- サイモン&ガーファンクル Simon & Garfunkel -

<緊急告知>OCNのホームページ・サービス終了により、このサイトは引っ越しました。新ページへここからどうぞ!

<詞と歌のハーモニー>
 サイモンとガーファンクル、誰よりもニューヨーク的な知性の持ち主、ポール・サイモンと誰よりもヨーロッパ的な美しい声の持ち主、アート・ガーファンクルの出会いが生んだ二人で一人のシンガー&ソングライター。
 彼らの音楽は美しい詞と美しい声、そして美しいメロディーが織りなすハーモニーでした。サイモン&ガーファンクルの解散後もポール・サイモンは、次々に素晴らしいアルバムを発表していますが、それはけっしてサイモンとガーファンクルの再現ではありませんでした。彼は自らの相棒として世界各地の優れたミュージシャンたちを選び出し、サイモン&ガーファンクルの音楽とは全く違うエスニックでリズム感にあふれた音楽を展開して行きました。
 ポールは、元々リズム大好き人間で、「サイモンとガーファンクル的な美しいバラードは好みではなかったようです。「明日に架ける橋」の録音中は、すでにその方向性の違いから二人の仲は最悪だったといいます。あの美しいハーモニーをもつ名曲の数々が、そんな状況の仲で生み出されたとは・・・もしかすると、そんな二人の葛藤があったからこそ、あれだけのテンションの高さを生み出したのではないか?それとも幼友達でもある相棒との別れをお互いに覚悟したからこそ、あの美しさが生まれたのか?そんなことを考えさせられてしまうのです。

<ロックン・ロール・アイドル誕生>
 ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、ともに1941年生まれです。ニューヨークのクイーンズ区、彼らと同じユダヤ系の人々が多く暮らす地域で育った二人は、小学生時代からの幼なじみでした。彼らは、14歳の時にコンビで最初の曲"The Girl For Me"を書き、その後自作の曲を持ってマンハッタンの音楽出版社への売り込みを開始しました。(もちろん学校の放課後や週末の活動です)
 そして、なんと15歳の時にトム&ジェリーのグループ名でレコード会社との契約を実現させてしまいます。そして、デビュー・シングル、軽快なロックン・ロール・ナンバー「ヘイ・スクール・ガール Hey,Schoolgirl」(1957年)を発表。するとその曲は、全米チャート49位まで上昇し、彼らは一躍地域の枠を越えた人気アイドルになってしまったのです。TVにも出演「アメリカン・バンド・スタンド」では、ロックン・ロールの大御所、あのジェリー・リー・ルイスといっしょにステージにも立ってしまったのです。

<トラッドの聖地への旅>
 しかし、その後トム&ジェリーは、まったくヒット曲が出なくなってしまいます。大学を出たポールは、当時フォーク界のヒーローとして大活躍していたボブ・ディランにあこがれ、トラッドの聖地イギリスへの旅に出ます。(ボブ・ディランのこの当時の歌の多くは、イギリスのトラッドを下敷きにしており、その影響を強く受けていました)彼はギター一本で弾き語りをしながらイギリスを旅し、数多くのトラッドを吸収しながら、新しい曲を書き上げて行きました。

<フォーク・デュオとしての再出発>
 こうして、彼はヨーロッパを旅行していたアートと合流し、イギリスのフォーク・クラブでのライブ活動を続け、少しずつその名がマスコミに知られるようになって行きました。するとそんな彼らに大手のレコード会社CBSが目をつけ、ついに1964年サイモンとガーファンクルのデビュー・アルバム"Wednesday Morning,3A.M."が発表されました。ところが、当時のフォーク・ブームの勢いに乗って、活躍するだろうと期待されていた二人でしたが、なんとそのデビュー・アルバムは、当初3000枚程度しか売れなかったといいます。その結果にショックを受けたポールは、再びイギリスへと渡ってしまいます。時代はすでにフォークの時代からフォーク・ロックの時代へと変わりつつあったのです。

<予期せぬ出来事>
 ところが、ここで予期せぬ出来事が起こります。ファースト・アルバム収録の"The Sound Of Silence"の美しいメロディーをなんとか活かしたいと考えたプロデューサーのトム・ロビンソンが、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」の録音に集まっていたミュージシャンたちを使って、エレクトリック・バージョンのバック・トラックを制作し、二人のヴォーカル・トラックにオーヴァー・ダビングして発売してしまったのです。もちろん、そのことは二人の歌い手には知らされていませんでした。
 こうして、あの大ヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」(1966年)が生まれ、このシングルは、あれよあれよという間に全米ナンバー1になってしまったのです。

<イギリスでの再々出発>
 ところが、そんなことが起きていようとは知るはずもないポールは、イギリスでソロ・アルバムを録音していました。1965年に制作されたこのアルバム"The Paul Simon Song Book"には、後のサイモンとガーファンクルのレパートリーが10曲も収められていました。(ところが、このアルバムは、結局アメリカでは発売されず、イギリスと日本でのみ発売されました)
 この時すでにサイモンとガーファンクルの原型は、ポールによって作り上げられていたと言えるでしょう。

