- 大滝詠一 -

2003年10月16日改訂

<大滝詠一というアーティスト>
 彼は和製フィル・スペクターと言われる名プロデューサーであると同時に、「ロング・ヴァケイション」という和製ポップスの最高峰アルバムを生み出したコンポーザー兼ヴォーカリストでもあります。
 さらに、日本語によるロックの先駆的存在、はっぴいえんどのメンバーであると同時に、自らレコード会社(ナイアガラ・レーベル)を興すことによって、ミュージシャンが自分のサウンドを追求する道を切り開いた先駆者でもありました。
 もちろん、60年代ロック&ポップスの超マニアでもあり、フィル・スペクターやブライアン・ウィルソンアルドン出版社のスタッフ・ライターたちについて語らせたら、山下達郎とともにいつまででも語り続けることのできる人物でもあります。
 そうそう、もうひとつ忘れてはならないのが、彼が現代日本を代表する音頭の作り手であるということです。「うなずきマーチ」、「ナイアガラ音頭」、「イエロー・サブマリン音頭」、「What'd I Say音頭」、「ビックリハウス音頭」、「Let's Ondo Again〜クリスマス音頭」・・・どれも珠玉の音頭です!

<はっぴいえんどからソロ活動へ>
 大滝詠一は1948年岩手県に生まれました。中学時代からアメリカン・ポップスの魅力に取り憑かれていた彼は東京に出てバンド活動を始め、1969年に細野晴臣松本隆鈴木茂とともに伝説のバンド、はっぴいえんどを結成します。当時不可能と思われていた日本語の歌詞をロックに乗せるという作業を、彼らは見事にやってのけました。その後、20年近くかけて、やっとこの日本語のロックはJ−ポップとして定着することになるのですが、彼らにとっては、すでにこの時点で完成されていたと言えるでしょう。実際、彼らの曲は今聴いてもまったく古くない!と言うより新しい!(ただ当時、その素晴らしさを理解できる人は、ほんのわずかでしたが・・・)

<ナイアガラ・レーベルの設立>
 このバンドは1973年、あっさりと解散してしまいましたが、1972年大滝はいち早くソロ・デビュー・アルバム「大滝詠一」を発表しています。しかし、彼はこの時点で自身の音楽活動を休止、数多くのCMソングの制作をしながら、1974年自らのレーベル「ナイアガラ」を設立します。それは、自らの活動が受け入れられる時を待ちながら、その下地を作る裏方的活動への方向転換だったのかもしれません。
 そして1975年、第1弾アルバムとして、シュガー・ベイブの「ソングス」を発売します。(このバンドもまた山下達郎大貫妙子が在籍していた幻のバンド)続いて、自らのソロ・アルバム「ナイアガラ・ムーン」を発売しました。その後は、山下達郎、伊藤銀次とともに「ナイアガラ・トライアングル・Vol.1」、ソロでは、日本の季節を巡る楽しい企画アルバム「ナイアガラ・カレンダー」、そして、多羅尾伴内楽団シリーズというオールディーズのインスト作品集を発表、さらに美人DJの先駆けシリア・ポールの「夢で逢えたら」など、どこまでもアメリカン・ポップスの王道にこだわった作品を次々に発表して行きます。(残念ながら、どれも大成功には至りませんでしたが・・・)

<三っつの名前をもつ男>
 この当時の彼の多彩な活動を象徴するものとして、彼の二つの別名があります。
 他のミュージシャンなどのアレンジも手がけながら、60年代のサーフ・ロックを中心としたギター・インスト・アルバム「多羅尾伴内楽団Vol.1」、「多羅尾伴内楽団Vol.2」を制作したアレンジャーとしての名前、多羅尾伴内
 そして、彼が尊敬するフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドを追求し続けるミキサー&エンジニアとしての名前、笛吹童子
 90年代に入ると、ごく当たり前のことになったプロデューサー、ミキサー&エンジニアの大活躍は、この当時の大滝詠一、それに久保田麻琴らの活躍によって始められたと言ってよいでしょう。

