- ローザ・パークス&マーチン・ルーサー・キング牧師
Rosa Parks & Martin Luther King Jr. -

<公民権運動の転換点>
 1960年代末にそのピークを迎えることになる公民権運動。アメリカにおける人種差別の撤廃に向けたこの運動には、そこに至るまでの長い道のりがありました。(その道のりが未だ遠いことは、2005年に起きたニューオーリンズの台風災害に対するブッシュ政権の対応の遅さで、再び明らかになりました)そして、その中でも特に重要な転換点となった出来事として、モントゴメリー市での市営バス・ボイコット運動を忘れることはできません。
 この運動はローザ・パークスというごく普通の主婦がたった一人で始めた抗議行動がきっかけで始まったものでした。そして、その運動を引き継ぎ、指揮することになったキング牧師は、この事件で得た経験、知名度、人脈を駆使して、その後20世紀を代表する英雄の一人へと登りつめて行くことになります。
 普通の主婦がきっかけをつくり、無名の若き牧師が指揮したこの運動は、公民権運動における重要な成功例として歴史に刻まれることになりましたが、それはいかにして始まり、なぜ大きな成功を収めることができたのか?そこにはいくつかの好運と歴史の必然がありました。

<事件の始まり>
 1955年アメリカ南部アラバマ州のモントゴメリー市を走る市営バスでは、昔ながらの人種差別が行われていました。基本的には、前方の10列が白人用で、後方の26列が黒人用と座席が分けられていたのです。ただし、その境目は白人の運転手によって自由に変えられるようになっていました。
 12月1日の夕方、そんな市営バスに一人の主婦が乗り込みました。彼女の名はローザ・パークス。デパートで縫製の仕事をしていた彼女は、疲れた身体を休めようと黒人席の最前方に腰をおろしました。当時彼女は42歳。大工の父親と教師をしていた母親のもとに生まれた彼女は、その頃にしては珍しく黒人向けの専門学校で初等教育を受けており、その後お手伝いとして働いていた白人家庭の後押しによってテネシー州の人種共学の学校を卒業していました。その学校で彼女はガンジーについて学び、彼の非暴力、不服従の闘争に大きな感銘を受けたといいます。
 そんなこともあり、彼女は全国黒人地位向上協会(NAACP)という組織のメンバーとして活動するようになっていました。とは言っても、あくまで彼女は夫も子供もいる働く主婦のひとりでした。その日も彼女はいつものように仕事を終え、家路に着く途中でした。ところが、その日はなぜか白人の乗客が多く、いつの間にか白人席が満員になってしまいました。すると、席がなくなった白人乗客を座らせるため、運転手が後を振り返り、席を一列ずつずらすよう命令しました。普段ならその言葉に逆らう者はいませんでした。しかし、寒さと疲労で足が痛んでしかたがなかった彼女は、運転手の言葉を無視し席を立とうとはしませんでした。
「警察を呼んでもいいのか?」という運転手の脅し文句に対し、彼女は「お好きなように!」と言い返したのです。それは黒人の乗客たちがそれまで当たり前と思って我慢してきた差別に対し、ごく普通の主婦が実に当然の抵抗をしただけのことでした。しかし、これが歴史を変えるきっかけになる事件へと発展することになるとは、誰も思わなかったはずです。

<事件の発展>
 彼女が逮捕されたことを知ったNAACPのモントゴメリー支部長エド・ニクソンは、この事件に大きな意味を見出していました。ごく普通の主婦ではあっても、彼女が勇気と誇りをもった人物であることを知っていた彼は、彼女なら自分が計画している運動の旗印としてうってつけであると考えたのです。
 この時すでに公立学校における人種分離は憲法に違反しているという判断が最高裁で下されていました。このブラウン判決は全米各地に大きな衝撃を与えましたが、それは社会状況の変化にはつながっていませんでした。従って、NAACPではこの判決を後ろ盾にして現状を変えてゆく具体的な運動を模索していたところでした。
 そこで、ニクソンはこの事件をきっかけにバス・ボイコット運動を始め、座席の人種分離区画を廃止させ、差別的な社会構造を変革する運動の先駆けにしようと考えたのです。彼のその計画をきき、ローザ・パークスは夫の反対を振り切り協力すると約束します。こうして、バス・ボイコット運動の第一歩が踏み出されたのです。

<事件の新たな主役>
 一主婦によって始められた抗議行動は、こうして黒人市民すべてを巻き込んだ大きな運動へと発展してゆくことになります。しかし、この運動を成功させるためには、より広範な層を巻き込むだけの拡がりが不可欠でした。それには一主婦の能力だけではなくリベラルな白人層をも仲間に引き入れるだけのカリスマ的なリーダーは必要でした。しかし、神はこの時素晴らしい人物をモントゴメリーに使わされました。弱冠26歳の新任牧師マーティン・ルーサー・キングJr.です。

