- セロニアス・モンク Thelonious Monk -

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<モンクと僕>
 かつて、ジャズ・ファンの多くはモンクの才能に対して否定的だったといいます。それはもちろん、従来の音楽的常識では考えられないリズムや音階に違和感を憶えたからなのですが、考えてみると僕にとってのモンクは、最初からイージー・リスニングのように自然に耳になじんでしまっていました。モンクの不協和音は、もしかするとロック世代のノイズに慣れた僕らにとっては、耳なじみの良い音楽なのかもしれません。
 特に印象深いのは、軽井沢に友達と遊びに行ったときのこと、早朝にひとりで散歩しながら聴いた彼の代表作「モンク・ヒムセルフ」です。朝靄の中から現れて来る風景と一音一音生み出されてくるような音楽空間の広がり、それは立体的な音による彫刻のように感じられたものです。

<モンクと家族>
 セロニアス・スフィア・モンクは、1917年10月10日にノース・キャロライナ州のレッド・ロウという街に生まれましたが、1923年、彼は家族とともにニューヨークに引っ越しました。したがって彼は、ほぼ生粋のニューヨーカーということになります。ところが、彼の父親は、数年後に精神の病に冒され、家族から離れノース・キャロライナへと帰ってしまいます。彼は、その後1969年に亡くなるまで、その安否すら分からない状態だったようです。そして、この父の精神病が後の彼の精神にも現れたのではないかと言われることになります。
 こうして、父親を失った家族、三人の子供たちを、彼の母親はひとりで養って行くことになったわけです。

<モンクとピアノ>
 ニューヨークに引っ越して間もなく、姉がピアノを練習しているのを見ていた当時まだ5歳のモンクは、自然に譜面が読めるようになり、ピアノも弾けるようになっていったといいます。そして、11歳からは、正式な音楽教育を受け始め、近くの音楽院で音楽理論も学びました。ところが、当時の彼はピアノだけでなく、バスケット・ボールにも優れた才能を示し、それ以上に物理や数学においてその天才ぶりを発揮していたというのです。彼の頭の中はこの頃からちょっと他の人とは違ったようです。そのため、彼はまだ黒人学生が少なかったピーター・スタイブサント高校に進学することになりました。
 しかし、教会の合唱団でオルガンを弾いたり、パーティーでのピアノ弾きなどを請け負ったりして、すでにセミプロ・ミュージシャンとしての活動を始めていた彼は、自分の将来の目標を、すでにプロのピアニストと決めていました。

<モンクとビ・バップ>
 彼は結局高校を中退し、ある福音伝道者の楽団とともに2年間全米を旅して回りました。このツアーの経験は、彼を精神的に大きく成長させましたが、それ以上に彼にとって大きかったのは、毎晩のように全国各地のナイト・クラブで繰り広げられるアフター・アワーズ(営業終了後)のジャム・セッションに参加できることでした。
 そんな旅を終えたモンクは、ニューヨークへ戻るとビ・バップ発祥の地となったミントンズ・プレイハウスなどを中心に活動を始め、ジャズ・ピアニストとしてその名を知られるようになってゆきました。しかし、ビ・バップという新しいサウンド・スタイルが生まれるその中心地にいながら、すでに彼の才能はそれとはまた別のものをもち、そのユニークさが際だっていました。そのため、彼の特異な才能を理解することのできる人物、レーベルとの出会い抜きに、彼の活躍はありえなかったと、言われています。

<モンクとブルー・ノート>
 彼に最初に惚れ込んだのは、ブルー・ノート・レーベルのオーナー、アルフレッド・ライオンでした。彼は1947年にモンクといきなり5年間の契約を結び、まだまったく知名度がなかった彼の録音を次々に行ってゆきました。そして、その録音の中で、はやくも彼の代表的な名曲の数々か生まれたのです。(「ストレイト・ノー・チェイサー Straight No Chaser」、「セロニアス Thelonious」、「イン・ウォークト・バド In Walked Bud」、「ミステレリオーソ Misterioso」など)
 さらにこの年、モンクは彼をその後一生支え続けてくれることになる愛妻ネリーと結婚しています。しかし、当時彼の才能はまだまったく理解されておらず、そのため、しだいに彼はそのうさを晴らすため、麻薬づけの生活へとのめり込んで行きました。そして、1951年彼は麻薬の不法所持によって逮捕され、クラブに出演するために必要なキャバレー・カードを没収されてしまいました。そんな中ついに彼の精神状態は、少しずつ崩壊に向かう兆候を見せ始めたのです。