<フォーク・ロック・デュオとしての再出発>
 人気の急上昇に驚いたCBSは、ポールのソロ・アルバムを基に、そのエレクトリック・バージョンとも言えるアルバム"The Sound Of Silence"を制作。セカンド・アルバムとして発表し、続けて同じ年の11月にはサード・アルバム"Parsley,Sage,Rosemary And Thyme"を発表。シングル・カットされた"Scarborough Fair/Canticle"は彼らの代表曲となりました。
 1968年、いよいよ彼らの人気は頂点に達しようとしていました。ニューシネマの代表作であると同時にラブ・ストーリーの定番ともなった映画「卒業」(マイク・ニコルズ監督、ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス、アン・バン・クロフト出演)のサウンド・トラック・アルバムの発売は、それを決定づけました。このアルバムからは、"Mrs.Robinson"が見事にヒットしました。(アコースティックでありながら、これだけのスピード感をもつ曲は、そうないでしょう)
 それに続いて彼らのオリジナル・アルバム"Bookends"が発売され、彼らの人気はいよいよアメリカでもトップ・クラスと呼べるほどになっていました。

<頂点での解散>
 しかし、終わりはその人気の頂点でやってきました。1970年彼らのラスト・アルバムであり、彼らの最高傑作とも言えるアルバム「明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water」が発売されました。ロック史に残る名曲のひとつ、アルバム・タイトル曲の「明日に架ける橋」、ポールが後に歩むことになるエスニックな方向性を暗示していたフォルクローレのカバー「コンドルは飛んで行く El Condor Pasa」、これこそポールの好きなタイプのロック・ナンバー「いとしのセシリア Cecilia」、ドラマチックでスケールの大きな名曲「ボクサー The Boxer」、二人の別れを予告していたかのような「バイ・バイ・ラブ」など、彼らの代表曲が満載のこのアルバムは、まさに歴史的名盤と呼ぶに相応しい作品でした。

<その後の二人>
 この傑作をもって二人は別れ、アートは「愛の狩人」などの映画に出演したりしながら、「エンジェル・クレア」(1973年)など数枚のアルバムを発表しました。
 それに対し、ポールはソロになってもその創作意欲はまったく衰えず、次々にアルバムを発表して行きました。代表的な作品をあげてみると、解散後初のソロ・アルバム"Paul Simon"(1972年)、「ひとりごと There Goes Rhythmin' Simon」(1973年)、そしてジャズ・ロック系AORの傑作「時の流れに Still Crazy After All These Years」(1975年)、南アのポップスの影響を強く受けたエスニック・ロックの名作「グレイスランド Graceland」(1986年)、ブラジリアン・ポップスをいち早く導入した「リズム・オブ・ザ・セインツ Rhythm Of The Saints」(1990年)など・・・21世紀に入っても、その活躍は続いています。

<ポールへの批判>
 彼らは自分たちの知らぬ間にフォーク・ロックのブームに乗る形で、一躍全米の人気者になってしまったわけですが、そのせいか彼らの音楽的変化は評論家たちに批判される場合が多かったようです。そして、そんな評論家受けの悪さは、その時だけのことではありませんでした。
 先ずは、彼らの人気が爆発する前のこと、ティーン・エイジ・ロックン・ロールでデビューしながら、突然フォーク・デュオに転向した時も同じようにフォーク・ブームに乗った浮気者だという批判がありました。そして、それはポールがソロとして活躍してからも続きます。
 彼のシニカルな歌詞に対するやりすぎだという批判は常に多かったようです。例えば、彼の大ヒット曲「恋人と別れる50の方法」は、実に楽しいリズムの曲でありながら、暗い恋人との別れが歌われています。しかし、そのギャップが鼻につくというのです。
 そして、彼のことを「第三世界のミュージシャンたちの美味しいリズムやフレーズを横取りする音楽植民地主義者」だとする非難は一時は、大きな話題ともなりました。これは、ポールの傑作アルバム「グレイスランド」発表時に起きた事件です。このアルバム発表の前年、1985年はあの「サン・シティー」(アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト)が発表された年でもあり、南アのミュージシャンたちを使った彼の作品が白人による植民地支配の代表的な行為ととられてしまったのです。時期が悪かったと言うべきか・・・そこにはやはり批判される理由があったのでしょうか?
 こうしたポールに対する批判は、ユダヤ系ニューヨーカー独特のシニカルなインテリジェンスに対するアメリカ人の多くがもつ嫌悪感からくるものなのか?それともポール・サイモンというちょっと気むずかしいアーティストの人間性によるものなのか?(ちなみに、映画界でいうとウディー・アレンがまさに同じような立場、インテリ・ユダヤ系ニューヨーカーの典型だが、彼の場合は逆に批評家に好かれ、大衆にそっぽを向かれています)
 さていったい真実はどこに?少なくても、彼の問題作「グレイスランド」が、文句なしの傑作であり、聞いていて最高に楽しいことだけは確かです。

<シニカルな社会のためのシニカルな音楽>
 ポールは、ある意味では良質なAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)の先駆け的存在でもありました。若くして彼の歌は、人生の悲劇をシニカルに見つめる視点をもっており、それが逆に若いロック・ファンたちから反発を買うもとになったとも言えるのかもしれません。しかし、年をおうごとに彼の視点はごく自然な(年相応の)ものとなり、ある種都会に住む大人たちのイージー・リスニングとしてぴったりとはまる音楽になってきているようです。
 そして、そのことは、もしかすると社会全体が少しずつシニカルになってきているせいなのかもしれません。今や、ニューヨークはそんなことも言っていられない状況になってしまったのですが・・・
<締めのお言葉>
「悲観主義者とは、楽観主義者とともに生きねばならない人間のことである」

マーク・トウェイン

   トップページヘ