- テレンス・トレント・ダービー Terence Trent D'Arby -

<ジャンルの壁をぶち破れ!>
 20世紀ポップスの歴史において、ジャンルの壁を壊そうと苦しんだアーティストたちの物語ほどドラマチックなものは、ないかもしれません。中でも、黒人ミュージシャンたちの場合は、そこに人種的な偏見との闘いも加わり、よりドラマチックなものにならざるを得ませんでした。
 黒人アーティストとして、R&Bの世界とロックン・ロールの世界の橋渡しとなったチャック・ベリーリトル・リチャードは、見事にアイドルへの道を登り続けたものの、その後数々の事件に巻き込まれて、転落への道を歩むことになりました。ファンクへの道を切り開いたジェームス・ブラウンも何度も逮捕され、音楽シーンから消されるところでした。スライ・ストーンもそんな転落を経験することになりました。もちろん、あのジミー・ヘンドリックスの悲劇の物語も忘れるわけには行かないでしょう。その後も、パンクとファンクの融合を試みたフィッシュボーンやロックの世界に進出しようとしたリビング・カラーなど、数多くの黒人アーティストたちが、CDショップの「ソウル、R&B」のコーナーからの脱出を試みてきました。(かつて「パープルレイン」を発表した頃のプリンスは、ロックへの進出を目指していたようでしが、結局ファンクにこだわり続け、今や再びファンクの原点に戻りつつあります。だからこそ、彼の人気は衰えをしらないのかもしれません)
 そんな数多い挑戦者たちの中でも、ひときわ異才を放つアーティスト、それがTTDこと、テレンス・トレント・ダービー Terence Trent D'arbyです。

<TTD>
 テレンス・トレント・ダービー、その名を知る人はしだいに減りつつあります。ソウル系でもなく、ロック系でもなく、もちろんヒップ・ホップでもハウスでもない彼の存在は、どの音楽ジャンルにも属していません。
 「自分こそが、一つの音楽ジャンルなのだ」という強い意志が、そうさせたのかもしれません。しかし、かつては「ポスト・プリンス」、「新しいブラック・ミュージックの騎手」と呼ばれていながら、ヒットに恵まれなかった彼は、いつしか音楽シーンから忘れられてしまいました。
 その間に、彼の後から現れた新人レニー・クラヴィッツがあっという間に彼のお株を奪い、それだけでなく人気アーティストの仲間入りを果たしてしまったのです。どうも時代は、昔から先人に厳しいようです。

<無国籍人生>
 1962年にニューヨークで生まれたTTDは、アフロ・アメリカンの血筋に加えて、チェロキー・インディアン、スペイン、アイルランドなどの血が混じっているといいます。そのことが、彼の人生、音楽に大きな影響を与えたことは間違いなさそうです。(考えてみると、ジミ・ヘンにも、チェロキー・インディアンの血が混じっていました)
 デビュー前から強烈な個性と自分に対する自信をもっていた彼は、思い通りの作品を作ることのできる場所を求め、あえて故国アメリカを離れイギリスへと渡ります。それは彼がかつて兵役でドイツに滞在していた時の経験がきっかけだったようです。
 イギリスという国は、伝統的に海外の文化に対して敬意をもって接する傾向があります。特に黒人音楽に関しては、本国アメリカ以上にファン層が厚く、ストーンズやビートルズのようにブルース好きの白人たちによるビート・バンドのブームやモータウンなどソウル好きの白人たちよるモッズ・ブームメントなど、常に数多くのブームと人気アーティストを生み出してきました。(スタイル・カウンシルとポール・ウェラー、ジャミロクワイ、カルチャークラブ、エルヴィス・コステロヴァン・モリソンなど、数え上げたらきりがありません)
 だからこそ、ジミ・ヘンはイギリスで認められたこそアメリカに逆輸入されて一躍大スターになったのです。これは独自の文化をもたないアメリカがヨーロッパ文化に対してもっている劣等感の影響もあるでしょう。

