「ツォツィ Tsotsi」

- アソル・フガート Athol Fugard -

<解放への長い道とともに>
 この小説は、それが書かれてから世界中の多くの人々に知られるまで、長い年月を必要としました。作者である劇作家アソル・フガード Athol Fugard が、この小説の元になる作品を最初に書いたのは1960年のことです。しかし、その出来に不満足だった彼は、それを発表せずお蔵入りにしていました。1970年代に入り、その作品を読んだ周りの人々が、彼に出版することをすすめたため、彼は改めてその作品を見直し1980年になって彼にとって唯一の小説として世に出ることになりました。
 当時の南アフリカは、まだあの悪名高きアパルトヘイト体制が続いており、それに対する海外からの経済制裁により国内経済は厳しく、反アパルトヘイト運動の高まりもあり、国内は大混乱の状態にありました。そうした、状況もあり、この本は発表後すぐに話題となります。さらに映画化の企画もありましたが、どれも頓挫してしまいました。やっと映画化が実現したのは、アパルトヘイトが崩壊した2005年のことです。監督、脚本は南アフリカ出身のギャビン・フッドで、完成した作品は世界中で高い評価を受け、見事アカデミー外国語映画賞を受賞します。こうして「ツォツィ」は世界中に知られることになりました。
 1960年に書かれてから2005年まで、50年近い年月をかけて知られることになったのは、南アフリカでアパルトヘイトが廃止されるまで長い年月を必要としたことから当然といえるのかもしれません。しかし、50年たってもなお、この物語が輝きを失わないのは、そこに描かれているのが単にアパルトヘイト批判ではなく、より普遍的な何かだからに違いありません。たぶんそれは「人間誕生の瞬間」という芸術の対象として最も美しく感動的な場面を見事にとらえているからなのです。

<人間の誕生>
 この小説を読んでいて、僕はふと映画「2001年宇宙の旅」を思い出しました。謎の物体「モノリス」によって、骨という武器を獲得した類人猿は、殺人という原罪を犯し、「罪深き人」として誕生しました。そして、その人類最古の罪を現在に至るまで我々はバリエーションを増やしながら繰り返しています。(戦争、自殺、死刑、無差別テロ・・・)それは旧約聖書にある「カインとアベルの物語」の時代でも、皇帝ネロの時代でも、第二次世界大戦でも、LAで起きた黒人たちによるワッツ暴動でも、ヴェトナムでもイラクでもアフガニスタンでもセルビアでも、基本的には変わっていません。ただし、人類はその原罪とは別に「アダムとイブ」以来「人を愛する」というもう一つの人間的行為を身につけました。そして、人類はこの「愛」についても、歴史とともに数々のバリエーションを生み出しつつ今に到っています。(師弟愛、夫婦愛、兄弟愛、異常性愛、自己愛、・・・)
 ほとんどの人は生まれた瞬間から母親に愛されるという体験をとうし「愛」について学んでゆきますが、それが異常な環境において失われてしまったとしたら、人はどうなってしまうのか?この小説はアパルトヘイトが続く南アフリカのタウンシップという過酷な環境を背景にそこから「人」として誕生した一人のツォツィ(暴れ者)の数日間を追った小説です。

<美しい言葉の数々>
 戯曲作家による小説なだけにこの小説の中で語られる言葉の数々は、実に生き生きとしています。登場人物が大学出のボストン以外、みな教育をまったく受けていない人々なだけに、この小説の言葉はどれもみなシンプル。しかし、だからこそ、彼らの会話は時に美しく、時に悲しく、時に重く読者の心に迫ってきます。

「今夜、あの大男を殺ったとき、おれの心はこんなふうに血を流してた。いいか、血を流してたんだ」
ボストン

「雨が降り、風が吹き、木が育つ。まわりに色があふれ、通りで小鳥のさえずりを聞く。なあ、わかるか?おれは生きたいんだ。この気持ち、おまえにわかるか?」
シャバララ

「今晩、耳を澄ましてよく聞いてな。おれが鳴らす鐘の音を、ちゃんと聞くんだ。おまえに神様を信じてもらいたいと思って鳴らすからな」
アイザイア

「とにかく、生きていかなくちゃ。かわいいディヴィッドも、サイモンも、わたしも。あんたも。みんな生きていかなくちゃ。そうでしょ?それが何より大事なこと。それがすべて。明日はかならずやってくる。生きていかなくちゃ」
ミリアム

