- 寺山修司 Shuji Terayama (前編) -

<寺山修司複数説>
 「寺山修司は一人ではなく複数いるのではないか?」という「寺山修司複数説」というものがありました。それは寺山修司の仕事があまりに多くのジャンルに及び、なおかつ同時進行的に進められていたため、一人ですべてこなしていたとは思えなかったからです。その多彩さは彼に与えられた数多くの別称からもわかります。
「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」「覗き見マニア」「エロスのアナキスト」「政治嫌いの革命家」「ジャンルを超えたコラージュの達人」「あしたのジョーを愛した男」「三島由紀夫のライバル」「生まれながらのトリック・スター」「サブ・カルチャーの先駆者」などなど。実際、彼が手がけた仕事をあげてみると、詩人、編集者、歌人、俳人、戯曲作家、脚本家、ルポ・ライター、小説家、エッセイスト、演出家、放送作家、映画監督、作詞家、イベントの仕掛け人、評論家(競馬。ボクシングなど)、劇団主催者、路地の探検家、コメンテーター・・・など。
 いったいどれが本当の仕事なのか?そう問われて彼がこう答えたのもまた有名です。
「職業は寺山修司」
 確かに彼はこの答えで十分通用するだけの仕事をしたといえるでしょう。

<青森での少年時代>
 寺山修司は1935年12月10日青森県弘前市に生まれました。ただし、警官だった父親が出張中だったため出生届けは遅れて出されたため戸籍上は1936年1月10日の生まれになっています。その後まだ彼が物心つく前に父親は出征し、南太平洋で戦病死してしまったため、母親と二人暮らしをすることになります。しかし、その家も空襲で焼かれてしまったため、二人は伯父の家に間借りすることになりました。
 戦後、父親のいない家庭を維持するため、母親のはつは三沢の米軍キャンプで働き始めます。回りから冷たい目で見られながらもはつは、そこであるアメリカの兵士と関係をもつことになりました。その兵士が家を訪れる日、彼は家に戻ることを許されず、外で時間をつぶすことになり、回りの子供たちからも特異な存在と見られてたいました。当然彼はアメリカの文化をいち早く吸収し、それ以上に誰よりも早く精神的に大人への道を歩みだしていました。1948年、その米兵が九州へ移動することになるとはつもまた九州へと旅立ちます。それは、生きるため仕方がない選択だったのか、それとも単に自分は捨てられたのか、彼は苦しい思いを抱きながら一人青森に残ることになりました。しかし、この時青森に残ったことは彼にとって幸いだったのかもしれません。

<芸術を吸収した青春時代>
 残された彼は映画館、歌舞伎座を経営していた青森の大叔父のもとにあずけられ、そこから中学校へ通いました。この頃から彼は実家の映画館で数多くの映画を見るようになります。洋画を中心に上映していたこともあり、彼の脳裏にはヨーロッパ、アメリカの文化がしっかりと刻み付けられることになりました。彼の映像的な詩や俳句の背景には、この頃目にした映画の画面が大きく影響しているようです。当然、同年代の子供たちより大人びており、学校での評価も「頭は非常に良いが、それを鼻にかける傾向あり」というものでした。
 さらに彼はこの頃から文学の世界にものめり込み始めていました。島崎藤村、山本有三、志賀直哉、森鴎外、田山花袋、谷崎潤一郎、石坂洋次郎、オルコットの「若草物語」・・・なかでも歌人の石川啄木に強く憧れていた彼は、中学校の校内新聞に早くも短歌を載せるようになっていました。この頃の彼は「昭和の啄木」を目標に同じ学校の京武久美をライバルとして、短歌、俳句に熱中していたようです。
 学生時代の京武久美を初めとして、彼は新たなジャンルに挑むたびにそこで良きライバルを見つけ、その人物と競い合うことで自らのレベルを向上させて行きます。負けず嫌いだった彼にとって、こうしたライバルの存在は生涯を通じて優れたライバルに恵まれたことは彼にとって大いなる幸いだったといえそうです。