<イギリスからのデビュー>
 こうして1987年、彼は25歳でイギリスからデビューを飾りました。アルバム・タイトルは"Introducing The Hardline According To TTD"=「TTDによる苦境もしくは不運をご紹介いたします」実に意味深なこのタイトルは、未来を予言していたと言うよりは、自信に満ちたアーティストとしての宣言だったのでしょう。
 実際、インタビューなどで、彼は自らを「スーパー・スターになるはずの存在」と言い切っていたといいます。そして、その宣言通りデビュー・アルバムは、すぐに全英ナンバー1に輝き、本国アメリカでも4位まで上昇、セカンド・シングル"Wishing Well"は、見事全米1位に輝きました。しかし、ここから彼のHardline(辛い人生)が始まったのです。

<TTD宣言>
 1989年発表のセカンド・アルバム"N.F.N.F. TTD's Neither Fish Nor Flesh"=「魚でも肉でもない、俺はTTDだ!」これまた意味深なタイトルのアルバムは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンに捧げられた作品というだけのことはあり、かなり内省的で構成も複雑なミクスチャー・ポップに仕上げられていました。もし、このアルバムが21世紀に発表されていたら、その高度なポップ感覚に飛びつく人は多かったに違いありません。しかし、残念ながら時はまだ80年代でした。まして、自閉症的とも言える歌詞が一般大衆に受け入れられるはずもなく、まったく不発に終わってしまいます。

<噛み合わなくなった歯車>
 1993年のサード・アルバムのタイトルは、"TTD's Symphony or Dawn"=「調和かさもなくば破滅か」。またもや意味深なタイトルのこのアルバムも残念ながら不発に終わります。そして一度噛み合わなくなった歯車は、元には戻らなくなってしまいました。
 1995年彼は4枚目のアルバム"TTD's Vibrator"を発表しますが、これもまたヒットにはほど遠い結果に終わります。
 ファンク・ロックのハードな曲やキューバ風のラテン・ナンバー、スティービー・ワンダー風のバラード、カーティス・メイフィールド風のワウワウ・ギター・ナンバーなど、多彩でポップな内容は、彼の才能が本物であることを改めて証明するものでした。

<天才なるが故に>
 彼はほとんどの曲で、自ら楽器演奏、コーラスまでを行っています。だからといって、バンドを従えてのライブが魅力がないかというと、まったくそんなことはないのだそうです。この点は、プリンスとも共通するところであり、まさに天才と呼ぶに相応しいと言えるのかもしれません。
 彼が発表したアルバムのタイトルがどれも「TTD's・・・」となっているのは、彼の強い自我の現れだという人もいますが、・・・もしかすると、そう思われる存在へと自らを追い込んでいるのではないか?そう思える気もします。
 実際、彼のアルバムのジャケットを並べてみると、あることに気がつきます。それは、どのジャケットに写る彼の写真は、どれも斜めにうつむいていたり、目を閉じているのです。唯一目を開けている「NFNF」のジャケットでは、彼は手で目以外の部分を隠しています。これは、ちょっと偶然とは思えません。
 そして彼は、アルバム" Vibrator"の中の曲"Surrender"でこう歌っています。
「自分の人生をじっくり見直して
 そこに見たものに涙した
 けれど僕にはどうしようもない
 空に向かって顔を上げ
 降参するのみ・・・・・
 僕は移ろいやすい灯火
 罪の存在を信じないが
 自分を信じ、君を信じている
 信じるのはそれだけでじゅうぶん
 あとはなるようになる・・・」
 作詞 TTD 訳詞 染谷和美

<締めのお言葉>
「ヨーロッパ人は文化も含めたすべてのものを過去から「無料」で相続する立場にいるが、アメリカ人はヨーロッパ人の指定した値段ですべての文化を買わなければならなかった。そのため、アメリカ人はどんな価値も金銭に換算せざるを得ず、したがってあらゆるものを割り切る必要にせまられた」

S・スペンダー

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