、この作者は、ついに「おとな」に(非・子どもに)なることができない。
 絶えず、作者は、「規則」を覚えさせられた現場に、亡霊のように、舞い戻る。
 人は、通常、「ことば」と、そのような関係を結ばない。
 それ故、作者は、「病者」と見なされるのである。


 おいおい女性作家ばかりなのか?それも若い子ばかりじゃないか!
 これは少しぐらいは師匠の趣味なのかもしれませんが、彼は男性作家の大御所についてもちゃんとふれています。その中には、世代の異なる大御所二人、大江健三郎村上春樹もいます。
 ただこの二人は大御所ではあっても、近代小説の世界においては常にアウトサイダー的存在であり続けているようにも思えます。だからこそ、二人は日本での評価以上に海外で高く評価されているのです。

 「読む」ことを「起点」にして、「書く」世界が広がってゆく。そのことは、どんな作家の場合でも変わらない。
 それにもかかわらず、大江さんのように、他の作家とは、まるでちがってみえる作家がいるのはなぜか。
 それはおそらく、「読み」と「書き」の往還の世界が、他のどんな作家より大きいからだ。「読み」と「書き」の世界が、その作家が生きている世界の「一部」ではなく、その作家が生きている世界と、ぴったり重なっているからだ。

 大江健三郎という作家は、息子の光さんも含め、生き方自体がまるで「文学」そのものに思えます。「書く」ことだけでなく「生き方」までもが「文学」に密着したとなった存在だからこそ、彼は誰のものとも違う文学世界を生み出せるのだと思います。
 昔、僕小田急線沿線の生田に住んでいた頃、小田急線の車内で大江さんを見かけたことがあります。あの独特の丸いメガネをかけてつり革につかまりながら本を読む姿からは、ものすごいオーラが感じられました。彼の立つ場所だけが「文学」の空間になっていました。

 そして、同じことは、村上春樹についても言えそうです。彼は自ら「文学の世界」に生きることで、これもまた独自の「村上ワールド」を生み出しています。彼は、自ら「文学のシステム」を破壊し、新たなジャンルに挑戦することで、常に成長をし続けています。

 ことばは、ぼくたちのために存在しているように見えて、実は、ことば自身の理路のために存在している。ぼくたちが作りだしたものなのに、ぼくたちを追い詰める。だから、ぼくは、ことばを信じない。
 だが同時に、そのことを伝えるために、ぼく(たち)は、ことば以外の手段を持たないのである。
 では、どうすればいいのか。
 具体的に書こう。
 時には、暗号を使う(「ことば」に気づかれないように)。
 そこで、一応は、あることを表現しているのに、その実、別のあることを表現している、とういうように書く。
 あるいは、それぞれの場所で、みんながちがったことを言う(「ことば」を混乱させるために)。・・・・・
 このやり方を採用している作業の中で、ぼくが「上級者」だと考えているのは、大江健三郎さんと村上春樹さんだ。
 というのも、ぼくは、自分が暗号を使っていることを認めるのに、彼らは、自分が暗号を使って書いていることを、自分の意識から消し去ることに成功しているように見えるからだ。


 彼らの小説を読んでいると、その小説に含まれている「意味」を総計していっても、計算に合わない「剰余」の部分があることが感じられる。もちろん、たいていの小説(文学)には、そんな「剰余」の部分が隠れている。
 しかし、彼らの「剰余」は、きわめて大きく、そして「不気味」だ。


 「新しい小説」を生み出す「新しい社会」を生み出したのは、「新しい人間たち」ですが、そこには時代をリードしたカリスマ的な人物の存在があったはずです。その中の一人として、オタク時代元年の英雄、糸井重里がいます。彼の小説「家族解散」(1989年)についても、この本では取り上げています。
 かつて昭和という時代をリードした作詞家、阿久悠という偉大なカリスマ的な作詞家がいました。ピンクレディー、フィンガー5、尾崎紀世彦らの名曲の歌詞のほとんどを書いた彼は、沢田研二のヒット曲「カサブランカ・ダンディー」や「勝手にしやがれ」などの歌詞も書いています。しかし、1980年代に入り、時代の変化を感じた沢田研二は、自ら作詞を別の作詞家に依頼します。こうして生まれたのが、1980年代を代表する大ヒット曲「TOKIO」で、その作詞家は作詞家が本業ではない糸井重里でした。
 そんな1980年代「コピーライターの時代」を象徴するカルト・ヒーローだった彼が、1989年に発表した小説「家族解散」は、「家族の崩壊」を描いたのではなく、家族が自らの判断でその絆を断ち切るという、まったく当たらし形の家族の物語でした。
 それは「合理性」に基づく社会の「核」であるべき「家族」が、すでに死に体であることをごく当たり前のように描いた小説として、時代を象徴するものでした。

 では、なぜ、人は、自分の「家族」というシステムについて話し合おうとしないのでしょう。あるいは、小説や映画の中で、「家族」たちは、その問題について、熱烈に論じ合ったりせず、もっぱらその役割を、「夫婦」や「恋人」たちに任せてしまうのでしょう。
 それは、おそらく、わたしたちが、「家族」というものを「自然」に属するものだと考えているからです。
 つまり、それは、ずっと前からそこにあって、確かに、形態は変化するし、出たり入ったりすることも可能だけれど、こちらから働きかけたりする必要のないなにかなのです。・・・
 この小説の「家族」は、「家族」というものが、「解散」することのできるなにかであることに気づきます。
 つまり、それは、「自然」ではない、ということです。
 なぜ、彼らは、そのことに気づいたのでしょう。
 わたしの考えでは、「家族」というものを包んでいた「自然」が、いつの間にか消滅していたからです。・・・

 わたしがいま用いた「自然」ということばは、ある意味で、比喩的なものです。文字通りの自然、たとえば、水や空気や大地、鬱蒼とした森林やどこまでも続く海岸といったもの、わたしたちを黙って取り囲み、いつでもそこで出かけていって、なんらかの意味を持って帰ることを許してくれるようなもの、それらをすべて、「自然」と呼ぶなら、彼らは、そのすべてを失ったのです。


 「家族の解散」は、その後「コミュニティーの解散」をもたらし、今や「社会の解散」すらも、もたらしかねない危機的状況になりつつあります。21世紀、どんな新しい小説が生まれるのか?たぶん、それは近代小説史の延長線上にはないのかもしれませんが、今もどこかで生まれつつあるに違いありません。
 それを待つしかない読者は、じっと待ち、それが登場する瞬間を見つけなければ。もちろん、そのためには自分自身の感覚を磨いておかなければ。

 ぼくの考えでは、ほんとうに重要なことは、いつも、予定外のことなのだ。
 それは、いつなんどきやって来るか、わからない。
 その瞬間のために、我々は、ずっと待ち続ける。全神経を集中して待つ。

「さよなら、ニッポン ニッポンの小説2」 2011年
(著)高橋源一郎
文芸春秋社

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