 記憶と感情など「人間らしさ」のすべてを失っていたツォツィは、自分のまわりの人々に問いかけ続け、ついに自分の名前がディヴィッド・マドンドであったことを思い出します。こうして、「ツォツィ 暴れ者」という仮の名しかなかった少年は、本当の「名前」と「人間性」を取り戻します。

<人となるということ>
 多くの子供たちが、両親のもとで育てなれながらゆっくりと身につけてゆく人間としての生き方。愛したり、怒ったり、憎んだり、同情したり、笑ったり、嫉妬したりする行為を、両親や家族とともにすべて失ってしまった少年。あまりに悲惨な状況を生きたその少年が、小さな偶然をきっかけにわずか数日間の間にそれを取り戻してゆくという奇跡の物語。それは、南アフリカという特殊な国だけの物語ではなく、万国共通、時を越えて、誰もがぶつかりうる人が人となるための成長録であり、宗教体験であり、冒険記であり、変身の物語でもあります。
 ただし、この物語はその場所を南アフリカの中でも最も厳しい場所、タウンシップに置いたことで必然的に大きな特徴をもつことになりました。ここで作者は、「殺人」「レイプ」「家庭内暴力」「障害者差別」「人種差別」「強盗」など、過激な題材をリアルに描き出すことで、一人の少年の体験談を苦くて辛くて濃厚な誰もが圧倒される強烈な物語に仕上げることに成功しています。15年からなる子供の成長過程をわずか数日で再体験させようというのですから、濃くなるのは当然のことです。
 物語のあまりの強烈さに、読者は読み出すと思い気分に引き込まれるかもしれません。しかし、舌触りは苦くても、後味はけっして苦くはないのがこの物語の素晴らしいところでしょう。ただし、物語の衝撃的なラストに救いを見いだしながらも、このまま主人公が成長しながらまっとうに生きてゆけたとしても、本当に幸せになれたのだろうか?当時の南アフリカの厳しい状況では、そう思わざるを得ないはずです。
 もし、ツォツィが、現在の南アフリカで「ディヴィッド」としてもう一度生きることができたら、以前よりはずっと幸せになれたのかもしれません。南アフリカで開催されるワールドカップ・サッカーがそうした状況をさらに改善してくれることを願います。

<あらすじ>
 過去の記憶を失った少年「ツォツィ」は、仲間の3人とともに次々と犯罪を犯すギャング集団として、治安の悪いタウンシップの中でもまわりから恐れられる存在でした。ある日、彼らは列車の中で一人の男を刺殺し彼の金を奪います。しかしその夜、仲間の一人で唯一大学に通っていたインテリのボストンは、自分たちの行為にもう耐えられないとツォツィに喰ってかかり、逆に半殺しにされてしまいます。仲間に対する自分の行為に混乱したツォツィは、街に飛び出したまたま出会った女性に靴箱に入れられた赤ちゃんを押し付けられます。
 家にその赤ちゃんを連れ帰った彼は、なぜかその子を育てようと思うようになりミルクを買いに家を出ます。なぜ自分は赤ちゃんを育てようとしているのか?弱弱しい赤ん坊を見ているうちに少しずつ彼の心の奥に隠されていた記憶が蘇り始めます。混乱した彼は再び殺人を企て、事故で下半身を失った男シャバララを襲います。しかし、簡単に殺せたはずにも関らず、彼にはもうそれができなくなっていました。彼は初めて自分ではない相手の側に共感することで「心の痛み」を感じていたのです。
 自分はどうなってしまうのか?彼は自分が殺しかかった仲間のボストン、そして教会で働くアイザイア、そして赤ん坊に乳を与えてくれた近所の女性ミリアムとの対話をするうちに、ついに自分の生い立ちを思い出すことになりました。

小説「ツォツィ Tsotsi」 1980年
アソル・フガート Athol Fugard(著)
金原瑞人・中原香(訳)
青山出版

映画「ツォツィ Tsotsi」 2005年
(監)(脚)ギャヴィンフッド
(製)ピーター・フダコウスキ
(製総)ロビー・リトル
(撮)ランス・ギューワー
(編)ミーガン・ギル
(音)マーク・キリアン、ポール・ヘプカー
(出)プレスリー・チュエニヤハエ、テリー・フェト

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