<モンクとプレスティッジ>
 1952年、モンクは新興のレーベル、プレスティッジと契約します。ここで彼はアート・ブレイキーマックス・ローチとのトリオ、それにソニー・ロリンズを加えたカルテットとしてアルバムを録音しました。クラブでの演奏を行うことができない彼の知名度は相変わらず低いままでしたが、彼を評価する人の数は確実に増えゆきました。なかでも、フランスのピアニスト、アンリ・ルノーは彼に惚れ込み、1954年彼をフランスに招待し、コンサートを開催しました。この時出会ったパノニカ・ケーニングスウォーター男爵夫人は、この後彼のパトロンとして、金銭的、精神的に長く彼を支えてくれることになります。(彼の代表曲のひとつ「パノニカ」はもちろん彼女に捧げられた曲です)
そしてこの時、初めて彼のソロ録音が行われ「ソロ・オン・ヴォーグ Solo On Vogue」として発売されました。

<モンクとリバーサイド>
 モンクは1955年、プレスティッジよりもさらに新しいレーベル、リバーサイドと契約をかわしました。このレーベルのプロデューサー、オリン・キープニューズは、モンクにあえてオリジナルではなくスタンダード・ナンバーの録音をすすめます。こうして、「デューク・エリントン作品集 Plays The Music Of Duke Ellinghton」、「ザ・ユニーク The Unique」が制作され、モンクの難解とされるイメージを少しでも和らげることができるものと期待されました。しかし、意外なことに売上は今ひとつだったようです。
 そして、この反省のもとに生まれたのが、最もモンクらしい作品であり、後にジャズ史に残る名盤と呼ばれることになるアルバム「ブリリアント・コーナーズ bulliant corners」(1956年)でした。時代は、すでにモンクを受け入れる準備ができており、このアルバムは大きな評判を呼びます。翌年の「セロニアス・ヒムセルフ Thelonious Himself」、「モンクス・ミュージック monk's music」も文句なしの作品であり、いよいよ彼はジャズ界の巨人の仲間入りを果たしたのです。

<モンクとコロンビア>
 1961年、モンクはついにメジャー・レーベル、コロンビアと契約をかわしました。いよいよモンクはミュージシャンとして安定期を迎え、サックスのチャーリー・ロウズを中心とするカルテットでの海外ツアーを行うなど充実した活動を続けて行きます。しかし、ジャズの黄金時代はすでに峠を越しており、そんな時代の流れとともに、彼の精神状態は、再び悪化のスピードを速めてゆきました。

<モンク最後の日々>
 モンク最後の日々は、ほとんど謎に包まれています。1971年にロンドンで録音を行って以来、彼は二度とレコーディングを行ないませんでした。(この録音は、「ザ・ラスト・レコーディング」として発売されています)そして、1973年以降ほとんどの時間を富豪ニカの家で妻のネリーと過ごすようになり、たまにライブを行うこともありましたがそれも1976年が最後となりました。自閉症らしき彼の精神障害の症状はしだいに悪化してゆき、ついには誰とも話しをしなくなってしまったようです。
 それから1982年2月17日に脳内出血でこの世を去るまで、ずっと彼はネリーとともに、ほとんどニカの家を出ることもなく静かな生活を続けていたと言われています。その間の数年間、彼がいったいどんなことを考えていたのか?それはまったくの謎です。
 ニカとは、チャーリー・パーカーの最後を看取ったことでも知られる大富豪パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーターのことです。。彼女はモンクをその死まで守り続けました。彼女がいかに多くのジャズ・ミュージシャンたちの世話をしたか!ジャズ界最大の恩人の一人です。彼女のページも合わせてご覧下さい。

<モンクのピアノ・サウンド>
 モンクのピアノが表現しようとしていたものは、何か?そのヒントは、どうやら「アフリカ」にありそうです。
 もともとジャズにおけるピアノという楽器の役割は、クラシック音楽においてピアノが果たしていたものと同じ、メロディーを奏でることでした。しかし、アフリカン・ブラックの手にかかり、ピアノはまるで打楽器のようにリズムを生み出す楽器へと変身をとげました。それどころか、ブルース・ギターのように黒人音楽独特の不協和音をも生み出すようになり、まったく新しい楽器へと変貌をとげたのです。
 そして、その最大の貢献者とも言えるのが、モンクという偉大なピアニストでした、そう考えると彼のサウンドが未だに多くのフォロワーを生みだしていることにも納得がゆきます。(さらに言うと、ジミ・ヘンドリックスがギターで追求していたことを、モンクはピアノで追求していたとも言えるでしょう)