<牧師になるということ>
 マーティン・ルーサー・キングJr.の父、ダディ・キングは黒人中産階級が力を持つ数少ない都市アトランタの中心的教会エベネザー・バプティスト教会の牧師として地位も名誉もある人物でした。そのため、キングJr.は父親が牧師となるまでに重ねた苦労を体験することなく、黒人の名門大学モアハウス大学に入学することができました。ところが彼は牧師としての父親のやり方を引き継ぐ気にはなれずにいました。彼は父親の芝居がかった昔風の説教が嫌いだったのです。そして彼は教会の中で神に祈っているだけでは、社会の状況を変えることはできないと考えていました。それでも彼が牧師になる道を選んだのは、当時の状況では牧師として社会活動をすることが黒人にとって唯一の社会変革の方法だったからです。
 当時、黒人が政治家になるのは不可能に近く、なおかつ危険なことでした。その点、教会の牧師という地位はたとえ黒人ではあっても、まだ安全な職業であり、人々の心のよりどころとして社会活動の中心となることも可能だったのです。こうして、牧師の道を歩むことになったキングJr.の赴任した最初の教会。それがモントゴメリー市にある名門教会、デクスター・アヴェニュー教会でした。

<なぜキング牧師が選ばれたのか?>
 まだまったく無名の存在だった新任の牧師が、運動の指導者に選べれたのには理由がありました。先ず、彼の所属する教会がモントゴメリー最大の黒人教会だったこと。当然、大きな教会の牧師なら、信徒が多くそのぶん動きやすく、白人に襲われる可能性も高くなります。
 彼が新任であるがゆえに黒人たちの間にできていた派閥的な色分けに染まっていなかったことも重要でした。
 しかし、なんと言ってもニクソンやその他リーダー格の人物がすでにキングJr.の説教を聞いており、そのカリスマ性に気づいていたことが最大の原因かもしれません。こうして、彼はモントゴメリー改良教会(MIA)という新組織の会長に任命され、この後運動の中心となって行きます。
 この選択が間違いでなかったことは、運動が始まってすぐの彼の演説によってすぐに明らかになります。彼は先ず初めにこう言いました。
「先ず言おうではないか、我々がここで暴力を唱道しているのではないということを。暴力に訴える道はすでに克服してきた。モントゴメリー市内のすべての人々に、アメリカ全土のすべての人々に知って欲しいのは、我々がキリスト教徒だということだ。今夜、我々が手にする唯一の武器は、抗議という武器のみだ」
「もし我々が誤っているとすれば、合衆国憲法が誤っているということだ。
 もし我々が誤っているとすれば、全能の神が誤っているということだ。
 もし我々が誤っているとすれば、ナザレのイエスは単にユートピアを夢見ただけの夢想家にすぎ ず、この世に現れもしなかったということだ。
 もし我々が誤っているとすれば、正義などまやかしにすぎない」

「だからこそ、我々はここモントゴメリーの地で決意したのだ。正義を水のごとく、公正を尽きせぬ河のごとく流れせしめるまで闘いぬくことを」
 こうして、素晴らしいタレントを得た黒人たちの運動が盛り上がりをみせるのに対して、市当局はほとんど無策のまま動こうとしませんでした。なぜなら彼らは黒人たちを馬鹿にしきっており、いざとなったら警察権力による脅しによって簡単につぶせると高を括っていたのです。ところが、黒人たちの結束は固く、なおかつ地元メディアを別にすると全国メディアの新聞やテレビは完全に黒人側に同情的であることがわかると、しだいに彼らは運動に対して圧力を加えるようになります。

<権力からの圧力>
 黒人たちはバスに乗らない代わりに、何人かでタクシーや自家用車の相乗りをしたり、良心的な雇い主の車に乗せてもらったり、寄付金によって購入された車をグループごとに使用したりしていました。それに対し市当局はこれらの方法をすべて公的機関に対する営業妨害行為として違法と認定。警察はそれらの車を運転している黒人を次々と逮捕し始めました。
 キング牧師もスピード違反を理由に逮捕拘留されてしまいます。これに対し黒人群衆が警察署を取り囲み抗議行動を行い、すぐにキング牧師は釈放されましたが、その2日後彼の自宅が白人の過激派によって爆破されました。
 しかし、こうした暴力や脅しによって運動が止められることはありませんでした。逆に当時まだ発展途上にあったテレビの全国ネット・ニュース番組は、モントゴメリーから毎日のように中継を行い、次々と起こる出来事を報道することで全米の視聴者の目をこの街に向けさせました。

<テレビの力と勝利>
 現在のように巨大化、系列下される前のテレビ局は、現場のスタッフやキャスターの判断で自由に取材や報道を行うことが許されていました。そこにはスポンサーや上部企業からの圧力はまったくなかったのです。だからこそ、使命感に燃えた取材スタッフは危険を省みず黒人たちの間にカメラを持ち込み、差別の現状を全国そして世界各国に報道できたのです。
 キング牧師らもこうしたマスコミの力をしだいに有効に利用する方法を身につけるようになります。こうして、テレビや新聞社のカメラは、運動を広く報道する役目だけでなく、黒人たちの安全を確保し、世論を支持を得るための重要な役目を担うことになって行きました。
 この運動が始まって一年後、最高裁判所はモントゴメリーのバス運行に関する条例は違憲であると判決を下しました。そして、ローザ・パークスがバス内で警官に逮捕された日から2年後の12月21日、モントゴメリー市は人種分離区画を廃止したバスを運行させました。第一号のバスに乗ったキング牧師に白人のバス運転手はこう言ったそうです。
「キング牧師ですね。今朝、このバスにお迎えできて私たちはうれしく思っています」
 キング牧師は勝訴が決まった後の演説で、判決結果についてこう述べています。
「この結果は白人に対する黒人の勝利ではなく、アメリカの正義と民主主義の勝利なのです」 

キング牧師「自由への長い道」   キング牧師「ワシントン大行進での演説」

20世紀事件簿   20世紀偉人伝へ   トップページヘ