<俳句の世界への挑戦>
 その後彼は同じ高校の仲間と共同で校内俳句大会を開催しただけでなく青森県高校俳句大会を開催し、さらには全国高校俳句コンクールを実施。ついには十代の若者を対象とした全国規模の俳句誌「牧羊神」を創刊するにいたります。彼が編集長を務めたこの俳句誌は全部で12号発行されました。驚くべき行動力です。彼が単なる文学青年ではなく、単なる芸術家でもなく、総合的なプロデューサーのような存在としてあらゆることに挑戦しようとしていたことがわかります。
 1954年、彼は早稲田大学教育学部国文学科に入学するため上京します。そして同年彼は「短歌研究」の主催する第二回五十首募集に応募し、「チェホフ祭」で見事特選に選ばれました。彼はいっきに「昭和の啄木」になったかのようでした。ところがここで予期せぬトラブルが発生します。
  賞が発表された後すぐに、彼の「チェホフ祭」に対し盗作であるという批判が浴びせられ始めたのです。それは彼がすでに俳句として発表していた作品や他人の俳句をもとに何編かの短歌を作っていたことが明らかになったからでした。これはかつてヒップ・ホップが生まれた頃、サンプリングが盗作にあたるかどうかでもめていたことと似た問題かもしれません。寺山修司が「コラージュの天才」もしくは「模倣小僧」と呼ばれることになる原点はここにありました。しかし、彼のこうしたアイデアの再利用はこの後さらに多岐にわたり、それが彼のスタイルとして定着することになります。彼の場合、アイデアを他所から持ってきても、完全に自分のものとして再生させているので、出来上がった作品が原典よりも有名になる場合も多々ありました。
 例えば、カルメン・マキの大ヒット曲のタイトル「時には母のない子のように」は黒人霊歌「Sometimes like a motherless child」からとられているのは明らかです。
 後に彼が立ち上げる劇団の名前「天井桟敷」は、フランス映画の歴史的傑作「天井桟敷の人々」からとられたのでしょう。
 彼の晩年の傑作で映画化もされた芝居「百年の孤独」はガルシア・マルケスの同名小説からとられているのは内容的にも似ているので明らかです。
 その他、彼の芝居のタイトルには「星の王子さま」というのもあります。(後に野田秀樹主催の「夢の遊眠社」が展開する芝居も、彼の手法をより推し進めたものだったと思います)こうして、彼は優れた編集者としての感覚をあらゆるジャンルに用いることで次々に新しいスタイルを生み出していったわけです。

<病いとの戦いの始まり>
 盗作問題が持ち上がってすぐ、彼はネフローゼ症候群という病にかかり数年にわたる入院生活を余儀なくされ、一時は命を失いかけるほど悪化したそうです。これから人生が始まろうとしていた時期、まだまだやりたいことだらけだった時期なだけに彼の生きようとする思いは強く、その後彼はどんなことがあっても自殺という行為を否定するようになります。そして、この入院は彼に人生の残り時間を考えさせることにもなり、その後「寺山修司複数説」を生み出すことにもなるワーカホリックぶりの原因になったともいえそうです。ネフローゼは一応治ったものの、その後も彼は常に健康に対する不安を抱え、死を意識しながら生きてゆくことになります。

<山田太一との出会い>
 ちょうどこの頃、彼は大学で知り合った山田太一という青年と親友になり、入院中も手紙のやり取りを続けお互いの恋の悩みを相談し合うほどの仲になってゆきました。もちろん、山田太一とは、後に脚本家として日本を代表する作家となる山田太一のことです。二人は、後に山田太一と結婚する女性に同時に恋してしまったこともあり、親友であり、恋のライバルでもありました。
 さらに彼はこの頃、その後詩人として寺山のライバルとなる谷川俊太郎も知り合っています。彼は退院後、何もせずにフラフラしていた寺山にラジオ・ドラマの脚本を書くよう薦めてくれ、そのおかげで彼は再び芸術活動を再開、その後のブレイクに至ることになります。
 1958年やっと彼は退院することができました。しかし、大学には籍を残していたもおの、彼は職もなく住所も不定のまま、ジャズ喫茶に入り浸り、賭け事とボクシングに熱中する退廃的な生活を続けていました。そんな彼を救ったのが、「ラジオ・ドラマの台本を書いてみないか」という谷川からの誘いだったのです。