<モンクとロック・ミュージシャン>
 1984年、あのブルース・ブラザースを生み出したアメリカの人気番組「サタデイ・ナイト・ライブ」のプロデューサー、ハル・ウィルナーがモンクのトリビュートアルバムを制作しました。タイトルは、"That's The Way I Feel Now"。モンクの残した名曲の数々をロック、ジャズ入り乱れたメンバーがカバーした作品集でした。
 参加メンバーは、ジャズ界からはチャーリー・ロウズスティーブ・レイシーカーラ・ブレイギル・エヴァンスバリー・ハリスランディー・ウェストンエルヴィン・ジョーンズボビー・マクファーリン。そしてロック界からは、元スティーリー・ダンのドナルド・フェイゲンドクター・ジョンジョー・ジャクソントッド・ラングレンピーター・フランプトンクリス・スペディング、それに今や人気プロデューサーでもあるドン・ウォズ、前衛系のジョン・ゾーンと一癖、二癖ある顔ぶれをそろえて、それを二人づつペアにするという斬新な作りになっていて、ぶっ飛び前衛サウンドからオリジナルに忠実なもの、エレクトリック・プログレ風、ニューオーリンズ風など実に楽しくバラエティーに富んだ内容になっています。
 この後、異なるジャンルのミュージシャンによる数多くのトリビュート・アルバムが生まれていますが、この作品はまさにその先駆けとなったものでした。そんな優れたアルバムを生み出すことができたのも、やはりミスター・ユニーク、モンクの曲の汲めどもつきぬ魅力があったからこそでしょう。

<モンクの脳>
 セロニアス・モンクは、数学と物理の天才だったという話しがあります。彼の伝記にそんな記述があって、僕はなるほどと思いました。実は、僕はかつて大学の理学部で物理を勉強していたため、物理や数学の天才の頭の中が、わずかながら理解できる気がします。(残念ながら、僕は天才ではなかったので、ちらっとだけです)
 たぶん、彼の頭の中には楽譜、メロディー・ラインという二次元的な音の世界を越えた立体的な音響空間のようなものが構築されていたのでしょう。彼は、時空連続体としての音楽を完璧に把握できる特殊な脳の構造をもっていたのではないでしょうか?(彼のピアノ演奏における独特の間は、彼が頭の中で音の空間位置を計算しているために生まれたという説があるのです)
 彼が遺伝的と思われる精神の病に苦しんでいたことも考え合わせると、彼のその能力はやはり凡人には到底到達できないものだったのでしょう。(ここで、理解不能とも言われた究極のハーモニーを生み出したロック界のブライアン・ウィルソンのことを思いだした方も多いのではないでしょうか?)

<締めのお言葉>
「われわれの脳は或る数学にのっとり「具体的」実在を作り出すが、それは別の次元、すなわち時間・空間を超越しながら有意味でパターン化されている第一次的な実在領界からの振動数を解釈することによってなされる。脳はホログラフィックな宇宙を解釈するひとつのホログラムである」
ケン・ウィルバー編「空像としての世界」より

<追記>
「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」
「新しい音(NOTE)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」

セロニアス・モンク
「村上春樹 雑文集」より

<代表作>
「ブリイアント・コーナーズ」
 1956年(リバーサイド)
 文句なしにモンクの最高傑作といわれている名盤中の名盤。参加しているメンバーは、ソニー・ロリンズ(ts)、クラーク・テリー(tp)、ア−ニー・ヘンリー(as)、オスカー・ペティフォード、ポール・チェンバース(b)、マックス・ローチ(dr)という豪華な顔ぶれ。小難しくなく、リラックスして聞けるポップな作品と言う点でも人気が高いのでしょう。モンクの代表曲「パノニカ」、「ベムシャ・スゥイング」などを収録。

「セロニアス・ヒムセルフ」 1957年(リバーサイド)
 これまた聞きやすいアルバム。スタンダード曲のモンク的解釈も楽しめます。メンバーは、ジョン・コルトレーン(ts)、ウィルバー・ウェア(b)の二人。ドラムレスのため、静かな中でモンクならではの音楽を楽しめるアルバム。代表曲「モンクス・ムード」収録。

