「夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つ物語
Nocturnes - Five Stories of Music and Nightfall -」 

- カズオ・イシグロ Kazuo Ishiguro -

<音のない音楽小説集>
 若かりし頃、ミュージシャンを目指していたという著者ならではの音楽小説集です。読んでいるだけでノスタルジックな音楽が聞こえて、美しい景色が見えてくると同時に、夕暮れ時の物悲しい気分を感じさせてくれるその描写力はさすがイギリスを代表する小説家です。「夕暮れ時の物悲しさ」というのは、カズオ・イシグロの作品すべてに共通する雰囲気なので、この作品はある意味「もっともカズオ・イシグロらしい作品」ともいえそうです。

「老歌手」
<あらすじ>
 この小説の舞台はベネチア。私事ですが、かつて新婚旅行で訪れた街で思い出が多い土地です。おかげで、思い入れたっぷりに読ませていただきました。
 主人公ヤネクは、有名なサンマルコ広場にあるカフェで演奏するバンドに臨時雇いされているアコースティック・ギター奏者です。彼が生まれたのは、まだ共産主義時代のポーランド。しかし、母親が大切にしていたレコードでアメリカン・ポップスを聴きながら育ちました。そして、当時聴いていたフランク・シナトラ、ビング・クロスビー、ディーン・マーチンらとともに彼のお気に入りの一人だった歌手トニー・ガードナーとサンマルコ広場で偶然出会います。別れの危機が訪れていたガードナー夫妻にとって最後の旅行となるであろうベネチア旅行、そこでトニーは妻へのサプライズ・ライブを企画していて、その伴奏をヤネクは依頼されます。でも、仲の良い二人がなぜ別れなければならないのか?ヤネクはその理由を知ることになります。

 この本に納められた五つの短編すべてに共通するのですが、どのお話にも謎に満ちた登場人物が現れて主人公をちょっとした事件に巻き込むというのが、基本構造になっています。最初のお話「老歌手」においては、トニー・ガードナーとその妻リンディがギター弾きのヤネクを事件に巻き込みます。正確には「事件」というほどの事件は起きないのですが、読んでいる途中、何かの事件が起きそうな雰囲気が続き、読者を先へ先へと読ませる仕組みになっています。
 さらに、この短編集の主人公たちは、みな成功を掴めないまま青春時代を終えてしまった「がけっぷちの男」たちばかりです。おそらく彼らはミュージシャンを志しながら夢半ばで挫折した著者の投影なのでしょう。そんな情けない主人公に読者はイライラさせられながらも、彼が心配になってしまい、知らぬ間に先へ先へと読み進むことになります。
 もしかすると、見た目がイケメンな著者は、ミュージシャン時代、女性ファンに可愛がられ助けられることもあったかもしれません。ミュージシャンとしては成功することができなかった彼もまた、この小説の主人公同様「がけっぷちを生きた」と言えそうです。そして、二つ目のお話もまたそんな47歳の「がけっぷち男」が主人公になっています。

「降っても晴れても」
<あらすじ>
 この小説の舞台はロンドン。やり手のビジネスマン、チャーリーとその妻エミリは、主人公レイモンドの古くからの友人です。久しぶりに夫婦の家に泊まることになった彼は、チャーリーにさんざん今の生活をやめて、ちゃんとした企業に就職するようお説教されます。英会話の講師として世界各地の学校を転々と回ってきた主人公は未だに未婚で生活も安定していませんでした。
 ところが、チャーリーは突然彼に自分はしばらく出張に出かけるから妻と留守番をしてほしいと頼みます。実は夫婦は離婚の危機にあり、共通の友人である主人公なら二人の関係を修復することができるかもしれないと思われていたのです。こうして、彼はエミリのもとで自らのダメダメぶりを発揮することでチャーリーの株を上げ、二人の関係を担う役割をさせられることになりました。

 レイモンドとエミリの間には、同じ音楽を愛するという共通の趣味がありました。アービング・バーリンの「チーク・トゥー・チーク」やコール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」など、アメリカの古いブロードウェイ・ソングが大好きだったのです。時代設定は1990年代ですから、イギリス人とないえ、ちょっと珍しい趣味です。彼らの青春時代は世界中がロック一色だtったはずですから。
 ハリウッド映画なら、レイモンドは昔の音楽について久しぶりにエミリと語り合ううちに恋に落ち、二人は馬鹿なビジネスマンのチャーリーをおいて家を飛び出す。そんな展開が予想されます。実際、二人は小説の最後にクリフォード・ブラウンとサラ・ヴォーンによるジャズのスタンダード・ナンバー「パリの四月」を聞きながら、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのようにチーク・ダンスを踊ります。
 しかし、この後、二人がどうなるのか?正直、まったく予想はできません。大方の小説や映画ならドラマが途中で終わっても、そから先が予測できるものです。ところが、この小説に登場する人々は最後まで謎が多く、何をする気なのか?エミリもまたレイモンドのダメダメな生活ぶりに説教をたれるのか?夫婦の仲はもとにもどるのか?夫婦の説教にレイモンドが逆切れしてしまうのか?どんなことでも起こりうるようなラスト。
 あるタイプの短編小説とは、長編小説を縮めたものではなく、長編小説の一部分をスパッと輪切りにしてお皿に乗せたものである。(もちろん他にも様々なスタイルはありますが・・・・・)そう考えると、この短編集は実に見事に物語を切り取っていると言えます。見事すぎるために読者は切り取られた先の物語を想像力によって補わなければなりません。