<多彩な活動の始まり>
 1959年に寺山が書いたラジオ・ドラマ「中村一郎」は民放祭最優秀賞を受賞。その後も「山姥」(1964年)がイタリア賞グランプリ、「大礼服」(1964年)が芸術祭奨励賞などと次々に賞を取ってゆきました。
 さらに1960年になると彼の名は日本中に知られ始めます。彼の書いたラジオ・ドラマ「大人狩り」(子供たちが革命を起し大人を収容所に押し込むという当時の時代背景を反映した作品)は革命と暴力を扇動する作品として批判されますが、そのおかげで彼の知名度はさらに高まってゆきました。
 彼の戯曲「血は立ったまま眠っている」を浅利慶太が立ち上げたばかりの劇団四季が上演しました。
 彼は初めて16ミリ映画に挑み、「猫学 Catllogy」を監督。彼は映画監督になったばかりの篠田正浩から脚本を依頼され「乾いた湖」のシナリオを担当。この作品は篠田正浩初のヒット作となりました。(この撮影で後に寺山修司夫人となる九条映子と出会っています)
 彼は雑誌「文学界」に小説「人間実験室」を発表。彼はテレビ・ドラマ「Q」の脚本を担当。テレビの世界にも進出しました。
 入院中にたまっていたエネルギーを吐き出すかのように彼はあらゆるジャンルに向けて自らの才能を発揮し始めたのでした。

<結婚、母親との対立>
 1963年、彼は俳優の九条映子と結婚します。しかし、母親のはつはその結婚に反対し、結婚式にも出席しないうえに二人の新居で放火騒ぎまで起してしまいます。同じ年、彼はエッセイ集「家出のすすめ」を書き、その後も作品テーマとして「母親殺し」を何度も取り上げていますが、この母にしてこの子ありということでしょうか。しかし、彼は母を憎むと同時に愛してもおり、その後彼が離婚してからは再び同居し、彼の建てた芝居小屋の喫茶店では母親を雇うなど、普通の親以上の関係を持ち続けています。まさに「愛憎相半ばする関係」だったといえるでしょう。
 だからこそ、エッセイ集「家出のすすめ」は(発売当初のタイトルは「現代の青春論」)説得力をもち、当時の若者たちに大きな影響を与えると同時に多方面から批判の声があがることになりました。「政治は嫌いだが、革命は好きだ」と言った寺山修司の活動はいよいよ本格的に若者たちを扇動し始めるようになってゆきます。

<劇団「天井桟敷」誕生>
 1967年、寺山修司は妻の九条、後に東京キッドブラザースを立ち上げることになる東由多加、横尾忠則らとともに「演劇実験室・天井桟敷」を立ち上げました。この劇団は通常の劇団とは異なり、出演者は「奇優怪優しゅ儒巨人少女等募集」というポスターとオーディションによって集められていました。もちろん演技経験などは重要ではなくその個性のみが評価されました。こうして選らばた俳優たちの中から主役に抜擢されたのは、シャンソン歌手としてすでに活躍していた美輪明宏(当時は丸山明宏)で、その他には麿赤児やポスターどおりに巨人、肥満、小人など体型で選ばれた者も数多くいました。それは劇団のテーマが「見世物小屋の復権」であり、通常の劇団が目指すところとは根本的に違っていたせいでもありました。
 当然彼らの芝居は演劇界に大きな衝撃を与え、それまでの新劇とはまったく異なるスタイルは、アンダーグラウンド演劇と名づけられることになります。当時、アングラ演劇界は彼以外にも、唐十郎の「状況劇場」、鈴木忠志、別役実の「早稲田小劇場」、佐藤信、串田和美、斉藤憐らの「自由劇場」などが活躍を始めており、一大ブームを迎えようとしていました。しかし、そんな中でも「天井桟敷」の人気は非常に高く、1969年には早くもドイツのフランクフルトで開催された国際前衛演劇祭<エクスペリメンタ3>に招かれて高い評価をえるなど、海外での人気も高まりを見せてゆきます。さらには彼らの芝居は海外の演劇コンクールでも賞を受賞。世界中に「テラヤマ」の名を知らせることになってゆきます。

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