<先駆者の苦難を越えて>(2003年10月16日改訂)
 しかし、彼のあまりにマニアックな音楽センスは、まだ歌謡曲が主流だった当時の日本の音楽界では、充分に(まったくかな?)受け入れられませんでした。さらに、発売元コロンビア・レコードに対し、ナイアガラは年に3枚アルバムを発表するという契約を結んでいましたが、シュガー・ベイブがレーベルを離れ、伊藤銀次のココナッツ・バンクも解散してしまったことで、彼は一人でアルバムを作り続けなければならなくなりました。こうして、ナイアガラ・レーベルは経営破綻に追い込まれてしまいました。
 しかし、しばらくの休養の後に発表されたアルバムが、意外なことに超ベスト・セラー・アルバムになってしまいます。それが「ロング・ヴァケイション」(1981年)でした。
 「君は天然色」、「Velvet Motel」、「カナリア諸島」、「雨のウェンズディ」、「恋するカレン」、「Funx4」、「さらばシベリア鉄道」・・・それはまさに、大滝詠一の総決算であり、和製ポップスの到達したひとつの頂点でした。わずか数年の間にJ−ポップの時代がいっきに開けてしまったのです。(それと、このアルバムには「はっぴえんど」のメンバーが全員参加しており、ある意味80年代版はっぴいえんどでもありました。ここにきて、やっと「はっぴいえんどサウンド」にハッピイエンドが訪れたといえるのです)

<僕のロング・ヴァケイション>
 このアルバムが発売された翌年の1982年、僕は教育実習生として故郷小樽の母校、小樽潮陵高校にやって来ていました。正直言って、当時僕は教師になるつもりはほとんどありませんでした。今思うと、本当にいい加減な人間だったと反省しています。それでも、やり出すと本気になる性格は今と変わらず、担当したクラスではけっこう熱血教師をやっていました。
 僕が行った頃、生徒たちはちょうど秋の文化祭の計画を立てていました。クラス会では、「かったるいから模擬店みたいなのですまそうよ」という後ろ向き派と「せっかくだから映画を作ろうよ」という積極派が延々と議論を繰り替えしていました。3年生で受験を控えている彼らにとっては、最後の文化祭とはいえ、時間が惜しいという焦りもあったのでしょう。それでも、彼らはかなりの労力を要する映画作りを選択し、僕もわずかの時間でしたが、彼らに協力することになりました。そして、文化祭には必ず見に来るという約束もさせられてしまいます。
 そして文化祭前日、僕はとりあえず学校に様子を見に行ってみました。すると、なんと映画はまだ完成していなかったのです!撮影は終わったものの、アフレコ、音響効果、音楽の録音がまったく手つかずの状態でした。結局、その日僕は生徒の家に何人かの生徒たちと泊まり込み、徹夜で作業を行い、なんとか映画を完成させることができました。
 彼らの映画は、なかなか素敵なラブ・ストーリーで、文化祭の期間中に行われた新聞会の審査で音楽賞を受賞しました。なにせ音楽が最高に素晴らしかったのです。だって、全編に大滝詠一の素晴らしい音楽が使われていたのですから。(もちろん、僕が持ち込んだ「ロング・ヴァケイション」でした。すみません大滝さん、無断使用してしまいました!)

<ロング・ヴァケイションの時代>
 このアルバムが発売された1980年代前半といえば、バブルのまっただ中で、最も日本人がゴージャスな気分に浸っていた時だったと言えるかもしれません。そして、今思うとアメリカが最もゴージャスだった時代、1960年代のポップス(そう、それはまさに「ドリーミング・デイ」だった!)を下敷きにした大滝詠一のポップスが、あれほどまでのヒットになった理由は、その時代のアメリカの空気との共通性にあったのかもしれません。
 しかし、時代が変わり、21世紀初頭の不況のどん底になっても、「ロング・ヴァケイション」を聴くたびに、あの時代の記憶は見事に甦ってきます。それは、やはり音楽のもつ不思議な力なのでしょう。なんだか自分が未だにロング・ヴァケイションの続きを楽しんでいるような気分にさせてくれる音楽、そんな音楽も人間には必要です。そう考えると、こうして良い夢を見させてくれる彼の音楽を代表する曲は、やはりシリア・ポールの「夢で逢えたら」ということになるのでしょうか。
 最後に一言。「夢ではなく、現実に大滝詠一の新作に会いたい!」

<締めのお言葉>
「夢を見たら、自己にとって重要なものへとイメージを展開せよ」
 セノイ族の教え
大泉実成「マレー獏は夢を見ない」より

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