「モールバンヒルズ」
<あらすじ>
 このお話の舞台はイギリス南西部の田舎にひろがる丘陵地帯のひとつモールバンヒルズです。主人公ジェフはミュージシャンを目指すもののまったく認められることなく食べ物にも困り、モールバンヒルズでカフェを営業する姉夫婦のことろに居候させてもらうことになります。そこで出会ったミュージシャンの老夫婦と親しくなった彼は二人に作曲中の新曲を聴いてもらいます。やっと自分の音楽を理解してくれる人と出会えたのですが、久しぶりの休暇旅行の途中だった夫婦はそこで夫婦喧嘩を始めてしまいます。

 著者の青春時代を思わせるような主人公は一人、山の中でオリジナルの歌を歌いますが、読者にはそれがどんな歌なのか?上手いのか下手なのかすらわかりません。主人公は本当は天才なのか?自分でそう思い込んでいるだけなのか?これもまた読者が推測するしかありません。彼はいったいどんな歌を歌っていたのでしょうか?
 実は著者は前作「わたしを離さないで」(2005年)の発表後、世界中でインタビューを受け続けることになり、インタビューにはうんざりさせられました。この作品のような短編集の場合、出版社は長編小説ほどの売り上げを見込まないため、プロモーション活動はほとんど組まれないそうです。どうやら彼はそのことを知っていたこともあって、この短編集を書く気になったようです。

「夜想曲」
<あらすじ>
 このお話の舞台はLAのハリウッドにある高級ホテル。別れた妻の新しい夫の資金援助により整形手術を受けることになったサックス奏者の物語です。イケメンになればメジャー契約も可能だとマネージャーに無理やり入院させられたものの納得ゆかない主人公スティーブ。彼は病室代わりのホテルで、有名な人気女優リンディ・ガードナーと知り合います。彼と同じように整形手術のためにホテルに宿泊していたリンディは、彼のCDを聞いてすっかり彼のファンになりますが、彼女のことを単なるゴシップ女優と思っていたスティーブは複雑な心境でした。
 ところが、彼女はそんなことはお構いなしに、二人が泊まるホテルで行われる予定だった音楽賞のトロフィーを彼のためにと盗み出してしまいます。慌てたスティーブは、リンディと共にそのトロフィーを元に戻そうとホテルの中を放浪するはめになるのでした。

 なんとここで、「老歌手」で老歌手と別れることになったリンディ・ガードナーが再登場します。再びスポットライトを浴びる道を歩みだした彼女のパワーに振り回される主人公は、彼女のように生きることができない自分を変えようと決心します。しかし、それが本当に彼に可能なのか?手術は本当に上手くいったのか?手術によってサックスの音は変わらないのか?リンディは彼のことを本当に助けてくれるのか?彼は彼女の援助を受け入れるのか?これまた疑問だらけのラストです。そこには、単純なドタバタ・コメディで終わるとは思えない不思議な雰囲気があります。

「チェリスト」
 このお話の舞台はイタリアの地中海沿岸にあるリゾート地です。そして、この物語だけは街のカフェで演奏するバンドのメンバーであるサックス奏者の語りという形式で書かれています。(他はどれも主人公による語り形式になっています)そのサックス奏者が街で7年ぶるに見かけたチェリストのティボールが物語の主人公となっています。才能はあるものの、チャンスに恵まれない彼は、ある日謎の女性エロイーズと出会います。自ら天才チェリストと名乗る彼女は、ティボールの教師となり彼女が宿泊するホテルの部屋で毎日指導を受けることになります。
 エロイーズは本当に天才チェリストなのか?(なにせ彼女はチェロを演奏しないのです)ティボールの才能は本物なのか?そして、7年後に見かけた彼は成功したようには見えません。彼もまたチェロを弾かないチェリストになってしまったのでしょうか?これまたラストまで予測不能なお話です。

 最初のエピソード「老歌手」に対して、最後の「チェリスト」は構造的に対象的ですが基本構造はよく似ています。主人公が、「老歌手」と「若い妻」のカップルに対し、「女性教師」と「若いチェリスト」のカップルになっていること。どちらも物語を語るのは、「ギター弾き」と「サックス奏者」というカフェの音楽家。そして、どちらの物語も共に生きてきたものの、ついにその二人の歴史を終えようとしているカップルの物語です。
 才能はあるものの認められずに歳月が過ぎ、人生の転機を迎えつつある微妙な年齢の青年。そして、二人は別れによって再スタートを切りますが、それが成功につながるかどうかは、やはりこれまた?です。
 逆に老歌手と女性教師にとっては、成功へ向かっての出発でもなく愛し合う二人の人生のスタートとなる結婚でもない、その真逆ともいえる後ろ向きの決断に未来は見えません。人生の黄昏時へと踏み出す、その瞬間を見事に切り取った小説に、あなたはどんな音楽を聴かれましたか?

「夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 Nocturnes - Five Stories of Music and Nightfall -」 2009年
(著)カズオ・イシグロ Kazuo Ishiguro
(訳)土屋政雄
早川書房

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