「モンクス・ミュージック」 1957年(リバーサイド)
 豪華な顔ぶれをそろえたリーダー作。モンク独特の演奏にとまどうメンバーの混乱した演奏までもが魅力的な作品。参加メンバーは、レイ・コープランド(tp)、ジジ・グライス(as)、コールマン・ホーキンス、ジョン・コルトレーン(ts)、ウィルバー・ウェア(b)、アート・ブレイキー(dr)。

「セロニアス・モンクとアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」 1957年(アトランティック)
 彼と数多く共演しているアート・ブレイキーのバンド、ジャズ・メッセンジャーズとのセッション・アルバム。ソロや少人数でのアルバムがほとんどの彼にとっては異色の作品。アート・ブレイキーやジョニー・グリフィンとの掛け合いも楽しめるアルバム。メンバーは、アート・ブレイキー(dr)、ジョニー・グリフィン(ts)、ビル・ハードマン(tp)、スパンキー・デブレスト(b)。

「セロニアス・モンク・トリオ」 1952年〜1954年(プレスティッジ)
 「ブルー・モンク」「リフレクションズ」「モンクス・ドリーム」「ベムシャ・スウィング」などの代表的オリジナル曲や「ジーズ・フーリッシュ・シングス」などスタンダードナンバーも聞ける入門に向いたアルバム。バンド構成は、アート・ブレイキー(dr)、ゲイリー・マップ(b)とのトリオでじっくりと彼のピアノを聴くことができます。

「ソロ・モンク」 1964年、1965年(CBS)
 スタンダード曲を中心に演奏されたピアノ・ソロ・アルバム。モンクの原点ともいえるハーレム・スタイルのピアノの名曲に挑戦したアルバム。彼のピアノをじっくりと聴きたい方にはやはりピアノ・ソロ・アルバムがお勧め。

<追記>2012年4月
「・・・音楽に関して、彼は妥協というものをしなかった。世界が彼のやっていることを理解するまで、ただじっと待っていた。それはしゃべり方に関しても同じだった。彼の口にするもぐもぐやもぞもぞの微妙な意味を、まわりの人々がなんとか解釈できるようになるまで、彼はただ待っていた。」

「モンクの音楽を正しく聴くためには、彼を見なくてはならない。グループの中でも最も重要な楽器は - それがどのような編成グループであれ - 彼の肉体だった。実をいえば彼はピアノを演奏していたわけではない。その肉体こそが彼の楽器であり、ピアノは彼の肉体から音を、正しい速度と正しい量で引き出す方便にすぎなかった。彼の肉体を残してほかのすべてを消し去れば、あなたの目には彼がドラムを叩いているみたいに見えただろう。・・・」

「・・・彼の音楽は愉快な音楽だった。語ることことこそなかったものの、彼の口にすることの大半はジョークだった。彼の踊りは導きの手段であり、音楽に入り込む道を見つける手段だった。彼は曲の内側に入り込まなくてはならなかった。・・・」


「・・・技術的に言えば限定された演奏家だったから、彼にできないことはそれこそ山ほどあった。しかし自分のやりたいことはひとつ残らずやることができた。つまりテクニックが不足しているせいでやりたくてもやれなかった、というようなことはひとつもなかったわけだ。・・・」

「彼はひとつの音を、あたかもその前に出した音に自分でも驚愕したかのように弾いた。鍵盤を打ったひとつひとつの指がその先行する過ちを正し、その指が今度はまた新たな、正されるべき過ちを犯しているかのようだった。だから曲はいつまでたってもしかるべきかたちを取ろうとしない。ときどきその曲はすっかり裏返しにされてしまったみたいに聞こえる。・・・しかしそこにはちゃんとロジックが働いている。モンクにしか通用しないロジックが。すなわり、常にもっともらしくない音を弾いていれば、予期されているものの陰画がそこに現れるということだ。聴衆は常に『この曲は本来は美しいメロディーを持っているに違いない』と感じる。・・・」

「あるいは別の見方をすることもできる。もしモンクが橋を造っていたら、彼は構造上不可欠と考えられている部品をそこからどんどん取り去っていっただろう。そしてあとに残っているのは、装飾的な部分ばかりということになっただろう。しかし彼は、どうやったのかはわからないが、その装飾的な部分に構造材の剛健さを吸収させることができた。・・・」
ジェフ・ダイヤー(著)「バット・ビューティフル」より

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